流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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黒歯国

南方の黒歯国 出典『海洋大国大百済』

 前々回の「魏志倭人伝の侏儒国、裸国・黒歯国と船行一年の解釈について」で、船行一年は魏の使者が倭地の訪問調査の期間が1年であったことを示した。裸国・黒歯国はアメリカ大陸とは全く関係がないのである。この問題についてさらに説明していきたい。

1.古田武彦が避けた漢籍にある黒歯国

 黒歯国が他の漢籍にいくつも登場することに対する古田の考え方についても疑問がある。古田は、黒歯国については、多数の漢籍に記述があるが、それは「伝統的な観念」で書かれており、陳寿の記載とは明白に異なるとされる。以下のところだ。
 「黒歯国という国名は、中国古来の諸書に出現する(山海経、呂覧、楚辞、戦国策、淮南子史記、呉都賦等)。しかしこれらの場合、この国の所在地は呉地(江南)または呉の周辺(東海)と考えられている。ことに佐思の呉都賦は陳寿と同時代のもの、ところがそこに出現する黒歯国は右と同じ地理上の伝統的な観念で書かれている。したがって陳寿の記載したこの倭人伝中の黒歯国と右のような中国古書伝来の通年との両者は明白に異なっている」 (『邪馬台国はなかった』)
 「伝統的な観念」で書かれているからと、これらの記事は検討の対象外とされるのは疑問だ。多数の漢籍に記事があるのは、なんらかの事実の反映と考えられるのではないか。これは古田史学の真骨頂ではないのか。神話にも事実の反映があると指摘してきたのではなかろうか。
 『山海経』に海外東経に黒歯国、『史記』巻一百十三南越列伝、『呂氏春秋』愼退大覧に裸国の記事があるという事実を無視されるのが不思議でならない。
 
2.黒歯常之墓誌銘
 蘇鎮轍(ソチンチョル)によると、三国史記列伝に百済将軍「黒歯常之」の説話がある。百済滅亡期に勇名をとどろかせたという将師。近年その出土した墓誌石によると、彼が達率として黒歯国に分封されてきたという。かってインドシナ半島にかかる華南エリアに百済郷があったといい、現在でも百済と呼ぶ地域が残っている。黒歯国はその近辺と考えられ、実在の人物が、実在の国に派遣されていた。
 帳文武(チャンビン)南京博物院歴史研究所長によると、初期の黒歯は揚子江流域にいたが漢代にその一部は浙江省と東南アジア方面に移動したという。蘇鎮轍は黒歯国がベトナムと海南島に囲まれた範囲を想定される。裸国はそこの隣接するラオスあたりで、また根拠は不明だが侏儒国は台湾とされる。これら三つの国が倭種としてかたまって存在する可能性はあるのではないか。
 
3.倭人と中南米との関係
 もしも黒歯国裸国がエクアドル方面にあったとしても、発掘遺物から縄文人や弥生人と結びつけるのは慎重さが必要と考える。発掘調査によってアマゾン文明の先駆性の評価やマヤ文明の遺跡の年代の更新などがすすんでいる。その中でアジアの人々の影響も考えなければならない。
 縄文土器の文様と似ているという点では、世界中に似たようなものはあり、渦巻きや同心円も共通の神観念から重要視された結果となるのだ。また甕棺については、インドや中国、半島にもある。日本人が運んだという限定はできない。
 そもそも共通点があるとしたら、それは、縄文人もアメリカ大陸先住民も、元はユーラシア大陸の集団が分かれて列島やアメリカ大陸に渡って行ったからとも考えられる。ここのところを理解してほしい。
 なお南米にコカを噛む習慣、祭祀行為はあるのだが、それによって歯が黒くなるということはないようだ。
 
 とにかく、侏儒国、裸国、黒歯国をアメリカ大陸にあるかのような主張の前に、漢籍の記事の検討から始めてほしい。

参考文献
国分直一「倭種の国と海南の国ぐに」歴史と旅37 平成元年 秋田書店
蘇鎮轍「海洋大国大百済」彩流社2007年
古田史学の会「邪馬壹国の歴史学」ミネルヴァ書房2016
秋道智彌編「ヒトはなぜ海を越えたのか」雄山閣2020

チクシ
            駅名はチクシ  出典Googleマップ 

 福岡県出身の方から筑紫の呼称に関して憤慨されているというお話を伺った。それは、自分は小さい時から九州の人間で、通った学校である筑紫小学校そして筑紫高校は「チクシ」と呼んでいる。JRの筑紫駅も「チクシ」だ。それなのに、九州以外ではツクシと発音され、日本書紀もツクシと読まされることに疑問があるとのことで、確かにおっしゃる通りである。なぜ地元の九州以外ではツクシになったのかは、日本書紀の読みからであり、これが定着したのであろうが、もう一つの問題は、「チ」と「ツ」の古代の発音が区別しづらい問題があったということではないかと思われる。シとス、チとツ、ジとズの区別がない場合があると言う。チクシのチもツと区別のつかない発音があったかもしれない。書紀編者はツの発音を採用したのであろう。悪意のある恣意的なものではなかったと思われるのだが。本来はチクシであったのが、九州以外では訛ってツクシとなったのではないか。
 欽明紀15年の竹斯物部も本来ならばチクシと読むべきであり、九州で普通にチクシと発音されていることから、日本書紀の読みでもチクシとするべきだが、ツクシと読まれてきたものを全体に渡って修正することは難しい気がする。少しずつ理解してもらえるようにくりかえしていくしかないだろう。

 では、なぜ、神話においてこの北九州の地がチクシと呼ばれるようになったのか。その定説となるものはなく、ツクシとの発音から西の端の意味とする考えもあるが、これは元がチクシであるので成り立たない。竹林が広がっていたというのも根拠はない。神話に語られるクシフルとの関係もありそうだが。
 次に思い付き程度だが可能性があるかもしれない考えを述べる。

 森安孝夫『シルクロードと唐帝国』に次のような記述があった。
 突厥碑文(7世紀)によると、「突厥語・ウイグル語の・totoq トトク ・čigšiチクシ čangši チャングシという高官の称号は、音韻的に明らかに漢語の都督・刺史・長史の中古音と対応するから、これらが外来語として定着したのがこの時代であることはほとんど疑う余地がない」とある。
 北方民族系では刺史をチクシと発音していたのだという。これが、九州の筑紫と関係するのではなかろうか。
 都督も中国語ではトトクとは発音しない。突厥でトトクと発音されていたもので、これが倭国でも同じ読みになったと思われる
 魏志倭人伝には次の記述がある。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。於國中、有如刺史

 刺史は中国の地方官の名称 各地に刺史が置かれたようで、魏志倭人伝の一大率を列島に置かれた刺史のこととする説もある。
 漢人以外の騎馬遊牧民のみならず外夷の国々で、刺史をチクシと発音することがあったのではないか。その読みが列島にも持ち込まれ、刺史がおかれた北九州をチクシと呼称したのではなかろうか。
 ただこの「有如刺史」をどう理解するかという問題がある。これは、一大率を刺史のようだと陳寿が考えただけのこと。また、中国側の使者が、一大率を刺史のようなものと伝えたことで、倭国側も刺史と呼ぶようになった可能性もあろう。ただ、一大率と刺史は別とする説もある。
 古田武彦は、卑弥呼の国が統属下の諸国に対し、「刺史」のごとき行政官と「使大倭」と名のる「租賦・交易」の監督官を派遣していたとされる。
 正式名称ではないにしても、北九州の盟主国が刺史の如くの地方官を置いて、その読みを「チクシ」と発音していたことから、北九州の呼称にまで使われるようになった。このように考えられないだろうか。一つのアイデアとして提示しておく。
 チクシという呼称がいつから使われるようになったのか、さらには、刺史という地方官が実際にいつからどこに置かれたのかという問題などの検討はまだまだ必要だ。

参考文献
小泉保『縄文語の発見』青土社1998  
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社学術文庫
森安孝夫; 吉田,豊『カラバルガスン碑文漢文版の新校訂と訳註』内陸アジア言語の研究. 2019,

 魏志倭人伝には倭国に存する各地の国についての国名だけ挙げる場合と簡単な記述を含むところもある。その記事の最後に侏儒国、裸国、黒歯国があるとする。この国の所在地の解釈について、従来の読みが誤読であったことを説明する。

 魏志倭人伝の侏儒国と裸国、黒歯国の理解では、女王国より四千余里に侏儒国、裸国黒歯国は船で一年と読解され、これが通常の理解となっている。だがここに異なる解釈をされる説があった。
 中島信文氏は『甦る三国志「魏志倭人伝」』で元は区切りなどない原文に常と異なる句点を入れれば、これまでとは違った解釈ができるとされている。
 まず通常の区切りの入った該当文を示す。

(A)女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。
又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至。
參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

 次に中島氏による句読点を変えたものを記載する。

(B)女王國東渡海千餘里,復有國皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺。
去女王四千餘里、又有裸國、黑齒國復在其東南。
船行一年可至參問。倭地絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

 中島氏による(B)の場合だと、女王国から東に海を千里ほど渡った倭種の国の南に侏儒国はある、ということになる。よって人の身長に関する情報で侏儒国の説明は終わり、次の四千余里は裸国黒歯国にかかるというのである。
 従来の裸国黒歯国が船で一年というのは『後漢書』の范曄の誤解に基づく改変だという。

 朱儒國,人長三四尺。自朱儒東南行船一年,至裸國、黑齒國(『後漢書』)
 
 范曄は船一年を朱儒の後に入れて、「至」の文字を裸国につけている。これだと明確に裸国黒歯国へは船で一年となる。これについては「邪馬台国と日本書紀の界隈」という別の方のブログにも、『後漢書』の解釈にみなが影響されたのではないかという指摘もある。

 さらに、「船行一年可至參問」については、次のように説明される。
(A)の原文引用は船行一年可至に句点(。)が入り、次の參問倭地と分離されている。もちろん陳寿ではなく後世の理解に基づく付加であるが、この箇所は中島氏によると参問が一年可至に係っているのだという。
 そうであるならば「至」の意味も変わってくるのである。
 
 「至」の用法はすべて「至(動詞)+名詞(目的語)」であるとして、従来の「船行一年可至 参問倭地絶在海中洲島之上」と区切って「(裸国、黒歯国には)船行で一年かかる。倭の地の様子を尋ねるに〜」と読むのは間違いで、「船行一年可至参問 倭地絶在海中洲島之上」で区切って読むのが正しいという。
 そうすると『船行一年可至参問』の正しい解釈とは、読み下し的には、「船行一年以上(の期間)が参問(倭調査の訪問)に至った。達した。要した。」であり、簡単に意訳すれば、「倭の旅は、ここまでで船を主体に一年以上の期間を要した」となる。つまり、倭の調査の旅はここまで船を主体に一年の期間を要した、ということになるという。

 なお後の『梁書』は前半は正しくとらえるも船行一年は従来の解釈になっているという。
 其南有侏儒國,人長三四尺。又南黑齒國裸國,去倭四千餘里,船行可一年至。又西南萬里有海人(梁書)
 ここでは四千餘里が裸国黒歯国の後に置かれている。侏儒国に距離の説明なしに身長の記述となり、次の裸国黒歯国に距離が係るのだ。ところがその後、船行可一年至と表現を変えて続けているので、結局は裸国黒歯国に一年で至るという後漢書と同じような誤読をしているのである。

 以上のようなことから、次のように読解すべきであるという。

 「女王国の東、渡海千餘里にしてまた国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南に存在する。人長三、四尺。女王を去ること四千餘里にまた裸国、黒歯国ありて、その東南にある。参問は船行一年に至った。倭の地は海中の洲島の上に絶在し、あるいは連なり、周旋五千餘里ばかりなり。」

 後漢書の誤読に引きずられて、一年が裸国黒歯国の距離(移動期間)を表していると思い込まれされてきたのかもしれない。よって一年は参問の出発から帰着までの全行程の期間のことだった。
 

 それでは侏儒国、裸国黒歯国はどこにあったのか?
 種子島の広田遺跡の弥生人骨が、低身長であることが知られている。九州からの方向は南となる。また裸国黒歯国については、中国の資料に数か所に登場しておりそこでは、東南アジア、インドシナ半島方面に所在すると考えられる。その記事の情報量も魏志倭人伝のそれと同程度の少なさである。様々な角度から検討することこそ、古代史の真実を知ることになると考える。いずれにしても、裸国・黒歯国を南米に想定は出来ないのである。
 
参考文献
中島信文氏『甦る三国志「魏志倭人伝」』 彩流社 2012
ブログ 『邪馬台国と日本書紀の界隈』 

卑弥呼

 弥生時代の環濠遺跡やその出土物を、真っ先に軍事面でとらえる傾向があるのは、その背景に魏志倭人伝の「倭国乱」の解釈の誤解があって、卑弥呼登場までの長期間にわたって大規模な内乱があったかのように刷り込まれてしまったことが要因と考えられる。
 早くに古田武彦氏が、後漢書の「大乱」が魏志倭人伝の誤読による誇張とされたが、さらに古田史学の会の正木裕氏は、この問題をさらに詳細に述べておられるので、この内容に触れながら現在も続いている誤解を説明したい。

⑴魏志倭人伝の記述を誤読し、さらに創作を加えた范曄(ハンヨウ)の後漢書
 魏志倭人伝の卑弥呼共立前の該当記事は以下のようである。
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。
 岩波文庫の訳注は以下通り。 
「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。」
 次は現代語訳。
「その国は、もとは男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年」
 岩波は、現代語訳としながら、原文をそのままなぞるような記述になっている。問題となるのは「歴年」で、ネット記事などをみても、「年を経た」という解釈がされていることが多い。ここを古田氏は、他の漢籍の使用例から、この「歴年」は10年程度とされた。出典は不明だがウィキペディアを見ると、「中国正史で歴年とは平均して8年±数年」と記載されている。
 この「歴年」の解釈が異なると、内乱が七、八十年もの間ずっと続いたかのようにも読み取れてしまう。同じように、後漢書の撰者である范曄も誤解をしてさらには、余分な内容も追加しているのである。
 次は後漢書の該当記事。 
「桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 」
 訳注は以下の通り。
  「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、歴年主なし」
 次は現代語訳。
「桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、歴年、主がいなかった。」
 後漢書は「桓・霊の間、大乱、主無し」という魏志倭人伝にはない言葉を付け加えているのである。

⑵范曄は漢の滅亡までの混乱から卑弥呼共立までの経緯を創作した
 陳寿が記した魏志倭人伝では、男王の在位期間が七、八十年で、倭国が乱れて相攻伐したのが歴年の10年ほどなのである。乱と在位期間は別なのである。それを、後に後漢書はいらぬ言葉を加えて倭国に大乱があったとしたのである。正木氏は、范曄が漢の末期の様子をもって倭国乱を描いたのであったと指摘する。
 桓帝・霊帝は暗愚な皇帝の代名詞とされており、桓帝は質帝の毒殺で即位したが、毒殺した梁冀を誅殺後に上層部の抗争が続き、霊帝は政治に無関心で黄巾の乱がおきて漢の滅亡へとすすむ。このような経緯と重ねるように、倭国乱を、桓・霊の間からの長期間の大乱でリーダーもない状態になったとしたのだが、実際に主がいなくなって混乱したのは中国の方だったのだ。
 このような結果、桓・霊の間(146~189年)の長期間に渡ってに倭国大乱があったと記述される論考が登場するのである。

⑶誤解で誇張された倭国乱
 弥生時代後半をまるで戦国時代であったかのようにとらえ、各地の遺跡や出土物を、戦争、紛争の視点で説明されることが今も続いている。ローマ逆茂木佐原氏の著作には、「ガリア戦記」のシーザーのローマ軍の例で逆茂木の図との説明があるが、おそらくこういったものから愛知朝日遺跡の場合も、環濠から出土した杭などを、防戦のための逆茂木・乱杭だと決めつけたのではないか。吉野ケ里でも、防御的役割で遺跡の説明がされ、環濠に沿って外堤が盛られ、柵が隙間なく張り巡らされ、さらにはありもしない先のとがった杭を無数に並べるという虚構の復元が行われたのである。
 岩波書店の『魏志倭人伝・後漢書倭伝~』の訳注が、「歴年」をそのままにせず、10年程度の期間であることを明示してもらわないと、この誤解はずっと続くと思われる。誇張された倭国乱が長期間続いたと思い込まされ、弥生時代の遺構、遺物を、なんでも先に戦闘行為という観点で解釈しようという傾向は、早く見直してほしいものだ。
  くどいようだが、リーダーもいなくなるような「大乱」はなかったのであり、男王の即位していた期間の10年ほどの紛争で、ついに卑弥呼が登場することになったということである。

参考文献
古田武彦「邪馬一国への道標」ミネルヴァ書房2016 など
正木裕 「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」 2018.10.14久留米大学講演
久世辰男「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
原田幹 「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲 「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
佐原真 「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真 「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002

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