流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

騎馬遊牧民移住説

実は戦後に定着した日本人の単一民族史観

板付水田
1.戸惑う研究者の背景にあるもの
  NHK放送の「フロンティア 日本人は何者なのか」では、古墳時代の人のDNAの解析結果に驚き、戸惑いながら語る研究者が描かれている。これまでは、縄文人と弥生人の二重構造で説明されてきた日本人のルーツだが、実は古墳時代に第三のDNAが6割を占めるという結果が明らかになり、これが現代の日本人とほぼ共通していたのである。それは古墳時代に第三のDNAを持つ渡来人が、尋常でない規模でこの列島に移住してきたことを示す。研究者のみならず、番組スタッフにも信じがたい結果であったから、「これまでの常識がくつがえる」といった謳い文句が冠されたのであろう。古代に列島に繰り返し渡来者が集団で来ていることを理解し、研究されている人たちには当然の結果なのだが、人類学や古代史研究者をも含んだ多くの現代の日本人には、理解しがたいものとなっている。では、なぜこのようなことになってしまったのか。
 この背景にあるのは、単一民族史観であって戦後に培われ広がったものだといわれている。ところがここで疑問が起こる。そもそも単一民族史観などというのは、戦前の日本の話で日本民族は優秀で他民族蔑視という考え方ではなかったのか。だが実際はそうではないようだ。小熊英二氏の『単一民族神話の起源』がそういった事情を説明してくれている。

2.実は戦後に形成されていた単一民族史観
 はじめに1970年代後半から論じられてきた内容の一節。
「明治いらいの日本人は、自分たちが純粋な血統をもつ単一民族であるという、単一民族神話に支配されてきた。それが、戦争と植民地支配、アジア諸民族への差別、そして現在のマイノリティ差別や外国人労働者排斥の根源である」
 つまり戦前の単一民族という考え方が、多くの社会的弊害を生んだのだと説明している。ところがどうもそう単純ではないようであることが、以下の記事でわかる。
 「大日本国帝国は単一民族の国家ではなく、民族主義の国でもない。否、日本はその建国以来単純な民族主義の国ではない。われわれの遠い祖先が或はツングウスであり、蒙古人であり、インドネシア人であり、ネグリイトであることも学者の等しく承認してゐるところであるし・・・・帰化人のいかに多かったかを知ることができるし、日本は諸民族をその内部にとりいれ、相互に混血し、融合し、かくして学者の所謂現代日本民族が生成されたのである」(室伏高信『大東亜の再編成』日本評論1942・2月号)
 「日本民族はもと単一民族として成立したものではない。上代においていはゆる先住民族や大陸方面からの帰化人がこれに混融同化し、皇化の下に同一民族たる強い信念を培われて形成せられたものである」(文部省社会教育局『国民同和への道』)
 これを読んで少し驚いてしまった。いずれも、1942年という戦争が始まったばかりの時代に発表されたものなのだが。戦後の学者たちの主張とは大きく食い違っているのではないか。この単一民族という考え方は戦後に急速に広まったようである。
 戦前には厳しい弾圧にさらされた津田左右吉氏だが、「日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族を持たぬ」「遠い昔から一つの民族として生活してきたので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない」と語っている。
 また、歴史学者の井上清は「高天原は日本人の故郷の地を神話にしたものだとか、天孫降臨は民族移動の話だとかいうのは、すべてこじつけであるというのが、津田博士の研究以来良心ある学者の一致して賛成しているところ」だという。これによれば、戦前においては天孫降臨は他民族の進攻であると捉えていたということであろうか。ということは、戦後の単一民族説が、天孫降臨などが民族移動だという戦前の理解を否定するという構図になるようだ。
 誤解されては困るが、何も戦前の歴史観の根底にある皇国史観を是としているわけではないことを、おことわりしておく。

3.騎馬民族移住説も受け付けない単一民族史観
 戦後の歴史学に多大な影響を与えた古代史学者の石母田正氏も、古代日本の稲作の成立にかんして、外部の影響より列島側の内発的な主体性を重視し、縄文時代から日本語は固有言語だったとしていたという。こういった考え方が、現代の研究者に引き継がれていったのであろうか。
 しかもこのような背景が、騎馬民族移住説も受け付けなくしてしまったのは明らかだろう。従来の混合民族論の延長であるのだが、天皇家の渡来を前面に押し出した点が目新しいといわれた騎馬民族移住説も、日本の歴史研究者の中で根強いマルクス主義系歴史学とは対抗関係になってしまっていた。最近では全面否定ではなく、渡来人から騎馬文化を主体的に受容したという説明に変化しているが、その本質は同じであろう。この点について、作家の霜多正次氏は「マルクス主義歴史学者たちが、たとえば弥生文化が稲作にともなう文化複合として伝来したことや、古代国家を形成した渡来人の問題などに、従来ほとんど目を向けようとしなかったことは、歴史の内的発展段階論を教条的に理解したことが大きな理由」と語る。  
 また、ドイツ文学者の鈴木武樹氏は、騎馬民族説を支持したところ、日本共産党系の歴史学者に「日本社会の固有の発展の法則と矛盾の克服のしかたが問題なので、天皇家の出自は歴史とかかわりない」と言われたそうだ。すべてを彼らが盲信している公式に、機械的に当てはめて説明しなければ許されないのだろうか。
 政治学者の神島二郎氏は、「戦前の日本では、大和民族は雑種民族であって、混合民族だとだれでも言っていたんです。あの日本主義を唱導していた真最中にもそういうふうに考えていたんです。ところが、戦後になって奇妙きてれつにも、進歩的な文化人をはじめとして、日本は単一民族だと言いはじめたんです。まったくもって根拠がない」と語る。これが問題の背景、事情を説明するものではないだろうか。
 
4.戦後の歴史観に抗する研究者
 最近(2023.9)出された『何が歴史を動かしたのか』(春成秀爾編)所収の寺前直人氏の「縄文時代像と弥生時代像の相性と相克」には、先の小熊英二氏の論旨が援用されている。列島内の東西における稲作開始の時期の時間差が予想を超えて大きく、北部九州では紀元前9~8世紀(夜臼Ⅰ式土器)だが、東北地方では紀元前5~4世紀(砂沢式段階)と400年もの差になることが明らかになったとし、これは従来の歴史観では捉えにくい問題なのだという指摘である。
 以前より磨製石包丁など朝鮮半島の考古文化と日本列島西部の状況には、多数の共通項があって議論されてきた。「考古学研究では、抽出する属性の組み合わせが国境を越えて何通りにも区分できるのに、それを妨げたのが戦後の世界観であったという。その結果、異文化が数百年併存するという多系的、多民族的な歴史像ではなく、縄文時代から弥生時代へと日本国の歴史は単系的に「進歩」したのだという歴史像」で解釈されてきた。それは、従来、日本国という空間を一括してひとつの時代として輪切りにしてきたのだが、それは「帰納的な考古資料の分析結果によるものではなく」戦後に登場した世界観の変化によるものだったという指摘である。
 つまりこれは、DNA分析結果だけではなく、以前からの数多くの考古資料の現実が、従来の形式的な歴史観では説明できないことを示しているとの重要な指摘であって、この点での問題意識、歴史観の見直しをはかる研究者が少なくない状況になっていることを意味するのではないか。
 なお、とりあげさせていただいた『何が歴史を動かしたのか』については、その内容に興味深いことがいくつもあったので、また何度か紹介したい。

参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
小熊英二『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』新曜社1995

船原古墳の豪華な馬具を持つ人物像の無理のある解釈

船原歩揺
 福岡県古賀市の船原古墳(古墳時代後期)で出土した金銅製馬具の一つは、揺れるときらきらと輝く歩揺(ほよう)付き金具を複数組み合わせた飾りであったという。市教育委員会と九州歴史資料館は「極めて華麗なデザインで、出土例がない」と発表している。
船原杏葉など
 他にも杏葉(ぎょうよう)は装飾にタマムシの羽が20枚使われるという日本初の国宝級の発見であり、のちの法隆寺の玉虫厨子につながるものである。ガラスの使われた辻金具も唯一のものであり、馬胄(ばちゅう)は和歌山県大谷古墳や埼玉県将軍山古墳に次ぐ三例目。出土した馬具の質及び量、出土した状況からわが国でも稀に見る学術的価値の高いものといわれている。朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。
 このような豪華な副葬品のあった古墳の被葬者は、どのような人物であったのだろうか。

 『船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流』(同成社)では以下の説明がされているのだが、それがとてもふるっている。
 その被葬者像について、「在地首長層でなく急に力を伸展させた人物で、既存の首長層に属さない前方後円墳をつくり、海上交易に長け、半島との交流にも通じていたとし、半島とヤマト王権の両方とも良好な関係を有していた、豪華な副葬品にかこまれるほどの傑出した人物像」とあるのだが。
 御本人の苦労がしのばれるような解説文だ。だいたいこのような理想的な人物が実際にいたというのだろうか。この周辺の遺跡からも半島との直接的な関係を有する出土品が多数あるのに、なぜ渡来者が被葬者だとは考えないのだろう。あくまで先進的な文化をもった被葬者は、ヤマト王権と主体的に関係がある人物にしたいのだ。これは、ヤマト王権とは無関係な豪華な出土品など認められないという、一元論的歴史観からくるのであろうか。
 この古墳は六世紀末ごろのものとされるが、六世紀後半には、半島では加耶が滅んでおり、九州に逃げのびた王族もいたのではないか。この集団が豪華で大量の宝飾品、馬具をたずさえてやって来たのではないのか。こういった視野での検討も必要と思うのだが。
  しかし、今や状況が違う。日進月歩の古代DNAの研究が、古代史の通説を根底から揺るがしている。これまで言われてきた日本人のDNAの二重構造論から、実は古墳時代に新たなDNAが6割も占めるという分析結果を真正面から受け止めなければならない。従来の古墳時代に、大陸、半島からの新たな大量の移住者が王族を先頭に渡来したというケースも考慮しなければならない。古代史の真実、日本人は何者なのかという問いに、新たな答えを出していかなくてはならないだろう。

図はこちらの【遺跡解説】国史跡♡船原古墳~時を越えた宝箱 古賀市立歴史資料館のもの。副葬品の解説だけでなく、発掘作業の苦労話など、興味深い内容です。

参考文献
甲斐孝司他「船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流」新泉社2019

唐建国に関わったソグド人

楽団俑
 ソグド人の研究が進んでおり、この集団の果たした歴史的役割が浮き彫りにされてきている。わずかだが、そのほんの一部を抜粋させていただく。

  森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』中公新書2023 より
「最近、隋唐革命が成功した別の要因も明らかになってきている。それは隋末から唐初の世情が不安定で、各地に群雄が割拠し、先の見通しがたちにくい時期に、率先して李淵集団に協力したグループがいた。
 ソグド人たちは、北魏から北斉、北周にかけて、河西回廊から黄河流域へ積極的に進出し、各地にコロニー(植民聚落)をつくっていく。この時期に河西回廊の武威(甘粛省)や固原(寧夏回族自治区)、西安(陝西省)、太原などには、ソグド人のコロニーがあった。こうしたコロニー在住のソグド人と、ソグド本土からやってくるソグド商人とが協力しながら、中国の物産(おもに絹)を買い求め、交易活動をおこなっていた。隋末の群雄割拠の混乱時期に中国を安定させてくれる群雄に協力。それが李淵だった。李淵が挙兵した太原には、ソグド人のコロニーが存在、李淵挙兵の際、この太原のソグド人コロニーの住民が兵士として組織化され、これを中央アジア出身のトカラ人である龍潤なるものが率いて、李淵に従っている。太原の南にある介州は、李淵が太原から大興城へと進軍するルート上にあり、ここにもソグド人コロニーがあった。この地のソグド人の曹怡が、李淵の挙兵に呼応し、その軍に従っていることが、「曹怡墓誌」(2010公刊)から明らかに。現在の介州には、この地にいたソグド人が信仰していたゾロアスター教寺院の遺構が「祆神楼」という名で残っている。」
 こういった状況がすすみ、李淵に帰順する勢力が一層強固になっていったのである。

 『岩波講座世界歴史6中華世界の再編とユーラシア東部4~8世紀』(岩波書店2022)より
「唐の初代皇帝高祖李淵は遊牧民の軍事力を借りるために突厥の可汗に臣属したほか、国内でも宗教勢力や匈奴・ソグド人などの諸集団と連携し、10年ほどの間に各地の割拠勢力を平定、その動きの中心が次男の秦王李世民。兄弟を殺害して第二皇帝に即位。注目されるのは、側近の一人で庫真となっていたソグド人の武力援助があった。この庫真あるいは親信は『家人(家奴)』とともに皇帝の側近集団をなし、律令に規定された『公』の官員とは比較にならない親密な関係が皇帝との間に構築された。」
※「庫真」は鮮卑語であるとされ、北朝から唐初期の文献・石刻に見られる称号ないし官職。(田熊 敬之)

 ごく一部の例だが、唐建国とソグド人の深い関係が明らかになりつつある。さらに、唐の経済的文化的発展にも寄与している。
 「唐代の対外全面開放政策にのって、唐王朝の全盛期・長安の春を演出したのは、西方五十か国を越える国々の物産を長安に運び、また、長安の絹、漆器、宝石、薬品などを西方の国々へともたらしたソグド人だったということが判ってきました。」(中村清治「シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国」新潮新書2021)

 しかしこのような繁栄は、755年の安史の乱によって終焉する。父がソグド人の安禄山、ソグド出身といわれる史思明の二人による反乱が8年後に終息。ソグド人への弾圧、殺戮、粛清が行われ、姿を消していった。ただ、周辺国、渤海国などでは活動を続けていたようだが、シルクロード交易は衰退していった。

 7世紀末の倭国の王朝交代においても、同じように、表舞台には現れずとも一定の財力や情報網を持つ集団が、新政権への支援を行っていたのではないかと想像している。

最近の騎馬民族説の見方について

以下は、文献の引用と若干のコメント。

『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』日本考古学協会編 雄山閣2018
 「騎馬民族説はどうなったのか
 戦後、江上波夫(東洋考古学者)の日本の国家形成に関する学説
 古くは中央ユーラシアに源を発した遊牧騎馬民族のうち、東アジアで高句麗を打ち立てた北方ツングース系扶余族が半島に南下して支配を広げ、4世紀には九州に到来、5世紀には近畿に入って在来の勢力を圧倒し、それと合同しながら征服王朝をつくったことが日本国家の起源となった。
 騎馬民族征服王朝説。この説の本質は機動的な遊牧集団が、定着的な農耕集団を征服することによって、国家や王朝を生み出すという、国家形成のパターンとして古典的に受け入れられたシナリオを、日本にも当てはめようとした点にある。

 『騎馬民族』の物証とした馬具などの大陸系文物も、列島と朝鮮半島との交渉の中で授受されたり、「渡来人」によってもたらされたりなど、彼我の人々の主体的な行為選択の結果と理解されるようになった。
 このような理解の一例として、白石太一郎は、この時期に馬具や馬埋葬などの文物や習俗が日本列島に姿を現したのは4世紀後半に本格化した高句麗の南下政策に対抗してそこと敵対する百済や加耶諸国の援助を受けながら、倭の政権が取り組んだ騎馬関連技術の充実策の結果にほかならない。
 現在の古墳時代研究では、こうした考え方が騎馬民族説を受けての穏当な理解とされる。」

↑↑ 昨今の馬具や関係する文物の出土に、無視することはできなくなったが、それでも、あくまで文化の受容という『穏当な』解釈なのである。
 これについては、早くから批判がある。

江上波夫『騎馬民族は来た!?来ない?!』小学館1990 
「国際関係がますます世界的になり、経済・文化が一国単位では全く成り立たなくなった現代、世界の歴史を科学的に説明できる時代になってなお、日本一国中心主義で考えていくというのは、やはり一種の皇国史観。皇国史観は悪い悪いといいながら、実際には皇国史観を執っている。自ら狭く封鎖した日本だけで歴史を解決しようというのですから、国史の学者がそれをするならまだわかるが、唯物史観を世界に普遍的な歴史理論観として唱える人が、それではおかしいと思ったのです。
 東アジアの中の日本を説きだしたが、・・・・その場合も日本があくまで主体、周辺から文物を自主的に摂取したという立場。」
↑↑ 30年以上前の指摘だ。

 上田正昭『古代の祭式と思想』中西進編 角川選書1991
日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」 ※多紐細文鏡は、鏡背面の文様が幾何学文で,2~3個の鈕をもつ銅鏡
↑↑ 文化・知識は伝達されたが、集団の移住は認めないのだ。

 「騎馬民族王朝征服説」という名称は、やはり誤解も招きやすい。騎馬民族だけが列島にやってきたわけではないし、大陸には騎馬民や遊牧民の様々な集団がいたのだが、かといって適切な言葉が浮かばないので、仮に「騎馬遊牧民移住説」とでもしておきたい。この場合も、王朝への関りが全くないわけではなく、集団の中には、当時の王権、政治体制に、深く関係する人たちもいたと考えたい。