流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

騎馬遊牧民

藤ノ木古墳のもう一人は女性、「金銅製筒形品」は頭飾りだった。

藤ノ木古墳金銅製筒形品
 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製筒形品の復元品

1.筒形品に残存していた繊維質は髪の毛だった。

 報道(2024.11.20)によれば、金銅製筒形品は長さ約40センチ、最大径6センチ。中央が細くなる形状で、表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる飾りが多数付けられ、被葬者の頭部付近から見つかっている。保存処理に伴って、表面に付着する繊維質を分析したところ、「毛髄質(もうずいしつ)」に相当する構造が確認され、毛髪の可能性が高まった、とのことだ。
 藤ノ木古墳の説明パネルには、この筒形品の一部に繊維質が残っており、何かに括りつけていた、という解説がされている。これが、髪の毛であったというのだ。ということは、埋葬時に髪を巻いて括るようにつけていたのではないかと思われる。おそらく、きちんと固定できるように、紐のようなもので結んでいたのかもしれない。すると、この被葬者はきらびやかな多数の歩揺のついた髪飾りを着けた女性ということになろう。
 従来、二人めの被葬者の性別については、議論があったが、残存する足の骨から男性と判定されたこともあって、二人の被葬者を日本書紀の崇峻天皇紀のはじめに登場する、皇位継承者候補でありながら殺害された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があった。
ただ男性二人がいっしょに埋葬されることには、いぶかる声もあったが、日本書紀の記述の「宅部皇子は、穴穗部皇子に善(うるは)し」との箇所の、善は、仲が良い、間柄がきちんと整っている意、とする岩波の注もあり、この箇所をとらえて、男性同士の二人は特別な関係であった、といった解釈をされる研究者もいた。しかし、残念ながらそうではなかった。
 男性であるとの鑑定結果に反論されていたのが、玉城一枝氏だ。氏は、二人の被葬者の間での異なる装飾品に注目された。女性と考えられる人物に手玉・足玉が着装されて、一方で美豆良飾りがないと指摘されている。人物埴輪の事例で説明され、説得力のあるものである(玉城2019)。ほかにも剣と刀子の問題など、男女の副葬品の違いを指摘しておられる。
 今回、用途不明であった金銅製筒形品に付着していたものが髪の毛の可能性が高いということで、藤ノ木古墳の被葬者はおそらくは夫婦の男女であったことから、新たな検討が必要となるのではないか。

藤ノ木古墳金銅製鞍金具後輪把手
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製馬具の後輪(しずわ)

2.把手の付いた金銅製馬具は、女性用の可能性。

 藤ノ木古墳の石棺の外側の奥のすき間には馬具が置かれていた。その鞍金具の後輪の後ろ側には把手がついている。同様の資料が韓国慶州江南大塚北墳から出土して、女性の墓であることが判っているという。すると、把手がついているのは女性用であり、横すわりで把手を片手でつかんで乗るものであったようだ。ならば藤ノ木古墳のもう一人の被葬者のための女性用の馬具であったことになり、このことからもやはり女性が埋葬されていたことを示していると言えよう。
 また、鞍橋(くらぼね)の前輪と後輪が平行して居木(すわるところ)にほぼ直角に取りつく形態は、北方騎馬民族の鮮卑の鞍のスタイル(前園2006)であるという。

筒形銅器
 関西大学博物館展示筒形銅器

 藤ノ木古墳の豪華な副葬品の中にある金銅製冠が、西方文化と関係することが早くから指摘されてきた。馬具もしかりだが、筒形品も外来の関係でみることも必要であろう。藤ノ木古墳のものは、中央が狭まったいわば鼓型のものだが、形は異なるが用途不明の筒形銅器は、棒状の柄に装着したものといった解釈もされていた。だが、江上波夫氏は、軽いものは女の人が頭の上に立てた冠だと述べておられる(江上1990)。実際に、列島では70本を超え、半島でも70本近く出土している。
 藤ノ木古墳の場合は、頭頂部に横に寝かせて結びつけていたのであろうが、他の筒形銅器が女性の頭に立てて着けていたとは考えにくい。どうやって頭に固定したのかもわからないが、それでも下図のスキタイの王妃の服飾推定復元図が事実であれば、時代は離れるが頭飾りの可能性も検討が必要であろう。


アルタイ王妃頭飾り
 図はアルタイ・アルジャン1号墳(前8世紀前後)の王と王妃の服飾推定復元図 林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」より
 
参考文献
玉城一枝「藤ノ木古墳の被葬者と装身具の性差をめぐって」大阪府立近つ飛鳥博物館図録46 など、ネットで閲覧可能。
日高慎「東国古墳時代の文化と交流」雄山閣2015
前園実知雄「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」新泉社2006
江上波夫・佐原真「騎馬民族は来た?来ない」小学館1990 
田中晋作「筒形銅器と政権交代」学生社2009
林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」講談社2017

高崎市吉井町の火打金のルーツ 火打金とポシェット⑴

吉井のレン
 群馬訪問の目的の一つに、火打金について新たな情報を得たいという思いもあったが、高崎市吉井郷土資料館では、関係する展示品をいくつも見ることが出来た。
購入火打

 そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型火打金というそうだ。火打石は、おそらく石英であろう。火花をつけて火種にする火口(ほくち)もついている。
 早速、試しに火打石に火打金を打ち付けてみた。石の鋭利なところにこするように打つのだが、少々コツがいるが、うまく打ち付けると、かなりの火花を飛ばせるので、何度でもやってみたくなる。いや、癖になって外でカチカチやってたら通報されます。
石英火打
 実は、ある文献に黒曜石も火打石になるとあって、そのことを人に話したことがあるのだが、はたして火花を出せるのか気になっていた。火打石は硬度が高くないと発火させられないのだが、黒曜石は叩くと鋭利な刃物になるように割れるガラス質のものだ。火打ち金を打つと火花が出せずに欠けてしまうだけではないかと心配だった。
黒曜石火打
 そういうこともあって、以前に別の博物館の売店で購入した黒曜石でも火花が出るか試してみた。勢いは劣るが、それでも使えないことはないとわかって、人に説明していたので安堵した。ただ、火打石に向いているとは言えないようだ。

 日本では摩擦式発火法は弥生時代以降、打撃式発火法は古墳時代以降多く確認されている。中世の鎌倉からも「火切り板」が出土しているが、火打石の出土事例も多く、中世以降、摩擦式発火法は次第に打撃式発火法に取って代わられていったと考えられている。
平安江戸火打
 この資料館では、平安時代の火打金をみることができる。その後、江戸時代に入って何故か群馬の吉井町で作られるようになって普及するようになった。
 
火打販売
 吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
 
火打袋
 また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
 資料館の解説では、武田信玄配下の子孫であった近江守助直(おうみのかみすけなお)という刀鍛冶が火打金伝えたという。一方で、京都明珍でも作られていたのだが、私の興味は火打金が、大陸からどのように伝わったのか、また、どのような人々が江戸時代まで継承させていたのか、といったところである。
「火打金は、北方アジアの遊牧民や狩猟民の野外行旅の携帯品であって、火おこし自体が非日常的なものである以上、通常、各住居に備えられた日常用具とは考え難い」(森下惠介2020)という。また火打金は、「7~9世紀にほぼ同時に東は日本から西は東欧までの広大な地域に出現した。残念ながらどこが起源でどのように広まっていったのか、という問題については、今のところ説明不可能と言うしかない。ただその普及に長距離移動をすることもある遊牧民が関与したであろうことは想像に難くない。」(藤川繁彦1999)と述べておられる。
 列島に火打金がもたらされたのは、騎馬遊牧民が関与していると考えられるのであるが、実態はよくわからないようだ。
 騎馬遊牧民は、江戸の旅人のように火打セットをポシェットなどに携帯(火打金を腰帯に直接吊るすものもある)して使っていたようだが、それがどのように渡来して使われるようになったのかを、少しでも解明できればと思う。また、火打金にまつわる説話などもみていきたい。なお、火打金は関東の方では火打鎌といわれているようだが、ここは火打金と表記させていただく。

参考文献
藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』同成社1999 

古墳時代のDNA分析結果に当惑する研究者たち   NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃  

NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」           
 
ブログより

驚きのインドシナ半島のマニ族の姿
 タイのパッタルンというところの森の奥地。そこに古くから、孤立してくらす森の民がいた。はるか古代から変わらぬ生活をしており、そのDNAは縄文人と近似しており、彼らの祖先が、縄文人のルーツだという。その姿、顔立ちを見て驚いた。眼窩は大きくくぼんで、眉の部分が隆起したように見える。これは土偶の顔の表現とよく似ている。彼らの姿が、当時の縄文人と考えてよさそうだ。土偶の顔の表現は、適当に造ったわけではなく、自分たちの顔の特徴をモデルにしていたと思える。3点の土偶を載せたが、いかがであろう。
番組写真

縄文時代は1万年に渡って閉ざされた社会で、独自の文化を発達させた・・・・
 しかしこの表現は正確ではないと思われる。縄文時代にも新たな文化を持った集団がやってきているはず。この点についてはまた別途論じていきたい。
 ただし、大陸の中では、常に異なる集団との接触、紛争があって、常に流動的であった状況とは違い、平和な期間が長くあったのは間違いないだろう。
 また、弥生時代もコメの普及に少数の弥生人が持ち込み、それを在地の縄文人が学んで水田が広がった、と言う理解。そんなに平和的であったのかはわからないが。
 いずれにしてもDNAの構成を大きく変える移住民の到来は明らか。

古墳時代のゲノムに第三の人類? 研究者は驚き、戸惑っているが・・・・
 これまでは、日本人の成り立ちは、縄文人と弥生人との混合という二重構造であると説明されてきた。これが、現代の日本人につながると。ところが、古墳時代も現代人も第三の未知のDNAが、なんと6割も占める結果になったという。研究者には全くの予想外の衝撃の結果という。定説をゆるがす発見だとされるが、これは現代の日本人が、古墳時代にほぼ完成したということを意味する。渡来の問題をあまり深く考えなかった人たちには衝撃であったのだが。
 しかし、それは、日本列島への渡来は、米を伝えた弥生人が少数でやってきて、それを現地の縄文人が学んで水田が広がったとし、あとは大きな渡来はなかったという思い込み。さらに古墳時代も、新しい技術を伝える少数の渡来人がいたが、彼らの文化を「受容」して、自分たちの文化を発展させてきたという、おきまりの構図が染みついているので、この古墳人のDNAの結果に戸惑っているにすぎない。
 研究者は、古事記や日本書紀の記述を、都合の良いところだけ利用して、何度も渡来人の記事があることを、まったく無視しているから驚きの結果となったにすぎない。もちろん、渡来文化、ユーラシア文化との関係を研究されている人たちも多くいるのだが、それが広がっていないのが現状であろう。
 
 すこしまとめると、
・日本人は自分たちの祖先について、大きな思い込みの勘違いをしている。それが研究者にも染みついている。 日本列島は、最初から、大陸からの移住者が、縄文時代も、弥生時代も、古墳時代も繰り返し様々な集団が入植、移住してきた。その様相はバウムクーヘンのような状態に日本人の人層が作られていると考えてよいかもしれない。
・侵略を受け滅亡した国の民、王や王族、配下の集団が、何度も移住してきていると考えるのが自然。古墳時代も激動、混沌の時代であって、北方民族の侵出などの混乱のなか、大陸、半島からの移住者が、王族を先頭にその配下を従えた、いくつもの集団が、列島の各地に入り込んだ。中には、この新天地に自分たちの国をつくることも多々あったと考えてよい。
・騎馬民族説も、征服という表現は適切ではないが、古墳時代の状況を理解する重要な視点であり、これを機会にぜひ議論が盛り上がることを期待したい。私は、征服ではなく騎馬遊牧民(ソグド人含む)移住説としてこの問題を考えたい。
・古墳時代から8世紀にかけて、シルクロードの商人の担い手、ソグド人が、日本にもやってきた。王権に深く関わり、古事記、日本書紀の作成にも少なからず関わった。それは、8世紀のヤマト王権だけでなく、前王朝である倭国王権、いわゆる九州王朝にも重要な存在であったと考える。
 DNAの6割が渡来系であるならば、大和王権もそれ以前の倭国王権の政治体制の構成メンバーに、渡来人やその末裔がおよそ6割も存在していたということになるのである。
・8世紀になって、大陸では唐、半島は新羅、東北アジアは渤海などの成立で、安定してきた。ただ、それでも少数の移動はつづいただろうが。
 このように考えれば、DNAの結果に衝撃を受けるものではなく、いよいよ真実に近づいてきたと捉えればよいことになる。あとは、発掘調査の結果と文献資料とで具体的に絵を描いていけばよいのではないだろうか。
 ともかく、必見の番組であり、類似の企画の放送もぜひすすめてもらいたい。
 タイトル写真は NK's weblog様のブログより


ヤマトタケルのひどすぎる殺害方法の意味

 
馬の犠牲

 スサノオの奇妙で乱暴な行為の数々は、北方騎馬遊牧民にとっては普通の習俗であることを、山口博氏は明らかにしている。(こちら) 他にも同じように日本書紀や古事記には、騎馬遊牧民ら大陸の文化で見ないと理解できない記述がいくつも見受けられる。
 古事記のヤマトタケルの記事にも、通常では説明しがたい記述も、上記の視点ならば理解できるものがあるのではないか。
 兄の大碓命を便所で待ち伏せし手足をもぎ取って投げ捨てるという説話は、ヤマトタケルの残虐性を示すものだが、さらには熊襲兄弟の征伐も、かなり残酷な殺害描写となっている。西の方の熊襲兄弟の討伐を、ヤマトタケルは父の景行天皇から命じられる。叔母のヤマトヒメからもらった衣装で女装して、敵地の宴席に入り込む。女性と思って油断した熊襲兄弟の兄のタケルの胸を刺す。驚いて逃げようとした弟を「取其背皮、劒自尻刺通」(その背の皮をとらえて、剣を尻から刺し通した)とある。
 この箇所については、小学館の解説でも理解しにくいところとする表現である。背中の皮を取るというのも奇妙だが、尻から突き刺すというも疑問。心臓を刺さないと致命傷にはならないであろう。これはスサノオが馬の皮を屋根の穴から投げ込む場合と同じく、馬の犠牲行為のことであって、だから背の皮を取るという表現になる。図では、竿のような木にお尻から串刺しにして祀っているのである。スキタイ系の遊牧民は馬を屠り竿にさしてテングリ(天上の神)に捧げるという。
 さらに兄の熊襲タケルを切り裂く表現として、「卽如熟苽振折而殺也」とあり、「熟瓜」を裂くように切り殺したというのはどうであろうか。この箇所の講談社文庫の解説には「ヲウスノ命(ヤマトタケルのこと)の粗暴性と剛勇ぶりを、人形劇でも見るように痛快に描き出した・・・」とある。しかしこれは納得できない。この瓜は解説ではまくわ瓜のこととされている。片手でつかめる程度の瓜を切ってもいささか迫力に欠ける。
 あくまで想像ではあるが、私はこの瓜は西瓜のことではないかと思う。アフリカが原産のようだが、エジプトから西アジアでは早くから利用され、砂漠の民の水瓶(みずがめ)ともいわれるように水分補給に欠かせない物であり、皮も調理されて食されるなど、貴重な自然の産物である。人をスイカ割のように切るなら、リアリティが感じられ、その粗暴性が見事に表現されたということになるのではないか。ただ残念ながら実の赤い西瓜は、品種改良の結果であって、当時は、緑や黄色であったので、古事記の執筆者は、割った西瓜から真っ赤な血がほとばしる、とまでの想定はしていなかったであろうが。人を切る行為を、大きな西瓜を断ち割るという表現にしたかったのではないか。そして日本の古代に西瓜が早くから入ってきたわけではないので、熟瓜と表現したのではないだろうか。このヤマトタケルの説話は、騎馬遊牧民の犠牲行為や西方の食べ物を利用して描いたと考えられる

図は、坂井弘紀「英雄叙事詩とシャマニズム」ネット掲載 より

島根県太田市五十猛町のグロは遊牧民の穹廬

グロについてくわしくは上記のサイトへ。

 毎年正月に町民の協力で海岸沿いに仮屋を作る新年の伝統行事で、以前は近くの沿岸に同様のものがいくつもあったそうだが、現在はこの一カ所だけのようだ。
 このグロはモンゴルなどに見られる遊牧民の天幕(ゲル・パオ)と関係しているのではないかと考えている。
 同じ海岸沿いに韓神新羅神社があり、来訪神スサノオとの関係が窺える。書紀ではスサノオの子は五十猛(イタケル)で、いっしょに新羅から出雲国にやってきている。なお五十猛神はイタケルの神と読まれているが、五十猛町がイソタケであり、イソタケノの神であったかもしれない。その妹に大屋津姫、抓津姫がいる。近隣に大屋という地名があり、ツマも浜田市に津磨町、隠岐島に都万がある。神と考えられた実際の移住民の話が語り伝えられたのであろう。
 
 現地の人が「ぐろ」と呼んでいるのは、どうしてであろうか。グロという名の由来は不明だが、新唐書に突厥の巫女が祈ったところが穹廬(きゅうろ)で関係すると考えられる。これを「くろ」と発音され、それが濁って「ぐろ」と言うようになったのかもしれない。中国の漢籍(中国の漢文で書かれた書物)にはこの穹廬は遊牧民のテントの意味で多数出現する。日本海の海岸沿いに到来した大陸からの移住民が、こういったテントを張って、居住をはじめたのではないか。痕跡の残りにくいものなので検出しにくいテントだが、古代に多くあったのではないかと想像している。