馬f字轡

  古墳時代の馬具の研究が着々と進んできている。ある研究者は三燕初期(前燕337-370年)の鑣轡(ひょうくつわ)や装飾金具が間髪を入れず、四世紀前半の半島南端に到達したことに驚かされるという。馬文化が列島に入るラインが早くに出来ていたようだ。
  桃崎祐輔氏は各地の馬具類などの出土品や遺構の分析から、「従来、その導入契機は好太王碑に記す高句麗好太王軍に対する敗戦と考えられてきたが、論証は困難である。当初から舶載鏡板付轡・環板轡を上位とし、鑣轡を下位とする大まかな階層差が窺えるが、どの馬具も類例が乏しく、規格性が窺えない。一方、鑣轡と鍛冶具の共伴は、馬具導入の当初からの、鑣轡や鞍・鐙の生産を物語る。騎馬技術の王権による独占は認められず、全国の有力首長に、騎馬・馬飼・馬具制作技術を持つ渡来系集団の分配を余儀なくされる状況が推定される。・・・・・ところが五世紀中葉以降は状況が変化する。・・・f字型鏡板付轡+剣菱形杏葉のセットが出現し、・・・同一形状馬具の素材差は、騎馬武人の階層的編成を物語」るとされている。その担い手の中枢部を近畿であろうヤマトとされるのは残念だが。古代の馬と言えば河内の牧が筆頭に挙げられるが、実は同時期に長野県伊那地方でも飼育が始まり、連続して甲斐や群馬にまで広がっているのだ。写真の長野県佐久市の馬埴輪には、やや誇張されているが、f字形の鏡板付轡をはめられた様子がしっかり表現されている。馬の導入時に多元的な展開があり、途中から王権による推進の傾向がみられる。
  柴田博子氏は継体紀の筑紫国の馬の記事や欽明紀の馬の供与記事、仁徳紀の田島が精騎連ねて新羅軍を撃った、などいくつも挙げて、馬に関して九州島はきわめて重要な拠点であったはずだと述べている。筑紫馬飼に着目する研究者もいる。馬具に関する研究がすすむほど、近畿中心史観ではなく、多元的にとらえる歴史観が必要となるのではないだろうか。

参考文献
桃崎祐輔「日本列島における馬匹と馬具の受容」川尻秋生編「馬と古代社会」八木書店 2021
柴田博子「古代の九州と馬」  々