流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

馬の犠牲

ヤマトタケルのひどすぎる殺害方法の意味

 
馬の犠牲

 スサノオの奇妙で乱暴な行為の数々は、北方騎馬遊牧民にとっては普通の習俗であることを、山口博氏は明らかにしている。(こちら) 他にも同じように日本書紀や古事記には、騎馬遊牧民ら大陸の文化で見ないと理解できない記述がいくつも見受けられる。
 古事記のヤマトタケルの記事にも、通常では説明しがたい記述も、上記の視点ならば理解できるものがあるのではないか。
 兄の大碓命を便所で待ち伏せし手足をもぎ取って投げ捨てるという説話は、ヤマトタケルの残虐性を示すものだが、さらには熊襲兄弟の征伐も、かなり残酷な殺害描写となっている。西の方の熊襲兄弟の討伐を、ヤマトタケルは父の景行天皇から命じられる。叔母のヤマトヒメからもらった衣装で女装して、敵地の宴席に入り込む。女性と思って油断した熊襲兄弟の兄のタケルの胸を刺す。驚いて逃げようとした弟を「取其背皮、劒自尻刺通」(その背の皮をとらえて、剣を尻から刺し通した)とある。
 この箇所については、小学館の解説でも理解しにくいところとする表現である。背中の皮を取るというのも奇妙だが、尻から突き刺すというも疑問。心臓を刺さないと致命傷にはならないであろう。これはスサノオが馬の皮を屋根の穴から投げ込む場合と同じく、馬の犠牲行為のことであって、だから背の皮を取るという表現になる。図では、竿のような木にお尻から串刺しにして祀っているのである。スキタイ系の遊牧民は馬を屠り竿にさしてテングリ(天上の神)に捧げるという。
 さらに兄の熊襲タケルを切り裂く表現として、「卽如熟苽振折而殺也」とあり、「熟瓜」を裂くように切り殺したというのはどうであろうか。この箇所の講談社文庫の解説には「ヲウスノ命(ヤマトタケルのこと)の粗暴性と剛勇ぶりを、人形劇でも見るように痛快に描き出した・・・」とある。しかしこれは納得できない。この瓜は解説ではまくわ瓜のこととされている。片手でつかめる程度の瓜を切ってもいささか迫力に欠ける。
 あくまで想像ではあるが、私はこの瓜は西瓜のことではないかと思う。アフリカが原産のようだが、エジプトから西アジアでは早くから利用され、砂漠の民の水瓶(みずがめ)ともいわれるように水分補給に欠かせない物であり、皮も調理されて食されるなど、貴重な自然の産物である。人をスイカ割のように切るなら、リアリティが感じられ、その粗暴性が見事に表現されたということになるのではないか。ただ残念ながら実の赤い西瓜は、品種改良の結果であって、当時は、緑や黄色であったので、古事記の執筆者は、割った西瓜から真っ赤な血がほとばしる、とまでの想定はしていなかったであろうが。人を切る行為を、大きな西瓜を断ち割るという表現にしたかったのではないか。そして日本の古代に西瓜が早くから入ってきたわけではないので、熟瓜と表現したのではないだろうか。このヤマトタケルの説話は、騎馬遊牧民の犠牲行為や西方の食べ物を利用して描いたと考えられる

図は、坂井弘紀「英雄叙事詩とシャマニズム」ネット掲載 より

馬の犠牲は文化の受容では説明できないのでは?

 
馬犠牲
 日本には馬を去勢する習慣がなかったから騎馬民族は来なかったという主張は、去勢をしない習慣であった北方民族の存在からも成り立たないのである。逆に、馬の犠牲行為が馬の導入とともに早くから行われていることが、多数の騎馬遊牧民の移住を示していると考えられないだろうか。
 千葉県佐倉市大作(おおさく)31号墳では、馬の首が一刀両断にされて埋葬されているという。こういった事例は数多く確認できるという。馬の飼育開始と同時に、馬の犠牲埋葬も行っていると考えられる。だが、ここでふと思うことがある。初めて馬の飼育を学んだ農耕民だった人たちが、犠牲のやり方も学んだのだろうかと。 
 白石太一郎氏を筆頭に、騎馬民族説の再評価という点での説明がされている。(こちら)それはあくまで日本側が、渡来人から騎馬文化を受容したのだと繰り返されている。しかし、はじめて伝授された側は、王の埋葬の為に生贄の用意を指示されて、なんのためらいもなく、手塩にかけて愛着を持って育てた馬の首をスパッと切り落とせるであろうか。生贄という行為も受容したのであろうか。これは馬とともに暮らしてきた人々のなかで生まれた信仰による文化的土壌の中でできることではないか。大陸では千年以上の馬犠牲行為の伝統がある。馬の生育から騎馬としての活用、そして信仰上の行為も含めた騎馬文化は、日本に移住してきた集団とその末裔たちによって持ち込まれて、継続して行われた文化と見なければならないのではないか。
 先にふれた(こちら)山口博氏によるスサノオの奇妙なふるまいの説明にあるように、馬の皮を剥いで天井の穴から投げ入れる、という行為が在地の人には乱暴狼藉の行為としか見られなかったことも、新たにやって来た集団の習慣であったことを示すことになるのではないか。文化の受容では、馬犠牲の説明はできないのではないだろうか。