
日本人は、遣唐使や鑑真の渡航の苦労話などがあって、古代における海外との交流については容易ではないように小学生から思い込まされているのではないかと思われる。そのために大陸、半島からの渡来者、移住民の存在が過小評価され、交易や文化的交流など古代史の解釈にも否定的な影響を与えている。
例えば、ある教科書には、「鑑真、苦難の旅 何度も航海で難破し、その間に失明」とある。ほとんどの日本人は義務教育で同様の内容を学んでいる。とにかく日本への渡来、航海は困難を伴うものであるという、先入観が早くから植えつけられるのだ。
研究者も、少数の渡来は認めても、日本で定着した文化は、彼らからその情報を受容したもの、との説明がよくなされている。近年でも次のような例がある。『渡来系移住民』(岩波書店2020)の中で朴天秀は「遣唐使は260年間で長安に到達できたのは13回であり、全員が無事に帰国できたのは1回にすぎない」とし文物の交流は新羅経由を強調されている。全く史実とは異なる説明だ。これは極端な例であろうが、こういったことが訂正もされずにまかり通っているのが今の現状であろう。
1.遣唐使は危険な船旅であったとの誤解の始まり
そもそも、この誤解の始まりは、上田雄氏の『遣唐使全航海』によると、ある著作からはじまったようだ。
森克己氏の『遣唐使』(1955)は古典的著作とされているが、「帆に頼るよりも人力によって漕ぐ場合が多かった」と記されているところがあって、これが定説のようになってしまった。しかし、平均横断日数は7日ほどで、終始帆走している。しかし、渡海の困難さが強調され、これに影響を受けた著作も現れた。
司馬遼太郎氏の『空海の風景』に、次のような一節がある。
「‥‥夏は風は唐から日本へ吹いている‥‥遣唐使船は‥‥わざわざ逆風の季節をえらぶのである。」
「この当時の日本の遠洋航海術は、幼稚という以上に、無知であった」と記されておられる。しかし、これは作者の勘違いであった。
夏は、大陸が暖められ低圧になり、太洋は比較的低温で高圧となるので、風は日本側から大陸へ吹く。
冬は、大陸は冷やされ高圧になり、太洋は比較的高温で低圧になるので、風は大陸側から日本側へ吹くのである。
残念ながら、司馬氏は過去の研究の少ない分野の、しかも間違った説を参考にされていたようだ。だが、この小説の影響は大きく、人々に渡海の困難さばかりがイメージされ、教科書でも同様の記述がされて、多くの国民の常識のような状態に至ったのである。
残念ながら、司馬氏は過去の研究の少ない分野の、しかも間違った説を参考にされていたようだ。だが、この小説の影響は大きく、人々に渡海の困難さばかりがイメージされ、教科書でも同様の記述がされて、多くの国民の常識のような状態に至ったのである。
実際には、入唐僧円仁の精密な記録である『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)に、7月下旬、南東の風を受けての航海は、夏の季節風を利用したもので、博多の那の津を出てから、長江デルタ座礁まですべて帆走していたとのことだ。「人力によって漕いだ方が多かった」という説は当てはまらないのだ。
2.遣唐使の解説に誇張はなかったか。
この点に関しても上田雄氏は明快に述べておられる。「二百年余りの間に日本から発遣された遣唐使船は三十六隻、そのうち二十六隻は無事に帰国し、七割強が往復に成功。人員では八割強が帰国を果たした。ほとんどの航海で遭難して漂流し多くの犠牲者を出したというのは、極めて自虐的な大袈裟な表現で事実を正確に見ていない」というのだ。百名余りが死んだ記事も海上で亡くなったわけでなく、上陸先で賊に襲われたり疾病によるものなのだ。
これは鑑真の来日の苦労話も同様だ。弟子や唐の官憲の妨害で船を出せずに三回挫折し、漂流は一回なのに、何度も苦労して失明もしたなどという話が、義務教育等で植え付けられたのだ。
記録では早い時には三日、遅くても八日ほどで東シナ海を横断している。中国の文物も大量に持ち帰っているのに、暗いイメージが刷り込まれていったのだ。子供のうちから、遣唐使も鑑真も渡航での苦労が誇張されたことがその後の思考に影響していると考える。
3.鑑真の失明にも疑問が
鑑真は渡海する前から眼を患っていたようで、先ほどにもふれたように、航海の苦労がたたった結果、失明したというわけではない。また、訪日の時点で既に完全に失明していたとすることにも疑問があるようだ。
『続日本紀』には、鑑真は留学僧の栄叡の死去を悲しんで失明したと記している。来日していた時には完全に失明していたというわけではないようだ。『東征伝』には、渡海の際の炎熱を経て視力失ったとある。他に、白内障が原因とする学者もおられる。
鑑真は来日後、一連の行事、受戒のための戒壇の設置、孝謙天皇をはじめ多数の僧に受戒を行っている。受戒と戒律の教授を行える多少の視力はあったということであろう。(米田雄介2022)
ネットでの記事にも見受けられるが「五度の渡海失敗にめげず失明の身で来朝」、などというのは不正確なのである。
3.菅原道真の遣唐使の廃止提言の理由
寛平6年(894)に参議左大弁菅原朝臣は遣唐大使に任命された。しかし、本人は宇多天皇に遣唐使の廃止を提言する書をたてまつっている。そこには、唐の現状を見ると、唐国内の旅行もきわめて危険であると、渡海の苦難よりも唐国内に入ってからの安全保障がないことを指摘し、最後に自分の身の安全のために言っているのではないことを付け加えている。
つまり道真は、自分が遣唐使に任命されたのを機に、唐の政情不安を理由として、廃止を唱えたのであり、その結果、遣唐使は一か月あまりの後に停止されたのである。
つまり道真は、自分が遣唐使に任命されたのを機に、唐の政情不安を理由として、廃止を唱えたのであり、その結果、遣唐使は一か月あまりの後に停止されたのである。
このように、道真は遣唐船の航海の危険を理由に廃止提言をしたわけではないのである。
以上のように、悪天候に遭遇するなどの事故もあったであろうが、古代における船の移動は、我々の想像以上に、活発におこなわれていたと考えられるのである。渡海の困難さばかりが誇張されることがないようになることを願いたい。
参考文献
『中学社会 歴史的分野 ともに学ぶ人間の歴史 文科省検定済み』(学び舎2017)
司馬遼太郎『空海の風景』中央公論社1975 表紙写真はAmazon.comより
上田雄氏『遣唐使全航海』草思社2006
米田雄介氏は『日本におけるソグド人安如宝の足跡』(NARASIAvol.22奈良県立大学2022)