流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

タグ:鎌足

DSC_0856
                                      大阪府寝屋川市打上  石宝殿古墳

①鎌足の出生は不明瞭であり母の名が大伴とあるだけ。書紀は御食子を父とするといった説明はない。 

②書紀では経緯もなく突然、神祇伯に任命されるが、病気と称して断って三島に退居している。ところがすぐに、中大兄と蹴鞠によって出会う法興寺にどうして行ったのであろう。

③日本書紀にはほとんど彼の事績はない。
 なぜ織冠を授与されたのか、藤原の姓を与えられたのか不可解。乙巳の変では、入鹿抹殺の為に次々と王家の人と接触し同志を探すのも、よほどの地位、実力がないと不可能。乙巳の変に関しては、詳細は改めて説明したい。

④鎌足と豊璋の記事の年代は交錯しない。詳細は次回にて。

⑤鎌足登場の記事に、軽皇子(孝徳天皇)とは以前から懇意とあるのはなぜなのか不可解。

⑥蘇我氏暗殺の直後に古人大兄の言葉「韓人が殺した」と発言。首謀者の天智と鎌足が韓人ではないか?
 「韓人」については、欽明紀17年置韓人大身狹屯倉の箇所の付注に「言韓人者百濟也」とある。これはもう決定的と言える日本書紀の証言ではないか。

⑦白雉の儀に鎌足は不在
 既に鎌足の存在についての疑念は多くが論じられてきたが、それでもまだ一元論の見方では見逃している記事が書紀にはある。それは関裕二氏も気付かなかったことであり、私は以下の点を考えたい。まずは白雉元年の儀式である。捕獲した白(しろ)雉(きぎす)の献上の際に、書紀では白雉が中国でよく見られたことがあると最初に豊璋が説明する記事がある。そして儀式が催される。ここに本来ならば参加してしかるべき中臣鎌足の名はなく、質である豊璋が参加している。ここは高麗、新羅の三国が参加していることをアピールしたかったのだろうか。しかも豊璋は百済君と明示している。
 本来ならば孝徳天皇の重要な側近であるはずの鎌足が儀式に参加しないのは不可解だが、この記事は難波京の完成とそれにともなう白雉改元の儀礼の記事である。だが通説ではこの記事の重要さは理解できないので、天皇と皇太子は登場するがそこになぜ鎌足は参加していないのかは問われないのだろう。この重要な儀式に鎌足が不在なのは、実は豊璋として参加しているからと考えられる。

⑧内臣は中国、半島の官位。研究者は無理に倭国の制度として解釈しようとする。
 内臣に関して坂本太郎氏は左右大臣のような正規の官職ではなく、ただ帷幄(いあく)にあって大事に参画する近侍の寵臣を指す普通名詞とされる。井上光貞氏は百済の内臣佐平や新羅の典大の影響を受けているものと考えたい、とされるが影響を受けるとは文化の流行ではあるまいし、百済の高位の官人を明確に示しているのではないか。
 欽明紀にも不詳の内臣が登場するが、これは百済が派遣した使者であり、私見では百済王子の恵のこと。
 こちらを御参照下さい。

⑨死の直前の内臣の不可解な言葉 
  天智八年 生則無務於軍國、死則何敢重難  
「生きては軍国(おほやけ)に務め無し。死(みまか)りては何ぞ敢えて重ねて難(なやま)さむ」
この箇所を「百済救援失敗に責任を感じたとも取れる語」とする解釈もあるが、そもそも鎌足が白村江戦に関わった様子はない。白村江戦で無謀な作戦をとり大敗北に導いた豊璋の言葉であるならば理解できる。
 なお、この鎌足の台詞は、新羅王の金春秋の側近である金庾信の最後の言葉を真似ていると考えられる。以下のようである。病に伏す金庾信を文武王が慰問する。その時の言葉が、「臣は愚かで不肖でありましたから、どうして国家に対して有益であったと言えるでしょう」とあるように、鎌足の言葉に活用されたのである。日本書紀はこのエピソードを利用して、鎌足のミソギとしたかもしれない。金春秋と金庾信については次項で説明する。  

⑩内大臣の死去を「薨」と記す。さらには、『日本世記』にも「薨」と繰り返し記される。日本書紀には、天武3年に「百濟王昌成薨」など百済人にも使われているので、これは豊璋であっても問題はない。

⑪鎌足死去の際に「金香鑪を賜う」という記事。 阿武山古墳で出土はしていないが、百済の葬儀用の金製香炉と考えられる。百済の陵寺跡から出土の金銅製須弥山香炉は王陵の儀式用とされている。発見した場所を香炉閣としている。

⑫皇極紀に豊璋が養蜂を試みる記事がある。鎌足登場の直前に唐突に現れる記事だ。
 豊璋が個人的行ったのではなく、配下の集団が試行錯誤を行っていたと考えらえる。大陸では早くから蜂蜜も酒といっしょに味わうなど好まれてきたが、蜜蝋も金銅仏鋳造や、遺体のミイラ処理に使われた。このために自前で調達するために養蜂をはじめたということではないか。 

⑬書紀の鎌足の記事に関連する三嶋と九州と百済
 皇極紀の鎌足初出の記事に、神祇伯に任じられるのを辞退し摂津三嶋に退去するとある。伊予国風土記逸文には御嶋に鎮座する大山積の神は百済の国より渡って来たとある。三島鴨神社の祭神がその大山祇神である。そしてこの地は九州にまつわる地名、神社が存する。芥川沿いの筑紫津神社、淀川の対岸に津嶋部神社、寝屋川市に高良(打上)神社があり、ここには石宝殿古墳が隣接している。鬼の雪隠と同様の横口式石槨で付近の列石から八角墳との指摘もある。
 阿武山古墳の麓に散在する古墳群に、同一規格、製法の塼の使用や石室に漆喰が塗布されるなど渡来系の集団の奥津城であったと言える。

 以上のように、日本書紀における、二人の記事は、通説では説明しにくい、不可解なものが多い。これが、同一人物であるならば、すべて説明がつくのである。  (続く)

DSC_0030
           大阪府高槻市阿武山 矢印あたりに阿武山古墳がある。

 藤原(中臣)鎌足と百済王豊璋について述べさせていただく。
 鎌足(614〜669)は、中大兄と乙巳の変を挙行。最高冠位の大織冠と,藤原姓を賜る。談山神社にまつられたが,近年高槻市の阿武山古墳埋葬説が有力になった、と一般的な説明がされる。歴史上の有名人物だが、実は日本書紀にはほとんど事績はない。
 豊璋は生没年不詳。百済最後の義慈王の王子 豊章・余豊璋・余豊・扶余豊などの名が史料にある。他に翹岐・糺解などと呼ばれる。半島の混乱の中、倭国に渡るが、百済再興の為半島に戻り、百済王となり白村江戦を先導するも敗戦後に不明になっている。

 既に関裕二氏が、鎌足の正体が豊璋であるとの説を発表しておられるが、賛同の声もある一方で、中には奇説といった否定的見方も根強いようだ。私はこの説に賛同するものであり、さらには、関裕二氏の指摘にはない点を、多元史観、すなわち近畿のヤマト王権史観ではなく、九州にあった倭国王権という観点での説明も加えて、さらには、独自に解明した問題についても付加させていただくことにする。そして、これがもっとも重要な問題だが、白村江戦での大敗北の後、豊璋は不明となっているのだが、関氏はいつ日本に戻ったかはわからない、とされている。このもっとも重要な問題が不明瞭では、奇説と言われても仕方がないと思われる。私は、独自の視点で豊璋が日本に戻ったと考える根拠を説明させていただく。
 以上のような点も含めて、かなり多数の根拠なり傍証を提示させていただくので、トンデモ論とか、歴史上の有名人物が渡来人などというのはあり得ない、などという思いもおありかと思われるが、ぜひ、これからの説明を検討していただきたい。


1. 阿武山古墳の被葬者は鎌足とするだけでは、遺跡、遺物の状態を説明できない。
 
 大阪府高槻市の阿武山古墳は、研究者の多くはその被葬者を藤原鎌足だとされている。だが、その墓の構造や出土品などは、倭国の人物とするのでは説明できない現状がある。また、日本書紀における彼の事績は乏しいはずが、後に過大ともいえる評価が与えられている。このアンバランスを解消するには、もう一人の織冠を持つ豊璋に注目をせざるを得ない。以下に説明するが、鎌足が豊璋であるならば、この疑問は解消できるのではないかと思われる。今回、新たな視点を加えて整理したものを提示させていただく。

①織冠の保持者
 織冠が授与されたのは鎌足と豊璋。二人のうち、国内で没したのが鎌足。だから阿武山古墳の被葬者は鎌足。これが唯一の根拠とされている。
 この織冠が日本書紀に登場するのは、孝徳紀大化3年の冠位十三階の記事だ。その後、大化五年に冠位十九階を制定し、筆頭が大織である。
 先に豊璋が、天智即位前紀に織冠を授かり、その後に百済に戻る記事がある。
 天智8年に藤原内大臣(鎌足)が、東宮大皇弟(天武とされるが)から大織冠を授かる。しかしその翌日に亡くなるというのも話が出来すぎているのだが。また、この豊璋と鎌足だけが織冠を授かるというのもよくよく考えれば不可解であろう。他には誰も授かっていないのであろうか。鎌足亡き後に織冠の地位を得る人物もいなかったのか、書紀はなにも記していない。
 豊璋は白村江戦の後、倭国には戻っていないという理由での消去法で鎌足が残る、というのが根拠だが、書紀が記していない人物で、織冠を授かったものがいた可能性は否定できないのではなかろうか。
 よって出土した冠帽を鎌足のものと断定するのは疑問となろう。

②被葬者の年齢
 残りのよい人骨から被葬者は五十から六十歳代の男性であることが享年五十六歳とちょうど会う。
 鎌足の年齢は、日本書紀は日本世記の記事として、50歳、また碑には56歳とある。これで被葬者の推定年齢と合うということだが、そもそも、古代では50歳台の寿命は珍しくないはず。なお、豊璋は生没年が不詳であり、この豊璋も年齢の問題では否定できないことになろう。

③被葬者の骨折
 レントゲン写真から腰椎に圧迫骨折と肋骨の骨折が確認され、鎌足が落馬して負傷したことと符合するという。ただしこの落馬については、後にまことしやかに作られた話であり、籐氏家伝などにもそのような事実はない。ただ、左腕肘に変形が見られる点が、弓を扱うことが原因とされた。ちょうど乙巳の変で鎌足は弓矢を持って構えていることから、弓矢を使い慣れていたことからの骨の変形と考えることはできる。ただこれも、豊璋も弓の使い手であった可能性はある。

④大織冠神社
 大阪府茨木市の大織冠神社は鎌足ゆかりの神社であり、この地域に縁がある。ただしこの神社にある古墳は時代の異なるもので無関係であることは明白。鎌足が日本書紀に記されたように三島と関係するのは確かであるが、それ以上に、この周辺地には百済との関係が見えてくるのである。

  この程度のことであり、具体的なものは乏しく、鎌足と言いきれないのではなかろうか

⑵古墳の構造、遺物の特徴は、鎌足というだけでは説明できない。

①中央を花崗岩の切石と塼で組み上げて、内側を漆喰で仕上げた墓室で、横口式石槨であること。

②埋葬されていた夾紵棺。木型をもちいて麻布に漆を塗り重ねて作る。脱活乾漆棺と呼ばれる。百済王族の棺がみな漆塗りの木棺である。

③その棺は塼積みで作られた棺台に載せられていた。これは百濟泗泚時代の陵山里王陵の東下塚の壁画のある古墳に同様のものがある。

④玉枕のガラス玉は直径の異なる三種類が使われ、高度な技術が必要。その玉を50m近い銀の一本の針金を通して作られている。この玉枕のガラス加工は高度な技術が必要。このような技術など日本では無理といえる。

⑤冠帽に使われた金糸は純度90%以上の金の針金を平らに伸ばして軸となる絹糸に巻き付ける。長さは100m以上あったという。金についてのかなりの知識、技術を持たないとできるものではない。
 冠帽に長方形の枠組みが20個。その枠内に連続S字文(蛇文)と四弁花文のような輪郭があった。これは、百済観音の金銅製宝冠の縁に方形区画と六弁花文と類似する。
 なおこの大量に金糸が使われた織物は正倉院には見当たらない。則天武后が身にまとっていた衣装の大量に使われた金糸に匹敵するという。列島には他に事例のない貴重なもののはずだ

⑥冠帽の縁回りに樹皮が見つかり、同例として慶州の金鈴塚古墳の白樺の皮でできた冠帽。

⑦塼には青海波文の整形具痕が残ったものが見つかっている。河内飛鳥、奈良の飛鳥でも確認されている。青海波は半島でよく使われる文様。今城塚古墳の埴輪にも見られる。

⑧百済の王は、出土したものと類似の金で飾った冠をしていた。『北史百済伝』には、王は烏(黒色の)羅(で作った)冠を金(製)花で飾り、素(白色)皮帯をしめ、との記述がある。

⑨金製の垂飾付耳飾りの部品の連結に金糸を使う技法も百済の特徴であり、金の加工技術に長けていた。

⑩ミイラ処理がされていた。遺体の残りがたいへんよくて、肉片の付着もあったという。発見当時に蓋を開けたときに樟脳の香りがしたとの証言がある。化学的な調査はされていないがクスノキもしくは他の香木が腐敗防止に使われていたのではないか。実は藤ノ木古墳の被葬者も腐敗防止が施されたミイラとして埋葬されていたようだ。このあたりについては改めて説明したい。

⑪阿武山古墳の麓に散在する古墳群は、同一規格、製法の塼の使用や石室に漆喰が塗布されるなど渡来系の集団の奥津城であったと言える。阿武山南東斜面の塚原古墳群も渡来系の墓域であり、塚原P1号墳からは武寧王陵出土と同型の単竜環頭太刀が出土している。

 古墳の構造や副葬品、さらに埋葬状況からして渡来の王族のものと深く関係するものであり、それが日本に戻ったことが否定できない豊璋の墓である可能性は高いと考えられるのではなかろうか。 (続く)


 舒明3年3月百濟王義慈、入王子豐章爲質
百済王義慈が、王子の豊璋を質(むかはり)として倭国に送る記事がある。もちろん一人で来朝してきたわけではなく、配下のものなども同行したはずである。その中に、孝徳紀に登場する田来津(たくつ)という人物が、後に、百済王として即位する豊璋といっしょに百済に帰国したと考えられる。この点について説明する。

1.孝徳紀で古人皇子の謀反に関わりながら、後に政権側の立場で行動した人物
 大化元年9月 古人皇子、與蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田來津、謀反。
 中大兄は兵を差し向けて古人皇子を殺害もしくは自死させている。ところが、謀反に関係した5名の処罰されるといった記事はない。ただ吉備笠臣垂は自首したという記事があり、これで許された可能性はあるが、残りの人物は不明のままだ。
 白雉5年2月の遣唐使の記事に、判官大乙上書直麻呂とあり、これは倭漢文直麻呂と同一人物と考えられる。
 また、斉明4年11月に謀反を図ったという有間皇子を、蘇我赤兄の指示で物部朴井連鮪(えいのむらじしび)に命じて有間皇子の家を包囲させている。この鮪という人物が物部朴井連椎子(えいのむらじしいのみ)と同一人物と考えられている。
 さらに、天智即位前8月には、小山下秦造田來津が五千餘の軍を率いて豊璋を送っている。この人物は、朴市(えち)秦造田來津と同一人物であろう。そうすると、古人皇子との謀議の参加者が、罪を問われず、後に政権側の立場で行動を起こしていることから、古人皇子の謀反が政権側の策謀であったと考えられる。なお古人皇子は、乙巳の変の後に、「韓人殺鞍作臣」と発言していることも、百済との関係を言い当てているようであり、百済とは良好な関係ではなかったことがうかがえる。
 この中で、倭漢文直麻呂は、「倭漢」から東漢氏(やまとのあやうじ)という渡来系の人物であろう。また、朴市秦造田来津という人物も、「朴市秦造」から渡来系であることは間違いないが、この田来津について見ていきたい。

2.豊璋の遷都の計画を一人いさめた田来津

 この田来津は、倭国側が豊璋を送るために勅命を受けた人物であるかのように描かれている。だが、この田来津は、百済王にとって側近ともいえる立場であったようである。
 百済に着いた豊璋は、即位した後に州柔(つぬ)の都から避城(へさし)への遷都を提案する。痩せた土地では民が飢える心配があるので、農地に適したところへ移るべきだというのだ。これに対して田来津は、避城は敵地に近いので攻撃されやすく、州柔は山間にあるので防御に有利であると反対したのである。田来津は百済王に意見のできる立場であったのだ。だが豊璋はこれを聞き入れず遷都を強行した。案の定、まもなく新羅が攻め入ったために州柔に戻ることになってしまう。
 田来津の指摘通りであったのだが、それにしても、田来津はどうして百済地域の事情を把握していたのであろうか。これは、田来津が倭国の人物ではなく、元々百済出身であるからこそではあるまいか。日本書紀では、天皇が派遣したかのように書かれているが、実際は、百済人であり、おそらくは、豊璋とともに倭国に渡り、百済の都合に合うように策動していたのではなかろうか。謀殺された古人皇子は、百済にとっては良く思われていない人物であったのだろう。このように田来津は豊璋と共に倭国に滞在していた百済の高官であったと考えられる。
 さてこの田来津については、白村江戦で最期を遂げる様子が描かれている。

朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死  嗔(しん)は怒るという意味である。

田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒り敵数十人を殺したが遂に戦死した。(宇治谷訳)
 
 この時の田来津の怒りは敵に対してだったのだろうか。私は、豊璋への怒りも含まれているのではないかと思う。意見が聞き入れられずに無謀な遷都を強行し、優秀な参謀であった鬼室福信を殺害して新羅を有利にし、白村江戦では楽観的な判断で泥沼に引きずり込んだ張本人である豊璋に対しての、言いようのない怒りが込み上げてきたのではないか。そして日本書紀は追い打ちをかけるかのように次のように記す。

是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗

 田来津の決死の戦いのさ中に、あろうことか豊璋は数人の部下と共に船で逃走したのである。百済と豊璋の為に尽力してきた田来津にとっては、なんとも無念な死を遂げたことになるのではなかろうか。
 
 豊璋に同行した一派は、策謀に長けた集団であったようだ。古人皇子や有馬皇子の謀殺に関与しただけではないかもしれない。当然、豊璋自身も倭国滞在中に、大きな影響を与えたのではないかと考えられる。
 日本書紀は、豊璋に関してわずかの記事が残されているだけだが、私見では、皇極紀から突然登場する鎌足が同一人物ではないかと考えている。
 信じがたいと思われる方が大半であろうが、そのように考える根拠を、今後のところで説明していきたい。

1.二人の出会い以外にも参考にされていた。
 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は金庾信の妹で、次の文武王を生む。
 金庾信(595~673)は新羅に併合された金官加羅王の後裔で武将。647年、善徳王の廃位を唱えた毗(ひ)曇(どん)の反乱軍と戦い鎮圧に貢献。妹が金春秋の后だが、逆に金春秋の三女を夫人にしている。武烈王と子の文武王を支えて半島統一に邁進した。
 この二人に関する出会いの説話がある。
 金春秋と補佐の金庾信が蹴鞠に興じていた時に、庾信はわざと金春秋の裾の紐を踏んで裾を破ってしまう。これを妹の文姫が繕い、その縁で金春秋と結ばれる。書紀は恐らくこの説話を利用したと思われる。だが、日本書紀では、蹴鞠でなく打(ま)毬(りく)とある。これは雅な蹴鞠ではなく、ホッケー、ポロといったものであろう。当時の日本に雅な蹴鞠はなく、先にホッケーのような遊戯が入って来たのかもしれない。新羅の場合も中国から始まった蹴鞠は、サッカーに近いもので、雅な蹴鞠ではなかったから、裾を踏むことがありえたのであろう。しかし後の藤原氏の伝記である「籐氏家伝」では、靴が飛ぶような動作のある蹴鞠に変えたのかもしれない。
 この二人の記事と中大兄と鎌足の描写が似ていることについては、『つくられた乙巳の変1(こちら)』で説明しているが、二人の出会いである蹴鞠の逸話以外にも見る事ができる。注1

2.出会いだけでなく他にも利用された二人の関係
 金春秋の裾をわざと破った金庾信は、すかさず自分の裾の紐を裂いて、これで縫わせると言って、姉の宝姫に命じる。しかし姉は些細なことで軽々しく貴公子に近づくのは失礼と固辞する。その為に妹の文姫に縫わせることになって金春秋と結ばれる。一方、乙巳の変では倉山田麻呂の少女を中大兄が娶っている。鎌足の策略で中大兄は先に倉山田麻呂の長女を娶る手はずとなったが、彼女はその夜に一族に盗まれてしまう。落ち込む父にわけを聞いた少女(おとひめ)は身代わりを申し出る。父は喜び皇子に少女を奉る。書紀の少女は妹と断定できないが、当初目論んだ姉との婚姻が果たせずに代わりの女性と結ばれるという筋書きの類似は否定できない。なぜ次女や妹とせずに「少女」と表記しているのかは興味深い点である。天智天皇の后になるので慎重な記述をしたのだろうか。
 つまり金春秋と金庾信の話の利用は一つでおさまらないのだ。次も利用されたのではないか。病に臥せってしまった金庾信を、金春秋が慰問する。その時の言葉は「臣愚不肖 豈能有益於國家」とある。「臣は愚かで不肖でありましたから、どうして国家に対して有益であったと言えるでしょう。」
 天智天皇も床に臥す鎌足から次の言葉を聞いて感激する。
「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」
「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょう。・・略・・ 生きては軍国(おほやけ)のためにお役に立てず・・略・・」これも参考にしているのではないか。

3.中大兄と鎌足の関係を描くモデルは金春秋と金庾信の関係と同じ構図
天智鎌足新羅
 中大兄と鎌足が意気投合し、計画を練って殺害計画を遂行するという二人の関係は、新羅の女王をささえる金春秋と金庾信の関係に符合する。女性である新羅善徳王の廃位を求めるクーデターである毗曇の乱(647年)は、金庾信の活躍で鎮圧される。そのさ中に善徳王が亡くなるが、反乱後に従妹にあたる真徳王を擁立。金春秋と金庾信らが女王を支える体制を確立する。これは中大兄と鎌足が女帝の皇極をささえるという構図と同じではなかろうか。それはこの入鹿殺害の目的、狙いが入鹿と中大兄のセリフにあらわれている。
「入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎」
「私入鹿は、皇位簒奪の謀を企てているとの罪を着せられて、今殺されようとしているが、無実の罪。調べて明らかにしてほしい。」
 この後に中大兄が皇極天皇に殺害理由を説明する。「鞍作(入鹿)は帝位を傾けようとしている。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」
 つまり、目的は、天皇の座を狙う入鹿を殺害して、皇統を守るということなのだ。金春秋と金庾信が女王を守ったように、中大兄と鎌足は皇極天皇、帝位を守るという設定にしているのだ。毗曇の乱とは2年違いで乙巳の変が設定されているのも、無関係でないことを示している。
 書紀はその目的を達成した一番の功労者を鎌足に仕立てた。皇統を知恵と力で守った人物として鎌足を礼賛しているのである。天児屋命を祖とする中臣氏から別れ出たとする藤原氏の祖である鎌足を、古代の英雄としてまつりあげることだった。
新羅の二人と同様に中大兄と鎌足が女王、帝位を守る存在としての構図が完成したのである。
 このように鎌足は作られた人物像であった。日本書紀において彼の事績は乙巳の変をのぞいては他に見るべきものはないのである。後に栄華を誇る藤原氏という系図の始まりが意図的に創造されたのである。

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。
参考文献
藤原仲麻呂「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997

青銅器変遷

【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化
 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通していた明刀銭の出土で、半島への影響が見られそれは列島にまで広がっている。野島永氏によると弥生文化における二条の突帶を持つ鉄斧は九州から関東にまで及んでいるが、燕の鋳造鉄斧と共通し燕国から直接伝わったという。唐津市鶴崎遺跡出土の有柄銅剣は紀元前五、六世紀の河北省燕山付近のもののようだ。博物館の説明にも、この有柄銅剣は、吉野ヶ里の有柄銅剣を含め、弥生時代の国内出土の銅剣とは全く形態が異なっており、中国における戦国式銅剣に系統を求められる国内唯一の資料とされる。また列島最古の武器形木製品は、福岡市の比恵遺跡で出土した遼寧式銅剣形のものであり、青銅武器が入る前からこの武器形木製品で祭祀が行われていた。
 小林青樹氏は佐賀吉野ケ里の青銅器工房で出土した燕国系の鉄製刀子から、青銅器の制作への燕国の関りを示唆される。熊本県八ノ坪遺跡では多数の初期弥生青銅器の鋳型が発見され、同時に遼寧で見られるような鋳銅用の馬形羽口もあった。
 さらに図にあるように、遼寧式銅戈もおよそ紀元前四世紀に半島に渡り、大型化と細形化をへて細形銅戈が誕生し列島に入っていったという。吉武高木遺跡の木棺内から出土した細形銅戈がその代表例である。

【2】燕国からの子孫が、燕国の荊軻の説話を語り継いだか
 以上のように、燕国の金属器技術を持つ集団が半島に入りやがて列島にもやってきたと考えられる。山海経巻十二の海内北経に「蓋国は鋸燕の南 倭の北に在り 倭は燕に属す」とある。ここでいう「倭」は、列島ではなく、やがて列島に移動する半島のこととも考えられるが、上記の青銅器などの出土状況が、半島から列島への深い関係を示していることを疑う余地はない。燕国は紀元前500年頃には、燕山を越えた遼西西部や半島への領域拡大がはじまったようだ。燕国の墓制はその副葬品に西周前期の青銅器を模したものが見られ、これは燕国の西周への回帰を示すもののようだ。のちには始皇帝に追われた燕国の人々が、半島や列島にまで逃避してきたことも間違いないのではないか。その人たちの秦王への恨みは、遠い子孫にまで伝えられ、それが入鹿殺害の説話に使われたのかもしれない。燕国の滅亡と乙巳の変では時代が随分離れていることに疑問を持たれる向きもあろう。しかし中国少数民族のイ族は、祖先が三星堆から秦によって追われ、さらには諸葛孔明によっていっそう山深い地に追いやられたことを今でもシャーマンが歌にして語り継いでいる。
 正木裕氏は弥生時代の倭奴国や邪馬壹国が、周の官制を用いていたことを明らかにされている。魏志倭人伝に登場する「泄謨觚(せもく)、柄渠觚(ひょごく)、兕馬觚(じまく)」などの官位は儀礼で使われる青銅器と関係しているという。すると西周王朝の侯国から発展した燕国の青銅器儀礼の官制や文化が、影響している可能性も考えたい。
 なお青銅器の倭国への流れでは、斉国との関係も示唆されているので、今後の研究の進展も注視したい。


参考文献
楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017
小林青樹「倭人の祭祀考古学」 新泉社 2017 
正木裕「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」(古田史学論集第二十四集卑弥呼と邪馬壹国)明石書店 2021
林俊雄「ユーラシアの石人」雄山閣 2005

↑このページのトップヘ