大阪府寝屋川市打上 石宝殿古墳
①鎌足の出生は不明瞭であり母の名が大伴とあるだけ。書紀は御食子を父とするといった説明はない。
②書紀では経緯もなく突然、神祇伯に任命されるが、病気と称して断って三島に退居している。ところがすぐに、中大兄と蹴鞠によって出会う法興寺にどうして行ったのであろう。
③日本書紀にはほとんど彼の事績はない。
④鎌足と豊璋の記事の年代は交錯しない。詳細は次回にて。
⑤鎌足登場の記事に、軽皇子(孝徳天皇)とは以前から懇意とあるのはなぜなのか不可解。
⑥蘇我氏暗殺の直後に古人大兄の言葉「韓人が殺した」と発言。首謀者の天智と鎌足が韓人ではないか?
⑦白雉の儀に鎌足は不在
⑧内臣は中国、半島の官位。研究者は無理に倭国の制度として解釈しようとする。
⑨死の直前の内臣の不可解な言葉
⑩内大臣の死去を「薨」と記す。さらには、『日本世記』にも「薨」と繰り返し記される。日本書紀には、天武3年に「百濟王昌成薨」など百済人にも使われているので、これは豊璋であっても問題はない。
⑪鎌足死去の際に「金香鑪を賜う」という記事。 阿武山古墳で出土はしていないが、百済の葬儀用の金製香炉と考えられる。百済の陵寺跡から出土の金銅製須弥山香炉は王陵の儀式用とされている。発見した場所を香炉閣としている。
⑫皇極紀に豊璋が養蜂を試みる記事がある。鎌足登場の直前に唐突に現れる記事だ。
⑬書紀の鎌足の記事に関連する三嶋と九州と百済
①鎌足の出生は不明瞭であり母の名が大伴とあるだけ。書紀は御食子を父とするといった説明はない。
②書紀では経緯もなく突然、神祇伯に任命されるが、病気と称して断って三島に退居している。ところがすぐに、中大兄と蹴鞠によって出会う法興寺にどうして行ったのであろう。
③日本書紀にはほとんど彼の事績はない。
なぜ織冠を授与されたのか、藤原の姓を与えられたのか不可解。乙巳の変では、入鹿抹殺の為に次々と王家の人と接触し同志を探すのも、よほどの地位、実力がないと不可能。乙巳の変に関しては、詳細は改めて説明したい。
④鎌足と豊璋の記事の年代は交錯しない。詳細は次回にて。
⑤鎌足登場の記事に、軽皇子(孝徳天皇)とは以前から懇意とあるのはなぜなのか不可解。
⑥蘇我氏暗殺の直後に古人大兄の言葉「韓人が殺した」と発言。首謀者の天智と鎌足が韓人ではないか?
「韓人」については、欽明紀17年置韓人大身狹屯倉の箇所の付注に「言韓人者百濟也」とある。これはもう決定的と言える日本書紀の証言ではないか。
⑦白雉の儀に鎌足は不在
既に鎌足の存在についての疑念は多くが論じられてきたが、それでもまだ一元論の見方では見逃している記事が書紀にはある。それは関裕二氏も気付かなかったことであり、私は以下の点を考えたい。まずは白雉元年の儀式である。捕獲した白(しろ)雉(きぎす)の献上の際に、書紀では白雉が中国でよく見られたことがあると最初に豊璋が説明する記事がある。そして儀式が催される。ここに本来ならば参加してしかるべき中臣鎌足の名はなく、質である豊璋が参加している。ここは高麗、新羅の三国が参加していることをアピールしたかったのだろうか。しかも豊璋は百済君と明示している。
本来ならば孝徳天皇の重要な側近であるはずの鎌足が儀式に参加しないのは不可解だが、この記事は難波京の完成とそれにともなう白雉改元の儀礼の記事である。だが通説ではこの記事の重要さは理解できないので、天皇と皇太子は登場するがそこになぜ鎌足は参加していないのかは問われないのだろう。この重要な儀式に鎌足が不在なのは、実は豊璋として参加しているからと考えられる。
本来ならば孝徳天皇の重要な側近であるはずの鎌足が儀式に参加しないのは不可解だが、この記事は難波京の完成とそれにともなう白雉改元の儀礼の記事である。だが通説ではこの記事の重要さは理解できないので、天皇と皇太子は登場するがそこになぜ鎌足は参加していないのかは問われないのだろう。この重要な儀式に鎌足が不在なのは、実は豊璋として参加しているからと考えられる。
⑧内臣は中国、半島の官位。研究者は無理に倭国の制度として解釈しようとする。
内臣に関して坂本太郎氏は左右大臣のような正規の官職ではなく、ただ帷幄(いあく)にあって大事に参画する近侍の寵臣を指す普通名詞とされる。井上光貞氏は百済の内臣佐平や新羅の典大の影響を受けているものと考えたい、とされるが影響を受けるとは文化の流行ではあるまいし、百済の高位の官人を明確に示しているのではないか。
欽明紀にも不詳の内臣が登場するが、これは百済が派遣した使者であり、私見では百済王子の恵のこと。
こちらを御参照下さい。
⑨死の直前の内臣の不可解な言葉
天智八年 生則無務於軍國、死則何敢重難
「生きては軍国(おほやけ)に務め無し。死(みまか)りては何ぞ敢えて重ねて難(なやま)さむ」
この箇所を「百済救援失敗に責任を感じたとも取れる語」とする解釈もあるが、そもそも鎌足が白村江戦に関わった様子はない。白村江戦で無謀な作戦をとり大敗北に導いた豊璋の言葉であるならば理解できる。
なお、この鎌足の台詞は、新羅王の金春秋の側近である金庾信の最後の言葉を真似ていると考えられる。以下のようである。病に伏す金庾信を文武王が慰問する。その時の言葉が、「臣は愚かで不肖でありましたから、どうして国家に対して有益であったと言えるでしょう」とあるように、鎌足の言葉に活用されたのである。日本書紀はこのエピソードを利用して、鎌足のミソギとしたかもしれない。金春秋と金庾信については次項で説明する。
⑩内大臣の死去を「薨」と記す。さらには、『日本世記』にも「薨」と繰り返し記される。日本書紀には、天武3年に「百濟王昌成薨」など百済人にも使われているので、これは豊璋であっても問題はない。
⑪鎌足死去の際に「金香鑪を賜う」という記事。 阿武山古墳で出土はしていないが、百済の葬儀用の金製香炉と考えられる。百済の陵寺跡から出土の金銅製須弥山香炉は王陵の儀式用とされている。発見した場所を香炉閣としている。
⑫皇極紀に豊璋が養蜂を試みる記事がある。鎌足登場の直前に唐突に現れる記事だ。
豊璋が個人的行ったのではなく、配下の集団が試行錯誤を行っていたと考えらえる。大陸では早くから蜂蜜も酒といっしょに味わうなど好まれてきたが、蜜蝋も金銅仏鋳造や、遺体のミイラ処理に使われた。このために自前で調達するために養蜂をはじめたということではないか。
⑬書紀の鎌足の記事に関連する三嶋と九州と百済
皇極紀の鎌足初出の記事に、神祇伯に任じられるのを辞退し摂津三嶋に退去するとある。伊予国風土記逸文には御嶋に鎮座する大山積の神は百済の国より渡って来たとある。三島鴨神社の祭神がその大山祇神である。そしてこの地は九州にまつわる地名、神社が存する。芥川沿いの筑紫津神社、淀川の対岸に津嶋部神社、寝屋川市に高良(打上)神社があり、ここには石宝殿古墳が隣接している。鬼の雪隠と同様の横口式石槨で付近の列石から八角墳との指摘もある。
阿武山古墳の麓に散在する古墳群に、同一規格、製法の塼の使用や石室に漆喰が塗布されるなど渡来系の集団の奥津城であったと言える。
以上のように、日本書紀における、二人の記事は、通説では説明しにくい、不可解なものが多い。これが、同一人物であるならば、すべて説明がつくのである。 (続く)



