流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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「卑弥呼の世界 ― 邪馬台国論争に終止符を打つ」 2023年8月26日開催 市民古代史の会・八尾 服部静尚氏の講演がありました。 八尾プリズムホール(大阪府八尾市 近鉄八尾駅下車。中央北出口を出て右へ200m 徒歩5分。)  

◆古代中国の里の長さには、短里と長里があった。
魏志倭人伝の行程の距離の1里は短里で約75m。通説では1里は450メートルで計算されて、邪馬台国の所在地が論じられていますが、魏の時代は短里が使われていました。
それを証明する中国の記事を、正木裕氏(古田史学の会)によって発見されています。
服部講演より


◆庄内式土器の中心は大和ではない。

庄内1

庄内2

◆奈良中心史観では説明できない。
 橋本輝彦氏(桜井市教育委員会) 「纏向遺跡がなくなった後は、雄略の初瀬朝倉宮推定地の脇本遺跡のように、遺跡周辺からは集住は一切確認されていない。4世紀の記紀に表れる天皇の宮が桜井地帯にたくさん伝承地があるが、宮単独で営まれていくという形が飛鳥に至るまで続いていくのかなと考えている。

 ↑↑奈良にずっと中心があったと考えることが無理ということですね。

次回は、2023年9月9日(土)2時開始(1時半開場)
  服部静尚氏 『倭国独立と磐井の乱 屯倉と支配体制』です。  
   ブログ主もミニ講演「イザナギのポシェット」予定です。






船に乗らない持衰
 魏志倭人伝には船の安全のために喪に服す持衰について記されている。ただこの人物を船に同乗させるのか、否かで見解は分かれている。原文の「恒使一人」のところの解釈が異なる。
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 
 同乗説では、「使」を渡海する使者のことで、その中の一人が持衰だとされる。しかし「使」は岩波文庫版では「恒に一人をして ~~喪人の如くせしむ」としており、同じ船に乗せているとは記されていない。持衰が出発から帰着まで一緒にいたとは考えにくいのだ。それは次の記述からも考えられる。持衰は髪をとかずに、シラミもわいている。そんな不潔な人物と狭い船の中で一緒に過ごすのは耐えられないのではないか。さらに婦人を近づけないとあるのだが、そもそも船に女性が乗っているならば、近づいたままになるではないか。これは、陸上にいて、道行く女性に目もくれずに喪にふすということであろう。肉を食べないというのも妙な気がする。長い船旅の中で、肉料理などあったのだろうか。猪肉の燻製なら常温で持つかもしれないが。女性も肉料理も、陸上で生活しているからこそ、我慢しなければならない約束事になるのではないか。さらにはもし遭難に合えば殺すというのだが、同じ船に乗っていたらいっしょに命を失うのだ。以上から、魏志倭人伝にある持衰は船には乗らず、帰るまでじっと喪に服す人としたい。
 持衰という言葉は、中国の漢籍にはなく日本独自のものとする説が一般的だ。岩波文庫版の解説には「他人の喪を引き受けたこと」とあるのだが。渡辺義浩の『漢帝国』の中の服喪についての記事の「『儀礼』喪服篇」では、斬衰(ざんさい)が父・天子などが亡くなった場合に三年の喪に服すで、斉衰(しさい)は父の没後の母の場合に三年の喪に服す、」とのことだ。持衰の場合は、衰弱した状態で喪に服す、といった倭製の熟語であろうか。持は特定の期間ではなく、船の往復の期間中にずっと喪を維持するという解釈もできるであろうか。いずれにしても適当な思い付きでしかないが。ただ、魏志倭人伝の記事は日本の中でも特定の時期の特定の地域の話であって、その範囲外のところでは同船させる喪人、シャーマンなども存在した可能性はあると思われる。

同乗したかもしれない持衰
 魏志倭人伝にいう持衰は、その文面からして陸上で待機したと考えるが、その他の地域や国では、同乗する持衰もいたのであろう。古墳時代の土器や墓室壁画に船が描かれているものがあるが、その中には、他の乗船者と様子の違う表現、さらには頭髪がはねたような人物が見受けられる。シラミがついていたかどうかはわからないが、喪に服したようにじっと船の安全を祈る人物を表現したのかもしれない。また大陸からの難を避けて乗船した移住民は片道切符であり、持衰と同様の役割の人物を同船させていたのではないか。それが、壁画に描かれたと考える。
 時代が下がるが、遣唐船においても特定の仏僧に安全祈願をさせていたこともある。はるか古代から船の安全を祈る儀式などが行われ、その後の持衰の登場にもつながったのではないか。
 こういったことがあって船を扱う人々のあいだで、この慣例が変容しながら受け継がれ、現在にも残っているのだろう。丸木舟を制作して初めて水に浮かべるときにも、まずは儀式があったのであり、それが次の一例のように続いていたのではないか。
 
『じんおろし』  (「自然の神と環境民俗学」鳥越晧之 岩田書院) より
「新しく作った船をジン(船の下に敷いてある丸木をジンキという)からおろして海に出す。まず金山様(鉄の神――道具を使って作ったから)を拝む。いよいよ海に下ろすときに、盛装し化粧をした七歳の女の子を一人船に乗せる。特殊な存在、神として乗せるも特別に仰々しく対応してはいない。沖に出て三回回転する。もどって社にあいさつをする。
 牛を手放す場合も飼い主が牛を曳いて神社本殿を左に三回まわらせる民俗事例があるが、古代人にとって事の始まりも終わりも三回まわることに重要な意味をもたせていたのだろう。あくまで想像だが古代においても完成させた船の処女航海の儀式のようなものとしてシャーマンを乗せて湾内を三回まわるなどということもあったかもしれない。」

 上記の少女を乗せる民俗事例の淵源として、古代の持衰に女性がなった可能性も考えられる。古事記の景行記にはヤマトタケルの船が、荒海で進めなくなった際に、オトタチバナヒメが自ら海中に身を沈めると、波はおさまり進むことができたとある。彼女が持衰の役割を果たしたという話になるのかもしれない。


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