他にも杏葉(ぎょうよう)は装飾にタマムシの羽が20枚使われるという日本初の国宝級の発見であり、のちの法隆寺の玉虫厨子につながるものである。ガラスの使われた辻金具も唯一のものであり、馬胄(ばちゅう)は和歌山県大谷古墳や埼玉県将軍山古墳に次ぐ三例目。出土した馬具の質及び量、出土した状況からわが国でも稀に見る学術的価値の高いものといわれている。朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。
このような豪華な副葬品のあった古墳の被葬者は、どのような人物であったのだろうか。
『船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流』(同成社)では以下の説明がされているのだが、それがとてもふるっている。
その被葬者像について、「在地首長層でなく急に力を伸展させた人物で、既存の首長層に属さない前方後円墳をつくり、海上交易に長け、半島との交流にも通じていたとし、半島とヤマト王権の両方とも良好な関係を有していた、豪華な副葬品にかこまれるほどの傑出した人物像」とあるのだが。
御本人の苦労がしのばれるような解説文だ。だいたいこのような理想的な人物が実際にいたというのだろうか。この周辺の遺跡からも半島との直接的な関係を有する出土品が多数あるのに、なぜ渡来者が被葬者だとは考えないのだろう。あくまで先進的な文化をもった被葬者は、ヤマト王権と主体的に関係がある人物にしたいのだ。これは、ヤマト王権とは無関係な豪華な出土品など認められないという、一元論的歴史観からくるのであろうか。
この古墳は六世紀末ごろのものとされるが、六世紀後半には、半島では加耶が滅んでおり、九州に逃げのびた王族もいたのではないか。この集団が豪華で大量の宝飾品、馬具をたずさえてやって来たのではないのか。こういった視野での検討も必要と思うのだが。その被葬者像について、「在地首長層でなく急に力を伸展させた人物で、既存の首長層に属さない前方後円墳をつくり、海上交易に長け、半島との交流にも通じていたとし、半島とヤマト王権の両方とも良好な関係を有していた、豪華な副葬品にかこまれるほどの傑出した人物像」とあるのだが。
御本人の苦労がしのばれるような解説文だ。だいたいこのような理想的な人物が実際にいたというのだろうか。この周辺の遺跡からも半島との直接的な関係を有する出土品が多数あるのに、なぜ渡来者が被葬者だとは考えないのだろう。あくまで先進的な文化をもった被葬者は、ヤマト王権と主体的に関係がある人物にしたいのだ。これは、ヤマト王権とは無関係な豪華な出土品など認められないという、一元論的歴史観からくるのであろうか。
しかし、今や状況が違う。日進月歩の古代DNAの研究が、古代史の通説を根底から揺るがしている。これまで言われてきた日本人のDNAの二重構造論から、実は古墳時代に新たなDNAが6割も占めるという分析結果を真正面から受け止めなければならない。従来の古墳時代に、大陸、半島からの新たな大量の移住者が王族を先頭に渡来したというケースも考慮しなければならない。古代史の真実、日本人は何者なのかという問いに、新たな答えを出していかなくてはならないだろう。
図はこちらの【遺跡解説】国史跡♡船原古墳~時を越えた宝箱 古賀市立歴史資料館のもの。副葬品の解説だけでなく、発掘作業の苦労話など、興味深い内容です。
参考文献
甲斐孝司他「船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流」新泉社2019