法勝寺八角九重塔 復元
①舒明天皇と百済の深い関係
①舒明天皇と百済の深い関係
舒明天皇行幸時の万葉歌の詠み人の軍王(こにきし)は、豊璋との見方が通説となっている。その舒明は百済宮を造営している。たまたま地名が百済であったから百済宮と命名されたのであろうか。また舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳は上八角形下方墳という、天皇陵としてははじめての八角形墳。これも渡来文化の関係が窺える。伝承では石室に石棺が2基あったという。推定20m超える巨大な横穴式石室と考えられている。

この墓域の沿道に塼室の舞谷古墳群、塼を漆喰で固めた花山西塚・東塚古墳がある。大伽耶には百済の様式にならった古衙洞壁画古墳がある。横穴式石室の様々な特徴が百済のものと似通っている。玄室がドーム状、石室の壁に白色粘土(漆喰)を塗布。玄室の床に二つの木棺を置く台。蓮華文の壁画が天井に施される。百済からの技術者の渡来が考えられるが、列島のこの地も同様のことがあったのであろう。
また、段ノ塚古墳の奥に鎌足の正妻の鏡女王忍坂墓がある。さらにその奥地に舒明の父にあたる忍坂(押坂)彦人大兄皇子の叔母の大伴皇女の墓。舒明天皇の母は田村皇女で、父の忍坂日子人(彦人)太子は、敏達と比呂比売の子であり、その比呂比売の父は息長真手王で、いわば忍坂一族は血統的に息長氏とつながる。また継体も息長氏と関係する。このことから隅田八幡宮銅鏡銘文の意柴沙加宮は伝承地の忍坂(おつさか)であり、斯麻なる武寧王、継体なる男弟王、舒明が百済でつながるのである。日本書紀としては、中大兄、大海人も舒明の子であり、やがて皇統の主流になるが、これは皇統が斯麻王と深い縁があることを示す。
余談だが、大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女とされている。なお、鎌足の正妻とされる鏡女王の出自も諸説あり、不比等の母とするのは興福寺縁起のみ。
②法勝寺(ほっしょうじ)
私は、白村江戦の敗北で行方知れずとなった豊璋は、日本書紀に「法勝」という名で記され、長子の定惠と同じ船、もしくは同じ年に列島に戻ってきたと考えている。後にこの「法勝」が藤原氏が関係する寺の名前で、登場している。
平安時代のことだが、藤原氏の別荘地(白河別業)を、藤原師実が白河天皇に献上する。天皇はこの地に寺院を造ることを決め、1075年(承保2年)に造営を始め、1083年(永保3年)に高さ約80メートルとされる八角九重塔が完成している。後に周辺に作られた寺を合わせて六勝寺と総称されているが、法勝寺は先に単独で造営されたものだ。藤原氏ゆかりの名を寺名に残したとするのは考えすぎであろうか。
なお、舒明紀には「於百濟川側建九重塔」とある。これが後の吉備池廃寺と考えられている。
③藤原不比等、定惠についても謎は多い
『藤氏家伝』に不比等が扱われていない。不比等の墓が不明。書紀には持統天皇3年(689年)2月に初めて登場。それまでの経緯は不明。定惠についても、根拠は弱いが百済人による殺害などの説もある。
④部分的に隠される百済王族
百済王族昆支は来朝するも、蓋鹵王死去後に半島に戻るまで、16年間の日本での足取りは不明。羽曳野市には、昆支王を祭神とする飛鳥戸神社がある。
武寧王(嶋)も加唐島で生まれた後、百済で即位までの40年間は不明。継体紀17年百済王武寧薨去記事とあり、誕生と薨去記事だけ記載されているにすぎない。
また継体紀7年に、百濟太子淳陀薨とある。この記事以外に何の情報もないが、続日本紀では桓武天皇の生母の高野新笠について、葬儀の誅で「后の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」と紹介している。純(淳)陀は日本で生まれ育ったのではないか? これも何らかの事情で隠されているのである。
以上のように、挙げさせていただいた事項は、鎌足を渡来系の人物、その可能性として豊璋と考えないと説明しにくいものではなかろうか。阿武山古墳の被葬者を鎌足だとするだけでは、関連する資料の説明が不十分なものにしかならないのである。鎌足には乙巳の変での関り以外に、事績とされるものは不明であり、その名前の人物が歴史上の重要人物というのは理解しがたい。阿武山古墳の被葬者を、その内容を無視して織冠の記事から鎌足と決めつけるのは問題が多い、というか不正確と言わざるを得ない。
一方で豊璋は、晩期の九州王朝にとってたいへん重要な関りを持つ人物であり、常色の改革をすすめた伊勢王の抹殺注1に加担し、倭国兵を泥沼の白村江戦に引きずり込んだ責任者と考えられる。さらには、日本の政治構造に大きな影響を及ぼす藤原氏の始祖となった歴史上の重要人物であったと考えられる。つまり豊璋は、新たなヤマト王権にとっては功労者となる存在であった。
鎌足については豊璋とは別の翹岐とする説や、天智が豊璋とするなども見受けられるが、こういった視点も考慮して7世紀後半の政治動向を検討しなくてはいけないと思われる。
参考文献
正木裕「『旧唐書』と『日本書紀』―封禅の儀に参列した筑紫君薩野馬」古田史学論集第23集 2020
正木裕「万葉集と現地伝承に見る猟に斃れた大王」古田史学会報№150.2019
関裕二「豊璋 藤原鎌足の正体」河出書房新社 2020
沖森卓也 他「現代語訳籐氏家伝」ちくま学芸文庫
関晃「日本古代の政治と文化」著作集第5巻 吉川弘文館 1997
大和岩雄「中臣藤原氏の研究」大和書房 2018
大山誠一「神話と天皇」平凡社 2017
倉本一宏「藤原氏の研究」雄山閣 2017
平野邦雄「帰化人と古代国家」吉川弘文館 2018
宋浣範「七世紀の倭国と百済」日本歴史2005年7月号 吉川弘文館
西本昌弘「豊璋再論」日本歴史2006年5月号 吉川弘文館
瀧浪貞子「王族渡来人の軌跡」(古代大和の謎)大和文化会編 学生社2010
大平敏之「奈良平安期における始祖顕彰とその背景 藤原氏始祖鎌足を中心に」学位請求論文 ネット掲載
高槻市教育委員会「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川弘文館 2015
橿原考古研究所「藤ノ木古墳の全貌」学生社1993
前園実知雄「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」新泉社 2006
桜井市立埋蔵文化財センター『桜井の横穴式石室を訪ねて』桜井市文化財協会2020



