流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

タグ:蛇信仰

松川町土器
長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 
頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。

1.マムシの生態についての迷信のようなお話

 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下のような説明があった。
「マムシは生命の誕生と死に深くかかわる。さらにマムシの胎生の子は、母の腹を食い破って出てくる。縄文人はこうしたマムシを地母神の象徴として崇拝した。梅原猛氏も人の命を一瞬にして奪う恐ろしい敵としてのマムシを、神にすることによって、蛇の害から人間を守ろうとした。」(安田1991)
 母蛇のお腹を食い破って子供の蛇が誕生?まさかと思ったが、どうもこの著者は別の書物からの記事を参考にされたようだ。それは藤森栄一氏の『縄文農耕』で、次のような一節がある。
「マムシは春、土の中から忽然として現れる。すなわち霊である。そして、特に秋口、藪の中など、いや竪穴内にもネズミなどを追って入ってきて、忽然と人の生を奪う。(中略)マムシが生まれるとき、母マムシはもがき苦しみ、胎生の仔マムシは丸々と肥って、母の腹を食い破って出てくる。原始の植物嗜食民たる縄文中期人が、そうしたものに地母なる神の具現を感じたことは、当然すぎるほど当然である。」(藤森1979)
 どうも蛇の神秘性を強調するあまりの勇み足ではなかろうか。子蛇が腹を食い破って生まれ出るなどと書かれた爬虫類図鑑でもあったのだろうか。そもそも蛇は卵生であり、それはマムシも同様のはず。ただ、蛇はすべて卵から生まれる卵生ではなく、2割は胎生だということだが、それらは外国種のようだ。(JPスネークセンター2024)。
 また、生き物で親が子を食べる、子が別の子を食べる事例はあるのだが、現在のところ、母親を食べるケースとして、昆虫や線虫、それにクモ形類の一部の種にあるという(National Geographicのネット記事)ことだが、まあ、特殊な事例だろう。
 では、藤森氏は、どこでこのような情報を得られたのか?別の参考にされた文献に同様の記述があったからであろう。その元ネタと思われるものに、最近になって気が付いた。
 それはヘロドトスの『歴史』だった。

2.ヘロドトスは、信じがたい逸話、「たわ言」ももれなく記載している。
 
 『歴史』巻三ダレイオスの記事の109のところに次のようにある。
「・・・この蛇は一番(つがい)ずつ交尾して雄が受精に入り、精液を射出すると、雌は雄の頸元に噛みついて離れず、これを食い尽くして終うまで離さない。雄蛇は右のようにして死ぬのであるが、雌も雄に対して犯した罪の罰を次のようにして受ける。それはまだ母の胎内にある子蛇が、父の仇とばかり母の体を食うのであって、胎内の子は母胎を食い破って外へ出てくるのである。」
 「父の仇」?かのように母の体を食い破るというのは、話を面白くしたのであろうが、この記述を信用して、ご自分の著作に採用されたとすると、残念というか、どうして信用したのかと思う。おそらくは、別に引用された著書があって、そこから孫引きされたと思いたいのだが。
 実は、この箇所の直前に、ライオンの出生に関する似たような記述がある。
「・・・ライオンの牝は、一生に一度、しかも一頭しか子を産まない。ライオンは仔を産むと同時に子宮をも体外に出してしまうからで、その原因は・・・ライオンの仔は母の胎内で動き始める頃になると、他のどの獣よりも遥かに鋭いその爪で子宮を掻きむしり、成長するにつれてますます深く爪を立てる。分娩が近づく頃になれば、子宮で無事な部分は一つも残らなくなるのである。」
 一頭しか生まない子に胎を食い破られていたら、ライオンという種はすぐに絶滅してしまうではないか。この箇所には訳注があって、「アリストテレスはこの部分の記述を『たわ言』だと評している」とある。偉大な哲学者でなくてもわかりそうなものであり、この記述も見ていれば、蛇の場合の記事も信じがたいと思うのが普通であろう。
 この『歴史』には、重要な歴史的事項が豊富に描かれているが、一方で、迷信のような記事も多く混ざり込んでいる。ただこれも、当時の古代の人々がそのように信じていたこと、考えていた逸話の貴重な資料として参考にすればいいものであろう。ただ、事実だったのか、作り話かの見極めの難しそうな話も多いようではあるが。

3.蛇が神になったのは、獰猛だったからではない。
 
 虚偽を引用された方々は、マムシの神聖たる根拠の説明するにうってつけの事例として取り込まれたのだと思うが、残念ながら事実ではない作り話であった。縄文時代における蛇との関係を強調することは首肯するのだが、いささか安易な引用であった。また、縄文時代の蛇信仰の説明に、ことさらマムシを危険な生物として強調するのも不正確と言え、一瞬にして人の命を奪うという先ほどの説明も正確ではない。実は、マムシの毒性はハブに較べると弱く、人が噛まれて死亡するのは処置に問題があった場合だという。ヤマカガシの方がはるかに毒性が強く危険だという。
 どうも、先ほどの方々は、マムシが獰猛であることが神となった理由と理解されているようなふしがある。吉野裕子氏は、蛇の神たるゆえんを、毒性以外に、その形状、脱皮などを挙げておられる。私は、それらに加え、決定的な理由は、出産時の臍の緒が古代人には蛇のように見えたことだと考えている。こちらをご覧ください。

 このように誤解、迷信の類いのものをその出典を吟味することなく引用するのは誤情報の連鎖となるもので気をつけたいものと思う。

参考文献
藤森栄一『縄文農耕』(藤森栄一全集弟9巻)学生社1979
安田喜憲『大地母神の時代』角川選書1991
ジャパン・スネークセンター『ヘビ学: 毒・鱗・脱皮・動きの秘密 』(小学館新書 481)2024
ヘロドトス『歴史』松平千秋訳 岩波書店1971

離宮八幡茅の輪くぐり

京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。
 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。

1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。

 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、つまり6月30日に行われる「夏越の祓」の前後に設置される。しかし、大山崎の離宮八幡宮は、年末年始に据えられるが、神社によっては年2回のところもあるようだ。この茅の輪くぐりは、古くから無病息災を願う神事であったが、人が輪の中を通ることが、脱皮を意味するとも考えられている。
 亡くなったイザナミに黄泉の国まで会いに行ったイザナギだが、最後は大げんかとなり決別する。そのイザナギは、「自分はなんとけがらわしい汚い国に行ってしまったのか」と言って、体を清めるみそぎを行う。このみそぎに関して吉野裕子氏は次のように述べている。
 『祭りの原理』の末尾の註⑸に、「伊邪那岐命が阿波岐原(あわきはら)でみそぎされるに際して身につけられたもの、杖・帯・ふくろ・衣・褌・冠などを次々に投げすてる描写がある。何故こうまで詳細にしるす必要があるのだろう。それは、身につけたものを身からとってゆくことが「身殺(みそ)ぎ」つまり「みそぎ」だったのではなかろうか。みそぎは御禊で、身条(みすす)ぎからの言葉と考えられている。『古事記』成立期にはすでに穢れの観念が確立していたので、みそぎもまたこの視点からとらえられ、みそぎが清浄にすることの線に強く結びつけられたのではなかろうか・・・」とし、これは、蛇の脱皮の擬き、まね事として行われたのではないかとされた。禊とかかれると難しい言葉になるが、元の意味が、身を削ぐことと捉えれば納得できる。
 古代より日本人は、本来人間にはない脱皮を呪術として人為的に行い、永生をはかろうとしており、そういうことを日本人は好んだという。そのため、一年の折目節目に行われる年中行事の中に脱皮を擬くものが数多く織り込まれているという。
 年の初めの若水汲み
 年の暮れの大祓い
 三月上巳の雛の節供
 六月一日(ムケノツイタチ)
 六月十五日 祇園祭(水神祭)
 六月晦日 夏越の節句(茅の輪くぐり)
 七月 盆祭り(七夕の竹を流す)
 七月十四日 盆ガマ(屋外にカマドを築く)

 例えば雛祭りの起源は、人形(ヒトガタ)をつくってこれに身のけがれを負わせて水に流すことだったと一般に説明されている。しかし、吉野氏はこれを、人形は本来の人にそっくりで、しかも死物であることから一種の抜け殻であって、脱皮の代用ではないかとされる。
 この三月の節供は、上巳(初めの巳)、つまり蛇の日ということがほぼ室町時代にはさだまったとされる。このことからも、蛇の脱皮を擬くものであったことを内包しており、神事と蛇信仰には深い関係があると理解できる。

2.みそぎとしての脱皮に重要な意味をもたせたニーチェ

 「脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様だ。」(曙光)

 このニーチェの言葉が持つ意味は深く、その為に様々なところで使われ、企業研修でも好まれる。過去の成功体験に固執していては、環境の激変については行けず、その組織は凋落していく。組織に関わる個々人が、このことに留意する必要があるのだ。何か新しいことにチャレンジしようとする機運を、過去の経験に縛られた人が足を引っ張って前に進まなくすることもよくあることであり、組織の動脈硬化の元凶となろう。
 これは、企業という組織だけでなく、人の関わる組織全般にも言えることだろう。私の関わる古代史会の組織も少しでも脱皮してくれたらとよく思うことがある。ちょうどパソコンに随時更新作業があるように、どんなものでも、過去にこだわらず刷新しないと生き残れないのではなかろうか。
 みそぎとは、脱皮のことであるが、中には身を削ぐようなことはしていないのに、選挙で再選されると、「みそぎは終わった」などと言って、過去の悪事はなかったかのように振舞う政治家さんもおられる。これは、言葉の誤用、悪用だと思ってしまう。その面(ツラ)の皮を、本気ではがしてほしいものだ。
 ニーチェの言葉の真意を真摯にとらえて、一人一人が、脱皮をしたつもりで気持ちを新たにすることが、人生の節目に必要な事かもしれない。

 一年のけがれを削ぎ落すという点からすると、茅の輪くぐりを年末年始に行うのは、理にかなっていると言えるであろうか。
新年にあたって、茅の輪くぐりで、心と体のリフレッシュをされてもいいかもしれません。
 離宮八幡宮はJR山崎駅からは東に徒歩ですぐのところ。 阪急大山崎駅からも改札口前の西国街道を西へ3分。茅の輪くぐりは1月13日どんと祭りまでです。
 なお、東京の五條天神社や横浜市の神明社などでも正月に茅の輪くぐりは行われるようです。

参考文献
吉野裕子『蛇―日本の蛇信仰』講談社学術文庫1999
吉野裕子『祭りの原理』(吉野裕子全集1)人文書院2007

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