【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?
次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。
「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」
用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳優を使って入鹿に近づく。すると入鹿は見事に「咲って」相手に自分の剣を渡す。
入鹿殺害の顛末が、秦王殺害未遂の件と大きく違うところがある。それは、俳優を登場させて、入鹿が自分の刀を預けさせていることである。相手の反撃にあってはならず、殺害計画を成功させるためには、入鹿の帯刀を解かなければならない。しかしどうやって用心深い相手に不信を持たれずに刀を受け取れるのか。そのために鎌子は方便(巧みな手立て)を考えついて俳優を仕向けたのだ。
【2】妖艶なアメノウズメに油断した入鹿
【2】妖艶なアメノウズメに油断した入鹿
ではその俳優とはどのような人物で、いかにして疑い深い入鹿の刀を解くことができたのか。この俳優は一般的には道化師などと理解されている。だがそれでは入鹿は信用しないのではないか。ここには具体的な行為やどのような言葉をかけたのかは全く描かれていない。だがそれを解くヒントはある。日本書紀にはこの俳優が二か所の異なる場面で登場する。一つは、海幸山幸の兄弟の説話だ。最初に横柄な態度であった兄が、最後には弟に屈服して俳優(ワザヒト)になってしまう。だがそんな人物では役不足であり、相手の刀を手にすることはできないであろう。もう一人の俳優が天岩戸神話に登場するアメノウズメだ。
天鈿女命、則手持茅纒(ちまき)之矟(ほこ) 立於天石窟戸之前、巧作俳優(たくみにわざをきす)
彼女は天岩戸の前で巧みに振舞って、アマテラスを岩戸から引き出すことに成功する。その実績のあるアメノウズメは天孫降臨の道を阻むかのように立つサルタヒコに対しても、天岩戸の時と同様の仕草を行い、彼の名を明かさせる。得体のしれぬ相手に堂々と立ち向かうアメノウズメこそ、入鹿を欺く役回りとしてふさわしいであろう。岩戸が開くようにアメノウズメはたくみに神事の仕草や踊りを行う。それを見て八百万の神がどっと咲ったという。入鹿も相手に刀を渡すときに咲っている。だがここでの咲いは可笑しくて笑っているのではない。この俳優は女性なのだ。しかもアメノウズメのような妖艶な女性であろう。おそらくこの俳優は、なまめかしい姿で胸元をやや広げて入鹿に近寄るのだ。そして彼女は「刀は後で私が直接お渡しいたします」などとささやいたのではないか。この時、入鹿が鼻の下を伸ばしたかどうかはわからないが、笑ったというより、ニヤついたのであろう。油断をして大事な刀を彼女に渡してしまったのだ。こうしてまんまと入鹿を丸腰にすることが出来たのだ。ただこれは史実ではなく、あくまで日本書紀の編者が想定した筋書きを想像したものだが。
計画遂行のために秦王の反撃にあうという同じ轍を踏まないように、乙巳の変ではアメノウズメのような俳優を登場させて、入鹿を丸腰にさせたのだ。その奸計をすすめたのが鎌足であり、中臣氏の遠神(とほつおや)である天児屋(あまのこやね)命が重要な役割を果たす天岩戸や天孫降臨神話を参考にしているのは示唆的である。
それにしてもこの乙巳の変の物語では、鎌足は事を成就させた立役者として描かれている。しかも弓は構えたが自分の手は汚していない。これは後の藤原氏の祖である鎌足が、蘇我氏の横暴であやうくなった皇統を、知恵と努力で守った存在として美化するために、この暗殺事件を利用したと考えたい。