流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

藤原鎌足

入鹿はなぜ刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?つくられた乙巳の変(3)

【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?
 次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。
「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」
 用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳優を使って入鹿に近づく。すると入鹿は見事に「咲って」相手に自分の剣を渡す。
 入鹿殺害の顛末が、秦王殺害未遂の件と大きく違うところがある。それは、俳優を登場させて、入鹿が自分の刀を預けさせていることである。相手の反撃にあってはならず、殺害計画を成功させるためには、入鹿の帯刀を解かなければならない。しかしどうやって用心深い相手に不信を持たれずに刀を受け取れるのか。そのために鎌子は方便(巧みな手立て)を考えついて俳優を仕向けたのだ。

【2】妖艶なアメノウズメに油断した入鹿  
 ではその俳優とはどのような人物で、いかにして疑い深い入鹿の刀を解くことができたのか。この俳優は一般的には道化師などと理解されている。だがそれでは入鹿は信用しないのではないか。ここには具体的な行為やどのような言葉をかけたのかは全く描かれていない。だがそれを解くヒントはある。日本書紀にはこの俳優が二か所の異なる場面で登場する。一つは、海幸山幸の兄弟の説話だ。最初に横柄な態度であった兄が、最後には弟に屈服して俳優(ワザヒト)になってしまう。だがそんな人物では役不足であり、相手の刀を手にすることはできないであろう。もう一人の俳優が天岩戸神話に登場するアメノウズメだ。
アメノウズメ
 天鈿女命、則手持茅纒(ちまき)之矟(ほこ) 立於天石窟戸之前、巧作俳優(たくみにわざをきす)
 彼女は天岩戸の前で巧みに振舞って、アマテラスを岩戸から引き出すことに成功する。その実績のあるアメノウズメは天孫降臨の道を阻むかのように立つサルタヒコに対しても、天岩戸の時と同様の仕草を行い、彼の名を明かさせる。得体のしれぬ相手に堂々と立ち向かうアメノウズメこそ、入鹿を欺く役回りとしてふさわしいであろう。岩戸が開くようにアメノウズメはたくみに神事の仕草や踊りを行う。それを見て八百万の神がどっと咲ったという。入鹿も相手に刀を渡すときに咲っている。だがここでの咲いは可笑しくて笑っているのではない。この俳優は女性なのだ。しかもアメノウズメのような妖艶な女性であろう。おそらくこの俳優は、なまめかしい姿で胸元をやや広げて入鹿に近寄るのだ。そして彼女は「刀は後で私が直接お渡しいたします」などとささやいたのではないか。この時、入鹿が鼻の下を伸ばしたかどうかはわからないが、笑ったというより、ニヤついたのであろう。油断をして大事な刀を彼女に渡してしまったのだ。こうしてまんまと入鹿を丸腰にすることが出来たのだ。ただこれは史実ではなく、あくまで日本書紀の編者が想定した筋書きを想像したものだが。
 計画遂行のために秦王の反撃にあうという同じ轍を踏まないように、乙巳の変ではアメノウズメのような俳優を登場させて、入鹿を丸腰にさせたのだ。その奸計をすすめたのが鎌足であり、中臣氏の遠神(とほつおや)である天児屋(あまのこやね)命が重要な役割を果たす天岩戸や天孫降臨神話を参考にしているのは示唆的である。
 それにしてもこの乙巳の変の物語では、鎌足は事を成就させた立役者として描かれている。しかも弓は構えたが自分の手は汚していない。これは後の藤原氏の祖である鎌足が、蘇我氏の横暴であやうくなった皇統を、知恵と努力で守った存在として美化するために、この暗殺事件を利用したと考えたい。

天智と鎌足の出会いの蹴鞠の話はつくりもの つくられた乙巳の変(1)

高松塚絵画
⑴日本書紀の打毱(だきゅう)
 2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという。直径4.8~5.3センチで、直径約3センチの平らな面もあったという。分析した奈良文化財研究所の小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」とのことだ。共同通信によるものでいずれもこの記事以上の説明などはない。しかし、この打毬が実際に行われていたとするなら、気になる問題が生じる。
 記事では「打毬」だが日本書紀では漢字が異なり、「打毱」とされ「まりく」と訓みがふられている。そしてこの「打毱」は日本書紀には皇極紀の一か所に登場するだけだ。その箇所は、かの中大兄と中臣鎌足が懇意となるシーンである。すると飛鳥時代にはこの遊戯があったのだろうか。だがそれでは中大兄は馬に乗ってポロをしていたことになるが、書紀の記述からはそのようには考えにくい。この打毬にはポロだけではなく、ホッケーのような意味もあるようだ。高松塚古墳の壁画の男子像にはこのホッケーのストックを持つ人物(右端)が描かれている。関西大学博物館の解説では「鞠打ち遊技の毬杖(ぎっちょう)」とある。遊戯を楽しむために、被葬者といっしょにお伴が用具を持って遊行に出かけるところを描いたのかもしれない。中大兄も打毱というホッケーを楽しんでいたところに、ちょうど居合わせた鎌足が、飛んできた履(くつ)を拾ったということであろうか。だがこれはどうも他の説話を参考にした創作のようである。

⑵新羅王の説話が参考にされた乙巳の変
 書紀に書かれた乙巳の変の多くの記事が史実ではないとの疑問や指摘は早くからあった。注1 この中大兄と鎌足の場面は新羅武烈王である金春秋が蹴鞠を楽しんでいた際の説話からのようだが、ここでいう蹴鞠は、全国の神社の祭事などで行われる空中に蹴り続ける蹴鞠ではなく、サッカーに近い対抗戦式の球技であったようで、それは中国で始まったもののようだ。この蹴鞠に興じていた際に、配下の金庾信はわざと金春秋の衣の紐を踏み破って、すかさず自分の襟の紐を裂いて裾を縫わせる。しかし先に姉に頼んだが本人が辞退したので妹に縫わせる。それが縁で後に金春秋は妹の文(ぶん)姫(き)を后にする。一方、鎌足の発案で中大兄は蘇我石川山田麻呂の姉を娶るはずだったが、誘拐されてしまったので代わりに妹を娶ることになる。金春秋は孝徳紀に人質として来日しており、その記事によく談笑する、とあるので、この后とのきっかけの話は酒の席などで語られていたのだろう。それを書紀編者は利用したとも考えられる。だがこれは蹴鞠であって打毬ではない。日本でいつから雅な蹴鞠が始まったのか定かではなく、サッカーのような蹴鞠があったのかもわからないようだ。日本書紀では、露骨に新羅の説話を丸写しにするのを憚って、繕うことを断った姉の話が誘拐されたとしたり、当時の日本に先に伝わっていた打毬にしたのではなかろうか。

⑶原文改定された誤った解釈
 鎌足の伝記である『大織冠伝』は、その多くは日本書紀に沿って著述がされているが、この中大兄が興じていた打毱は、蹴鞠とされている。これはホッケーのような球技では履は飛ばないと考えたのであろう。そして日本書紀の現代語訳の宇治谷孟氏なども、ここを蹴鞠とされている。だがこれは恣意的な原文改定である。そしてこの場面の蹴鞠は、現代の共通認識としての雅な蹴鞠とされる。新羅の説話の蹴鞠はあくまでサッカーのようなものだが、伝記の作者である藤原仲麻呂はおそらく、毬を空中で蹴り続ける雅な蹴鞠こそ履が飛ぶことになると考えたのではないか。現代では、この雅な蹴鞠で中大兄の履が飛んだと当然のように説明され、まことしやかなイラストも描かれている。だがこれは史実でも何でもない。雅な蹴鞠は八世紀頃からと考えられている。乙巳の変にかかわる説話の多くが作り話であることの一端を示すものであるのだ。
  (「古田史学の会『九州王朝の興亡』2023」掲載のものを一部改定したものです)

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。

参考文献
「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
塩見修司「『万葉集』古代の遊戯」 『唐物と東アジア』所収 勉誠出版2011
山田尚子「黄帝蚩尤説話の受容と展開」『東アジアの文化構造と日本的展開』所収 北九州中国書店 2008
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997
図 「高松塚古墳壁画」のイラストは関西大学博物館壁画再現展示室