流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

落し穴猟

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑵

3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎
 
 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。
 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。
 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。かく言う故にそこを蹈みしかば、落ち隠り入りまし間に、火は焼けすぎぬ。(「古事記」次田真幸読み下し)
 鼠が現れて、「内はうつろで広い、外はすぼまっている」と教えた。そう鼠がいうのでそこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れひそんでおられた間に、火は上を焼けて過ぎた。(同現代語訳)
 大国主はその地面を踏んだことで穴に落ちている。なぜ、都合よく野原に人が隠れられるほどの穴があったのだろう。これは、猟の仕掛けとしての落し穴ではないだろうか。火を放たれたのも、古代に火で獣を追い立てる、火入れで植生を変化させて動物が集まりやすくなる環境を作り、そこに柵をめぐらして誘導しやすくする、といった火も使った古代の追い込み猟が説話に取り入れられたのではないか。
 ただ、縄文時代に数万と検出される落し穴は、弥生時代には見当たらなくなる、といわれている。それだと、古事記の落し穴を使った説話は、はるか縄文時代の伝承を参考にしたのかと疑問が起こる。しかし、7世紀にも落し穴猟があったと考えられる記事が日本書紀にある。
 天武4年4月 自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類
「諸の漁猟者をいさめて、檻穽(をりししあな)を造り、機槍の等(ごと)き類をおくことまな」
「漁業や狩猟に従事する者は、檻や落し穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。」(宇治谷孟)
 天武4年とは675年となるが、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食してはならないという期間限定の勅命が下されたのである。ということは、7世紀末後半まで、実際には落し穴猟があったということになるのではないか。注1)そうであるならば、古事記の大国主が落ちた穴も同時代にあった罠猟のものと考えられ、縄文時代の民俗例が千年も後まで語り継がれたと考えなくてもよいのである。
 なお、落し穴の形状には、フラスコ型と言われる上部がせばまったものも見受けられるので、この場合は「内は広く、外はせまい」という鼠の言葉に整合するのであるが、他の解釈は考えられないであろうか。スポンジは、ギリシャ語のスポンゴスに由来しているそうだが、鼠の発した「すぶ」は穴を覆う蓋が海綿のような、スカスカの状態を意味する可能性がないかは検討していきたい。

注1. 天武四年の「殺生・肉食禁断令」は、実は34年動かされた命長2年(641)の利歌彌多弗利による放生会の事績の記事を大和朝廷が消して天武期に移動させたものである。正木裕氏「古田史学会報171号」『「壹」から始める古田史学(三十七)「利歌彌多弗利」の事績』参照 (こちら

4.野原に火を放たれたヤマトタケル

 ヤマトタケルの場合は、大国主とは違って試練といったものではなく、まつろわぬ敵との戦いの中で火に囲まれてしまう。そこで、向火を起こして難を逃れるのだが、ここには落し穴はないが、野原への放火で相手を追い込むのは共通している。この野火によって、植生が変化し、動物が好むような景観がつくられる。ここに意図して罠を仕掛けるのである。火は、植生を変えるためだけではなく、獲物を追い詰めるためにも使われたという。
 初期の人類は、「弓と矢が登場するずっと前(およそ2万年前)に、火を使って動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたことが示唆されている」(スコット2020)そうだ。その後も、火や誘導柵も使って落とし穴に追い込むこともあったのであろう。
 こういった事例から、相手を火で追い込むという話が作られたのではなかろうか。古事記では、沼に凶暴な神がいるからと誘い出された野原で火攻めに遭うのだが、日本書紀では、ヤマトタケルは賊から大鹿がいるからと狩りをすることをすすめられて、野に入ったところで火を放たれてしまう。つまり、火攻めの説話に猟が関係しているのである。(続)

参考文献
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2011

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑴ 

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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)