ネズミ捕り
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味

 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い詰められた兄猾は、前もって用意していた罠にみずからはまって圧死する。土砂か岩石が落ちるようになっていたのであろうか。原文には「自蹈機而壓死」とある。ここに「蹈(踏む)」とあるのは、古事記の大国主が火攻めから逃れて穴に落ちる場面と同じだが、この場合は、踏むことで仕掛けが動作したのであろうか。
 さらに、次に「時陳其屍而斬之」『其の屍を陳(ひきいだ)して斬る』とある。はさまれた死体を、引き上げて、念のためなのか斬っているのである。すると、血が流れだして、くるぶし(踝)が埋まるほどに血があふれたという。そこで宇陀の血原という地名譚になったのであるが、これは誇張されてつくられた話であろうが、何かの元の話があったのではと考えられる。
 古事記では、「作殿其內張押機」(殿〈との〉を作りその内に押機〈おし〉を張りて)とある。この押機が、具体的にどのようなものなのかは定かではないが、つっかえ棒が外れたら大きな壁のようなものが倒れて、人を圧死させるものであろうか。しかし、自分で罠にかかって死んでしまった後には、「爾卽控出斬散」(ここに即ちひきだして斬り散〈はふ〉りき)とあるところは、書紀と同じで死体を斬っているのである。
 この後に、弟猾は、天皇と兵士のために牛肉と酒の用意をしている。その宴席で天皇は歌を詠む。鴨(しぎ)をとる罠を張ったら區旎羅(くぢら)が掛かったという。注1これらはみな猟に関係する話になろう。牛肉を得るためには、まず屠殺するわけだが、次にこれが重要なのだが、おいしく肉をいただくためには血抜きをしなければならない。牛一頭でもかなりの血が流れ出す。兄猾の死体を引き上げて、わざわざ斬りつけたのは、血抜きをすることを意味しているのではなかろうか。その血が足下にあふれんばかりに流れ出したのであろう。
 このように、落し穴にはまり込んだ獲物は、あばれて危険なので穴の中にいる状態でまず絶命させる。その後、引き上げて、風味が落ちないように血抜きを行い、その場で解体して持ち帰るのだ。
 なお、神武の来目歌には、次のような歌がある。
「来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう」というのがある。だがどうして山椒がこの戦いの歌に出てくるのか。この山椒は、毒流しといった漁法と関係しているのではないかという指摘もある。秋田県ではナメ流しとかナメ打ちと言われ、山椒の木の皮、葉の茎を数日乾燥させて粉にして灰と混ぜる。これをナメといい、それをカマス(俵)に入れ上流で踏むという。魚を麻痺させるためだが、地方によって製法などは違っているようだが、もちろん現在は水産資源保護法で禁止となっているそうだ。(菊池2016)この来目歌も、毒流しという漁法と関係する歌であったと考えられる。注2

 以上のように、記紀の説話には、落し穴猟や獲物の解体といった古代の民俗を参考にしたものが取り込まれていると思われるものが見受けられるのである。縄文時代に活発に行われていた落し穴猟がはたして7世紀まで続いていたのかは、現状では確認しにくい状況であるが、害獣から居住地や畑を守るための周囲に設置する捕獲用の落し穴があった可能性は考えられているようだ。今後の調査で、見直しが進められることを期待したい。(了)

注1.岩波書店の『日本書紀』などこの區旎羅を、鷹等の字をあてて、訓みはくじらとしているが、鷹のことではない。古田武彦氏は、このくじらは鯨のことであって、この天皇の歌の久米歌そのものが、奈良の宇陀のことではないと喝破されている。
注2.宇陀の血原については、この地に水銀鉱床があって地面が赤く見えたからというのがほぼ定説のようである。血抜きの話は先にあった血原という地名からの付会の話とも考えられるので、必ずしも血抜きをしたところを血原となづけたかどうかはわからない。

参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
大泰司統「北日本の陥し穴猟」縄文時代の考古学5 なりわい・食料生産の技術 同成社2007
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2019
菊池照夫「古代王権の宗教的世界観と出雲」古代選書21同成社2016
市毛勲「朱の考古学 考古学選書12」雄山閣1975
山田 晃弘「黒ボク土層・草原的植生・陥し穴猟」近江貝塚研2024.8月例会発表用資料
 ネズミ捕りの図は、「イラストAC」より