流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

縄文時代

縄文の蛇行石剣と古墳時代の蛇行剣

蛇行石剣パネル付き
蛇行石剣
  写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館
  ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。

 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。
  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。
 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 

「蛇形の杖を以て寝室を打つ」   
 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937)

 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。

蛇行剣(全州博物館・金城里古墳) (1)
  写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣
 
 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。
 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。

 日本書紀の仁徳即位前期には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。

遼東蛇行剣
 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。

参考文献
永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017   
韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの
遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より

大国主がおちた穴と宇陀の血原の本当の意味 ⑴ 

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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)

縄文時代に大陸棚地からやってきた移住民

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 図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。
 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で露呈した地表面の推定の海岸線も描かれている。黄海は丸ごと陸地となり東シナ海もその大部分が海ではなくなっている。②と③のルートの中間に大きく広がる大陸棚のエリアは、およそ1年に2cmほどの海面上昇でゆっくりと後退し、およそ6千年前までに完全に沈んでしまう広大な陸地があった。河岸や海岸線もあるこの温暖な領域に早くから人類は当然の如く居住し、文化を発展させていたであろう。そして、この②と③の中間のエリアから列島へ渡海した人々もあるのではないかと考える。

1.DNAで説く縄文人の由来
 先ほどの篠田謙一氏はmtDNA(ミトコンドリアDNA)のハプログループの研究から「縄文人は旧石器時代に大陸の南北双方の地域から流入した集団が、列島内部で混合することによって誕生」と考えられるとされる。さらに「そもそも縄文人は由来の異なる人々の集合によって列島内で誕生した」ならば「外部に形態の似た集団がいないのも当然のことと解釈できる」とされる。中国大陸に類似の集団がいないからということだが、ここを私は、本来いたはずの集団が移動してしまったので確認できなくなったと考えたい。
 氏はハプログループM7があって三つに分かれ、M7aが主として日本、M7bが大陸沿岸から中国南部地域、M7cが東南アジア島嶼部で、4万年以上前に生まれ、各グループに分かれたのは2万5千年ほど前だという。その起源地は、先ほどの海岸線の後退により「大陸に沈んでいる地域」と言及されている。よってM7aが日本にしか見つからないことになる。
 また北海道の旧石器時代の遺跡から出土する細石刃という石器は、シベリアからの伝播で①のルートと考えられていたが、北海道の縄文人のmtDNAのハプログループはすべてアジア起源であり、北東アジアでの文化的な接触により学んだアジア系の人たちが北海道に到達したとされる。また氏は、日本人のかなりの部分をしめるハプログループのD4aについて、誕生は1万年前ほどで、「この時代は大陸との往来はそれほどなかったと思われますので、このハプログループは弥生時代になって日本に入ってきたと考えるのが自然。」とされる。私はここに異論がある。縄文時代は人の渡来がなかったとの思い込みがあるのではないか。
 
2.あまり考慮されていない露出していた大陸棚と氷期以降の海進
 現生人類は今までのところではアフリカで誕生し、何度も移動が試みられ本格的な移動は4万8千年前に一度にユーラシア大陸に広がったという。そして3万8千年前には列島にも進出する。いずれ新たな発見で変更もあるだろうが。そして、2万3千年前には、海水面マイナス136mとなるが、その後、1万5千年前には海水面の上昇が始まる。1万1千6百年前に突然気温が7度上昇して海水面がどんどん上昇したという、そして7千年前に現在の海水面になる。ところが6千年前に、さらに海水面上昇する。いわゆる縄文海進がはじまるが、5千年前に変動もしながら徐々に海水面は低下していく。現在の海水面に戻るのは古墳時代にはいってからのようだ。
 以上のような変遷だが、縄文海進にあたる中国での表現としては、王・汪氏が後氷期の海進を巻転虫(Ammonia)海進と提唱されているようだ。マレー半島からインドシナ半島の大陸棚で広がった陸地はスンダランドと呼ばれているのだが、この東シナ海に広がっていたエリアの呼称は不明だ。不思議なことに中国の先史を含めた歴史解説書には、縄文海進に該当するような事象が取り上げられていない。
 氷期末には日本の本州ほどにもなる面積の地域をここでは便宜上大陸棚地としておく。縄文時代はおよそ1万6千年前から始まるとされるが、そのころはまだ大陸棚地が広がっていたのであり、それが1万年のもの時間にわたって徐々に海水面が上昇、すなわち海岸線の後退が続いたのだ。
 李国棟氏は、一万年前の前後に外越の人々が上陸し縄文の主役となったとし、早くに大陸棚の人々に注目した。古越人という表現もあるが、越人と言い切れるかどうかの問題はあるが、この現在は消えた大陸棚地から、縄文人となる人々が、少なからず渡来してきたのはあり得ることではないか。大陸棚地からの移住と考えられる事例をあげてみる。

3.海を渡って来た人類
 現生人類の各地への移動は、陸地がつながっているところだけを行き来したのではない。当然歩いては渡れない大河がいくつもあった。そして、各地の様々な海峡、沿岸域を船で渡っている。
 東ヨーロッパの金属器をもつステップ地帯の牧畜民は西へ進出し、既に海峡のできていたブリテン島に四千五百年前に最短でも34キロの海を渡り、大量の移住でストーンヘンジを作った先住民と完全に入れ替わっている。 
 アメリカ大陸への移動は、足止めされていた氷河が後退し無氷回廊ができる1万三千年前が定説であったが、南米のチリのモンテ・ベルデ遺跡が1万4千年前と判明。そして、新たに1万6千年前には北米の沿岸の一部が海水温の上昇で無氷状態になったことがわかり、早くに海岸伝いを船で移動していたと考えられるようになった。
 台湾の農耕民は4千年前にフィリピンに到達し、3千3百年前以降にニューギニアへと渡っている。さらに時代は下がるが、1千3百年前には、フィリピンから9千キロのアフリカ沖マダカスカルに達しているという。
 そしてこの日本でも、対馬ルートも完全に陸地化することはなく、海を渡っているのだ。中国では浙江省跨湖橋遺跡で8千年前の丸木舟が発見されている。列島に船で渡ってくることは、十分可能な事であった。次のような事例がある。宮崎県本野原遺跡の土器の圧痕から、中国南方産のクロゴキブリの卵鞘が見つかったという。4千3百年前より以前に大陸からの移住民の食料にまぎれて広がったものではないかと考えられる。確実に、大陸から、人はやって来たのだ。

4.特異な文化を持つ上野原遺跡の集団
 新東晃一氏は南九州一帯には、他地域と比較して多種多量の「第一級」の草創期遺跡が存在したという。一般的には縄文文化は東日本ばかり目立って、西日本は低調だったという思い込みがあるがそうではなかった。その代表となるのが上野原遺跡であり鹿児島県霧島市東部の台地上に約9千5百年前に定住の村が作られた。その遺跡や出土遺物のいずれもが際立った特徴を持つものだ。まずは貝殻文系筒型土器。縄文土器に四角はめずらしい。また筒形は九州では例がなく、世界的に北方系の土器に多い特徴だという。優れた技法で作られており、現代の陶芸家も「なぜこの時代にこのような技術があったのか」と感嘆する。北方系という点では竪穴住居も特徴的だ。他地域と異なる直径3~5mとやや小さく、回りを垂直に掘られた柱穴が取り囲んでいる。しかも竪穴の外側に建てるという際立った違いがある。また木材を上方で湾曲させて中心に束ねる構造。これはシベリア、アメリカ先住民、モンゴルのパオと類似する。土器も住居も北方系という共通点があった。
 土器に戻ると極めて異例の壺型土器が出現している。調理用でなく穀物などの貯蔵器として使われていたもので、それは稲作が始まる弥生時代の遺跡からしか出土しなかったものが登場したのだ。
 さらには連結土坑という一つの穴で火を焚き、もう一つの穴から出る煙で魚や肉の燻製などをしていたものも多数見つかった。同じものが三重県鴻ノ木遺跡、静岡県中道遺跡、そして千葉県舟橋市飛ノ台遺跡などで見つかっており、黒潮に乗って移動した人々が同じような調理をしたのだろう。この燻製が保存食として大移動に携行されたのではないか。
 装飾品では耳たぶにはめ込む耳飾り(耳栓状土製品)が見つかる。これは中期と考えられていた定説を見直すものであり、しかもいきなり直径12cmのものが出現しているのだ。はめ込み式耳飾りは最初は小さなものを耳たぶを穿孔して装着する。そして徐々に大きなものに付け替える。やがて、飾りを外した時の耳たぶはイカクンのようにだらりと垂れるようになる。こういうことをこの地で突然思いついてはじめるとは考えにくいのではないか。そしてこの耳飾りにはS字や渦巻の文様が施されているのだ。
 石器類は用途に応じた多様な石斧や石鏃、石皿、磨り石など大量に見つかっている。
 「定説を打ち破る新資料続出で、南九州に早咲きの華麗な縄文文化」と説明されているが、そこには大陸文化を持つ移住民の存在は全く考慮されていない。同じ時代の全国の他地域では尖底土器を作っているのに、南九州では貝殻文の円筒形平底の土器を使用していたのは異質で独特な発達という解説でいいのだろうか。
 

5.佐賀県東名遺跡の「奇跡」の技術
 佐賀市佐賀平野の吉野ケ里遺跡の南西方向にある8千年前の遺跡。居住地、墓地、貝塚、貯蔵施設など集落の構成要素がセットで確認される稀有な事例とされる。
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              図は佐賀県東名縄文館、大型編み籠
 編組製品が大量に出土したのも特徴の一つ。ドングリなどを入れていたようだが、全国の縄文遺跡で見つかったものの六割をしめ、しかも最古のものなのだ。ござ目や六つ目といった編組技法のほとんどの種類が存在するという。完成された技法を持った人々が、この地で最初から多種多様な編み籠を作っているということだろう。
 ここからは仮面習俗をおもわせる板状木製品が出土している。5か所の孔があり紐を通して顔に装着していたようだ。縄文早期に仮面の儀礼があったなら、これも最古のものとなる。
 さらにオオツタノハ製貝輪も列島最初の事例。後の富山県小竹貝塚のものは東名からの可能性がある。この貝は伊豆諸島南部以南と大隅諸島、トカラ列島など南洋の限られた島にしか生息しない。問題はこのような貝を重視する南洋の人々がいたのではないか。また列点文を施した鹿角製装身具は他に大分県国東町成仏岩陰遺跡、滋賀県石山貝塚の二例。
 東名遺跡も上野原遺跡も、九州の縄文時代早期の異例の完成された文化の突然の登場なのだ。

6.大陸棚地の流浪の民
 内陸部とはちがって海岸にも面する大陸棚地に早くから北と南の人々が移住し、定着しては独特の文化を発展させ、やがてはこの中心地で水田づくりも始めたと考えられる。漁業も盛んだったはずだ。1年に2cmほどの海面上昇はわずかでも、子供の頃の海岸線が大人になると変化していることにやがて気が付く。そして大潮と大雨や台風が重なったときに深刻な被害を受けることになる。その度に移動を繰り返し、土地の開発や新たな地で祭祀を行った。しかし徐々に海岸線は後退し、山東方面に北上するものや逆に南下するなどの移動を始める集団がでてくる。大陸棚地が完全に水没する6千年前には台湾で突然に水田耕作が始まる。これは行き場のなくなった農耕集団が南下したからと考えられる。さらには台湾から南洋諸島にも進出していく。
 対馬海流は8千5百年ほど前に始まったという説がある。すると大陸棚地がまだ広がっている時には、潮流の弱い穏やかな海面が広がっていたのではないか。船で日本と行き来するのはさほど困難でなかったかもしれない。そうすると、一度や二度でなく、かなりの頻度で、大陸沿岸と日本とを渡りあう海の民もいたであろう。漁民の中には海の東に大きな島があることを先祖から聞いたり自分で確認するものもあったはずだ。1万年前に意を決して九州島にむかった集団もいたであろう。
 上野原遺跡、東名遺跡の事例は、その完成された文化の状況が、持ち込まれたものであることを示す。じりじりとせまる海水面の上昇により移動を余儀なくされ、遂には大移動を開始し、日本に集団で移住するものもあった。適地をみつけて、これまでに培ってきた文化、信仰を継続していったのだ。
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 佐賀県神埼市の各地では「シェーとり祭り」といった汐とり行事が行われている。秋の満潮時に、川辺で榊を川に浸して鉾先につけた天狗面に振りかける、天災除けの祈願だ。東名遺跡の仮面をこれと関連付ける説明もあるが、私はこの汐とり祭りに似たものを大陸棚地でも行っていたのではないかと考える。大陸棚地の海岸は遠浅で、干満の差が激しく、高潮による被害に悩まされて、水の祭祀をかかさず行ったのではないか。
 縄文時代の解説書では『縄文海進』は漁場が豊かになるなどと解説され、そこにはマイナスイメージはない。しかし大陸棚地の沿岸に居住していた人々には、深刻な事態であったのだ。彼らは内陸部の集団とは軋轢を生み、命がけで海を渡り安住の地を探す流浪の民だったかもしれない。
 
 まとめ
①現生人類は3万8千年前に海を渡って列島へ移住し、しかもそれは一度きりでなく何度も行われ、また既成概念の単線ルートではなく大陸棚の広がった各地から渡っていった可能性がある。
②なおも海岸線の後退の中、列島への移住や南下する集団もあった。また対馬海流が始まるまで、容易に移動はできたと思われ、その集団たちが特に九州島で特筆すべき早期縄文文化を咲かせていった。
③6千年前の大陸棚地の消滅と、さらなる海進によって渡海を余儀なくされた集団が各地に拡散した。
④日本人のルーツや縄文時代の文化も、列島の各地に渡って来た移住民の存在を考慮しなければならず、決して日本の中だけで単一の文化が続いたわけでなく、弥生、古墳時代と同様に多元的に見ていかなくてはならない。

参考文献
篠田謙一「新版日本人になった祖先たち」NHK出版2019
篠田謙一「DNAが語る列島へのヒトの伝播と日本人の成立」平成27年度大阪府立弥生文化博物館図録
柳田誠・貝塚爽平「渤海・黄海・東海の最終間氷期以降の海面変化に関する最近の中国における研究」1982
小林達雄「縄文時代 日本発掘ここまでわかった日本の歴史」朝日新聞出版2015
新東晃一「上野原遺跡と南の縄文文化」熊本歴史叢書古代上編熊本日日新聞社
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡!東名遺跡」 山田康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書2019
李国棟「稲作文化にみる中国貴州と日本」雄山閣2015
ディヴィッド・ライク「交雑する人類」NHK出版2018

縄文一万年のマラソンレースの実相

DSC_0228欠状耳飾り
写真は、富山県南砺市埋蔵文化財センターの玦(けつ)状耳飾り 大陸始原の遺物と考えられる。

1.縄文時代が1万年続いたという誤解
 よく縄文時代は1万年以上の長い期間続いたという、世界に類を見ないことだといった表現を目にすることがある。しかしこれは、ちょっと奇妙ではないか。たとえば、江戸時代が260年あまり続いたというのは、徳川幕府の体制が継続していたので問題はないが、縄文時代の場合は、列島全体に一つのまとまった社会的な状態が変わらずに続いていた、などとは考えられないのではないか。単に時代区分として縄文時代と設定したのがおよそ1万年あまりであったと言うだけのことである。同じようなタイプの縄文人が、一つの社会、文化を一律に継続して営んでいたものではないだろう。
 さて、この縄文時代の社会についての認識が変わりつつある。
 古代人のゲノム解析が進む中、「二重構造モデルが基盤とする『全国的に均一な縄文人』という概念は、ゲノムを読むことでより細かい分析が可能になった現在では、棄却すべき前提となりつつある」(篠田2024)という。
 列島の縄文人は、孤立化された空間で独自の発達をとげたということはなく、大陸からの移住民が、新しい文化をもって列島に繰り返し渡って来たと考えられる。しかし、縄文時代の渡来についてはなかなか認めようとされない状況がある。

2. 「大陸との交流」
 三内丸山遺跡の調査に携わった岡田康博氏は異質の文化の登場に次のように解説される。縄文文化は四方を海で囲まれた日本列島の地理的条件や採集狩猟文化として高度に発達した点などから、孤立的に独自の発展を遂げたと考えられていたが、日本、中国、韓国、沿海州など各地の考古学的な情報が増えるにつれ、相互に無縁とは考えられず、環日本海あるいは東アジアの視点で見直す必要に迫られてきた、というのが現状だろうと述べられている。ただ氏の場合、それは「大陸との交流」という表現になる。これについては異論が出ている。
 高山純氏は「日本の考古学者が『交流』という言葉をしばしば使用することに私は多少の違和感を抱いているとし、伝播と違って交流となると思想や文化などの一部にしろ、全部にしろ、それが相互に往来したことを意味する。縄文時代早期の日本からいったいなにが相手の中国に流れたのか、具体的事例が浮かばない」との指摘は的を得ている。では高山氏は渡来を肯定しておられるのかというとそうではなく、縄文人の独自考案、偶然の一致とされる。すべてを偶然で片付けるというのは、いかがなものであろうか。しかしこれは彼だけでないのだ。
 宮本一夫氏は『縄文文化と東アジア』のなかで玦状耳飾りなどの桑野遺跡の例などから「この縄文早期末~前期初頭という時期は、いわゆる縄文海進期の最大高海面期にあたり、地形的には海によって最も大陸との連鎖を閉ざされた時期といえよう。この時期のこうした文化接触によって情報が伝播して制作されていったものと考えるべきであろう。決して日本海を直接人が横断したということは考えられない」と。これが多くの研究者のお考えなのだろうか。
 日本人の祖先はみな海を渡って移住したことや、縄文海進によって大陸の沿岸域の住民は高潮や洪水に悩まされ、日本や東南アジアに命がけで移動したなどという考えには及ばないのであろう。情報だけがどう伝わったというのか。
 他にも、マラソンレースに例えて、列島の中だけで独自の発展をしたと説明される方がいる。

3. 縄文時代をマラソンレースに例えるのならば。
 縄文研究の小林達雄氏は一貫して縄文文化の劇的な変化を、自国の内在的な力で主体的に受容し発展させたと解釈する。 これを氏は、マラソンレースに例えている。そこを小杉康氏の解説で引用する。「1990年代に明らかになってきた南九州の縄文草創期から早期にかけての様相、すなわち貝殻文系の円筒形土器をはじめとして壺形土器や滑車型土製耳飾などの存在は、土器問題にとどまらず、従来の縄文文化観そのものに大きな揺さぶりをかけるものであった。その様相に対して、縄文文化の一体制を強く主張してきた小林は、見解を修正せずさらに強化する。『縄文1万年のマラソンレース』における抜きつ抜かれつの先頭、後続集団の交代劇になぞらえて、・・・縄文革命後の定住の強化は、こうして日本列島内に収まる日本文化の形成を促し、大陸側からの独立を強めるとともに、日本的文化の主体性が確立されたのである。」
「しかも縄文文化における渦巻文様の偏在性の意義や先述のような縄文文化の一体性に一石を投じようとする諸見解に対しては、『結局は縄文文化の地域性の発現に他ならない』と反論」(小杉2010)している。新たな文化を生み出したランナーが次々入れ替わって先頭を走るとお考えなのであろうか。
 もしどうしてもマラソンレースに例えるのであれば、次のように考えられるのではないか。たまにレースのテレビ中継を見ていると、沿道で応援する人々の狭間から、正式な選手であるかのように似たようなユニフォームを着けて、レースに紛れ込む輩を見る事があるが、当然すぐに係員によって排除される。ところが縄文レースでは排除されずにどんどん脇から入ってきて、先頭集団になり、また途中で別の集団が入り込んでは上位をねらう、といったことがゴールまで繰り返されるのではないか。
 縄文レースのスタートでそろった選手も、過酷な環境の中で途中のリタイアがつづく。そこに耳飾りをつけた集団が多数入り込む。見る見るうちに先頭に立つ。また渦巻文様がデザインされたユニフォームの選手も先頭をねらう。仮面をつけた人物も登場だ。蛇をデザインした者も現れる。いつのまにかヒト形の手作りの人形をもつものも増えだした。抜きつ抜かれつを繰り返しながら、やがて最後の縄文晩期区間にはいるや、今度は手に稲穂を持った選手が多数、一気に先頭に躍り出る。おふざけが過ぎるのでこの辺でやめておこう。とにかく以上がマラソンレースの実相ではないだろうか。
 大陸との交流ではなく、大陸からの移住民による新たな文化の広がりが、この列島でも繰り返されていたのである。

参考文献

浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002

小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010

高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010

工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 雄山閣 2024