流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

縄文人

NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃   古墳時代に第三の渡来人DNAが6割

NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」           
 
ブログより

「常識がくつがえされる」と謳われるが、その「常識」とは、これまで渡来人問題にまともに向き合おうとしなかった人たちの視野の狭い「常識」にすぎない。
 古代のDNA分析で、縄文人と弥生人の二重構造で日本人のルーツは説明されてきた。ところが、最新の技術進歩の中、古墳人のDNAに縄文人でも弥生人でもない全く異なるDNAが6割も存在しており、これが現代の日本人のDNAの特徴と酷似しているというのだ。それは、「常識的」な教育を受けて、高度な専門的知識や技術を学んでも、「通説」に対して何ら疑問に思われなかった人たちには、想定外の事実であったということだ。
 渡来人のことを、きちんと教えられていないから、こういうリアクション、宣伝文句になるのだろう。
 
 日本書紀欽明天皇元年二月に以下のような記事がある。
召集秦人・漢人等諸蕃投化者、安置國郡、編貫戸籍。秦人、戸數總七千五十三戸、以大藏掾、爲秦伴造。
 海外からの「帰化」した人々を各地に移住させて戸籍も作ったという記事である。秦人の戸数は7053戸で、これはおよそ20万人にもなると言われている。よくよく考えればものすごい人数である。秦氏と言う巨大氏族の存在を、日本書紀は明記しているが、多くの学者は無視している。秦氏だけではないが、これまで渡来人の歴史的役割が矮小化され、一部の渡来人から大陸文化を学んで、発展させたというお決まりの解釈が繰り返された。 

 現在、騎馬民族説については、再評価、見直しがはじまっているが、ただ残念なことに弥生時代の稲作文化と同様に、列島側の主体性で騎馬文化を受容した、との白石太一郎氏の説明に右に倣えになっている。日本という一国(ヤマト中心)だけで歴史をとらえようという根強い体質! 古代社会の政治、文化に大きな影響を与えた騎馬遊牧民を含む大陸、半島からの移住という視点がまったく欠落している。
 早くに松本清張氏は小説『火の路』(1975)で、登場人物に次のような台詞を言わせている。
「日本のことばかり見ているから、わからないのさ。皆目、無知なことのみ言うようになる。 古代の朝鮮、北アジア、東アジアの民族習慣に眼をむけないから、トンチンカンなことばかり書いたりいったりするようになる。」
 これは、ご本人の当時の学界に対する強い思いであったはずだ。
 また、上田正昭氏は『古代の祭式と思想』(中西進編 角川選書1991)の中で
「日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」
「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」同様の憤りがあったのである。

 ただ、研究者の渡来人に対する認識が弱いのにはやむを得ない事情もある。それは日本にやってきた人たちは、移住後も自分たちの出自をアピールせずに、早く溶け込もうとしたことで、現代にはわかりにくくなっているという一面のあることである。
 加藤謙吉氏は「渡来人の謎」(祥伝社新書2017)で
「・・・渡来人はまさに古代国家形成の立役者であった。しかし、渡来人や渡来氏族のなかには、全容がヴェールに覆われ、実態が杳としてつかめないものも多い。彼らは勢力を温存しさらなる飛躍を遂げるため、出自や移住の経緯を改め、内外の貴種や有力氏の系譜に自らを仮託し、その子孫・同族と称して、日本の政治社会に対応しようとした。その結果、彼らの存在そのものが謎めいたものになっている。」
 こういう事情があるから、研究者もあまりへたなことが言えないというのは考慮しなければならないが。しかし、あらたな衝撃的な事実が明らかになりつつある状況になった今は、この問題に真正面から向き合ってほしいものだ。とにかく早く考え方を切り替えていただいて、古代の真実を明らかにしていただくことを願いたい。 

古墳時代のDNA分析結果に当惑する研究者たち   NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」の衝撃  

NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」           
 
ブログより

驚きのインドシナ半島のマニ族の姿
 タイのパッタルンというところの森の奥地。そこに古くから、孤立してくらす森の民がいた。はるか古代から変わらぬ生活をしており、そのDNAは縄文人と近似しており、彼らの祖先が、縄文人のルーツだという。その姿、顔立ちを見て驚いた。眼窩は大きくくぼんで、眉の部分が隆起したように見える。これは土偶の顔の表現とよく似ている。彼らの姿が、当時の縄文人と考えてよさそうだ。土偶の顔の表現は、適当に造ったわけではなく、自分たちの顔の特徴をモデルにしていたと思える。3点の土偶を載せたが、いかがであろう。
番組写真

縄文時代は1万年に渡って閉ざされた社会で、独自の文化を発達させた・・・・
 しかしこの表現は正確ではないと思われる。縄文時代にも新たな文化を持った集団がやってきているはず。この点についてはまた別途論じていきたい。
 ただし、大陸の中では、常に異なる集団との接触、紛争があって、常に流動的であった状況とは違い、平和な期間が長くあったのは間違いないだろう。
 また、弥生時代もコメの普及に少数の弥生人が持ち込み、それを在地の縄文人が学んで水田が広がった、と言う理解。そんなに平和的であったのかはわからないが。
 いずれにしてもDNAの構成を大きく変える移住民の到来は明らか。

古墳時代のゲノムに第三の人類? 研究者は驚き、戸惑っているが・・・・
 これまでは、日本人の成り立ちは、縄文人と弥生人との混合という二重構造であると説明されてきた。これが、現代の日本人につながると。ところが、古墳時代も現代人も第三の未知のDNAが、なんと6割も占める結果になったという。研究者には全くの予想外の衝撃の結果という。定説をゆるがす発見だとされるが、これは現代の日本人が、古墳時代にほぼ完成したということを意味する。渡来の問題をあまり深く考えなかった人たちには衝撃であったのだが。
 しかし、それは、日本列島への渡来は、米を伝えた弥生人が少数でやってきて、それを現地の縄文人が学んで水田が広がったとし、あとは大きな渡来はなかったという思い込み。さらに古墳時代も、新しい技術を伝える少数の渡来人がいたが、彼らの文化を「受容」して、自分たちの文化を発展させてきたという、おきまりの構図が染みついているので、この古墳人のDNAの結果に戸惑っているにすぎない。
 研究者は、古事記や日本書紀の記述を、都合の良いところだけ利用して、何度も渡来人の記事があることを、まったく無視しているから驚きの結果となったにすぎない。もちろん、渡来文化、ユーラシア文化との関係を研究されている人たちも多くいるのだが、それが広がっていないのが現状であろう。
 
 すこしまとめると、
・日本人は自分たちの祖先について、大きな思い込みの勘違いをしている。それが研究者にも染みついている。 日本列島は、最初から、大陸からの移住者が、縄文時代も、弥生時代も、古墳時代も繰り返し様々な集団が入植、移住してきた。その様相はバウムクーヘンのような状態に日本人の人層が作られていると考えてよいかもしれない。
・侵略を受け滅亡した国の民、王や王族、配下の集団が、何度も移住してきていると考えるのが自然。古墳時代も激動、混沌の時代であって、北方民族の侵出などの混乱のなか、大陸、半島からの移住者が、王族を先頭にその配下を従えた、いくつもの集団が、列島の各地に入り込んだ。中には、この新天地に自分たちの国をつくることも多々あったと考えてよい。
・騎馬民族説も、征服という表現は適切ではないが、古墳時代の状況を理解する重要な視点であり、これを機会にぜひ議論が盛り上がることを期待したい。私は、征服ではなく騎馬遊牧民(ソグド人含む)移住説としてこの問題を考えたい。
・古墳時代から8世紀にかけて、シルクロードの商人の担い手、ソグド人が、日本にもやってきた。王権に深く関わり、古事記、日本書紀の作成にも少なからず関わった。それは、8世紀のヤマト王権だけでなく、前王朝である倭国王権、いわゆる九州王朝にも重要な存在であったと考える。
 DNAの6割が渡来系であるならば、大和王権もそれ以前の倭国王権の政治体制の構成メンバーに、渡来人やその末裔がおよそ6割も存在していたということになるのである。
・8世紀になって、大陸では唐、半島は新羅、東北アジアは渤海などの成立で、安定してきた。ただ、それでも少数の移動はつづいただろうが。
 このように考えれば、DNAの結果に衝撃を受けるものではなく、いよいよ真実に近づいてきたと捉えればよいことになる。あとは、発掘調査の結果と文献資料とで具体的に絵を描いていけばよいのではないだろうか。
 ともかく、必見の番組であり、類似の企画の放送もぜひすすめてもらいたい。
 タイトル写真は NK's weblog様のブログより