流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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            京都市上京区北野天満宮

【1】国譲りと神武東征の違い。

 古代ギリシャ神話の世界では、神々と人間との関わりは、現実の政治的・経済的・軍事的な状況に、神々が神託などを通じて直接的に介入する、という形での関係であった。
 天孫降臨神話も、神界と考えられるアマクニから、何度も使者が葦原中国に派遣され、最後にタケミカヅチによって国譲りが果たされる。神武一行も、毒気にあたって気を失うなどのピンチに、アマテラスとタケミカヅチは相談して、横刀(たち)を高倉下を通じて神武に授ける。
 この話は似ているようで、異なる点もある。それは、国譲りでは、アマテラスらは、アマワカヒコなどを派遣しては、数年間待っている。しびれを切らして、次の使者をまた派遣する。これは、二つのクニが遠く離れていることから起こる現実世界のやりとりであるかのような記述である。つまり神話でありながら、元の国から遠方の国を支配するまでの過程を描くという人間界の物語のようになっている。
一方で、東征譚の場合は、様子を見ていたアマテラスが、苦戦する神武を助けるために、刀を授ける相談をするなどは、まさに、リアルタイムで、天界から下界の様子を見ているかのような話になっている。
 これは、神武から始まる天皇神話を、後から仕立てたが為に、国譲りとは様相が異なるものになって、ギリシャ神話の天上の神による人間界への直接介入と似た構図になったのではなかろうか。ただ、国譲りのアマワカヒコが返り矢を受ける説話は、神武説話と同様に、リアルタイムな展開になっているのも、大陸から持ち込まれた話をそのまま応用してはめ込んだためかもしれない。
 なお、タケミカヅチが倉の上に穴をあけて刀を降ろす話は、スサノオが馬の皮を、天井を穿って投入する行為と類似している。これについては、北方遊牧騎馬民のテントの天窓から祭器を投げ入れる信仰からきていることを、山口博氏(『創られたスサノオ神話』)は指摘している。

【2】東征譚に加えられた熊野の記事
 神武東征譚については、特に熊野に関する箇所は疑問が多く、宝賀寿男氏も次のように指摘している。
 『古事記』ではすぐ熊野の悪神の被害に遭う話となるが、『書紀』ではこの「熊野」が明確に紀伊南部の熊野地方だと解して、熊野灘で暴風に遭い、神武の兄の二皇子の入水伝承などに続く。荒海で有名な熊野灘までなぜ行ったのかという大迂回の謎がある。名草郡で地元の地理に明るい大伴氏の祖・道臣命を得たのに、極めて不自然な話であり、普通に考えれば、大和入りの古代の幹線ルートであった紀ノ川を遡上したと解される。だから、二皇子の遠征随行も、その入水も、疑問が大きい。

 以上の指摘はもっともで、神武の二人の兄は、古事記では東征前の前段の所で常世国や妣国に入ったとあるのに、書紀では、東征譚の熊野で暴風に逢って常世国や妣国にいったことになっている。
 この点に関して、従来にない視点で、説明を試みる研究者がおられる。『海洋神話の比較研究』の水野知昭氏で、イナヒとミケイリの二人の兄君が暴風にあって海の藻屑と消える話は、彼らに率いられた軍兵たちの大量溺死を示唆する暴風伝承であり、日本版洪水伝説だという。洪水伝説では、様子を見るために、鳥を放っているが、神武も暴風の後に烏の導きでヤマトにすすむのである。
 また、兄たちが暴風に遭遇している時に、神武が「天磐盾」に登るというのは呪的行為であって、これによって神武なるオホデミを守ったという。ちょうどイザナギが追って来たイザナミを防ぐために「千引の磐石」で防いだように、「天磐盾」で暴風を免れ、烏が飛来して、征討を続けるのだ。選ばれし王者であるイワレヒコの意味は、磐の上に顕現する王者なのだという。なお、氏は五瀬命も山城水門で溺死したと解している。

 洪水伝説と関連付けるのは、やや飛躍した感もあるが、確かに、日本書紀のこの箇所の記述は、わかりにくく、古事記では既にいないはずの二人の兄を登場させたことや、神武が天磐盾に登る意味も納得がいくのではないか。
 古事記と同様に日本書紀の編者は、外来の説話をそこかしこに取り込んでいるのである。

【3】古事記と日本書紀の該当記事の異なる箇所
 前述したように、神武の二人の兄のなくなる時期が異なっている。
 ナガスネヒコの殺害については、古事記では、撃とうとした、とあるだけで、実際にいつ、どのように実行したかなど一切不明である。
 ニギハヤヒは、日本書紀では、早くに亡くなったことになっているが、古事記では、存命で神武に従うとの記述がある。この違いは大きな問題であろう。ニギハヤヒは物部氏につながるのは自明のことだが、書紀と古事記ではその扱いが異なるのは、伝承の違いというのではなく、なんらかの意図があってのことであろう。

【4】外国文化の影響がみられるところ
 神武は4人兄弟の末弟なのに、書紀では最初からリーダーシップをとっている。末子相続の考え方が見られる。
 神武のセリフに恩、母の如し、とあるが、オモの訓みとなっており、他は母はイロハ、モ(人名)であり神武説話の作成者は渡来系と思われる。
 神武と阿多のアヒラヒメとの間の子がタギシミミだが、その彼は、神武亡き後、皇后であったイスケヨリヒメを娶っている。このような奇異とも思われる習俗はレヴィレート婚と呼ばれるもので大陸の騎馬民族にはよく見られたものであるが、この件についてはまた改めてとしたい。
 タケミカズチが剣を、屋根を穿って降ろすのは、既にふれているが騎馬遊牧民の信仰である。

 以上のように、大陸の説話や文化と列島内の物語が重なり合って、記紀が作られていったと考えることも必要であろう。

 参考文献
山口博『天窓の思想 甍を穿って物を投げ入れるスサノオと神武の神話』聖徳大学言語文化研究所2007
宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年
水野知昭『海洋神話の比較研究』篠田和知基主幹 基礎研究(A)2005

 
河尻
古事記の神武東征でよく議論になるところである。
「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」
 吉野川で筌を使って漁をしていたのである。
 しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う漁夫と出会っているのだ。魚を取る筌(うけ・うえ)は竹などで作った筒状の漁獲器で、漏斗状の口に魚が入って閉じ込めるものだ。この筌は上流や川幅の狭いところで使うものであり、河口とか川下の川幅の広いところでは効率は悪く普通は使わないだろう。
 ただ出雲国風土記にも筌が登場する。島根郡の朝酌の促(せ)戸(と)の渡りで筌を使っている。位置的には河口部になるが、解説では宍道湖と中海の中間の間が狭い水路となっているところで、そこは当然急流となり筌に入った魚は抜け出せないから効率よく獲ることができる。やはり川上と同じ条件となり、ゆったり流れる川下では使わないと考えていいだろう。古代の筌は弥生時代の太宰府市の雛川遺跡や北九州市の辻田遺跡などで発掘されているが、佐賀の東名遺跡では縄文時代の編組製品が多数見つかっており、吉野ケ里に近いこの地で古くから筌も作られていたのではないか。さらに古事記には河下が一か所だが登場する。垂仁記のホムツワケが言葉を発したセリフに河下がある。
 そうとなれば、おのずと神武が漁夫と出会ったのは、吉野川とされた本来の嘉瀬川の山間地やそのふもとあたりと考えてもいいのではないか。ではなぜ尻を川の上流と考えたのか。尻の意味は、古田武彦氏も地形の表現とされているが、私も尻の形、ラインを表していると考えるので、つまりは川の湾曲するところや蛇行しているところを地名にしたのではないか。そこは大雨の際には洪水になりやすい地域であろう。
 たびたび被害に見舞われる木津川のほぼ直角に流れるところの南西部あたり、JR西木津駅周辺に川ノ尻がある。図のように、木津川が大きく蛇行しており、これはお尻のように曲がったところを意味するのではないか。他にも兵庫県朝来市生野町川尻はそのエリアの真ん中を市川が蛇行している。熊本市の加勢川も蛇行に沿った範囲が川尻である。広島県世羅郡の芦田川など他にもいくつもあるのではないか。「尻」はその多くが後方や末端などを意味するが中には出尻(でっちり)のように状態の表現もある。川の尻は湾曲や蛇行した箇所を意味することもあると考えたい。

ネズミ捕り
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味

 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い詰められた兄猾は、前もって用意していた罠にみずからはまって圧死する。土砂か岩石が落ちるようになっていたのであろうか。原文には「自蹈機而壓死」とある。ここに「蹈(踏む)」とあるのは、古事記の大国主が火攻めから逃れて穴に落ちる場面と同じだが、この場合は、踏むことで仕掛けが動作したのであろうか。
 さらに、次に「時陳其屍而斬之」『其の屍を陳(ひきいだ)して斬る』とある。はさまれた死体を、引き上げて、念のためなのか斬っているのである。すると、血が流れだして、くるぶし(踝)が埋まるほどに血があふれたという。そこで宇陀の血原という地名譚になったのであるが、これは誇張されてつくられた話であろうが、何かの元の話があったのではと考えられる。
 古事記では、「作殿其內張押機」(殿〈との〉を作りその内に押機〈おし〉を張りて)とある。この押機が、具体的にどのようなものなのかは定かではないが、つっかえ棒が外れたら大きな壁のようなものが倒れて、人を圧死させるものであろうか。しかし、自分で罠にかかって死んでしまった後には、「爾卽控出斬散」(ここに即ちひきだして斬り散〈はふ〉りき)とあるところは、書紀と同じで死体を斬っているのである。
 この後に、弟猾は、天皇と兵士のために牛肉と酒の用意をしている。その宴席で天皇は歌を詠む。鴨(しぎ)をとる罠を張ったら區旎羅(くぢら)が掛かったという。注1これらはみな猟に関係する話になろう。牛肉を得るためには、まず屠殺するわけだが、次にこれが重要なのだが、おいしく肉をいただくためには血抜きをしなければならない。牛一頭でもかなりの血が流れ出す。兄猾の死体を引き上げて、わざわざ斬りつけたのは、血抜きをすることを意味しているのではなかろうか。その血が足下にあふれんばかりに流れ出したのであろう。
 このように、落し穴にはまり込んだ獲物は、あばれて危険なので穴の中にいる状態でまず絶命させる。その後、引き上げて、風味が落ちないように血抜きを行い、その場で解体して持ち帰るのだ。
 なお、神武の来目歌には、次のような歌がある。
「来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう」というのがある。だがどうして山椒がこの戦いの歌に出てくるのか。この山椒は、毒流しといった漁法と関係しているのではないかという指摘もある。秋田県ではナメ流しとかナメ打ちと言われ、山椒の木の皮、葉の茎を数日乾燥させて粉にして灰と混ぜる。これをナメといい、それをカマス(俵)に入れ上流で踏むという。魚を麻痺させるためだが、地方によって製法などは違っているようだが、もちろん現在は水産資源保護法で禁止となっているそうだ。(菊池2016)この来目歌も、毒流しという漁法と関係する歌であったと考えられる。注2

 以上のように、記紀の説話には、落し穴猟や獲物の解体といった古代の民俗を参考にしたものが取り込まれていると思われるものが見受けられるのである。縄文時代に活発に行われていた落し穴猟がはたして7世紀まで続いていたのかは、現状では確認しにくい状況であるが、害獣から居住地や畑を守るための周囲に設置する捕獲用の落し穴があった可能性は考えられているようだ。今後の調査で、見直しが進められることを期待したい。(了)

注1.岩波書店の『日本書紀』などこの區旎羅を、鷹等の字をあてて、訓みはくじらとしているが、鷹のことではない。古田武彦氏は、このくじらは鯨のことであって、この天皇の歌の久米歌そのものが、奈良の宇陀のことではないと喝破されている。
注2.宇陀の血原については、この地に水銀鉱床があって地面が赤く見えたからというのがほぼ定説のようである。血抜きの話は先にあった血原という地名からの付会の話とも考えられるので、必ずしも血抜きをしたところを血原となづけたかどうかはわからない。

参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
大泰司統「北日本の陥し穴猟」縄文時代の考古学5 なりわい・食料生産の技術 同成社2007
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2019
菊池照夫「古代王権の宗教的世界観と出雲」古代選書21同成社2016
市毛勲「朱の考古学 考古学選書12」雄山閣1975
山田 晃弘「黒ボク土層・草原的植生・陥し穴猟」近江貝塚研2024.8月例会発表用資料
 ネズミ捕りの図は、「イラストAC」より

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