
「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」
吉野川で筌を使って漁をしていたのである。
吉野川で筌を使って漁をしていたのである。
しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う漁夫と出会っているのだ。魚を取る筌(うけ・うえ)は竹などで作った筒状の漁獲器で、漏斗状の口に魚が入って閉じ込めるものだ。この筌は上流や川幅の狭いところで使うものであり、河口とか川下の川幅の広いところでは効率は悪く普通は使わないだろう。
ただ出雲国風土記にも筌が登場する。島根郡の朝酌の促(せ)戸(と)の渡りで筌を使っている。位置的には河口部になるが、解説では宍道湖と中海の中間の間が狭い水路となっているところで、そこは当然急流となり筌に入った魚は抜け出せないから効率よく獲ることができる。やはり川上と同じ条件となり、ゆったり流れる川下では使わないと考えていいだろう。古代の筌は弥生時代の太宰府市の雛川遺跡や北九州市の辻田遺跡などで発掘されているが、佐賀の東名遺跡では縄文時代の編組製品が多数見つかっており、吉野ケ里に近いこの地で古くから筌も作られていたのではないか。さらに古事記には河下が一か所だが登場する。垂仁記のホムツワケが言葉を発したセリフに河下がある。
ただ出雲国風土記にも筌が登場する。島根郡の朝酌の促(せ)戸(と)の渡りで筌を使っている。位置的には河口部になるが、解説では宍道湖と中海の中間の間が狭い水路となっているところで、そこは当然急流となり筌に入った魚は抜け出せないから効率よく獲ることができる。やはり川上と同じ条件となり、ゆったり流れる川下では使わないと考えていいだろう。古代の筌は弥生時代の太宰府市の雛川遺跡や北九州市の辻田遺跡などで発掘されているが、佐賀の東名遺跡では縄文時代の編組製品が多数見つかっており、吉野ケ里に近いこの地で古くから筌も作られていたのではないか。さらに古事記には河下が一か所だが登場する。垂仁記のホムツワケが言葉を発したセリフに河下がある。
そうとなれば、おのずと神武が漁夫と出会ったのは、吉野川とされた本来の嘉瀬川の山間地やそのふもとあたりと考えてもいいのではないか。ではなぜ尻を川の上流と考えたのか。尻の意味は、古田武彦氏も地形の表現とされているが、私も尻の形、ラインを表していると考えるので、つまりは川の湾曲するところや蛇行しているところを地名にしたのではないか。そこは大雨の際には洪水になりやすい地域であろう。
たびたび被害に見舞われる木津川のほぼ直角に流れるところの南西部あたり、JR西木津駅周辺に川ノ尻がある。図のように、木津川が大きく蛇行しており、これはお尻のように曲がったところを意味するのではないか。他にも兵庫県朝来市生野町川尻はそのエリアの真ん中を市川が蛇行している。熊本市の加勢川も蛇行に沿った範囲が川尻である。広島県世羅郡の芦田川など他にもいくつもあるのではないか。「尻」はその多くが後方や末端などを意味するが中には出尻(でっちり)のように状態の表現もある。川の尻は湾曲や蛇行した箇所を意味することもあると考えたい。