流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

神功皇后

神功皇后紀の不自然な紀年記事  つくられた万世一系⑵

神功年表
 図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表
 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください)
 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。急死した仲哀天皇の皇后として、69年間も摂政として統治を行っていたとあるのだが、年齢の百歳というのも疑問であるが、新羅征伐のあとに九州に戻って生まれた応神は、60年以上も天皇としての即位がなかったのだが、これが二倍年暦としても35歳まで皇太子のままであったというのも不自然であろう。                                                                                                                                                                 
 この神功紀は13年の記事あとに、26年も飛んで、魏志の女王遣使の記事が挿入されている。
「卅九年、是年也太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等」
 これは、一般的に言われているように、神功という人物を卑弥呼に見立てようとしたのであろう。そしてこの翌年、さらに43,46年と関連記事を載せ、次は66年に泰初2年の貢献記事を記している。これは岩波注にもあるように、卑弥呼の次の女王である臺与のことのはずが、どうも書紀編者は神功に見立てたようである。そのために、百歳まで生かしたように設定したのであろう。この箇所も、2倍年暦で説明できないのであって、あくまで通常の年数経過で記事が入れ込まれているのである。
 逆に言えば、両者の記事の女王を神功という一人の人物に見立てるために長寿にしたと言えるのではないか。特に後半はほとんどが半島関係の記事であり、とても一人の実在の人物の記録とは考えにくい。複数の人物の記事を、まとめて作り上げたとしか考えられないのである。
 この中国への43年の遣使記事のあとに、百済王の没年と次の王の即位記事が3回記されている。これが、ちょうど一般的な解釈にあるように、干支が二運120年繰り上げて記されるのである。そしてここから、かなりくわしく、倭国と百済の通交の開始が述べられており、七支刀に関する記事も盛り込まれているのである。もちろん、銘文にある泰和四年(372)からも120年ずれているのである。
 日本書紀編者は、神功皇后を卑弥呼という存在にあてて、さらには、百済との国交をすすめた指導者としたのではなかろうか。また臨月であった皇后は、腹の帯に石を挟んで新羅討伐に向い、凱旋後に九州の地で応神を生んだというのも、説話であって史実とはとても考えられない。
 神功という存在一つをとっても、万世一系が作りものであることを示しており、応神誕生につなぐための造作にすぎないのである。
 
 なお、常陸国風土記に気になる記事がある。
「多祁許呂命仕息長帯比売天皇之朝、当至品太天皇之誕時、多祁許呂命有子八人・・・」
 茨城の郡の一節に、茨城国造の遠い祖先の多祁許呂は、息長帯比売の天皇の朝廷に仕え、品太天皇の生まれた時まで仕えた、という割注があるのは興味深い。神功は摂政ではなく天皇とし、しかも即位してからしばらくの期間の後に応神が生まれたようになっている。風土記と日本書紀に大きな食い違いのある事例であろう。

※お詫び スマホの画面では、文章の途中に空白がありますが原因がわからず修正できません。

神功皇后の喪船と空船による策略の謎

エジプト曳航船
    セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者

 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来より見解の分かれる所となっており、そこで、ここに一つの解釈を提示したい。

1.理解しにくい「赴喪船將攻空船」(喪船におもむきカラ船を攻める)の一節(※空はウツホ、などの訓みあり)

於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思將待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。

 「息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子(後の応神天皇)をその喪船にお乗せして、まず「御子はすでにお亡くなりになった」と、そっと言いもらさせなさった。こうして大和へ上ってこられる時、忍熊王は、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船を攻めようとした。そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。」   
 「喪船に向かってその空船を攻めた」という箇所は、喪船と空船は同一のものか、それとも別の船なのか議論の分かれる所であった。しかし、喪船にむかってその無人の船を攻めた、と解釈するのは奇妙であろう。その喪船には御子を乗せて、さらに皇后の軍勢も乗せていたはずである。しかし敵はその喪船を攻めるのだが、実は空船だったとするのは奇妙である。襲撃前に途中で降りたので襲撃しようと近づくと無人の船であった、とでもしないと話が通じないのではないか。
 この空船については以下のような注釈がある。「からの船、人の乗っていない船、と解釈されてきたが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」(次田真幸1980)とある。だがここは戦闘の場面であり、事前に皇后は策略として、皇子は亡くなったとの偽情報を流して喪船を用意するという周到に準備された話であって、それを空船が信仰と関係するという考えでは説明にならないであろう。
 国文学者尾崎知光氏は、喪船と空船は別の船として捉え、喪船は攻めないとする想定にはまって、別の空船を攻撃したところ、不意打ちをくらわされる、という流れが自然だとする(2016)。そのように説明されながら尾崎氏は、「赴」を告げるという意味で解釈されている。

2.船が二隻であったとすることの意味。
 日本書紀持統紀七年二月に「來赴王喪」(まうきて王の喪をつげまうす)といった用例から、この「赴」を告げるという意味にとらえ、神功側が喪船と告げたので空船を攻めたのだという。これから戦闘になるという段階で、近づく敵にどうやってこの船が喪船であると相手に知らせたのであろうか。船に棺が積まれて、葬送儀礼としての飾りが施された船ならば、遠くからでも喪船であると認識できるはずではなかろうか。よってこの解釈は無理があろう。
 一方で島谷知子氏は、尾崎氏の説にふれながら、喪船と空船を同一とみない立場は、訓みの面で問題を残すとされている(2014)。   
 「喪船に赴き攻めむとするも空船なりきと訓む」のが穏当な解釈とされるのだ。だがこれだと、皇后側の兵士がどこから現れたのかという説明がつかないのである。喪船と空船は同じ一隻なのか、それとも別々の二隻であったのか堂々めぐりとなってしまうが、ここは以下のように考えたい。
 この箇所は、いささか言葉足らずであったので、決着のつかない表現になったのではないか。私見では、喪船と空船をセットで考えれば問題は解決すると考える。つまり、空船とは、喪船を曳航する動力船で、喪船はいわばバージ船となる。敵は、喪船には棺に入った遺体しかないと思い込んでいたからこれは無視して、喪船を曳航する空船を攻めたのではないだろうか。
 このようにとらえれば、喪船に近づいて空船を攻めるという表現で問題はなくなる。もちろんこの場合、曳航する空船は全くの無人ではなく、最小限の漕ぎ手は搭乗して船を走らせているのである。古代においても別の船が曳航するという事例がいくつか見られる。

3.喪船が陸地だけではなく、水上でも曳かれていた可能性
 仁徳記には、皇后が酒宴の準備で、御綱(みつな)柏(かしわ)を採って御船に積んで戻る時に、天皇が八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶ったと聞いて怒り、御船の御綱柏を全て捨てて山代国に戻る一節がある。

卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。
すなわち宮に入りまさずて、その御船を引き避(よ)きて堀江に泝(さかのぼ)ぼり、河のまにまに山代に上り幸(いでま)しき。

 注釈では、「引き避けて」は、船を綱で曳いて皇居を避けての意、とされている。つまり皇后の乗る御船は、曳航されていたのである。
 隋書倭国伝には、「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす。」とあるように、喪船を引く習俗があったことが記されている。
喪船移動復元
 奈良県巣山古墳では、喪船と考えられる板材が見つかっており、被葬者の棺を載せた喪船を修羅で古墳まで曳いたと考えられていた。ただ残念ながら現在は準構造船などとの解釈がされているのだが。さらにこの喪船が、どうやら河や海で別の船に曳かれていた事例も見つかっている。ピラミッドの脇から見つかった二隻の太陽の船である。
 「船の舳先が二隻目のものも西側向きだった、帆柱と帆布見つかった、帆柱を受ける留め金(ブロンズ製)も見つかった。そしてオールを漕ぐのに使う金属の留め金が見つかっている。・・・このことで何が解るのかと言うと、東側の第一の船と今回発見された西側の第二の船はつながれて航行するということだ、しかも二隻が縄でつながれていたため、前方の船が引っ張る役目、すなわち動力船で、後ろが神や王が乗る客船ということになる。これは王家の谷などで太陽の船が描かれる時こういう形がとられているのだが、今までほとんどの人が気づかなかった・・。」(吉村作治2018)と説明されている。
 つまり、太陽の船は喪船であってもう一隻の船で曳航されるのである。曳航される船は、現代ではバージ船と呼ばれて通常の船では運搬しにくいものを運ぶ特殊な形状の船のことである。阿蘇ピンク石の石棺を運ぶ実験でも、石棺の運搬方法を検討して、棺を別の筏のようなものに載せて、「海王」が牽引するという方式が採用されたのである。まさに喪船を曳くイメージとなる。

4.残る問題、兵士はどこに潜んでいたのか?
 以上のように、問題の箇所は喪船とそれを曳航する空船というセットで捉えることで理解は進むのだが、まだ疑問は残る。それは何故、押熊王側は喪船ではなく、牽引する船を攻めたのかということである。牽引する船は、漕ぎ手は数人いたとしても、空船とされたようにそこに皇后や主力の兵士の姿は見えなかったはずなのだが、彼らがこの船にいると考えたから襲撃したのである。
 ところがそこに相手はいなかった。一方で喪船には兵士が多数潜んでいたのであるが、押熊王側は気が付かなかった。棺を積んだ船であるが、その棺を囲むような部屋を作って、そこに待機したとするなら、かなり大きな構造物を上に載せないと無理であり、それでは敵に怪しまれてしまう。では大勢の兵士は喪船のどこに潜んでいたのであろうか。
沈没船
 地中海では紀元前1300年前のウルブルン沈没船が発見されて復元図がつくられた。そこには、船底に船倉があって、大量の交易品が積まれていたのである。このタイプの構造船であれば、お宝の代わりに大勢の兵士を潜ませる事ができる。そう考えれば空船を攻めたのも、外見上は漕ぎ手しか見えないが、中に皇后や兵士が潜んでいると判断して、喪船には目もくれず攻め込もうとしたのではないか。そして、喪船の方は、棺が積まれているだけであったが、実は甲板の下の船倉に大勢の兵士が待機していて、期を見計らって出陣したのであろう。
 このように考えると、皇后の策略が分かり易くなるのではないか。だが当時の日本に、兵士を潜ませるような構造船があったかどうかは不明であり、実際に喪船で敵をごまかすことなど困難であろう。これは、作者があくまでそのように考えたとするだけのつくられた話であって、史実といったものではないのである。

5.トロイの木馬のプロットが使われた古事記の説話
 難解な「赴喪船將攻空船」(喪船に赴き空船を攻める)も、同一の船ではなく、牽引船と喪船のセットであって、しかも両船とも大勢の兵士を潜ませる船倉を持った構造船であったと解釈できるが、言葉足らずで、解釈の落ち着かない説話になってしまったということではないだろうか。
 神功皇后の策略は、トロイの木馬に似ているといわれている。兵士がこもった喪船が木馬に相当するのであろう。喪船には誰も乗っていないと考えてしまったために、まんまと敵地に入り込めたのである。実は、トロイの木馬は、誤訳であって、実際は馬の飾りを着けた船であったという説がある。先端が馬頭であしらわれた大型船に兵士を潜ませて台車に載せて敵の城へ置いたとするなら、まさにこの古事記の一節とより近い話となるのではないだろうか。トロイの木馬のプロットを応用してこの物語はつくられたと考えられ、さらに、この箇所の作者は兵士が隠れる空間を持つ大型船を理解している人物であったのではないか。このように記紀の説話には、日本古来の伝承が採録されたという以外に、中国のみならず西方の文化の情報をよく知ったものが、その作成に関わったと考えられるケースが存在していると考えられるのではないか。
   ※「トロイの木馬と神功皇后の戦略」もご覧ください。

 参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
島谷知子『息長帯比売命と品陀和気命の伝承』学苑879号昭和女子大学2014
尾崎知光「古事記讀考と資料」新典社2016
吉村作治「太陽の船復活」窓社2018
ブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」

喪船の図はYouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」より
エジプト絵画は河江肖剰氏のエジプト考古学YouTube「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7」より
ウルブルン沈没船の図はブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」より