流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

百済

百済王の孫が倭国に持参した七支刀

衣笠と七支刀
 七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。

1.銘文の一般的な解釈
表  泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□□□□作
裏  先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
なお、泰和の和は、始・初   百練の銕は、鋼・釦 侯王の□□□□作は、永年大吉祥
済が慈   聖音が聖旨  旨造がうまく造る 伝示後世が傳不□世  などの諸説あり。
①年号について
 日本書紀では、神功52年の記事で120年の繰り下げで西暦372年と考えられている。また古事記は応神の時代の記事になるが、ここに肖古王とあるので、即位期間の346~375年のこととなる。東晋の泰和4年が369年なので妥当なところとなる。泰始、泰初の年号はいずれも3世紀となるので無理であろう。
なお泰和四年(369)については、百済が東晋に朝貢したのは372年なので、その3年前に中国の元号が使用されることに疑問もあるが、朝貢開始以前より何らかの交流はあったと考えられる。また七支刀を制作したのが百済に来た中国、もしくは旧楽浪郡の漢人であれば、年号を銘文に入れても不思議ではない。中国からの文化人、工人などの技術者、僧などが、倭国にもやって来たことは疑いえない。江田船山古墳鉄剣銘文の張安、漢籍を多用した武の上表文、倭の五王讃の司馬曹達なども考えられる。
②侯王とは?
 様々な解釈があるが、その中で上田正昭氏が侯王に着目され、百済王が「侯王」となる「倭王」に与えたものとの説がある。南斉書百済伝に弗斯侯などがみえるのだが、古田武彦氏は南斉書の扱う時代が5世紀前後であることから、疑問視され侯王どおしの対等の関係とされる。ただ私見では、対等とも少し違う関係を想定していることを、後に述べたい。
③百済王世子奇生聖音は人名か?
 「寄」という百済王の世子(世継ぎ)が倭王に贈ったとの理解が一般的だが、早くに複数の研究者から、奇生が貴須、聖音を王子の発音のセシムの転化とし、ゆえに王子の貴須(近仇首王)のこととされている。注1 この「奇生聖晋」が近仇首とはできないとしても、372年当時の百済王世子は貴須であり、彼が倭王のために作ったというのは妥当な解釈となろう。近仇首王(貴須)は近肖古王(346~375)の治世に、王子として七支刀を倭王のために作ったとなる。

2.書紀の七支刀記事と孫の枕流(とむる)王
 次は、日本書紀の神功皇后紀の七支刀の記事である。
五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。
 『久氐(くてい)らは千熊長彥に従ってやってきた。そしてななつさやのたち、ななつこの鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。(中略)この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申し上げた。そして孫の枕流王に語って、「今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いて我が国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない」』
 久氐らが七支刀などを献上する記事であるが、ここで久氐が「聖朝に奉る」と述べた後に、孫の枕流王に語るのであるが、これは妙である。久氐「等」とあるので、久氐以外に数名の同行者があったと考えられ、その中に枕流王もいたということになろうか。なぜ最初から名前を出さないのかという疑問もあるが、さらに「孫」と記されている。久氐が枕流王の祖父とは考えにくい。枕流王は近肖古王(照古王)の孫にあたるので、久氐なる人物の言葉は、実は当時の百済王である近尚古王の言葉だったのではないか。「死んでも悔いはない」という台詞は、死期が近づいていることを自覚したものの言葉と考えられる。3年後に尚古王は亡くなっているのだ。この場に百済王がいたわけではないので、事前に、おそらく半島の百済国の中で、出立の際に孫に語った言葉ではないだろうか。そうすると、この一節の冒頭にある、七支刀の献上記事は、久氐が倭の千熊長彥に渡したのではなく、百済の地で、斤尚古王が、孫の枕流王に、倭国で活躍するように念じて、その助けとなる霊剣を持たせたのではないだろうか。そして、枕流王は久氐らといっしょに、七支刀などを携えて、倭国にやって来たのではないだろうか。
 この「孫」に語った内容をみると、助けてもらっている貴国のために「汝當善脩和好」、よくヨシミをおさめるようにと語っている。この「脩める」は、百済から送られる王子(後に質(むかはり)とも呼ばれる)への言葉として何度も登場する。枕流王は百済が送った最初の質となる人物であったと考える事ができよう。百済王は孫によく脩めるようにと語っているのだが、この「脩める」は、支配とまではいかないが、統治、管理の意味である。列島に渡って、おそらく倭王権に入り何らかの役割を担うこととなったのである。この点については、今後の武寧王に関する記事で、説明していきたい。
 
3.百済と倭の通交開始から七支刀までの記事への疑問
神功紀の記事の中間に魏志の引用があり、その後になにやら付け足されたかのように百済との修好の記事がある
神功46年 卓淳国が斯摩宿禰に、百済人の久氐らが貴国との通交の意のあることを伝える。
     さっそく斯摩宿禰が遣使を百済国に送り、百済肖古王は歓待した。
  47年 百済の貢物が新羅に奪われたとして、千熊長彥を新羅に派遣
  49年 荒田別ら、兵を備えて新羅を撃破 七つの国を平定。さらに忱彌多禮(とむたれ)を百済に賜う。
      千熊長彥と百済王が辟支(へき)山、古沙山に登り盟約。
  50年 皇太后多沙城を賜う。
  51年 千熊長彥に百済王父子は額を地にすりつけて拝み、感謝の意を述べる。
  52年 久氐らが来訪。七支刀、七子鏡など重宝を献じる。聖朝への誓いを述べた後に孫の枕流王への言葉。
 このあとには、百済王、皇太后の甍去記事などで終わっている。
 以上のように神功皇后紀の後半は、百済一辺倒の記事になっており、しかもその内容は疑問だらけなのである。
 まず、通交の始まりから不自然と思われる。百済の方が倭と交流したい意思を発しているのである。そうであるのになぜか、倭国の方がさっさと遣使を百済に送るというのが妙だ。また百済への遣使を即決しているようにみえる斯麻宿禰とは何者なのかもよくわからない。
 翌年47年にはなぜか新羅といっしょに朝貢している。そして百済はその新羅に自分の貢物を奪われたという。
次の49年では、新羅を討って七国平定というのが疑問。さらに忱彌多禮も百済に譲ったというのだが。額面通りに事実と受け止めるのは無理であろう。倭が戦い取った国を、国交を開始して3年目の百済にやすやすと賜うとは、全くもって理解できないのではないか。
 さらにこのあとに、千熊長彥と百済王の二人が、山に登り誓いをたてる。百済が倭のために朝貢を続けるという辟支山の盟約だが、本当なら百済王が倭国に行って誓わなければならないのでは。中国の泰山封禅の儀と同じで、立場が逆になるのではないか? 50年も同様で、なぜ倭の領土を譲与するのか?
51年はさらに奇妙。辟山盟約に続いて、今度は百済王親子が、地面に頭をつけて千熊長彦に拝むという。どこまで百済は卑屈になっているのか。52年の七支刀の記事は上述した通り。
 以上のように、この神功紀の後半は疑問が多く、一定の事実を扱うもかなり造作されて差し込まれた記事ではないかと考えられる。製作されたのが369年なのに倭国への献上が3年後の372年というのも妙であり、本当は、作られてすぐにもたらされたのかもしれない。注2 
 百済が枕流王を送り込んでいることからも、もっと早い時期から、記事にはないだけでいくつものやりとりがあったのではなかろうか。神功皇后紀前紀には、新羅討伐の記事があるが、新羅敗北によって、様子をうかがっていた百済と高麗の二王が、倭に服従するといった潤色と取れる記事が登場し、貴国に通交の意思を語る神功46年の記事と矛盾するのである。この箇所も額面通りに受け取れないであろう。
 百済と倭国との知られざる関係の中で、百済王が、王子や孫を倭国に派遣するという慣習が、七支刀を携えた枕流王から始まるのではないか。つまり、七支刀の倭国への献上品というのは書紀の筆法であったと考えられる。それは献上されたものではなく、また対等の立場で百済王が倭国の王に贈与したということでもない。七支刀はやや奇抜な刀の儀器であり、これが単に百済から倭国に贈られても、どのように扱ってよいものか困惑するであろう。よって、七支刀はその霊力を招く霊剣の御加護を受けるために、倭の地で好を修める枕流王が持たされて渡って来たと考えたい。もちろんその霊剣は、倭国で祭祀に関わるものが預かったであろう。やがては、その七支刀は物部氏の管理することとなって石上神宮に保管されるようになったのではなかろうか。

注1.佐伯有清氏は、西田長男氏や三品彰英氏の説を挙げながら「百済王世子貴須王子」とされる。
注2.田中俊明氏は、「伽耶と倭」で久氐と千熊長彥の往来が多すぎることから、神功49年に出発して、52年に続くとされる。つまり作られた七支刀をもって、すぐに倭に渡ったと考えられる。3年のブランクは解消する。

参考文献
佐伯有清「七支刀と広開土王碑」吉川弘文館1977
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」(コレクション20)ミネルヴァ書房 2014
東潮「倭と伽耶」朝日新聞出版2022   
河内春人「倭の五王」中公新書2018
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
川崎晃「古代学論究―古代日本の漢字文化と仏教」慶応大学出版2012
鈴木勉・河内國平「復元七支刀」雄山閣 2006 
田中俊明「伽耶と倭」(古代史講義海外交流編)ちくま新書2023

  
 

好太王碑の記事は、日本書紀と同様の粉飾がある。

1.高句麗好太王碑文解釈の問題点
 同碑の内容でよく注目される記事が、 「而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民」である。
 「倭は辛卯年を以て来たり、海を渡りて百残を破り、(東)のかた新羅を□して、以て臣民と為せり」といった釈読がされてきた。判読不明部分を加羅とする解釈もある。つまり、百済・新羅とともに「加羅」を破ったと解釈され、日本書紀の「加羅七国平定」「四邑降服」「任那四件割譲」「任那復興」、任那支配の根拠となっていた。高校日本史教科書では、この条文のみが引用され、辛卯年に大和政権が軍隊を朝鮮半島に派遣して高句麗と戦ったなどと記述されているという。
 しかし、この解釈が妥当とは思えない。以下に問題と思われるところを挙げてみたい。

・好太王碑文の史料批判(戦前の日本軍による改ざん問題は否定で決着)による論議が重要と思える。日本書紀が、前王朝を隠蔽している、書き換えている、潤色があると考えられているように、この碑文もそのような視点で見る事が重要と思える。原文の一般的な解釈をそのまま利用して解釈するのは、注意がいると思われる。
・不都合なことは隠されている碑文であること。対中国との苦戦については全く触れていない。中国王朝を記さないことは、研究当初から問題になっていた。
・百済についても潤色がある。また、百済とは全く書かず、すべて「百残」とした貶める表記になっている。
 倭も、「倭賊」「倭冠」「不軌」などとされている。
(なお新羅については「忠州高句麗碑」に新羅王のことを「東夷寐錦」と記している)
 つまり高句麗は周辺国を蔑む表現をしている。この姿勢は日本も変わらないのであるが。
・倭については、高句麗の半島南部進出の口実として、仮想敵国として位置づけられた、とも考えられている。
・さらに倭の記述では、「倭人滿其國境⇒潰破」 「倭滿其中。官兵方至⇒倭賊退」 「倭不軌,侵入帶方界⇒倭寇潰敗」  倭国は攻め込むが、すべて撃退しているというのだが、3カ所とも同じパターンの表現であることも、潤色性を物語るものと考えられる。
 さらには「安羅人戍兵」が同じ倭の記事の中に三度登場するのも、注目していいであろう。
・最大の問題と思われるが、それは何度も倭は敗北しているのに、どうして高句麗は、倭を臣民にするとか、朝貢を求めるとかしていないのか、一般的なとらえ方としてこれは大きな不審であろう。しかも半島内に倭の勢力があったとするならなおさらであろう。
・別の問題ではあるが、「倭」は必ずしも列島の勢力を意味しないのではないか。古代の移住という視点がないと、列島の古代史は理解できない。
 たとえば、「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)(蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。) この一節の「倭」は半島に存在していると考えるのが妥当。それは、列島に中心を持つ倭の国とは別の、加耶周辺の集団、魏志倭人伝の狗邪韓国などが考えられよう。前方後円墳のある栄山江地域も倭人は混在していたと考えられる。
・そもそも日本の倭国が、400年頃に高句麗の境界まで攻め込むような実力がはたしてあったのであろうか。それならば、なぜ先に列島全体を制覇しなかったのか疑問である。
・研究者は、碑文後半の守墓、烟戸の制度に関して注目しており、日本の巨大古墳の背景を検討するうえで、大変重要とも考えられている。倭の記述に関するところだけでなく、広い視野での検討は必要となろう。
・現在の研究者が、好太王碑をどうとらえているかということを見る必要があるのではないか。

2.碑文解釈のとらえ方についての紹介
・森浩一氏『日本の中の朝鮮文化3』「かりに日本に日本書紀がなかったと仮定したらどうか。現在通用している日本古代史の通説がそのままいえるのかどうか。倭が5世紀頃朝鮮へ軍事出兵したといえるかどうか。商人が行ってちょっと住んだというのは別、出兵となるとこれは絶望的、遺跡遺物の上からはほとんどいえない。」
・佐藤信『古代史講義』「・・・はたして、倭が海を渡って百済・新羅を『臣民』としたのか、この点については慎重に考える必要がある。広開土王碑はそもそも広開土王の戦績をことさらに顕彰するという性格の史料であり、高句麗と対峙する倭の軍事支配の描写を誇張すればするほど、広開土王の戦績が際立つのである。そこであえて倭をヒール役に仕立てて描いたとも考えられる。」
・河内春人『倭の五王』「高句麗からすると、広開土王の治世は半島南部への圧力を強める過程であった。その目的は、具体的には新羅や百済を自己の勢力圏内に従属させることである。それを正当化するためには、もともと新羅や百済が高句麗に従っていた・・それが倭国によって臣民化されたために広開土王が取り戻すというステップを語ることで、半島南部の支配の正当性を主張」
・東潮『倭と加耶』「400年、高句麗は倭の攻撃から新羅を救援するという目的で新羅城に進攻し、新羅城を占領している、高句麗の戦略的目的は倭の討伐を名目とした新羅への侵攻であった。」
 「高句麗が百済を『属民』とするのも倭が百済や新羅を『臣民』とするのも碑文の論理。ただし百済・新羅への侵攻を正当化するための歴史的事件は存在した。
・武田幸男『広開土王碑との対話2007』「辛卯年を広開土王碑の即位年にあたるとし、高句麗は辛卯年条において対南方戦略を宣言し、その中で倭を戦略的に位置づけた。そして碑文の倭は大王の勲績とかかわって登場するが、百済や新羅とは異なって、高句麗と終始対峙し、対立する強敵として登場したとする」
・前田晴人氏『朝鮮三国時代の会盟について』「碑文に記すように高句麗が百済を『属民』とした事実は広開土王以前の時期にはなかったものとしてよく、意図的な誇張の言とみなしてよい。」
「高句麗の中華帝国主義は鮮卑の前燕・ 後燕に対してはまったく通用せず、広開土王の時期に限っても9(400)年正月に『遣使入燕朝貢』した直後の2月、『燕 王盛以我王禮慢、自将兵三万襲之。以驃騎大将軍慕容煕 為前鋒、抜新城・南蘇二城、拓地七百余里、徙五千余戸而還』とあって高句麗は大きな打撃を被り、また11(402) 年には「王遣兵攻宿軍。燕平州刺史慕容帰棄城走」と記し、次いで13(404)年 11 月『出師侵燕』とあるように 報復の侵略を重ね、14(405)年正月には『燕王煕来攻 遼東城。且陥』と反攻を受け、15(406)年 12 月には契丹を襲撃し疲凍の遠路を行軍中の燕軍が高句麗の木底城 (遼寧省撫順市)を攻めて自ら敗退するという一幕もあった。後燕との抗争は広開土王の治世の後半期に集中しており、碑文がこれらの事績にまったく触れていない理由は最早明らかであろう。」
・奥田尚氏「『倭人,其の順境に満ち,城池を潰破す』というのだから,『倭』と新羅順境は接していたと考えざるをえない。『倭』が日本列島からの派遣軍とすると,ことさら『国境』に『満ち』と表現する必要はないであろう。・・・・碑文の『倭』は日本列島内勢力ではありえないといえよう。また前項の高句麗への服属段階からいえば,『倭』の場合は敗戦→懐滅とすることができる。」
 「倭が渡海して新羅に侵攻したとすると、奇妙な表現だという指摘は、あたらないであろうか。碑文の倭が、半島内の倭を意味した表現と理解した方がいいのではないか。」

 以上のように、まだまだ碑文解釈には問題があるが、高句麗側の潤色、不都合なことは記さず、周辺国を貶める表記などが見られるものであり、列島の倭が百済・新羅を臣民にするとか、渡海して高句麗と交戦したというようなことを断定的に論じることは困難であると考えられる。

 好太王碑文 4面はカット
惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎,剖卵降出生子。有聖�□□□□□命駕巡車南下,路由夫餘奄利大水。王臨津言曰我是皇天之子,母河伯女郎,鄒牟王。為我連葭!浮龜應聲即為連葭。浮龜然後造渡於沸流谷,忽本西,城山上而建都焉。永樂世位,因遣黃龍來下迎王,王於忽本東岡,黃龍負昇天。顧命世子儒留王,以道興治,大朱留王紹承基業。[遝]至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王,二九登祚,號為永樂太王,恩澤洽于皇天,威武柳被四海。掃除□□,庶寧其業。國富民殷,五穀豊熟,昊天不弔,卅有九晏駕棄國。以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵,於是立碑銘記勳績,以永後世焉。其辭曰:

永樂五年,歲在乙未,王以碑麗不息,□人躬率往討。過富山負碑至鹽水上,破其丘部洛、六七百當,用牛馬兼羊不可稱數。於是旋駕,因過襄平道,東來候城、力城、北豊、五俻猶。遊觀土境,田獵而還。百殘、新羅舊是屬民,由來朝貢,而以辛卯(391)年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。首攻取壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弓利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍鳥城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古模耶羅城、頁□城、□□城、分而能羅城場城、於利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城。賊不服氣,敢出百戰。王威赫怒渡阿利水遣刺迫城,橫□侵穴□便國城。百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。太王恩赦先迷之御,錄其後順之誠。於是得五十八城、村七百。將殘王弟並大臣十人,旋師還都。

八年戊戌,教遣偏師觀帛慎土谷。因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人,自此以來朝貢論事。九年己亥,百殘違誓與和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。太王恩後稱其忠誠,時遣使還,告以□訴。十年(400)庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,滿其中。官兵方至,賊退□□□□□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。滿,潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□安羅人戍兵。昔新羅安錦未有身來朝貢□。國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰而倭不軌,侵入帶方界□□□□□,石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇,王幢要截盪刺,寇潰敗,斬殺無數。

十七年丁未,教遣步騎五萬,□□□□□□□□□城□□合戰,斬殺湯盡所稚鎧鉀一萬餘,領軍資器械不可勝數。還破沙溝城、婁城、還住城、□□□□□□那□城。廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討,軍到餘城,而餘城國駢□□□□□□那□□王恩晉虛。於是旋還。又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧。


参考文献
奥田尚『高句麗好太王碑文解釈試案』ネット掲載
「好太王碑全文」(一部割愛) ブログ古代史俯瞰様
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
金逹寿『日本の中の朝鮮文化3』講談社1972
佐藤信『古代史講義』ちくま新書2023
前田晴人氏 「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男『広開土王碑との対話2007』白帝社 2007