俀
 隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないところが多いのではないか。この俀の字は異体字の類いと考えられる。この点について述べてみたい。

1. 俀と倭は同じもの
①俀奴国は倭奴国と同じ。
 隋書では「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國」とある。ここは後漢書の引用であり、当時は倭は「イ」と発音。奴は「ヌ」であるので、「イヌ」国が妥当。注1 もしこの俀奴国が別の国とされるなら、関係する他の漢籍資料と出土した金印の文字と齟齬が生じる。後漢書では「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」とある。この年代が57年であり、光武帝から賜与された金印に刻された委奴国であり、これは真印であるならば倭奴国と同義だ。北史では「安帝時又遣朝貢謂之倭奴國」であり、はじめから倭になっている。北史は隋書の内容をほぼ踏襲しているが、誤字などは訂正している。さらに他に多利思北孤の北は比としているが、この点については後述する。舊唐書では「倭國者古倭奴國也」とあり、倭国がかっては倭奴国であったと説明されている。宋史(至正5年1345)でも「日本國者本倭奴國也」とされて、日本国はもともと倭奴国であったと記しているのである。そして通例として倭国と称されている。よって隋書倭国伝と称されて何の問題もない。
 さて、俀が別の国だとする方は、この俀奴国はどう訓むのであろうか。タイヌ国とするのであろうか。やはり俀は倭に変えてイヌ国と訓むのが自然だ。そして5世紀以降の俀国は、ワ国と訓む。

②俀の字は、卑字、弱弱しい国といった蔑む表現でもない。
 俀を弱いの意味で使用したのは後世の可能性が強い。例えば倭も中国側が蔑むような卑字といった説明を見聞きするが、これも疑問である。隣接する半島の国々の名はどうなのであろうか。高句麗や新羅、百済に蔑むような意味はない。なぜ、倭国だけ貶められるのか、その根拠はない。隋は高句麗を三度も攻めたが、勝てずに甚大な被害を被っている。唐も新羅に対し、半島統一の為に多大な援助をしたのにもかかわらず、裏切られてしまった。それでも国名表記は変わらない。俀がタイと訓まれることから、大倭がタイイなので俀に変えたというのも成り立たないのではないか。ちなみに、古田武彦氏も当初は俀を別の国とされていたが、後に大倭国の意味に変えておられる。

③俀は倭の異体字と考えられる。
 中国側は隋書に関しては俀の字を倭に書き換えている。そして百済伝の倭の表記の後に校注(注釈)を入れている。
 其人雜有新羅高麗倭等 「倭」原作「俀 」。按:古從「委」和從「妥」的字,有時可以通用。如「桵」或作「㮃」,「緌」或作「綏」。「 俀 」應是「倭」字的別體。本書煬帝紀上作「倭」。本卷和他處作「 俀」者,今一律改為「倭」

 つまり、倭と俀の違いは、この漢字の右上の禾(ノギ)が爪(ツメ)となっていることである。同じような例として、㮃(ズイ、ニ、イ)が桵となり、緌(ズイ)が綏となっているのを、「禾」のある漢字に訂正しているのだ。このように爪(ツメ)を禾(ノギ)に訂正しており、俀、桵、綏の三つは同音同意の異体字として、本来の字に戻されているのである。執筆者、もしくは転写をした人物が、これら異体字を同義の漢字として使っていたのだが、これを他の人物も間違いではないのでそのままにしたということではないか。
 漢籍には異体字といったものが、いくつも存在している。たとえば、三国志には高句麗と高句驪という表記がある。この場合も、別の国であったなどと言えるのであろうか。俀国も実は倭国と同じで漢字が違うだけにすぎない。俀国とあってもワ国と読むのである。

2. 多利思北孤の北は比の誤記の可能性
①異体字だけでは考えにくい誤記が多数存在する隋書
 「漢籍電子資料庫」で「原作」で検索すると膨大な数の漢字の修正が検出される。異体字もあるが、その多くは、同音による書き違えや、文脈や他の漢籍を参考にしての書き換え、単純な書き間違えの修正など様々である。隋書で少し例を挙げてみる。
「建」原作「達」、 「預」原作「頂」、 「如」原作「加」、 「刃」原作「刀」、 「夕」原作「名」、
「政」原作「正」、 「導」原作「遵」、 「大」原作「六」、 「斗」原作「升」、 「干」原作「于」、 
「紐」原作「細」、 「爟」原作「權」、 「官」原作「宮」、 「瑞」原作「端」、 「人」原作「入」、 
「寇」原作「冠」、 「冶」原作「治」、 「勒」原作「勤」、 「州」原作「川」、 「巨」原作「臣」
 以上はほんの一部である。その中に、火を犬注2とした間違いもあれば、比を北としたタリシヒコの例もあるのである。このような事例は隋書に限らず、多数の漢籍で同様の状況がある。

②間違われやすい北と比 
           ヒコ
 現在は、北という漢字の一画めの横棒と二画めの縦棒が交差することはないが、古代においては、ほとんど、横棒に縦棒が貫くように書かれている。魏志倭人伝もすべて北は、二画目が突き抜けている。これが比の字と間違う要因になるかもしれない。先ほどの修正の中にも、「比」原作「北」の例が、後漢書に一カ所、宋書は二カ所、舊五代史に一カ所、金史に一カ所、宋會要輯稿は五カ所も存在するのである。また逆に、晋書と舊唐書では、比を北に改める例も一つずつ存在する。
 このように比と北は、お互いに誤記される可能性が非常に高いのである。

③古田武彦氏も「比」は否定されていない。
 いうまでもないことだが、ヒコは彦、比古、日子、毘古などと王、貴人の名前として使われている。魏志倭人伝にも卑狗がある。ホコという名前があっても、それは特殊な事例ではないか。
先ほどの付録の隋書読み下しでは、「南史ママ(北史)では多利思比孤とする。『北』は天子の座するところであるから、多利思比弧という当人が、敢えてした『誇称』がこの『多利思北孤』であったのかもしれぬ。」とされている。これはつまり、古田氏も本来の名がヒコと認めていたということではないか。
 ちなみに後漢書には次のような訂正がある。『東夷倭奴國王遣使奉獻 按:「王」原作「主」』この箇所では主が王の書き間違いであることは明らかだ。これをもって倭奴国に主という人物が遣使を行った、などとは言わないであろう。隋書は日本では語られないことが記された貴重な資料ではあるが、上記のような問題も含んでいる書であることは踏まえなければならないと思われる。
 
 ただ、俀については問題は残る。使用例が極めて少ない漢字だが、 舊唐書には、吐蕃が700年に阿那史俀子をテュルク国に派遣するとの記事がある。この俀子が倭子であったのかどうか、また、史記には魯の宣公俀が君主となる記事もある。そうなると、俀は、ほとんど使用されなかった独立した漢字として存在していたが、その一方で、異体字として、倭と同義で使われたとも考えられるが、このあたりは、今後、要検討としておきたい。

注1.正木裕氏のご教示による。五胡十六国以降は「(‐a)ゥワ」でそれまでの古代は「(‐i)ヰ、イ」と発音。
注2.「犬を跨ぐ」は、およそ犬での事例は見られず、日本と世界には多数の火に関わる婚姻儀礼が存在すること、火を大と誤記した事例もあることから、火を犬と誤認する可能性もあり、ここは「火を跨ぐ」が適切。