青銅器変遷

【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化
 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通していた明刀銭の出土で、半島への影響が見られそれは列島にまで広がっている。野島永氏によると弥生文化における二条の突帶を持つ鉄斧は九州から関東にまで及んでいるが、燕の鋳造鉄斧と共通し燕国から直接伝わったという。唐津市鶴崎遺跡出土の有柄銅剣は紀元前五、六世紀の河北省燕山付近のもののようだ。博物館の説明にも、この有柄銅剣は、吉野ヶ里の有柄銅剣を含め、弥生時代の国内出土の銅剣とは全く形態が異なっており、中国における戦国式銅剣に系統を求められる国内唯一の資料とされる。また列島最古の武器形木製品は、福岡市の比恵遺跡で出土した遼寧式銅剣形のものであり、青銅武器が入る前からこの武器形木製品で祭祀が行われていた。
 小林青樹氏は佐賀吉野ケ里の青銅器工房で出土した燕国系の鉄製刀子から、青銅器の制作への燕国の関りを示唆される。熊本県八ノ坪遺跡では多数の初期弥生青銅器の鋳型が発見され、同時に遼寧で見られるような鋳銅用の馬形羽口もあった。
 さらに図にあるように、遼寧式銅戈もおよそ紀元前四世紀に半島に渡り、大型化と細形化をへて細形銅戈が誕生し列島に入っていったという。吉武高木遺跡の木棺内から出土した細形銅戈がその代表例である。

【2】燕国からの子孫が、燕国の荊軻の説話を語り継いだか
 以上のように、燕国の金属器技術を持つ集団が半島に入りやがて列島にもやってきたと考えられる。山海経巻十二の海内北経に「蓋国は鋸燕の南 倭の北に在り 倭は燕に属す」とある。ここでいう「倭」は、列島ではなく、やがて列島に移動する半島のこととも考えられるが、上記の青銅器などの出土状況が、半島から列島への深い関係を示していることを疑う余地はない。燕国は紀元前500年頃には、燕山を越えた遼西西部や半島への領域拡大がはじまったようだ。燕国の墓制はその副葬品に西周前期の青銅器を模したものが見られ、これは燕国の西周への回帰を示すもののようだ。のちには始皇帝に追われた燕国の人々が、半島や列島にまで逃避してきたことも間違いないのではないか。その人たちの秦王への恨みは、遠い子孫にまで伝えられ、それが入鹿殺害の説話に使われたのかもしれない。燕国の滅亡と乙巳の変では時代が随分離れていることに疑問を持たれる向きもあろう。しかし中国少数民族のイ族は、祖先が三星堆から秦によって追われ、さらには諸葛孔明によっていっそう山深い地に追いやられたことを今でもシャーマンが歌にして語り継いでいる。
 正木裕氏は弥生時代の倭奴国や邪馬壹国が、周の官制を用いていたことを明らかにされている。魏志倭人伝に登場する「泄謨觚(せもく)、柄渠觚(ひょごく)、兕馬觚(じまく)」などの官位は儀礼で使われる青銅器と関係しているという。すると西周王朝の侯国から発展した燕国の青銅器儀礼の官制や文化が、影響している可能性も考えたい。
 なお青銅器の倭国への流れでは、斉国との関係も示唆されているので、今後の研究の進展も注視したい。


参考文献
楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017
小林青樹「倭人の祭祀考古学」 新泉社 2017 
正木裕「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」(古田史学論集第二十四集卑弥呼と邪馬壹国)明石書店 2021
林俊雄「ユーラシアの石人」雄山閣 2005