流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

火打金

「カチカチ山」に描かれた火打金と火打石  火打金とポシェット⑵

x1087893702.1
1.火打石どうしを打っても発火させるのは困難
 まずは、用語の説明をさせていただく。一般的には、火打石を叩いて発火させるものだとされるのだが、これでは少し不正確なのである。火花が出るのは、火打金とされる鉄に焼き入れをして炭素を含ませた鋼が硬質の石との打撃で削られた鉄紛が火花を発生させるのである。火打石の方から火花が出るわけではない。
 その火打石も、メノウや、石英(チャート・フリントなど)といった硬度が高いものが適しており、前回述べたように黒曜石でも火花を出すことはできる。
 さらに、火花を発生させるだけでは火は起こせない。火口(ほくち)という、繊維やシイタケなどを干してほぐしたものに火花で発火させるものが必要となる。そして、これらのセットのことや打撃式発火法を、便宜上、火打、ということにする。この火打は建築用語にもあるのだが、それは発火とは無関係だ。
 この火打を、火打石どうしを打ち合わせることで火花が発生すると思っている人が意外に多くいる。かくいう私も、小学生の時からそのようなイメージを持っていた。はるか昔のことだが、クラスに理科の得意な男子がいて、ある時、火打を持ってきて、教室内で実演して見せてくれることがあった。その時に飛び散った火花を見て驚いたことは記憶にあるのだが、彼が両手にそれぞれ持っていたものが、石と思われるものを打ちあったようにしか理解しておらず、間近でその石を見せてもらったはずが、まったく覚えていないのだ。この不鮮明な記憶もあって、石と石をぶつけて火花を出すものと思い込んでいたのである。
 このような誤解が、絵本の中にも表されている事例がある。民話の「かちかち山」の絵本には、両手に石を持った兎さんが描かれていることがある。冒頭の図にあるように、戦前の絵本には、吉井の火打金と思われるものをリアルに描いているものや、戦後にもきちんと火打金と火打石を区別して描かれたものは多くあるのである。
 さて、火打は石どうしではないと説明してきたが、実は、石どうしでも火花を出すことができる場合があるのである。その石とは、黄鉄鉱である。

2.アイスマンは黄鉄鉱で火を起こしていた。
 今から5300年前ほど前の、イタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷に横たわっていたアイスマンの所持品(埋葬による副葬品との説もある)には注目すべきものが数多く見つかっているが、その中に着火道具があって、腰に付けていたと考えられる袋から、硬質のフリントにキノコを乾燥させた火口もあった。そして少し離れた場所から、黄鉄鉱が見つかっている。このアイスマンが腰に付けていたであろう袋については後述したい。米村でんじろう氏のYouTubeでも、黄鉄鉱を使った発火の様子がアップされている。火花は、打撃と摩擦による鉄紛の溶ける際の反応であるから、黄鉄鉱でも可能なのである。さらにでんじろう氏は、石どうしの打撃でも発火させることは難しいが、火花は発生させることができるという実験も行っておられる。
 それにしても、はるか古代の人たちは、どうやって黄鉄鉱による着火を発見したのであろうか。石器人は、石を叩き割って斧や鏃などを作製する。様々な種類の石を試して、用途にかなう石材を見つけていったのであろうが、その際に、火花が出る石があることに気が付いて瞬く間に広がっていったのであろう。その前には、摩擦式発火法があったと考えられるが、人類はかなり早くから黄鉄鉱による着火法を駆使していたかもしれない。戸外を動き回っていた狩猟採集民にとっては、雨のこともあるから、摩擦法よりは打撃法による着火は便利であったと考えられる。アイスマンの時代よりもっと早くからこの黄鉄鉱が利用されていたかどうかはよくわからない。  
 また火打金の方も、ベルギーで出土した紀元前400年頃のものが世界最古となっているが、それまではなかったとは言い切れない。見つかったのは、あくまで、加工して整えられたものであり、古代の製品化された火打金の原型となるものであって、異なる形での鉄片を火打金として使っていた可能性は否定できない。鍛冶職人たちは、早くから鉄を打てば火花が出ることはわかっていたはずだから、ベルギーの例よりも古くから火打金があった可能性の否定はできない。ただし、鋼となる焼き入れ工程がいつから始まったのかという問題はあるのだが。鉄の発見はヒッタイトによるものが起源とされているが、さらに時代を千年も遡る見解も出されてきており、そうなると、アイスマンの時代から少し後に、火打金による発火を行う人々も混在するようになったかもしれない。

3.シュメル神話に登場する火打石
 世界最古の神話であるシュメル神話には、いくつも興味深いものがあり、火打石も登場している。
 「ルガルバンダ叙事詩」には、エンメルカル王の王子であるルガルバンダの物語が描かれている。まつろわぬ都市アラッタの征討に出かけたが、途中で病に襲われて、山の洞窟に置き去りにされる。やがて回復したルガルバンダは、腹ごなしにパンを焼く場面が描かれている。
 「野営地で兄たちや従者がパンを焼いていたことを思い出したルガルバンダは、洞窟に置いてあった袋から火打石や炭を取り出して、何度も失敗しながらようやく生まれて初めてたったひとりで火を起こし、麦紛を水でこねて丸めて、パンを焼いてみた。」(岡田・小林2008)
 アイスマンと同じように袋に着火道具が入っていたのである。炭もあったというのが面白い。これならパンでも肉でも料理ができる。だが、ここには火打石とあるだけだから、それが、火打金なのか、それとも黄鉄鉱であったのかはわからない。この神話に登場するウルク第一王朝第二代王エンメルカル王の時代はおよそ4800年前となる。アイスマンから500年ほど後の物語となるので、黄鉄鉱と考えたほうがよさそうである。
 だが、火打石がもう一つ登場する「ルガル神話」に困惑させる記事がある。これは戦いの神であるとともに農業神であるニンウルタ神が、山に住む悪霊であるアサグを退治のために配下の「石の戦士ども」を打ち負かす物語だが、そこに、次のような記載がある。
「一方で、火打石はニンウルタに敵対したことから次のように罰せられる。
 私はお前を袋のように裂くだろうし、人々はお前を小さく割るであろう。金属細工師がお前を扱い、お前の上で鏨(たがね)を使うだろう。」
 ここでは、火打石はその名の通りに角を付けるように割られている。また、鏨が現代と同じ炭素鋼であるならば、火打金となる鏨を打つ火打石となる。火打金がシュメルで使われていたと考えられるのではないか。
 神話世界のことであり、史実とは見なしがたいという判断が大方のところであろうが、わずかな可能性を留保しておきたい。

参考文献
J. H. ディクソン「氷河から甦ったアイスマンの真実」日経サイエンス2003.08
藤木聡「発掘された火起こしの歴史と文化」宮崎県立図書館 ネット掲載
岡田明子・小林登志子「シュメル神話」中公新書2008
図は『カチカチ山』 富士屋の家庭子供絵本 昭和2年刊 オークファン様のブログより

高崎市吉井町の火打金のルーツ 火打金とポシェット⑴

吉井のレン
 群馬訪問の目的の一つに、火打金について新たな情報を得たいという思いもあったが、高崎市吉井郷土資料館では、関係する展示品をいくつも見ることが出来た。
購入火打

 そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型火打金というそうだ。火打石は、おそらく石英であろう。火花をつけて火種にする火口(ほくち)もついている。
 早速、試しに火打石に火打金を打ち付けてみた。石の鋭利なところにこするように打つのだが、少々コツがいるが、うまく打ち付けると、かなりの火花を飛ばせるので、何度でもやってみたくなる。いや、癖になって外でカチカチやってたら通報されます。
石英火打
 実は、ある文献に黒曜石も火打石になるとあって、そのことを人に話したことがあるのだが、はたして火花を出せるのか気になっていた。火打石は硬度が高くないと発火させられないのだが、黒曜石は叩くと鋭利な刃物になるように割れるガラス質のものだ。火打ち金を打つと火花が出せずに欠けてしまうだけではないかと心配だった。
黒曜石火打
 そういうこともあって、以前に別の博物館の売店で購入した黒曜石でも火花が出るか試してみた。勢いは劣るが、それでも使えないことはないとわかって、人に説明していたので安堵した。ただ、火打石に向いているとは言えないようだ。

 日本では摩擦式発火法は弥生時代以降、打撃式発火法は古墳時代以降多く確認されている。中世の鎌倉からも「火切り板」が出土しているが、火打石の出土事例も多く、中世以降、摩擦式発火法は次第に打撃式発火法に取って代わられていったと考えられている。
平安江戸火打
 この資料館では、平安時代の火打金をみることができる。その後、江戸時代に入って何故か群馬の吉井町で作られるようになって普及するようになった。
 
火打販売
 吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
 
火打袋
 また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
 資料館の解説では、武田信玄配下の子孫であった近江守助直(おうみのかみすけなお)という刀鍛冶が火打金伝えたという。一方で、京都明珍でも作られていたのだが、私の興味は火打金が、大陸からどのように伝わったのか、また、どのような人々が江戸時代まで継承させていたのか、といったところである。
「火打金は、北方アジアの遊牧民や狩猟民の野外行旅の携帯品であって、火おこし自体が非日常的なものである以上、通常、各住居に備えられた日常用具とは考え難い」(森下惠介2020)という。また火打金は、「7~9世紀にほぼ同時に東は日本から西は東欧までの広大な地域に出現した。残念ながらどこが起源でどのように広まっていったのか、という問題については、今のところ説明不可能と言うしかない。ただその普及に長距離移動をすることもある遊牧民が関与したであろうことは想像に難くない。」(藤川繁彦1999)と述べておられる。
 列島に火打金がもたらされたのは、騎馬遊牧民が関与していると考えられるのであるが、実態はよくわからないようだ。
 騎馬遊牧民は、江戸の旅人のように火打セットをポシェットなどに携帯(火打金を腰帯に直接吊るすものもある)して使っていたようだが、それがどのように渡来して使われるようになったのかを、少しでも解明できればと思う。また、火打金にまつわる説話などもみていきたい。なお、火打金は関東の方では火打鎌といわれているようだが、ここは火打金と表記させていただく。

参考文献
藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』同成社1999