
イザナギは、亡くなったイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に出向いて説得するのだが、なかなか現れないイザナミの様子を見ようと、自分の櫛の先に火を灯して覗き見ようとした。そこでイザナミの醜い姿を見てしまい、慌てて逃げだすのであるが、ここで疑問に思うことがあった。イザナギはどうやって櫛に火をつけたのであろうか。記紀ともに、その方法についての記述はない。神事にあるように、火きり臼に火きり杵を回して火を起こしたのであろうか。それとも、火打ち石と鉄を使った方法で発火させたのだろうか。
東国征討に向かったヤマトタケルは、相模国で敵にだまされて野に火を放たれてしまう。そこで、火打石で向火をつけて難を逃れている。その火打石は、姉のヤマトヒメから渡された囊(ふくろ)に入っていたものだ。袋ではなく、むずかしい漢字の囊をわざわざ使っているのだが、なぜか日本書紀では古事記の該当の場面にこの囊の記述はない。他に雄略紀には「負嚢者(ふくろかつぎびと)」とあるが、この場合は、大国主と同じく、大きな荷を背負うものの意であろうか。(日本書紀では、中段に口二つの嚢とㇵの嚢があるが口のある囊に統一させていただく。なお播磨国風土記には美囊郡がありミナギと読ませている。)
古事記では、この囊がもう一カ所登場する。それは、怒り狂ったイザナミから逃げおおせたイザナギが、禊を行う場面である。ここでイザナギは、身に着けていたものを次々と投げ捨てる。その中に、「次於投棄御囊所成神名、時量師神」とある。投げ捨てた嚢がトキハカシの神になったという。ではその囊を彼はどのようにして身に着けていたのか。囊を捨てる前に、「次於投棄御帶」とある。するとこの御帯に囊を着けていたのではなかろうか。つまりこれは腰につけるポシェットのようなものではないか。するとヤマトタケルも、火打石の入った囊を自分の帯にポシェットのように着けていたと考えられる。そうであるならば、イザナギが櫛に火を点けたのは、この腰に巻いた帯に付けていた囊に入っていたものとなろう。
同じ漢字で小物を入れる嚢として使われるのは、神代紀の海幸が釣り針を返せと責められて落ち込む場面で、「老翁卽取嚢中玄櫛投地」、老翁が嚢の中の櫛をとって地に投げる、とある。老翁も櫛を入れていた囊も腰に付けたポシェットであったかもしれない。実はこの老翁はイザナギの子であると、書紀神代の天孫降臨の一節で記している。
「事勝國勝神者、是伊弉諾尊之子也、亦名鹽土老翁」コトカツクニカツ神はイザナギの子であって、亦の名はシホツツノオジだという。つまりイザナギ親子は、腰に巻いた帯に囊をつけてそこに火打石や櫛を入れていたのである。
「事勝國勝神者、是伊弉諾尊之子也、亦名鹽土老翁」コトカツクニカツ神はイザナギの子であって、亦の名はシホツツノオジだという。つまりイザナギ親子は、腰に巻いた帯に囊をつけてそこに火打石や櫛を入れていたのである。
以上から、イザナギとオジは、渡来の移住民の特徴をモデルとして描いている側面もあると考えられる。
2.ユーラシアの民が腰に吊るす囊
それにしても、なぜ袋ではなく、囊と難しい漢字を使ったのか。中国にこの字の使用例があるからであろう。
中国では鞶囊(はんのう)と記して隋書などにも登場し、これも腰のベルトにぶら下げるポシェットのようなものだ。
田林啓氏によると、滝関税村隋代壁画墓の出行儀仗図のすべての人物は、腰に革帯を締めて、その右に革袋の鞶囊と左腰に布袋の布嚢と儀刀を垂らしているという。熊本県上天草市の広浦古墳の石材の線刻は、この三点セットを描いたものと考えられる。
「装飾古墳ガイドブック」の柳沢一男氏は垂下する紐がついた円文と説明されているが、それでは意味がわからない。その三つの図は、いずれも本体を吊り下げる表現であることから、いずれも腰の帯に下げていたものであり、あの世でも必要な道具として描いたのであろう。
このポシェットの実物が、突厥の1世紀から5世紀の遺跡で出土しているが、日本でも出土しており、奈良県葛城市三ツ塚古墳群から飾りの入った黒漆塗革袋として復元されている。
唐代の墓に副葬される胡人俑にも円形で黒色の袋を付けている表現が見られる。胡人とはソグド人のことである。彼らは、シルクロードの商人であって、サマルカンドの壁画には、彼らの腰に付けた嚢にお金の入った財布との現地の解説がある。
田林啓氏によると、滝関税村隋代壁画墓の出行儀仗図のすべての人物は、腰に革帯を締めて、その右に革袋の鞶囊と左腰に布袋の布嚢と儀刀を垂らしているという。熊本県上天草市の広浦古墳の石材の線刻は、この三点セットを描いたものと考えられる。



