流砂の古代

古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ移住民、騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。古代史に関わる誤解や誤読、近畿一元史観ではなく古田史学の多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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縄文刀子
        縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡)
  詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。
刀子図
 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったものでは、などという見方もあったが、遺跡からの出土物で間違いないようである。破損しているが柄の端は環であった可能性がある。この形を真似た内反りの石刀が60点余り出土している。
 冒頭の図は、大野遼氏によるアルタイ山脈の西方の平地のアルタイにあるオビ河上流の遺跡、ジプシーの丘遺跡の刀子と三崎山の刀子の比較写真である。不鮮明な点はお許し願いたい。氏は中国殷代の青銅器にも見られる内反りの刀子であり、その起源は北方の牧畜民によるとのお考えだ。上図写真の類似性からも想定できるものだ。
遼寧省青銅器
                 遼寧省王崗台遺跡  2,5が近い形
 縄文時代の晩期に作られた石刀の中に、この青銅刀子に酷似した例があるという。中部地方から北海道にかけて、多数の石刀が見つかっているが、当然ながら、物を切るためではなく、それは、弥生時代の銅剣、銅戈と同様に祭祀のために作られてものであろう。氏は、「日本海を経て、大陸から伝わったものであり、当時の大陸の青銅器文化に対して、縄文文化の中に、いわば青銅器模倣文化というべき影響を与えたと考えられる」とされているのだが、私はこういった説明には異論をもっている。文化の影響といったものではなく、この青銅製刀子を携えてやってきた大陸からの移住民が、銅製品などつくれないこの列島の地で、代替えとして石刀を作り祭祀を行ったのであって、やがて、その子孫たちが列島の各地に広げていったのであると考える。
 縄文時代は長期にわたって閉鎖された空間で、独自の文化が育まれた、といった捉え方が根強いが、実際は、弥生時代の前から次々と移住民によって渡来文化がもたらされているのである。以下に、主だったものを列記していく。

①三内丸山遺跡の円筒下層式土器
 6000年前の東北地方に十和田湖火山の噴火後に移住した人たちによって築かれた。大陸の円筒土器が消滅した頃に出現しており、台湾でも農耕民の移住が始まった時期と符合する。
②刻文付有孔石斧(山形県鶴岡市羽黒町中川代遺跡)
 甲骨文字と類似はあっても一致するものはない。金属器で線刻との指摘。『王』を意味するとする説もあるが。石斧本体も見事な加工がされ、実用品ではなく、威厳を示すものか。大陸の馬家浜文化あたりのものとされるがそうするとおよそ6000年前になる。文字は後世につけられたものか。
③青銅刀(山形県遊佐町三崎山遺跡、縄文後期住居跡) ※同記事のもの。  他に、成興野型石棒がシベリア南部に起源をもつ、鈴首のついた青銅剣に原型があるとする西脇対名夫氏の説もある。
④鬲状三足土器(青森県今津遺跡、富ノ沢、虚空蔵)
 袋状の足をもつ鬲は龍山文化(4500年前)から。今津、虚空蔵のものは朱彩され祭祀用か。
⑤漆塗り彩文土器(山形県高畠町)
 ルーツは仰韶文化の彩陶土器 漆の木そのものも山東省付近が原産地で運ばれた。
⑥玦状耳飾り(富山県極楽寺遺跡、新潟県大角地遺跡、長野県阿久遺跡など
 福井県桑野遺跡はその他の出土装身具も中国遼寧省査海遺跡のものと一致することから渡来集団の墓と指摘。
さらにはウラジオストックの北東地域の遺跡を始原とする考えもある。
 他にも長大な石斧の埋納,土偶の象嵌など指摘されている。また研究者の指摘はないと思われるが、異形の石板や土器の文様に青銅器との類似が見られる。こういった事例についても、今後のところで取り上げていきたい。

参考文献
大野遼氏「北の時代の幕開け 日ソ合同調査計画スタート」窓 1987-09 ナウカ出版 ※刀子写真掲載
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
松本圭太「草原地帯における青銅武器の発達」(ユーラシアの大草原を掘る)草原考古研究会 勉誠出版 2019  ※青銅剣写真掲載

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1.後の加耶の地からやって来た弥生移住民
 最初の弥生時代の移住者は、半島のどこからやって来たのだろうか?それを示す分かりやすい図がある。支石墓、松菊里型住居(住居の形が円形で中央に穴があり、その両脇に2本の柱がある)、丹塗磨研壺、石包丁という渡来の代表的な物質文化の半島と玄界灘沿岸地域との関係性を表したもので、その周辺にいくにつれ薄まっていくグラデーション構造が見て取れる(端野晋平2023)。
 この濃く表された範囲は、まさに古くは弁韓、後の加耶の地となるのではないか。もちろんその当時にどのようなクニが形成されていたかはよくわからないが、やがて魏志倭人伝に登場する狗邪韓国や金官加耶もこの範囲に関係するのではないか。
 対馬との最短距離の地から、何度も大小の集団が渡って行ったのだろう。そのきっかけは、寒冷化や温暖化による洪水などの異常気象と考えられている。このあたりの南江流域の遺跡では、洪水砂によって居住域や生産域などが埋没しているという。彼らは、分散的にやって来たのではなく、「既存のネットワークを駆使して目的的」な渡来であったという。ちょうど天孫降臨説話も、リーダーを筆頭に様々な役割を担う人たちが、組織的にやって来たのである。  
 古事記にあるニニギノミコトの言葉「ここは韓国(カラクニ)に向ひ、笠沙の御崎に真っ直ぐ道が通じて、朝日のまともにさす国」にたどり着くその出発点が、図に色濃く描かれたところであろう。記紀に登場するスサノオやアメノヒボコ、ツヌガアラシトなども、このあたりからやってきたのではないか。もちろん、広い半島の各地からの渡来もあったことは言うまでもない。

2.縄文人遺伝子は半島集団も持っていた。
 弥生時代の渡来については、「主体性論争」というのがあって、少数の渡来者から在地の縄文人がその文化を学んで自分たちが広げ発展させたといった論調がまだ根強くある。糸島市の支石墓で発見された新町遺跡9号人骨が縄文人に似ている、といった例があるというが、最近では渡来系の特徴をもつものと理解されている。
 また昨今のゲノム解析の研究で、以下のようなことが判りだしてきたという。
「渡来系弥生人は五千年前の北東アジアの西遼河を中心とした地域の雑穀農耕民集団に起源すると考えられる・・・興味深いのは韓国人の位置で、朝鮮半島集団の基層にも縄文につながる人たちの遺伝子があることを意味している。初期拡散で大陸沿岸を北上したグループの遺伝子が朝鮮半島にも残っていたためと考えられる。」(篠田謙一2023)
 つまり、弥生渡来人は、縄文人の遺伝子を持っていたというのだ。列島の縄文人のルーツが東南アジア方面からの移動であるならば、その行程の途中に縄文人の遺伝子を持つ人たちが、存在してもおかしくないのである。よって、九州の在地の縄文人による主体的な稲作文化の受容は考えにくいと言える。組織的な集団の列島への移住から稲作文化は定着し、全国に広がったと考えたい。

参考文献
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 考古学とDNA 雄山閣2024
端野晋平「弥生時代開始前夜」季刊考古学 同上

図は、端野晋平氏の「渡来人の故地の推定」

勾玉
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 当ブログのタイトルの背景写真に使わせていただいたブルーのガラスの勾玉は、島根県出雲市大津町「出雲弥生の森博物館」の展示品。隣接する西谷(にしだに)墳墓群史跡公園の西谷3号墓の第一主体からの出土である。隣り合う第4主体が王墓とされ、二重の木棺からはガラス管玉が出土し、その在質はローマ製ガラスを使ったソーダ石灰ガラスで、他に第一主体と2号墓からも発見されているが、列島ではここだけのガラス製品だという。そしてコバルトブルーの輝く鉛バリウムガラスの二つの勾玉も特に珍しいものだそうだ。この第一主体の埋葬者は、第4主体の王の后と考えられている。
 これらのガラス製品は、小寺千津子氏によれば朝鮮の楽浪郡で手に入れたという仮説を提示されたとのことだが、大陸や半島のどこかで手に入れた渡来の王とその集団が持ち込んだものではないかと想像する。
 先ほどの小寺氏の『ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き』(吉川弘文館2023)に、西晋の詩人潘尼(はんじ)の「瑠璃碗賦」の詩が引用されている。
 「流沙の絶嶮なるを済(わた)り、葱嶺(そうれい・パミール)の峻危たるを越ゆ。その由来疎遠なり。」
 ガラス碗がはるばるパミールの峻嶮を越え、中央アジアの流沙をわたり、中国本土にもたらされたことが詠まれている。同様に、中国からさらに列島にもはかばれてきたのであろう。そのはるか遼遠のユーラシア文化の、古代日本への影響や痕跡が少しでも見つけられたらいいかと思っている。

参考文献
渡辺貞幸『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」新泉社2018

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