流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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蘇我氏系図
    蘇我氏系図 ウィキペディア蘇我満智より転載

 雄略紀23年に、倭国に滞在していた東城王を百済王として帰国させる記事がある。この中で雄略は東城王に「親撫頭面、誡勅慇懃」とあり、頭をなでて、やさしくいましめる、とある。何か、これから百済王として即位する東城王に対して、助言でも与えたようなのである。その内容はまったく記されていないが、後の欽明紀に、この内容と考えられる記事がある。この点について説明する。そしてこれは、雄略紀のモデルが、武寧王であることを示すものであり、さらに蘇我氏と百済王家との関係を示唆するような記事でもあったのである。

1.百済王子恵と蘇我稲目
 
 欽明紀16年2月には百済王子恵と蘇我臣のやや長い対話の記事がある。蓋鹵王の死を伝えた恵はしばらく倭国に滞在するのだが、そこで蘇我臣が、彼に助言をするくだりが記されている。
 蘇我臣(おそらく稲目・蘇我卿も同じ)は、まず恵に次のように問う。
「いったい何の科でこのような禍(聖明王殺害)を招いたのか。今また、どのような術策で国家を鎮めるのか」
 これに対して恵は、何もわからない、と心もとない返事をする。そこで蘇我臣は次のような訓示をする。

 「昔在天皇大泊瀬之世、汝國、爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託(かみの)神(みことに)語(つけて)報曰『屈請(つつしみいませて)建邦之(くにをたてし)神・往救將亡之(ゆきてほろびなむとするにりむを)主(すくはば)、必當國家謐(しず)靖(まりて)・人物乂安(やすからむ)。』由是、請(かみを)神(ませて)往救、所以(かれ)社(くに)稷(やす)安寧(らかなり)。原夫(たずねみればそれ)建邦神者、天地割判之代・草木言語之時・自天降來造立國家(あまくだりましてくにをつくりたてし)之神也。頃聞、汝國輟而不祀(すててまつらず)。方今、悛悔前過(さきのあやまちをあらためてくいて)・脩理神宮・奉祭神(かみの)靈(みたま)、國可(くに)昌(さかえ)盛(ぬべし)。汝當莫忘(いましまさにわするることなかれ)。」

 「昔、大泊瀬天皇(雄略)の御世に、お前の国百済は高句麗に圧迫され、積まれた卵よりも危うかった。そこで天皇は神祇伯に命じて、策を授かるよう、天神地祇に祈願させられた。祝者は神語を託宣して、『建国の神を請い招き、行って滅亡しようとしている主(百済王)を救えば、必ず国家は鎮静し、人民は安定するだろう』と申し上げた。これによって、神を招き、行って救援させられた。よって国家は安寧を得た。そもそも元をたどれば、建国の神とは、天地が割け分かれた頃、草木が言葉を語っていた時、天より降りて来て、国家を作られた神である。近頃『お前の国はこの神を祭らない』と聞いている。まさに今、先の過ちを悔い改め、神宮を修理し、神霊をお祭り申せば国は繁栄するだろう。忘れてはならない」(小学館現代語訳)

 以上だが、この内容は雄略紀そのものにはないものである。これは重要な意味を持つと思われるので、説明していきたい。
 稲目は、百済が衰退した原因が、建国の神をきちんと祀らなかったことだと述べている。神宮を修理して祀れと言っていることから、それは百済王族たちが仏教に傾倒していることへの注意喚起でもあったかもしれない。
 天皇は百済を危機から救うために天神地祇に祈願すると、建国の神を招いて百済王を救えば、国家、人民は安定する、というご託宣を受けた。下線の部分であるが、この御託宣は天皇に対してなされたものとなる。主(にりむ)は岩波注では百済国王としている。建国の神(建邦之神)を請い招(屈請)いて百済国王を救えれば、百済は復活するという。どうして百済王を救えば百済を救うことになるのか、と言った疑問も起こり、意味が取りにくいところではあるが、困窮している百済王に力を与えれば、百済が復活することができる、となろうか。以上のように考えると、ここは日本の天皇が百済建国の神を請い招いたということになる。
 岩波も小学館もこの建国の神を倭の神のこととする解釈を行っているが、そうであるならば、日本の天皇が百済存続のために、自国の天孫降臨の神に祈ったということになるのだが、これは不自然な事であろう。書紀の神代紀に「建邦之神」という表現は皆無であり、日本の神とは結びつかない。ここは百済王を救うためには百済の建国の神が必要ととるのが妥当ではないか。百済建国神話は三国史記などに記述はないのだが、おそらく高句麗に神が天降るという山上降臨神話があることから、元は兄弟関係であった百済にも同じ神話があったと考えられる。
 だがそうであれば、これもまた奇妙なこととなる。日本の天皇が、百済を救うために、百済建国の神を招いて救援したというのだ。こんなことがあってよいのかという疑問が起こるので、建国の神を日本の神ととろうとする解釈が生まれたのであろう。岩波注が判断に迷うのは致し方のないことであった。注1)
 ところがこれは、視点が変われば、不思議なことではなくなる。雄略とされる大泊瀬天皇は、幼武ともいわれるが、この人物のモデルが斯麻こと武寧王なのである。彼は即位前に倭国に倭の五王の武として、政事を治めていたのである。高句麗の為に父兄を殺害された斯麻は、その無念をはらすため、百済支援のための行動、宋への上表文での訴えなどを起こしていたのである。
 雄略が百済の為に天神地祇に祈願したのは、ちょうど倭国にいた東城王を百済に送り出す頃のことであったのではなかろうか。天皇は護衛を付けて東城王を送り出す。「雄略23年(479)仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王末多王。」その際、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて)とある。「誡」は、いましめる、との意であり、やさしくではあるが、しっかりと用心することを言い付けたのだ。ここで雄略は、東城王に百済建国の神をないがしろにしない様に戒めたのではなかろうか。「親しく頭を撫でる」行為は肉親であればこそである。東城王の近親に当たる雄略こと武寧王であるからこその対応なのである。
 以上のように、蘇我稲目は百済王子恵にとっては祖父にあたる武寧王の功績を訓示したのであると考える。

2.蘇我氏と百済王がつながる百済系ライン
 
 この蘇我臣とされる稲目は、仮にも百済の王子に対して、対等、いや上から目線で教訓を垂れているのではないか。しかも、彼はどうして百済敗北の事情を理解していたのであろうか。これも次のようにとらえれば合点できる。
 高句麗による漢城陥落のなか、蓋鹵王は、王統が途絶えないようにと、王子文周王と木刕満致(もくらまんち)らを逃がし、その彼らが熊津で再建をすすめることになる。この木刕満致は、本人、もしくは末裔が後に倭国に渡り蘇我氏になったと考えられる。すると、稲目は自分の祖先から、漢城陥落の話を生々しく聞かされ、高句麗に対する油断などの問題点も教わり、国家祭祀も不十分であったとの認識をもつにいたったと考えられる。
 百済王族と行動を共にした祖先の末裔だから、まるで子に諭す親のような立場で、恵に対して国家祭祀の重要性を説いたのではないか。なお、蘇我氏は仏教の推進派であれば天神地祇の重要性を語るのは矛盾するという意見もあるが、稲目そのものは最初から仏教信仰者ではなかったということは付記しておく。
 さらにいうと、後の『扶桑略記』に、飛鳥寺の立柱儀礼の際に参列した蘇我馬子以下百人あまりが、百済服で参列し、観るもの皆喜んだとあるのも、その関係を物語っているのである。
 また、武寧王のこともひとつ付け加えておきたい。
 雄略紀には、漢城陥落を知ってもすぐに出兵するといった倭国側の軍事行動の記事はない。新羅は羅済同盟もあって漢城に向けて大軍を派遣している。倭国の場合は、翌年の3月に久麻那利(熊津のこと)を汶洲(文周)王に賜った、とあるだけである。つまり、当時の倭国の王は、新羅のような軍事行動は起こしていない。それは、倭の武王上表文にあるように、倭王武の父兄が同時に亡くなったがために喪中になったので出兵できなかったということであり、その父兄とは、蓋鹵王と百済王子たちで、その中に自分の兄弟もいたのである。北九州で生まれた斯麻は列島に長く滞在したと思われ、漢城陥落の際も昆支といっしょに列島にいたから助かったのである。
 その雄略の一つのモデルである斯麻は、倭国の地で、百済の為に百済建国の神に祈りを捧げた、というのが、蘇我の稲目が先祖から受け継がれた話となったと理解できるのである。
 このように、百済というラインでのつながりが見えてくるのであり、後の武寧王となる斯麻が、雄略のモデルである倭王の武であった可能性を物語っているのである。
 なお余談だが、百済王子恵は、仏教信仰に熱心に取り組んでいたことを示す倭国滞在中の伝承が残されているので紹介する。

 神戸市にあった明要寺の丹生山縁起
 赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」とされたようだ。「明要」は九州年号541~551。 恵は554年に即位した百済威徳王の弟と考えられ、丹生山縁起が史実を反映しているならば、この寺社建立の後に、軍事援助の折衝を行ったと考えられる。 
 ちなみに、この明要寺には平清盛が月参りを行っていた。平氏は百済系であることとつながるのである。

注1.岩波注には、「通証※は百済の建国神とみるが、(中略)これは日本の建国神で、のちに天之御中主の神や国常立尊以下の人格神観念が形成される以前のかなり漠然とした創世神の観念とみるべきであろうか。」としているが、「漠然とした創世神」を招いて救ってもらうことがはたしてできるのであろうか。※江戸時代谷川士清の注釈書



 蘇我氏系図はウィキペディアより

1.武寧王と銅鏡の関係

 武寧王墓に副葬された中国製の銅鏡に関しての森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出土状況に比すべきもの」(森2015)だという。また、その銅鏡の踏み返し鏡をつくり日本の古墳埋葬者に配布されていることも同様であろう。倭国にいた武寧王こと斯麻は日本産のコウヤマキ製の棺が使われたが日本の銅鏡の扱いにも関心があったのであろう。
 このことから、隅田八幡宮神社人物画像鏡の銘文に記されたように、斯麻が作成させて男弟王に贈ったことも説明がつく。百済王が、銅鏡の制作を指示したというのも、これが列島の有力者のためにというのも異例なのである。百済のみならず半島には、銅鏡を重要視する慣習は多くはないが、倭国に滞在した斯麻はこれを理解していた。綿貫観音山古墳などの被葬者に獣帯鏡のコピーが渡った理由も関連付けられるのである。                     

2.風土記の倭武天皇と大橘比売皇后

 常陸国風土記の倭武天皇が、倭王武のことと考える識者は多いが、そうであるならば、私見では斯麻として倭国にいた武寧王のこととなる。上表文の「渡平海北九十五國」と風土記の「倭武天皇巡狩天下、征平海北」の記述の類似は無関係とは思えない。風土記における倭武天皇の記事は、総記と9カ所ある郡のうちの5郡に登場する。斯麻王は東国エリアもくまなく「巡狩」していたのである。 
 またこの風土記には、倭武天皇の皇后として大橘比売命が記されている。ならば、武寧王陵にともに埋葬された王妃は、この大橘比売の可能性が出てくる。武寧王陵の副葬品は、その多くが中国由来のものだが、その中に王妃の頭部付近に銅鏡が置かれていたというのは注目すべきことであって、まさに倭人の風習を示すものと言える。武寧王の皇后が倭人であり、その人物こそ大橘比売であったと想定できるのである。
 歴代の百済王の夫人が倭人ではないかという説は、既に言われていることであるが、今回、銅鏡の問題、常陸国風土記の記事、武寧王陵における副葬された銅鏡などから、大橘比売が武寧王の后であるとの私見を披露させていただいた。

3.倭の五王の郡太守号の要請を真似た百済王
 
 次は、武寧王ではなく、蓋鹵王に関することである。
宋書の記事に関しての河上麻由子氏の指摘だが、「倭国王は451年にも23人の倭人に対して将軍号と郡太守号を与えるよう求めている。458年には百済も臣下への官爵号の授与を求めた。これ以前に百済王が臣下への授与を要請した事例は見出せない。珍・済の成功に依ったものであろう。」(河上2019)と書いておられるが、これは次のように理解できる。
 蓋鹵王は455年に百済王として即位している。彼が百済で官爵号を求めたのであるが、蓋鹵王が倭王済であるならば、済であった時代の451年に23人の軍郡が認められ、この事例を百済に戻ってからも行ったと捉えることができるのである。


 この武寧王と倭王の問題は、いったん区切りを付けさせていただくが、あらたな知見など得られれば、随時、ふれさせていただきます。

参考文献
森浩一『著作集2』新泉社 2015
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書 2019

一言主神社参道
奈良県御所市 葛城一言主神社参道
ワカタケル像
ワカタケル像
一言主神社ワカタケル像掲示板
解説パネル

1.幼少期にワカタケルと呼ばれていたのは斯麻王ではなかったか。

 古事記では大長谷若建命、日本書紀では大泊瀬幼武天皇である雄略は、葛城山で一事主神と出会い、自ら幼武尊と名乗っている。幼い武という名は少し奇妙ではないか。瑞歯別の反正天皇も歯の特徴からついた名前のようだが、雄略は年端も行かぬうちに天皇になったというのだろうか。だが雄略は書紀では62歳であり、在位期間が23年と考えられており、それならば即位時の年齢は39歳であって、これがもし2倍年暦としても、20歳に手が届くころである。 
 ここは書紀の語る天皇でなく、雄略に充てられた実在の人物に幼い武と呼ばれていた人物がいて、その彼が若くして倭国王になった人物を想定できるのではなかろうか。つまり、幼武とは、武寧王となる斯麻のことではないか。
 武寧王は40歳で百済王となっている。少し遅くはないか。40歳までどうしていたのか。百済で活動していたなら、何らかの記録があってもよいのではないか。時期は不明だが幼い時から日本に滞在し、百濟に戻った昆支の後に倭王となって、40歳まで日本で活躍したと十分考えられる。生誕が462年ならば、成長した斯麻は、477年の遣使記事の前年に倭王として即位したとすると、15歳のこととなる。昆支は世子興として倭国滞在中に、幼少からの斯麻を幼武、ワカタケルなどという愛称で見守っていたかもしれない。
 近畿一元論の倭の五王の武の雄略比定説には従えないが、書紀の編者が雄略天皇の創出に、斯麻こと倭の武王を想定したとは考えられないか。もちろん記事には、別の人物の事績も混在していると考えられる。
 稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が、雄略のワカタケルのことだと言われているが、これも、斯麻王である倭王武の統治の時代を意味すると解くことができる。

2.頭を撫でて百済に送り出す天皇の記事

 雄略23年に百済の文斤王がなくなる。天皇(天王)は昆支王の二番目の子の末多王(東城王)を内裏へよばれ、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろにいましめて)とあるのだが、これと似たような表現がある。壬申の乱の記事では、天武が戦術の相談の際に、子の高市皇子をほめて、「携手撫背、曰愼不可怠」(手をとり背を撫でて、しっかりやれ、油断するなよ」と言うのも、身内だからこそできる行為といえる。するとこの「天王」は当然のことだが雄略とは異なる。岩波注ではもとはこの個所は「大王」という表記であった可能性も指摘している。
 武寧王の前の百済王である末多王(東城王)を百済に送ったのは筑紫の兵士を500人も護衛として付けるなど破格の対応を遂行できる倭国の高位の人物であり、本人とは親族関係にあることが考えられる。そうすると、東城王を百済に送り出したのは、幼年期を倭国で過ごした倭武王こと斯麻のことなのである。
 この筑紫の兵士が帰還したという記録はない。彼らは、栄山江などの百済の非征服地に送られ、そのリーダーは定着して彼の地で前方後円墳を造り、多数の兵士たちは、これも多数見つかっている倭の特徴をもつ横穴墓に葬られたと考えられる。墳形が方円形で、石室が九州式の特徴を持っていても、副葬品に百済や加耶の特徴も見られ、中には、甕棺の置かれた石室もあるところから、九州勢力の支配を示すものとは考えられない。この特徴ある墳墓がほぼ一代限りであることからも、百済主導の倭系官人の先行的な配置であって、その後は百済の支配が確立していったことを物語っているのである。すなわち、百済に戻った斯麻こと武寧王が、栄山江などの進出を推進したと考えてよいであろう。
 





 先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の次の倭王であったとの考えを述べる。

純陀太子も倭王であった可能性を「太子」の意味から解く

 武烈紀7年 百濟王遣斯我君進調(中略)故謹遣斯我奉事於朝 遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
 百済王が斯我君(キシ)を遣わして調をたてまつった。(略)故に謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます、という。その後、子が生まれて法師君という。これが倭君の先祖である。(宇治谷訳)

武烈紀系図
 上記では、法師君の父親はわからないが、冨川氏は、「系図で示した《?》は「朝(みかど)」であり、「倭君」とは単なる「倭」姓にとどまらず、「倭国」の君主を指すにちがいない」とされた。
 一方の続日本紀では「后(高野新笠)の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」とあり、武寧王の子の純陀太子が、新笠の父親の和(ヤマト)乙継につながるのである。
 では、武烈紀の斯我君の相手は誰になるのであろうか。倭君が、続日本紀の和乙継につながるのであれば、それは純陀太子(書紀では淳陀)となる可能性が高い。ただ問題が二点あった。まず、斯我君と百済王の関係である。毗有王が送った新齊都媛は、「其妹」とあるところから、近親の女性であり、毗有王の実娘である可能性がある。斯我君の場合も、書紀に記された百済王は、時期から判断して武寧王となるので、斯我君も実娘の可能性があるが、相手が同じ王の子であるならば、近親婚となるので、おそらくは、血縁のやや離れた百済王族の女性と考えられる。
 
 次の問題は、その相手が「太子」と称していることである。武烈紀では、ミカドに奉事するわけであり、それが即位前の太子であれば、遂に後継ぎが生まれたとはできない。もしも父親となる《?》が、純陀太子に違いないとするならば、どうして太子とされているのか。
 これについては、宋書の倭の五王の世子興と同じ状況と考えてよいのではなかろうか。「世子興」は、倭国においては王であったはずだ。しかし世継ぎの意味である「世子興」を宋書は、二か所で記載している。奇妙な事であるが、あまりこの点について関心が払われていない。「世子」は中国や半島では使われる用語であるが、これが何故、倭王であるはずの興に使われたのかは不可解であり、本来は蓋鹵王の後継ぎであったからとせざるをえない。本来はいずれ百済王を継ぐ人物であったが、高句麗の侵攻による混乱で、半島に戻るも即位することなく亡くなってしまう。
 ならば、この純陀太子の場合も、武寧王の子であり、百済王の世継ぎであったので、それを日本書紀側の表現として「太子」と記したのではなかろうか。つまり純陀太子は、倭国では王となる存在であったが、継体紀にあるように、状況は全く不明のまま崩御(薨)したのである。同じ武寧王の子の聖明王が次に即位することになり、純陀は太子のままで世を去ったのである。
 すると、純陀太子が、世子興と同じように倭国王の位置にいたことになり、斯我君との間に法師君が誕生することになる。だが、法師君、及びその末裔は、純陀太子を継いで、倭国王の地位にとどまることはなかった、と考えられる。継体7年(513)淳陀太子薨との記事に、その死因は記されていないが、なんらかの政変があったことも考えられる。
 
 これまでのところをまとめると以下のような図となる。
蓋鹵王から武寧王
443年 倭王済は宋に遣使 
455年 百済毗有王の急死で、済は蓋鹵王として即位。 かわりに不  
   明のX王が倭王継承
460年 X王が宋に遣使
461年 蓋鹵王は昆支を倭国に派遣。彼が世子興として遣使をおこな
   うが、高句麗の襲来の後に帰国後急死。
477年 世子興の昆支が帰国し、斯麻こと武寧王が倭王武として即
   位。翌年に遣使、上表文を渡す。
502年 斯麻は、東城王の急死で帰国し、武寧王として即位。子の純 
   陀太子が倭王即位。
513年 純陀太子薨去

参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

1. 百済三王と倭の三王の同一人物説
 
 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無関係である。
①倭王武の上表文の内容に対する疑問。直接の影響のない倭国が高句麗を非難しているが、高句麗の被害に遭っているのは百済であり、中国への遣使を妨害されている。
②上表文の済が高句麗征討の準備をするというのでは、次の興の存在を飛ばしている。
③上表文のにわかに父兄が亡くなるのは、漢城落城で刑死する蓋鹵王と王子のことと考えられる。
④武は、百済支援の兵を喪中で出せなかったのも、蓋鹵王刑死のこととすれば符合する。
⑤宋書倭国伝の「世子興」の「世子」は半島で使われる表現。しかも世継ぎが倭王になるのも不審である。
⑥蓋鹵王の指示で昆支が渡海した翌年に、世子興は宋に朝貢している。
⑦昆支の百済帰国の翌年に倭王武は遣使をしている。つまり昆支は武に引き継いで帰国したことになるのでは。
⑧日本での古墳などの出土遺物と武寧王、百済との深い関係が見られる。
⑨斯麻は日本で誕生してから、百済王に即位するまでの40年間の足跡は不明。蓋鹵王も即位前の事績は不明。
⑩日本に渡った昆支の事績も不明だが、飛鳥戸神社の祭神に祀られ、「新撰姓氏録」に飛鳥戸氏の祖とされる。
⑪百済と倭国の深い関係。日本にいた東城王の帰国の際には筑紫国軍士500人の護衛。彼らのその後は不明。
⑫日本に滞在した百済の王子が、帰国して百済王になっている。直支王、東城王、武寧王、恵王(聖明王次男、威徳王の次に即位)、豊璋(百済最後の王)。他に昆支は帰国後に死去。阿佐も帰国したかは不明。
⑬日本書紀には肖古王薨、貴須王即位から威徳王即位までの11名(毗有王は不記載)の百済王名を記載している。これは異例のことであり、なぜ百済王だけ記しているのか。
⑭白村江戦で倭国軍が多大な犠牲を払うことになった原因も、百済との深い関係を物語る。
⑮武寧王の子の純陀太子が、桓武天皇の母の高野新笠につながる、和(ヤマト)氏の祖というつながりのあること。

2.神社に祀られる昆支王
 昆支の16年あまりの倭国滞在時の事績は不明であるが、わずかな情報がある。書紀の雄略5年秋七月に軍君(昆支)京(みやこ)に入る、との記事の後に、既に五人の子があったと記している。そのうちの子の一人が東城王となる。
 『新撰姓氏録』は、飛鳥戸氏の祖とし、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神になっている。日本の神社の祭神に個人の名のある百済王が祭られるというのは禎嘉王を祀る宮崎県神門神社があるぐらいでめずらしい物であろう。倭国の地で、一定の実績を収めたからこそ崇められたのは間違いない。昆支の末裔は、河内飛鳥の首長、飛鳥戸氏で、後に改姓して百済宿禰となる。
 高井田山古墳(大阪府柏原市)は近畿の初期横穴式石室の採用や武寧王陵出土例に似る火熨斗の出土から、被葬者が百済王族の人物であるのは確実であろうが、これを安村俊史氏は、昆支の墓との説を出されている。百済に帰国してそこで亡くなったという確実な根拠もないから、可能性は否定できない。しかし、別の案もある。
武烈紀3年に、百濟意多郎(おたら)卒、葬於高田丘上、との記述があり、私はこの人物の可能性が高いと考えるが、この高田は大和国の地名との意見もある。
 昆支の足跡としては、高井田山古墳の被葬者が証明されるまでは、あまり多くの情報はないが、武寧王については、日本の古墳などの遺物から、倭国との深い関係を物語るものが存在している。

3.武寧王陵と倭国との深い関係を思わせる古墳の遺物
 
 武寧王の記事も多くはないが、その事績は評価されている。前代の東城王を殺害した苩加を征伐し、即位後には高句麗、靺鞨と交戦し撃退させている。512年には高句麗を大破し、強国として復活させている。栄山江への進出、支配も推進した。前方後円墳の絡む問題だが、この点については別の機会にしたい。
 521年に梁に朝貢し、使持節都督諸軍事寧東大将軍となる。523年には双峴城築く、といった程度の記事があるだけだ。そして「百済本記」に即位前の記事はまったくない。あとは、日本書紀に書かれた半島記事と、列島と半島での関係する出土品から推測するしかない。
 日本書紀には、重出の生誕記事と、武烈4年(502)に即位記事、継体17年(523)百濟國王武寧薨とあり、これは墓誌の記述と整合するが他に記事はない。
 武寧王陵は1971年に発見された未盗掘の墳墓であった。ここに葬られた夫婦と見られる二つの棺は半島には自生しない日本産のコウヤマキが使われていた。ちなみに、高井田古墳の棺もコウヤマキ製であったが、ここからほぼ同型の火熨斗(ひのし:アイロンのようなもの)が出土している。武寧王本人が、日本滞在時に高野槙の品質の良いことを知って、送ったのであろうか。さらに銅鏡も重要な問題を持つ。
 王妃の冠飾りの下に置かれていた後漢鏡モデルの獣帯鏡の踏み返しといわれる同型鏡が、滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土している。そもそも半島に銅鏡を副葬するという例は少ない。
 森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出土状況に比すべきもの」としている。
 銅鏡の問題では、隅田八幡宮銅鏡の銘文に斯麻とあり、武寧王のことであるのはほぼ定説になっている。
 武寧王陵は見事な磚室墳(レンガ造り)であるが、そこに鉤状鉄製品が認められ、石室や棺を布幕で覆う際に使用したと想定される。同様のものが同型鏡のある綿貫観音山古墳、甲山古墳からも見つかっている。さらには、藤ノ木古墳にも認められる。豪華な金銅製品や銅鏡だけでなく、埋葬儀礼に直接かかわるような金具のセットも同じというのは大変重要と考える。同族の葬送儀礼であるからこそ、同じようなしきたりや形式があるのではないか。綿貫観音山古墳の鉤状鉄製品については、こちら
 さらに、単龍・単鳳環頭太刀だが、梁の高祖が斯麻王に節刀(中国からの任命の印)として下賜したのではという説があるが、この模造刀が倭の古墳から出土している。福岡県日拝塚、茨木市海北塚、大阪府一須賀1号墳などがあり、関係の深さを物語る。
 他に滋賀鴨稲荷山古墳の耳飾りは、武寧王陵王妃の耳飾りと構成(主環、中間飾鎖、)が共通。さらに、熊本江田船山古墳の冠帽、飾り履、長鎖耳飾、馬具は百済との関係は深い。
 武寧王陵の北西7㎞にある横穴墓群が倭人墓の可能性と指摘され、帰国の際の「護衛」の倭兵の可能性がある。

参考文献
新納泉『単竜・単鳳環頭大刀の編年』京都大学ネット掲載1982
「百済武寧王と倭の王たち」実行委員会編『秘められた黄金の世紀展』六一書房2004

百済王と倭王の関係

1.百済のために高句麗を非難する倭王武
 
 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができなかった、という状況の説明と、宋からの支援を要請するものであった。
 これは、既に指摘されていることだが、「上表文では済が怒り、大挙せんと欲すとあるが、これでは次の倭王である興の存在を飛ばしている」(河内春人2018)ということになるのはもっともなことである。
 さらに、高句麗から被害を受けているのは百済国であって倭国ではない。『三国史記』に475年漢城陥落の後に使を遣わして宋に謁見しようとしたが、高句麗に阻まれた、という記事があり、あくまで妨害を受けたのは百済国である。実際に百済蓋鹵王は、北魏延興二年(472)に、中国の北魏に対して次のような訴えを行っている。        
 「百済は魏との間に豺狼(山犬・狼すなわち高句麗)が立ちふさがって路を隔てているために、魏の外藩となる機会をもてない。臣は高句麗に深い憤りを抱いており、このような片田舎の臣であっても、なお、万代の信義を募っております。どうして、小豎(しもべ、こわっぱの意。ここでは高句麗)に王道をはばませてよいことがありましょう。」
 これは武の上表文とよく似ている、というか、実際はその逆で、蓋鹵王の訴えと同じような表現を、上表文にも取り入れたということではなかろうか。だが、百済の言い分を北魏は疑って対応しなかったようだ。このように、蓋鹵王の高句麗への怒りが、武王の上表文に引き継がれているのではないか。倭王武は、百済に成り代わって、高句麗非難をおこなったのである。「句麗無道」などと高句麗への怒りが強く表されているのだが、他国の王がよその国のために感情込めた上表文を、自国の遣使に持たせたというのは不可解としか言いようがない。さらに、重要な問題がある。

2.「奄喪父兄」(にわかに父兄をうしない)とは?

 この上表文の一般的な解説で、苦労をされているのが、倭王武が自分の父と兄を亡くし、喪中に入ったので兵を出せなかった、と述べているところである。武の父は済であり、兄は世子興となるのだが、済の死後に世子興が倭王を継いだはずなのに、これでは理解不能になるのである。では、どのように考えればよいのであろうか。それは、先述の高句麗非難の姿勢の謎と同様に、済が蓋鹵王、興が昆支、武が武寧王とすれば説明が可能となるのである。
 475年、高句麗侵攻によって、百済の漢城は陥落、蓋鹵王は殺害される前に、次の王となった文周王を逃がす。
 文周王は新羅に救援を求め、兵一万を得て戻る。これは間に合わなかったのだが、百済は南下して熊津(広州)を都として再建をすすめる。そして、宋に朝貢しようとした時に高句麗の妨害に合う。この文周王は3年ほどで亡くなり、次に三斤王が即位するがこれも短命で479年に死去。次に倭国にいた東城王が帰国して即位する。
 その前の477年に、倭国にいた昆支は百済に帰国して文周王を支援するも、この年に死去している。事情は不明だが、昆支は、蓋鹵王刑死の2年後に亡くなっている。これが「にわかに父兄を失い」となるのではなかろうか。
 昆支については、蓋鹵王の弟か子であるのか、意見の分かれるところだが、仮に昆支が蓋鹵王の弟で、武寧王の兄にはならないとした場合でも、高句麗侵攻で、蓋鹵王と共に妃や王子などの王族も多数殺害されており、その中に、武寧王の兄弟にあたる人物がいたとすると、父の蓋鹵王といっしょに刑死したとも考えられる。つまり、昆支が兄でなくても、武寧王にとっては、父と兄弟がにわかに亡くなってしまったことになるのである。
 このようにとらえると、宋への上表文にある倭王武の怒りと哀切きわまる訴えの背景、すなわち百済王族の刑死や中国への遣使の妨害の元凶である高句麗への怒りが説明できるのである。
 さらに、済が怒って兵を準備したのは、興を無視しているという河内春人氏の疑問も解消できる。倭王済であった蓋鹵王が、高句麗に対し戦闘準備をしていた時には、世子興である昆支は、倭国に派遣されていたのである。
 また、河内春人氏の、「蓋鹵王が処刑された際に倭国の百済救援の資料的痕跡はない」との指摘についても、武である武寧王が、おそらくは3年にわたる喪に服したから、百濟応援の軍事行動をすぐに起こせなかったという事情の説明もつく。ちなみに羅済同盟を結んでいた新羅は、すぐに百済支援に向けて出兵していたのである。
 
3.「世子興」の謎も解ける。

 またこの説によって、『宋書倭国伝』にある「世子興」についての説明しがたい問題も氷解する。倭の五王の中で、興だけが世子、すなわち世継ぎと記されている。既に「武寧王と倭の五王⑵」で説明しているが、この中国史料には、済が死んで世子興が遣使と記されている。済が死んでから後を継いだとされるが、中国側は、きちんと調査をしたわけではないので、次の王の遣使であるならば、当然、前の王は死んだと判断しただけではないか。
 また、この記事の後半にある武の上表文には、父兄がにわかに亡くなったと書いてあることとも矛盾するのだが、中国側は、所詮、東夷の蛮国のことであり、細かい点まで熟慮せずに記載したと考えられ、必ずしも、済が死んでからの即位と断定しなくてもよいであろう。
 なお、世子については、中国の『晋書』本紀太元11年(386)4月条に餘暉(辰斯王)が百済王世子として使者を派遣し、使持節都督鎮東将軍百済王に任命されたという記事がある。中国側は、直接使者から事情は確認したであろうが、何も世子と名乗っても問題にしていないのである。
 以上から、本来の済は倭国王が世子興になっても、百済で蓋鹵王として生存したと考えてもおかしくはない。もともとは、昆支である興は、蓋鹵王の後継ぎであったので、倭国に渡っても世子興であった。倭国滞在中に高句麗侵攻による蓋鹵王殺害で、急遽、文周王が即位する。後に昆支も帰国するが、何らかの事情で王になれないまま亡くなってしまう。こういうわけで、世継ぎであるはずの世子興が、後を継がないまま、次の東城王や武寧王が王位を継承するとなれば、不自然ではなくなる。だがこれを、倭国の中だけで考えると回答不能の問題となるのである。

 蘇鎮轍氏は倭王武だけを百済王とされたが、済が蓋鹵王、世子興が昆支とすれば、上表文に描かれた、まるで百済の立場での高句麗非難と、にわかに父兄が亡くなって喪に服するという記述、さらには、世子興の意味も矛盾なく説明できるのではないかと考えている。引き続き、他の事例もみていきたい。 

 以下は宋書の倭の上表文        順帝昇明二年,遣使上表曰:
「(略)臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟,實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,(略)」

 上表文の現代語訳       
臣(武)は下愚ではあるが、かたじけなくも先緒(先人の事業)をつぎ、統べるところを駆り率い、天極(天道の至り極まるところ)に帰崇(かえりあつめる、おもむきあがめる)し、道は百済をへて、もやい船を装いととのえた。
 ところが句驪は無道であって見呑をはかることを欲し、辺隷をかすめとり、虔劉(ころす)してやまぬ。つねに滞りを致し、もって良風を失い、路に進んでも、あるいは通じ、あるいは通じなかった。臣の亡考(亡父)済はじつに仇が天路(宋に通じる路)をとじふさぐのを怒り弓兵百万が正義の声に感激しまさに大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない、垂成(まさにならんとする)の功もいま一息のところで失敗に終わった。
 むなしく喪中にあり兵甲を動かさない。このために相手に打ち勝つことができなかったのである。いまになって甲を練り兵を治め父兄の志をのべたいと思う。

(日本書紀現代語訳は講談社学術文庫、原文と解説は岩波文庫版使用 宋書も岩波文庫版)※一部改変

参考文献
河内春人「倭の五王」 中公新書2018
蘇鎮轍 「海洋大国大百済 百済武寧王の姿」彩流社2007


二中歴武烈
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある.

 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあってのことだが、該当の記事をよく見れば、誤解であることがわかる。この点を説明する。

⑴中国、半島の史料に、二人が同時に存在したとする記述はない
  
 同時に存在しているのではとされる根拠となる天監元年の倭王武の進号記事には、合わせて高句麗王と百済王の進号記事が記されている。『梁書』には、次のようにある。
天監元年(502)戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王 梁 彌𩒎進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。
 よく見るとこの時の百済王の名前は「餘大」となっている。これは武寧王のことではない。というのは、同じ梁書には、
普通二年(521),王餘隆始復遣使奉表  
普通五年(524)隆死、とある。
 つまり梁書は「隆」を武寧王と認識している。
 すると餘大は武寧王の前代の王、すなわち東城王となる。その東城王は501年に死去している。ちなみに梁書の武寧王の没年も墓誌年より一年遅くなっている。
 よって、天監元年(502)の記事は、倭国は倭王武と百済は東城王という認識での進号記事となる。なおこの記事に百済も倭国も遣使をしたという記述はない。中国の認識していた時期の前後に事態は急変し、東城王は殺害され、そのあとを日本にもいた可能性のある斯麻こと武寧王が即位したと考えられる。以上を年表にすると、

501年 12月百済東城王(餘大)死去      武寧王(餘隆)即位(月日不明)
502年 梁建国(梁書)高句麗王高雲、百済王餘大、倭王武に進号の記事 
503年 隅田八幡神社人物画像鏡癸未年  ← 斯麻こと武寧王が男弟王に贈る
504年 武烈紀6年 百済王(武寧)が麻那君を派遣
521年 普通2年(梁書)百済王餘隆(武寧王)遣使
524年 普通5年(梁書)隆(武寧王)死 (墓誌では523年)

 このように二人は同時に存在しておらず、『梁書』の餘大を東城王でなく武寧王と誤解されてのことであった。

⑵二人は「将軍仲間」ではなかった
 
 古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』では、その第六部第一章の隅田八幡神社銅鏡に関する一節の中で次のように述べておられる。
「㊃百済の『斯麻王』(武寧王)は、南朝の梁朝下の『寧東大将軍』だった。同じく、この梁朝から『征東将軍』に任命されていた倭王武(天監元年五〇二)は、前述来の検証のように、筑紫の王者だった。すなわち、武寧王と筑紫の王者とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされている。
 倭王武が筑紫の王者であることに全く異論はない。しかし、「将軍仲間」として、武寧王と同時に存在していたかのような表現には同意できない。よくみると、梁朝下の武寧王の記事は先述のように普通二年(521)の記事。一方で倭王武の記事は502年のものであり、二〇年近い差のある記事だ。つまり503年以降に倭王武の記事はない。よって「将軍仲間」という一定の期間、同時に存在していたとする表現は正確ではないといえる。「武寧王と筑紫の王者(倭王武)とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされる根拠となるものは提示されていない。
 同じ論説の中に古田氏は、倭の五王全資料として二十二項目挙げておられる。その最後に『襲国偽僭考』の「継体一六年(522)武王 年を建て善記」の記事については、史料の信憑性については別に論ずる、とされているのだがその後に該当するものの確認はできない。この「武王」が倭王武ならば、彼は宋への貢献記事の478年からおよそ40年以上も倭国王として君臨していたことになる。さすがにこれは考えにくいことであり、作成者の鶴峯戊申も二中歴(注1)を参考にしたとあり、ここは転記の誤りが考えられる。この箇所の「武」は実際は「武烈」であったようだ。
 その二中歴(上図参照)には次の記事がある。「善記四年元壬寅三年発護成始文善記 以前武烈即位」とある。壬寅は522年)で善記元年にあたる。それより以前に武烈が即位したということであり、彼は九州王朝の王者であった。前にもふれたが、日本書紀の武烈紀は、跡継ぎがいない人物と後継ぎが生まれた人物が描かれており、後者が、書紀では隠されている本当の武烈であったと考えられる。
 よって、503年以降に倭王の武が、存在していたという資料はないのである。このことからも、二人は別人ではなく、倭王武が、武寧王になったという説を否定することにはならないのである。

注1.鎌倉時代初期に成立した百科全書的な書物。そこに、九州年号の総覧が記載されており、古田武彦氏はこれを原型本とされた。

図は、内倉武久氏の、吾平町市民講座 2022 年 12 月用 「九州年号について」 よりコピーさせていただいたものを、一部加工しました。

参考文献
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」古代史コレクション⑳ミネルヴァ書房2014

斯我君系譜

図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの

⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。

 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカド、すなわち、朝廷の主要な人物であると考えられる。それは書紀が記す武烈天皇ではなく、別の、いや本来の王権である倭国王権(九州王朝)のことである。その人物の末裔が、後に倭君(ヤマトノキミ)になるのではないか。
 一方で、続日本紀は、光仁天皇の后の高野新笠の先(おや)は、武寧王の子、純陀太子より出づ、とある。ならば、倭君が何代かを経て、和乙継につながり、その娘が高野新笠となるということであろう。
 すると、上記の系図のように、書紀では不明の人物が、武寧王の子の純陀太子となり、その彼の「遂に生まれた」後継ぎが、法師君となる。このようにして、日本書紀と続日本紀の系図が、図のようにつながるのではないか。斯我君は、朝廷の主要な人物に輿入れしたわけであり、それは上位の王族、もしくは本来の天皇との成婚であったはずだ。純陀太子(書紀では淳陀)は、継体紀7年(513)に薨(崩御)とある。状況は不明だが、自然死とは考えにくく、上層部内での何らかの出来事によるものとも考えられる。純陀太子に関しては、後に改めてとりあげたい。
 先に説明したように、蓋鹵王が中止させた女性の派遣を、どうして武寧王は復活させたのであろうか。子が倭国王権の構成員であるならば、父親の武寧王も、以前に倭国王権と深く関係していたからかもしれない。それは、時期から判断して倭王武にあたるのではなかろうか。

2.近畿一元論ではなく、多元史観で解明する

 韓国の研究者から、「百済王即位以前は侯王である倭王として在位のようにみえる」(蘇2007)との説が出されたことがある。その根拠として、『宋書』にある倭王武の上表文に注目されている。高句麗の攻勢に対し、百済の蓋鹵(コウロ)王は、北魏の高祖に救援を求める上表文に類似があることや、二つの上表文が、高句麗非難と、百済を支援されればその恩恵は忘れないといった表現が共通していること、字句に共通点があること、「奄喪父兄」(にわかに父兄を失い)は父の蓋鹵王とその王子のことしかない。さらに、列島の古墳の金銅製冠や飾履などの百済と関係する出土品が多数あげられること、などである。
 蘇氏は、「斯麻王は十代で武という名で倭の王位についた」と指摘されるが、私見では、武だけではなく、五王のうちの済、世子興も百済王との関係があるとしている。讃と珍については、判断がむずかしいが、あとの済は蓋鹵王、世子興は昆支、武は斯麻王こと武寧王となると考えるのである。
 そんなことは信じがたい、と思われる方は多いであろうが、これから提示するいくつかの論拠でご判断いただきたいと思う。また、同様に百済王と倭国王の関係はネットを含め少なくない方が論じておられる。ここでは、日本書紀の天皇ではなく、6世紀あたりまで九州に拠点があった倭国王権という視点、さらには、これまで話題にさせていただいた、列島への渡来移住者の影響を踏まえるという点で、自分なりに整理をしてこの問題を説明していきたい。

 なお、繰り返し掲載した武烈紀と続日本紀の記述を合わせた系図は、重要な問題を含んでいるが、これについては後述したい

参考文献
蘇鎮轍(ソ・チンチョル)「海洋大国大百済 百済武寧王の世界」彩流社2007

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