日本書紀には記事の作為的な年代移動が多く行われている。前回は、唐軍の来朝記事の重出を説明したが、それだけではなく、山城・水城造営記事も動かされている。山城の造営時期を、白村江戦の敗北後に防衛施設の充実を図るためにすすめられた、といった通説の解釈も疑問なのである。
斉明紀4年には、山城造営と考えられる記事がある。
留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘
蘇我赤兄が天皇の失政として、多数の倉庫の築造や石を積んで丘のようにする、といったことから、大野城などの山城築造を非難する記事なのである。
山城造営の年代に関して研究者は白村江戦のあとに、防衛を強化するために山城などを造営したと口をそろえて説明されているが、まともなご判断とは思えない。太平洋戦争のあと、マッカーサーがやって来た時に、日本は軍事施設を強化するようなことをしていたというのだろうか。郭務悰に気づかれないように水城など作ることは不可能。そもそも白村江戦で甚大な被害を被った倭の勢力に、膨大な労力を担える状況などなかったのではないか。早くわかってもらいたい。
以下では、正木裕氏の高説である九州年号を利用した年代移動で、本来の時代に即した記事の並び替えで天智紀の水城、山城の造営記事が天智紀ではなく斉明紀に見事に遡ることを説明したい。
以下に関連する日本書紀の記事を掲載する。
天智二年 九月辛亥朔丁巳百濟州柔城始降於唐。是時國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。
四年春二月癸酉朔丁酉、間人大后薨。是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡
秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城
五年是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國
六年十一月是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城
八年秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城 十二月、災大藏。是冬、修高安城
是歲、以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡
九年二月、又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二 (重出か)
十年正月以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明法官大輔、以小錦下授鬼室集斯學職頭、以大山下授達率谷那晉首閑兵法・木素貴子閑兵法・憶禮福留閑兵法・答㶱春初閑兵法
◆白村江戦の敗北後の天智紀の山城、水城関係の記事を元の時代にもどす。
天智二年九月の記事では、山城造営などに関わった憶禮福留らの工人は、百済遺民といっしょに、日本に向かった、かのようにとれる。すなわち、唐と新羅の攻勢によって避難しだした百済民といっしょに行動しているようにみえるが、分けて考えなくてはならない。
山城造営は天智四年、六年に造営記事があり、その後天智十年に官位を授与されている。そして日本に同行した佐平余(餘)自信も、多数の百済人と近江に移動する記事の後、十年に官位を授かっている。一見、矛盾なくつながった記事のように見えて、白村江後に日本にやって来た工人によって山城造営が始まったかのようにとれるが、実は山城関係の記事を正木氏が見抜かれた九州年号に合わせた時代移動ととらえて修復すれば、斉明紀に造営があったことが明らかになる。
山城造営に関わった工人は白村江戦の前に帰国し、敗戦後、日本に天智二年の記事のようにやって来るのである。つまりここでは百済避難民の記事の中に、工人たちを紛れ込ませたのである。二つのパターンが考えられ、一つは朱雀が書紀白雉、朱鳥が九州年号白雉という移動と、もう一つが白鳳が白雉、大化が白鳳への移動となる。防人の記事も移動で考えてみた。
別表のように、正木氏の指摘にあるように天智紀に動かされた、山城、水城造営の記事は、後の修復記事以外は斉明紀の山城、狂心の渠の記事と合致するようになる。
以下のような表を試案として添付する。やや複雑で、見直しなども必要かもしれないが、孝徳紀後半から斉明紀、そして天智紀の白村江敗戦までに、関連する記事を九州年号どおしの入れ替えで再構成した。 説明不足の記事もあるので、またあらためて詳述したい。表そのものも修正を図っていきたい。
図を直接クリックしていただくと見やすくなります。







