流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

日本書紀

倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵

宋比較
 宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿のヤマトに神武より天皇が君臨していたという観念にしばられて、こじつけて当てはめているにすぎない。実際に批判的な通説の研究者もおられるのだ。(河内2018)
 倭の五王が日本書紀の天皇に当てはめられない理由を、私見では細かい問題もあるが、重要なところを二つ指摘しておきたい。

1.書紀が宋書倭国伝を無視していることの説明が必要

 一つ目は、倭の五王の記述が全く日本書紀に記されていないということである。いや、そんなことは言われなくてもわかっている、だから苦心を重ねて各天皇に比定しているのではないか、と思われる方もおられるであろうが、このことが重要な問題なのである。つまり、中国側の史書である宋書倭国伝、他に南斉書、梁書には記されているのに、どうして日本書紀は、その記事を少しでも採用しなかったのか、という問題である。宋に対して何度も遣使を行っていたのであれば、書紀は記事にしたはずであるのに、なぜそうはしなかったのか。
 書紀は、漢籍と言われる中国の史料などを多数引用している。それも、個々の莫大な史料の記事を渉猟して引用したのではなく、芸文類聚などの、記事のテーマごとに採集、編集された便利な資料集を活用して、書紀編者が、その場面に応じてふさわしい一節や熟語を抜き出してはめ込んでいたのである。これによって、潤色といわれるが無味乾燥とした記事に豊かなイメージを与える歴史書に変容させたのである。
 さらに年代を具体的に示す外国史書の引用も取り入れている。例えば神功皇后紀の39年(西暦239)には、景初3年6月倭女王遣使の記事を引用し、さも神功が卑弥呼であるかのように装っているところが見られる。さらに66年(266)にも、中国史書の泰初2年倭女王遣使の記事を記している。ここで神功は、長寿の女王にされてしまっているのだ。また百済の史書からも、百済王の崩御と新王の即位記事を繰り返し記載している。ところが、允恭や雄略に年代が該当するところでは、中国史書の倭の五王の記事は全く無視されているのである。
 それは、書紀にとっては不都合な、本来の倭国を示す中国側の証言集であったからだ。不都合な真実を載せるわけにはいかなかったのだが、通説の一元論では、それが説明できないのである。この点についての説明がないまま、倭の五王についての推論を進めること自体が疑問なのである。

2.書紀の天皇では説明できない世子興
宋書

 二つ目は、これが最大の問題と思われるのだが、宋書の五王の中で、興については「世子興」と繰り返し記されていることである。「世子」とは、世継ぎのことであり、天皇でいうならば太子にあたるのだが、日本書紀には日本の王の世継ぎに世子という表現はない。ただ一カ所、高句麗王族の記事にあるだけである。
 欽明紀7年に高麗内乱の記事 「中夫人生世子其舅氏麁群也」
 この世子には「まかりよも」との訓みが与えられているが、太子のことだと岩波注は記している。
 中国晋書には、「百濟王世子餘暉為使持節都督鎮東將軍百濟王」
 ここでは、辰斯王は、本来の後継者の阿莘王が若かったので代わりを務めたので正式な王ではないとしたのであろうか。また他にも、広開土王碑に「世子儒留王」、さらに七支刀銘文に、「百済王世子奇生聖音」とあるように、半島の王族に使われる用語といえる。書紀に記される日本の天皇の後継者に、このような用語は使われていないのである。世子とされた天皇が存在していたのであろうか。この点についての説明がないまま、興を訓みがコウと共通するところから安康に当てはめるなど、とても学術的な説明とは言えないのである。

 宋書に記された倭の五王は、日本書紀が描いた天皇とは違って、当時実在した倭国王の事績が書かれたものである。これは、後の隋書倭国伝に記された多利思比孤や利歌彌多弗利が、推古や厩戸皇子に比定できないのと同じ事情なのである。よって、倭の五王も、当時は九州に拠点のあった王朝との関係で検討しなければならないのである。

参考文献
河内春人「倭の五王」中公新書2018 宋書と記紀の比較図も同書より
宋書倭国伝の図は、岩波文庫の原文より

臼を担ぐ景行天皇と安産を願って一緒に踏ん張る習俗

産屋
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋
大原産屋パネル

1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味

 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)
の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケルである。そこに、次のような一節がある。
 一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓 (双子が生まれ、天皇はあやしびたたまひて、すなわち碓にたけびたまいき)
 現代語訳では、「一日に同じ胞(えな)に双生児として生まれられた。天皇はこれをいぶかって、臼に向かって叫び声をあげられた」(宇治谷孟)
 生まれた双子の命名譚であるが、天皇の臼がどう関係するのか説明不足の記事である。これについては、いくつかの解釈があるが、民俗学の中山太郎氏の栃木県における妊婦の夫が臼を背負って家の周りを回る習俗など、出産と臼に関連があると論じ、これを受けて人類学者の金関丈夫氏は、天皇が二人が生まれるまで重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇が思わずコン畜生と叫んだと解釈されている。
 そう遠くない時代にも残っていた風習が、日本書紀にも記されているというのが興味深い。これは、妊婦の出産時の苦しみを少しでも緩和させようと、出産に立ち会う人が疑似体験をすることだったのであろう。それは、特に古代では切実な安産への願いからくるものであったのだ。

2.みんなで踏ん張れば安産になるという習俗

 妊娠から出産、育児にわたって人々が行ってきた風習などを集めたものに「日本産育習俗資料集成」というものがある。民俗研究者等による全国調査を昭和10年にまとめたものだという。そこに、臼を担ぐ話は見当たらないが、興味深い事例があるので紹介する。
 「分娩」の項に島根県安来市の山間部にある赤屋村のソウヘバリという習慣。ソウは総、ヘバリは力(リキ)む、とかいきむこと。この地方の方言であろうか。戸数12戸の小部落であるが、妊婦が産気づくと直ちに隣家に知らせ、そこから全戸に知らせると、主婦は残らず駆け集まり、産室の隣家で産婦の陣痛が起こるごとに、全員が、うんうん声をそろえ、産婦の呼吸に合せてヘバルのである。すると必ず安産するという。今日多少衰えたがなお行われているとのこと。ただ、「今日」とは調査時の戦前のことであり、現在は行われてはいないだろう。
 それにしても、主婦が総出で妊婦と同じ苦しみを、いきむという行為の疑似行為で共有するというのは、女性たちが同じ苦しみを知っているからこそであろう。このように、臼を背負って踏ん張ることと似たような安産の為の習俗が行われていたのである。同じような行動ではなくても、このような地域の絆、共助の精神が広く全国にあったのではなかろうか。
 
 上記の資料には、産室に力綱という縄を吊るしてあったり、刃物が置かれたり、しめ縄張ったりする事例もあるが、写真の産小屋にも、入り口に鎌が、室内には力綱が吊るされている。
産屋中

 安産の願いに関しては、底なしひしゃくが各地にあったというが、これは現在にも多くの神社で見かけるもので、今も途絶えずに継承されているということだろう。
 他にも、妊娠から子育てまでの様々な習慣、神仏祈願の民俗などが豊富に語られ、なかには堕胎や間引きといったおぞましい内容もあるが、昔の人々の苦労、願いを知る貴重な資料である。
 この『産育習俗資料集成』は国会図書館HPで閲覧できるので、ご興味のある方は是非ご覧ください。

参考文献
恩賜財団母子愛育会編「日本産育習俗資料集成」 第一法規出版株式会社発行 日本図書センター 

日本書紀の編纂には新羅側の意向も見受けられる

新沢千塚
 記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向や傾向の実体を反映するものではないという。考古学調査で検出される渡来系移住民の存在を、記紀ではほとんどつかめないというのである。たとえば、写真の奈良県新沢千塚古墳群の126号墳は、新羅からの渡来のリーダーの墳墓とされ、そこに金製装飾品や西方のガラス製品などの豪華な副葬品が見られる。実際には百済におとらず、新羅も列島の中で一定の存在であった可能性がある。
 古事記は、新羅敵視がなく、逆に日本書紀は新羅を敵視しているとのことから、古事記は新羅系の渡来人によって、紀は百済系の渡来人によって書かれた(金逹寿1990)との見方があるが、実際にはそう単純ではない。日本書紀には百済の資料がかなり使われている状況はあるが、個々の記事には、新羅側の恣意的な造作と思われるものがあり、研究者よりそういった指摘もなされている。

1.茨田堤の工事と新羅
 仁徳紀11年の茨田(まむた)堤の説話に、堤防が何度も壊れる所があったが、天皇の夢に神のお告げで、武蔵人の強頸(こはくび)河内人の茨田連衫子(ころものこ)の二人を犠牲にして河伯(かはのかみ)に祭れとあったことから、まずは、強頸が犠牲になったが、次の衫子は瓢(ヒサゴ)を用いた瓢が沈まなければ偽りの神だとしたウケヒを行い、瓢は沈まなかったので犠牲にならずに済んで堤が完成する話がある。強頚は人柱となるが、衫子は逃れる事ができ、その瓢は新羅を暗示するという。始祖の赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)は瓢のような大きな卵から生まれたという。辰韓では瓢を朴といい、始祖王は朴氏である。また、仁徳50年に茨田堤に鴈が産卵するというのは現実にはありえないのもので、アマノヒボコの日光感性卵生説話と同様のものであって、これは新羅を意味している。なお最初に人柱となった強頚は、三国史記巻46列伝題「強首」があり、新羅の武烈、文武、神文王に仕えた官人であり、その名前を利用したかもしれない。
 逆に築堤を妨害する「河伯」は高句麗、百済の出自を意味していることから、7世紀の半島で新羅が高句麗・百済を滅ぼして新羅が勝利する話が、ここに暗喩として含まれており、築堤の成功が新羅優位を物語っているというのである。よってこの説話の潤色に関わったのは新羅系渡来人だと考えられる(赤木2013)とされている。

2.新羅サイドの造作も練り込まれた日本書紀
 この茨田堤の説話については、長柄の人柱(こちら)と同様に、治水工事の意味があるものと考えていた。しかし、強頚と衫子という言葉がなんとなく堤防の土台を補強するようなものかとも考えたが、釈然とはしなかった。ネットを見ると、細部にわたって究明されている記事もあり、治水との関連はありえる。そうするとこの説話は、堤防づくりの工法をベースに、そしてこれを利用した新羅の思惑を含ませた説話ということになろうか。
 新羅は7世紀後半に百済と高句麗を制して半島の統一をすすめたが、倭国内では百済、高句麗系の勢力と新羅系の勢力がせめぎ合いを行っていたと考えられる。それが、日本書紀の記事にも反映することになったのだろう。
 上記のように考えると、日本書紀の他の記事にも同様の理解が可能ではないか。
天智前紀 「是歳~ 有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎」
 不気味な音が響き、それを高句麗と百済の滅ぶ徴候と記すのは、これも新羅サイドの人物であろう。
持統前紀 「是歲、蛇犬相交、俄而倶死」
 蛇と犬がつるんで、ともに死んだというその蛇と犬は、高句麗と百済を意味し、蛇と犬がそれぞれ特定の人物を意味している可能性があるが、その場合は、出自が高句麗系、百済系の当時の著名な人物となるかもしれない。
 またつくられた乙巳の変(こちら)では、天智と鎌足の蹴鞠での出会い、中大兄が倉山田麻呂の姉ではなく、妹を娶る逸話も新羅の金春秋のまつわる話の応用と考えられる。しかし、日本書紀がなぜ新羅の説話を活用したのかについては不思議に思っていたが、これも新羅サイドの人物が、編纂に関わっているなら十分あり得ることになろう。日本書紀は百済に関する人物や話題が多いが、新羅系の説話も重要なところで折り込まれているのである。

参考文献
田中史生「新羅人の渡来」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
赤木隆幸「茨田堤築造と新羅系渡来人」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
加藤良平「仁徳紀十一年の茨田堤の記事について」古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平氏のブログ