流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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 日本書紀には記事の作為的な年代移動が多く行われている。前回は、唐軍の来朝記事の重出を説明したが、それだけではなく、山城・水城造営記事も動かされている。山城の造営時期を、白村江戦の敗北後に防衛施設の充実を図るためにすすめられた、といった通説の解釈も疑問なのである。

 斉明紀4年には、山城造営と考えられる記事がある。

留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘

 

 蘇我赤兄が天皇の失政として、多数の倉庫の築造や石を積んで丘のようにする、といったことから、大野城などの山城築造を非難する記事なのである。

 山城造営の年代に関して研究者は白村江戦のあとに、防衛を強化するために山城などを造営したと口をそろえて説明されているが、まともなご判断とは思えない。太平洋戦争のあと、マッカーサーがやって来た時に、日本は軍事施設を強化するようなことをしていたというのだろうか。郭務悰に気づかれないように水城など作ることは不可能。そもそも白村江戦で甚大な被害を被った倭の勢力に、膨大な労力を担える状況などなかったのではないか。早くわかってもらいたい。

 

 以下では、正木裕氏の高説である九州年号を利用した年代移動で、本来の時代に即した記事の並び替えで天智紀の水城、山城の造営記事が天智紀ではなく斉明紀に見事に遡ることを説明したい。

 

 以下に関連する日本書紀の記事を掲載する。

 

天智二年 九月辛亥朔丁巳百濟州柔城始降於唐。是時國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。

四年春二月癸酉朔丁酉、間人大后薨。是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡

秋八月、遣達率答春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城

五年是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國

六年十一月是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城

八年秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城   十二月、災大藏。是冬、修高安城

是歲、以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡

九年二月、又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二  (重出か)

十年正月以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明法官大輔、以小錦下授鬼室集斯學職頭、以大山下授達率谷那晉首閑兵法・木素貴子閑兵法・憶禮福留閑兵法・答春初閑兵法

 

 

◆白村江戦の敗北後の天智紀の山城、水城関係の記事を元の時代にもどす。

 

 天智二年九月の記事では、山城造営などに関わった憶禮福留らの工人は、百済遺民といっしょに、日本に向かった、かのようにとれる。すなわち、唐と新羅の攻勢によって避難しだした百済民といっしょに行動しているようにみえるが、分けて考えなくてはならない。

山城造営は天智四年、六年に造営記事があり、その後天智十年に官位を授与されている。そして日本に同行した佐平余(餘)自信も、多数の百済人と近江に移動する記事の後、十年に官位を授かっている。一見、矛盾なくつながった記事のように見えて、白村江後に日本にやって来た工人によって山城造営が始まったかのようにとれるが、実は山城関係の記事を正木氏が見抜かれた九州年号に合わせた時代移動ととらえて修復すれば、斉明紀に造営があったことが明らかになる。

 山城造営に関わった工人は白村江戦の前に帰国し、敗戦後、日本に天智二年の記事のようにやって来るのである。つまりここでは百済避難民の記事の中に、工人たちを紛れ込ませたのである。二つのパターンが考えられ、一つは朱雀が書紀白雉、朱鳥が九州年号白雉という移動と、もう一つが白鳳が白雉、大化が白鳳への移動となる。防人の記事も移動で考えてみた。

 

 別表のように、正木氏の指摘にあるように天智紀に動かされた、山城、水城造営の記事は、後の修復記事以外は斉明紀の山城、狂心の渠の記事と合致するようになる。

  

 以下のような表を試案として添付する。やや複雑で、見直しなども必要かもしれないが、孝徳紀後半から斉明紀、そして天智紀の白村江敗戦までに、関連する記事を九州年号どおしの入れ替えで再構成した。 説明不足の記事もあるので、またあらためて詳述したい。表そのものも修正を図っていきたい。
 
 図を直接クリックしていただくと見やすくなります。

山城年代移動

 

 近畿天皇家は便宜上の表現、倭国から日本の王朝の交代とは、主導権の交代にすぎないことを説明する。               

【1】近畿天皇家はなかった。万世一系は8世紀から
 
 古代の列島には、九州を中心とする盟主国があった。その配下の者が、次々と東遷を行い、近畿や東国にも勢力を広げた。やがて6世紀後半には、近畿地方に中心を移し、やがては、難波京、さらには奈良に藤原京を設けた。この盟主国を倭国王権とするが、年号を建元する様になる頃には、「九州王朝」と称しても問題はないであろう。だが、この倭国王権は、大化改新による土地制度の変更などで臣民の不満を募らせ、やがては白村江戦での大敗北で求心力が低下し、7世紀末には、不満分子による策動で、いわゆる大和王権が成立することになった、と考えている。
 よく、九州王朝に対抗する勢力として「近畿天皇家」という表現が持ち出されるが、それは本来の王権を説明するための便宜上の方便であって、倭国王権とは別に、国家祭祀と権力支配を執行できる組織、体制が存在したわけではない。
 主導権を持つ支配勢力の変更が7世紀末の倭国に起こり、主導権を握った勢力は、それまでの倭国王権の体制、制度、文化を利用しながら、日本国に変貌させたのであろう。そして、未完に終わった古事記をさらに発展させた日本書紀の編纂で神武からの万世一系を確立させたのである。これまで説明してきた通り、記録、伝承にある人物を利用して組み替えていったために、ほころびが各所にみられるのである。
 この7世紀末の政変は、あくまで支配勢力の変更であって、別の組織を持つ独自の勢力が、倭王権から権力を奪い取って、新たな建国をはじめたわけではない。それは、隋の滅亡から唐の建国と似た様相を呈していると言えることを次に説明する。

【2】隋から唐への移行と似たような政変が列島にもあった

 唐建国の李淵から見て、自分の母と隋初代の文帝の皇后は兄弟なので、文帝は母方の伯父であり、隋最後の煬帝は従兄弟になる。その李淵は、613年隋の煬帝に不満を持つ反乱分子の鎮圧に貢献し、やがて、太原(山西省)を守る太原留守になったが、隋末の混乱のさなかに、長安に入城。隋の代王の楊侑(ヨウユウ)を擁立して天子とし、生死不明の煬帝を太上皇とする。618年に隋の天子から禅譲され、唐の初代皇帝に即位。すなわち、もとは隋の体制の一翼を担っていた人物なのだ。そして隋の政治制度などを継承しながら帝国を築き上げる。
 前段の隋の場合も、581年、北周第四代宣帝宇文贇(イン)の外戚であった楊堅(文帝)が、七歳の静帝宇文衍(エン)から禅譲をうけ、隋を建国している。隋も唐も別の出自、体制の人物が新たに政権をとったのではない。
 日本の場合も、倭国支配者の系列と無関係ではなく、政治運営に反発を持つようになった勢力らが政治制度を継承し、藤原京も継続して利用し、後に平城京に遷宮している。評を郡に変更しているが、この場合もその内容、領域は大きく変更してはいない。
 隋から唐への転換が、王朝交代であるなら、それは主導権の変更にすぎず、日本の場合も倭王権の一翼を担っていた勢力によるものであり、古田武彦氏が、傍系が制したと言われたように、倭国王権とは別に万世一系の体制をもっていた組織の存在を考える必要はないであろう。

 このあたりの問題は、引き続き取り上げていきたい。

参考文献
渡辺信一郎『中華の成立唐代まで』(中国の歴史①)岩波新書2019


 同時代にいた鎌足と百済の豊璋は、日本書紀にたびたび登場しているのだが、その二人が同時に姿を現す記事はない。以下に書紀の二人の記事を時系列で記載する。

豊璋(翹岐・余豊) ※翹岐については別人説もある。
舒明3年:百済王義慈、王子豊璋を送る。⇦時期が10年早い。
皇極元年:2月翹岐など島流し→翌年大宰府到着記事一年ずれ  3月、5月、7月に、子供を亡くすなどの記事
皇極2年:春正月、百濟國主兒翹岐・弟王子、共調使來。重出記事か。
皇極2年:この年余豊、蜜蜂の繁殖失敗の記事。 「百濟太子餘豐、以蜜蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息」

鎌足
(鎌子・内臣)
皇極3年:1月神祇伯に任ずるも辞退、三島へ   軽皇子と以前から親しい。中大兄と懇意になり、共謀して入鹿抹殺をはかるために協力者をつくる。
  4年:4月乙巳の変決行 皇位継承の助言。 大錦冠位、内臣、食封増。手際よく仕事。

豊璋
白雉元年:長門国から贈られた白雉が吉祥であることを解説。
     2月15日白雉の儀に塞城、忠勝と参列

鎌足
白雉5年:紫冠授かる。  その後 斉明紀 全く登場せず。白村江戦に関わる記事も無し。

豊璋
斉明7年:4月百済から帰還要請 9月皇太子は豊璋に織冠授け百済へ送る。
天智元年:12月に臣下と百済の都移転の相談
天智2年:6月鬼室福信を殺害 8月白村江戦敗北 数人と船で高麗へ逃げる。 日本に戻ったのか不明・・・・・

鎌足
天智3年:郭務悰らに沙門智抄を遣わして品物贈る。
  7年:5月5日、天皇の猟に大皇弟らと参加。9月新羅に船を贈る
  8年:5月大皇弟らと薬猟記事(実は斉明紀の移動)
    10月10日天皇見舞いに。15日東宮大皇弟、家に訪問、大織冠、大臣の位、藤原の姓賜る。翌日死去。

 以上のように、見事に豊璋と鎌足は同時に出現せず、交互に記事がみられるのである。日本書紀の編者は意図して書き分けたのであろうか。二人の関係を隠すためなのか、逆に読者にわかってもらえるように暗示するように作製したのであろうか。この二人だけが「織冠」を授かっているというのも示唆的だ。
 二人の記事では、最初に豊璋が百済王族の事情を交えて登場し、鎌足が次にいきなり神祇伯に任じるという記事から始まる。そして鎌足が蘇我入鹿の殺害を目論んだのかも書紀は何も記していない。
 豊璋は白村江戦で行方不明になるのだが、その翌年に鎌足の記事が続いて藤原の姓を授かって永眠するというのも不可解で鎌足の記事は疑問が多い。次に乙巳の変についてふれていきたい。(続く)

イザナギイザナミ
1.
列島の統治のために派遣されたイザナギ・イザナミ

 

 イザナギ、イザナミは、国生み、神生みの説話の中で描かれているが、本来は国を統治するという天神からの使命を担っていたと考えられる。古事記には、次のような一節がある。

 於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。

 二神に、「このただよえる国を修(おさ)め理(つく)り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて。とある。

 現代語訳では、「国土をよく整えて、作り固めよ」とされているが、これは統治のことではないか。この後に、二神は、次々と島を産んでいく。そして、既に国を生み竟(を)へて、更に神を産んでいくと書かれている。ところが、カグツチを生んだが為に亡くなったイザナミに、イザナギは黄泉の国まで会いに行くのだが、その時の台詞が次のようで奇妙なのである。

 「吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。」  吾(あ)と汝(いまし)作りし国、未だ作り竟えず、よって還るべし、とイザナミに戻ってくるように呼び掛けている。

 なにやら食い違っているような表現だが、これは異なる説話を合成したことによる不整合と見てよいのではないか。すなわち、国を修める話と、国生み、神生み説話がつながれた際のほころびと見られる。

 イザナギ・イザナミは、国土を生むのではなく、列島の統治を任されたと古事記の記述では考えられるのだが、日本書紀にも同様の記述がある。

 書紀:一書(第一)曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰「有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之。」廼賜天瓊戈。

 「いまし往きて脩(しら)すべし」は現代語訳(宇治谷孟)で、「お前たちが行って治めるべき」とされている。古事記では「修」だが、日本書紀では「脩」が使われている。

 日本書紀でも、イザナギ・イザナミは統治するために派遣されたと理解できる記述があるのだ。それは、神武紀の末尾の記事でも明らかとなる。

 

卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」 

 

 (以下現代語訳)
 天皇の御巡幸があった。腋上の嗛間(ほほま)の丘に登られ、国の形を望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲の名ができた。

 昔、イザナギ尊がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器がたくさんある国、勝れていてよく整った国」といわれた。またオオアナムチ大神は名づけて「玉牆の内つ国」といわれた。ニギハヤヒ命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本の国(大空から眺めて、良い国だと選ばれた日本の国)」と言われた。

 つまり、イザナギは東征を行った神武や、神武より先に降臨したニギハヤヒ、スクナビコナと共に国づくりをすすめたオオアナムチと同じ扱いで記されている。イザナギも、天神からの勅命で新天地に渡来して国づくりを進めたことを表しており、途中の国生み、神生みの話は、別系統の挿話と考えられる。

 

2.記紀で使われる脩・修は、支配の後の統治、管理運営の意味か?

 
 日本書紀には、「脩」が17カ所で使われている。神武紀では船舶の準備、仁徳紀では宮垣、宮室の修繕、雄略紀では、修短という熟語、高麗との友好、貢納、顕宗紀に宮の整備、武烈紀に貢納、安閑紀に人名、欽明紀に貢納と修理、推古紀に貢納と船の修理、となっており、残りの4カ所で、少し異なる使われ方がされている。

 イザナギの「宜汝往脩之」については、先述のとおり。

 神功紀52年「汝當善脩和好」は七支刀の登場する記事であり、近肖古王(346375)が孫の枕流王に語った一節にあり、この点については、枕流王に七支刀を持参させたとする見解を既に提示している。(こちら

 応神8年 (百濟記云)遣王子直支于天朝 以脩先王之好            

雄略5年 (百濟新撰云)蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好  兄王は「先王」との異文あり

雄略天皇5年に百済蓋鹵王は昆支に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と命じるのだが、後の百済新撰の記事では、天王に侍(つかえまつ)らしむ。以て兄王の好を脩むるなり、とある。前者の日本の天皇に仕えよ、というのは書紀の筆法であり、後者の脩めよ、というのが実態ではなかろうか。

なお、「侍」に関しては、持統摂政前紀に「皇后始めより今に至るまで、天皇をたすけて天下を定めたまふ。つねに侍執(つかへ)まつる際にすなわち言、政事に及び、毗(たす)け補ふ所多し。とあることからも、「侍」に統治への関与の意味があったと考えられる。

つまり、派遣された百済王子は、列島での治政への関与のために渡来し、この地で経験を重ねて、半島に戻って百済王として即位しているのではなかろうか。よく、人質といった記載が見られるが、決してそのようなものでなく、あくまで書紀の記述では「質」(むかはり)であって、後の豊璋(私見では鎌足と同一人物)も、白雉の儀に参加するなど、当時の政治運営に関与していたと考えてよいであろう。この豊璋は半島に戻って最後の百済王となっている。

  

 以上のように応神紀の直支、雄略紀の昆支も、倭国に来朝して「脩める」、すなわち政治的運営への関与を託されていたと考えてよいであろう。

宋比較
 宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿のヤマトに神武より天皇が君臨していたという観念にしばられて、こじつけて当てはめているにすぎない。実際に批判的な通説の研究者もおられるのだ。(河内2018)
 倭の五王が日本書紀の天皇に当てはめられない理由を、私見では細かい問題もあるが、重要なところを二つ指摘しておきたい。

1.書紀が宋書倭国伝を無視していることの説明が必要

 一つ目は、倭の五王の記述が全く日本書紀に記されていないということである。いや、そんなことは言われなくてもわかっている、だから苦心を重ねて各天皇に比定しているのではないか、と思われる方もおられるであろうが、このことが重要な問題なのである。つまり、中国側の史書である宋書倭国伝、他に南斉書、梁書には記されているのに、どうして日本書紀は、その記事を少しでも採用しなかったのか、という問題である。宋に対して何度も遣使を行っていたのであれば、書紀は記事にしたはずであるのに、なぜそうはしなかったのか。
 書紀は、漢籍と言われる中国の史料などを多数引用している。それも、個々の莫大な史料の記事を渉猟して引用したのではなく、芸文類聚などの、記事のテーマごとに採集、編集された便利な資料集を活用して、書紀編者が、その場面に応じてふさわしい一節や熟語を抜き出してはめ込んでいたのである。これによって、潤色といわれるが無味乾燥とした記事に豊かなイメージを与える歴史書に変容させたのである。
 さらに年代を具体的に示す外国史書の引用も取り入れている。例えば神功皇后紀の39年(西暦239)には、景初3年6月倭女王遣使の記事を引用し、さも神功が卑弥呼であるかのように装っているところが見られる。さらに66年(266)にも、中国史書の泰初2年倭女王遣使の記事を記している。ここで神功は、長寿の女王にされてしまっているのだ。また百済の史書からも、百済王の崩御と新王の即位記事を繰り返し記載している。ところが、允恭や雄略に年代が該当するところでは、中国史書の倭の五王の記事は全く無視されているのである。
 それは、書紀にとっては不都合な、本来の倭国を示す中国側の証言集であったからだ。不都合な真実を載せるわけにはいかなかったのだが、通説の一元論では、それが説明できないのである。この点についての説明がないまま、倭の五王についての推論を進めること自体が疑問なのである。

2.書紀の天皇では説明できない世子興
宋書

 二つ目は、これが最大の問題と思われるのだが、宋書の五王の中で、興については「世子興」と繰り返し記されていることである。「世子」とは、世継ぎのことであり、天皇でいうならば太子にあたるのだが、日本書紀には日本の王の世継ぎに世子という表現はない。ただ一カ所、高句麗王族の記事にあるだけである。
 欽明紀7年に高麗内乱の記事 「中夫人生世子其舅氏麁群也」
 この世子には「まかりよも」との訓みが与えられているが、太子のことだと岩波注は記している。
 中国晋書には、「百濟王世子餘暉為使持節都督鎮東將軍百濟王」
 ここでは、辰斯王は、本来の後継者の阿莘王が若かったので代わりを務めたので正式な王ではないとしたのであろうか。また他にも、広開土王碑に「世子儒留王」、さらに七支刀銘文に、「百済王世子奇生聖音」とあるように、半島の王族に使われる用語といえる。書紀に記される日本の天皇の後継者に、このような用語は使われていないのである。世子とされた天皇が存在していたのであろうか。この点についての説明がないまま、興を訓みがコウと共通するところから安康に当てはめるなど、とても学術的な説明とは言えないのである。

 宋書に記された倭の五王は、日本書紀が描いた天皇とは違って、当時実在した倭国王の事績が書かれたものである。これは、後の隋書倭国伝に記された多利思比孤や利歌彌多弗利が、推古や厩戸皇子に比定できないのと同じ事情なのである。よって、倭の五王も、当時は九州に拠点のあった王朝との関係で検討しなければならないのである。

参考文献
河内春人「倭の五王」中公新書2018 宋書と記紀の比較図も同書より
宋書倭国伝の図は、岩波文庫の原文より

産屋
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋
大原産屋パネル

1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味

 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)
の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケルである。そこに、次のような一節がある。
 一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓 (双子が生まれ、天皇はあやしびたたまひて、すなわち碓にたけびたまいき)
 現代語訳では、「一日に同じ胞(えな)に双生児として生まれられた。天皇はこれをいぶかって、臼に向かって叫び声をあげられた」(宇治谷孟)
 生まれた双子の命名譚であるが、天皇の臼がどう関係するのか説明不足の記事である。これについては、いくつかの解釈があるが、民俗学の中山太郎氏の栃木県における妊婦の夫が臼を背負って家の周りを回る習俗など、出産と臼に関連があると論じ、これを受けて人類学者の金関丈夫氏は、天皇が二人が生まれるまで重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇が思わずコン畜生と叫んだと解釈されている。
 そう遠くない時代にも残っていた風習が、日本書紀にも記されているというのが興味深い。これは、妊婦の出産時の苦しみを少しでも緩和させようと、出産に立ち会う人が疑似体験をすることだったのであろう。それは、特に古代では切実な安産への願いからくるものであったのだ。

2.みんなで踏ん張れば安産になるという習俗

 妊娠から出産、育児にわたって人々が行ってきた風習などを集めたものに「日本産育習俗資料集成」というものがある。民俗研究者等による全国調査を昭和10年にまとめたものだという。そこに、臼を担ぐ話は見当たらないが、興味深い事例があるので紹介する。
 「分娩」の項に島根県安来市の山間部にある赤屋村のソウヘバリという習慣。ソウは総、ヘバリは力(リキ)む、とかいきむこと。この地方の方言であろうか。戸数12戸の小部落であるが、妊婦が産気づくと直ちに隣家に知らせ、そこから全戸に知らせると、主婦は残らず駆け集まり、産室の隣家で産婦の陣痛が起こるごとに、全員が、うんうん声をそろえ、産婦の呼吸に合せてヘバルのである。すると必ず安産するという。今日多少衰えたがなお行われているとのこと。ただ、「今日」とは調査時の戦前のことであり、現在は行われてはいないだろう。
 それにしても、主婦が総出で妊婦と同じ苦しみを、いきむという行為の疑似行為で共有するというのは、女性たちが同じ苦しみを知っているからこそであろう。このように、臼を背負って踏ん張ることと似たような安産の為の習俗が行われていたのである。同じような行動ではなくても、このような地域の絆、共助の精神が広く全国にあったのではなかろうか。
 
 上記の資料には、産室に力綱という縄を吊るしてあったり、刃物が置かれたり、しめ縄張ったりする事例もあるが、写真の産小屋にも、入り口に鎌が、室内には力綱が吊るされている。
産屋中

 安産の願いに関しては、底なしひしゃくが各地にあったというが、これは現在にも多くの神社で見かけるもので、今も途絶えずに継承されているということだろう。
 他にも、妊娠から子育てまでの様々な習慣、神仏祈願の民俗などが豊富に語られ、なかには堕胎や間引きといったおぞましい内容もあるが、昔の人々の苦労、願いを知る貴重な資料である。
 この『産育習俗資料集成』は国会図書館HPで閲覧できるので、ご興味のある方は是非ご覧ください。

参考文献
恩賜財団母子愛育会編「日本産育習俗資料集成」 第一法規出版株式会社発行 日本図書センター 

新沢千塚
 記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向や傾向の実体を反映するものではないという。考古学調査で検出される渡来系移住民の存在を、記紀ではほとんどつかめないというのである。たとえば、写真の奈良県新沢千塚古墳群の126号墳は、新羅からの渡来のリーダーの墳墓とされ、そこに金製装飾品や西方のガラス製品などの豪華な副葬品が見られる。実際には百済におとらず、新羅も列島の中で一定の存在であった可能性がある。
 古事記は、新羅敵視がなく、逆に日本書紀は新羅を敵視しているとのことから、古事記は新羅系の渡来人によって、紀は百済系の渡来人によって書かれた(金逹寿1990)との見方があるが、実際にはそう単純ではない。日本書紀には百済の資料がかなり使われている状況はあるが、個々の記事には、新羅側の恣意的な造作と思われるものがあり、研究者よりそういった指摘もなされている。

1.茨田堤の工事と新羅
 仁徳紀11年の茨田(まむた)堤の説話に、堤防が何度も壊れる所があったが、天皇の夢に神のお告げで、武蔵人の強頸(こはくび)河内人の茨田連衫子(ころものこ)の二人を犠牲にして河伯(かはのかみ)に祭れとあったことから、まずは、強頸が犠牲になったが、次の衫子は瓢(ヒサゴ)を用いた瓢が沈まなければ偽りの神だとしたウケヒを行い、瓢は沈まなかったので犠牲にならずに済んで堤が完成する話がある。強頚は人柱となるが、衫子は逃れる事ができ、その瓢は新羅を暗示するという。始祖の赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)は瓢のような大きな卵から生まれたという。辰韓では瓢を朴といい、始祖王は朴氏である。また、仁徳50年に茨田堤に鴈が産卵するというのは現実にはありえないのもので、アマノヒボコの日光感性卵生説話と同様のものであって、これは新羅を意味している。なお最初に人柱となった強頚は、三国史記巻46列伝題「強首」があり、新羅の武烈、文武、神文王に仕えた官人であり、その名前を利用したかもしれない。
 逆に築堤を妨害する「河伯」は高句麗、百済の出自を意味していることから、7世紀の半島で新羅が高句麗・百済を滅ぼして新羅が勝利する話が、ここに暗喩として含まれており、築堤の成功が新羅優位を物語っているというのである。よってこの説話の潤色に関わったのは新羅系渡来人だと考えられる(赤木2013)とされている。

2.新羅サイドの造作も練り込まれた日本書紀
 この茨田堤の説話については、長柄の人柱(こちら)と同様に、治水工事の意味があるものと考えていた。しかし、強頚と衫子という言葉がなんとなく堤防の土台を補強するようなものかとも考えたが、釈然とはしなかった。ネットを見ると、細部にわたって究明されている記事もあり、治水との関連はありえる。そうするとこの説話は、堤防づくりの工法をベースに、そしてこれを利用した新羅の思惑を含ませた説話ということになろうか。
 新羅は7世紀後半に百済と高句麗を制して半島の統一をすすめたが、倭国内では百済、高句麗系の勢力と新羅系の勢力がせめぎ合いを行っていたと考えられる。それが、日本書紀の記事にも反映することになったのだろう。
 上記のように考えると、日本書紀の他の記事にも同様の理解が可能ではないか。
天智前紀 「是歳~ 有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎」
 不気味な音が響き、それを高句麗と百済の滅ぶ徴候と記すのは、これも新羅サイドの人物であろう。
持統前紀 「是歲、蛇犬相交、俄而倶死」
 蛇と犬がつるんで、ともに死んだというその蛇と犬は、高句麗と百済を意味し、蛇と犬がそれぞれ特定の人物を意味している可能性があるが、その場合は、出自が高句麗系、百済系の当時の著名な人物となるかもしれない。
 またつくられた乙巳の変(こちら)では、天智と鎌足の蹴鞠での出会い、中大兄が倉山田麻呂の姉ではなく、妹を娶る逸話も新羅の金春秋のまつわる話の応用と考えられる。しかし、日本書紀がなぜ新羅の説話を活用したのかについては不思議に思っていたが、これも新羅サイドの人物が、編纂に関わっているなら十分あり得ることになろう。日本書紀は百済に関する人物や話題が多いが、新羅系の説話も重要なところで折り込まれているのである。

参考文献
田中史生「新羅人の渡来」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
赤木隆幸「茨田堤築造と新羅系渡来人」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
加藤良平「仁徳紀十一年の茨田堤の記事について」古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平氏のブログ 

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