流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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⑴記事の内容についての問題点

自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統
 
 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが、これは史実なのであろうか。史実と判断する前に、史料批判、内容の吟味が必要かと思われる。この点について述べていきたい。 
①制覇の時代はいつ頃なのか。倭王武以前ではないのか?
 史実だとされる方の中には、倭武王の事績も含まれると考えられるような説明もあるが、「祖禰」は倭王武を含まないし、さらには、かたじけなくも先緒を胤ぎ、とあることから、倭王武は引き継いだことになる。よって、軍事行動は、倭王武の遣使のあった478年以前のこととなり、栄山江の問題も無関係となる。126国とは、遠い過去のご先祖の言い伝えの累積であろうか?
②「東征」、「西服」の拠点はどこなのか?もし九州であるならば、西の方が国数が多いのは奇妙。または、5世紀後半には、近畿を中心とする倭国があったのか?
③「毛人」とはどこの何を意味しているのか?同様に「衆夷」とはどこの国なのか?中心点を確定できない状態では、憶測しか言えないのではなかろうか。
④「海北」は、常陸国風土記でも使われる用語。行方郡条に、「倭武天皇巡狩天下、征平海北」とある。ここでは「海」は湖を意味する。これを無視してよいのであろうか。海北を韓半島と断定できるのであろうか?
⑤複数の研究者が、史実ではなく外交上表現、「天下観念の表現」(東潮2022)などと説明しておられる。
 また以下のような指摘もある。
「東征」「西服」は、「文章規範に則った表現」(河内2018)とされ、次のような例を挙げている。
『晋書』乞伏乾帰伝 「我が王は神の如き雄大な姿で隴右(西晋)を建国し、東へ西へ敵を打倒し、領土とならないところはない。」
『晋書』陽騖伝 「〔慕容〕皝が王位に即と、(陽騖)は左長史の職に遷り、東西に征伐し、帷幄の中で謀をめぐ
らした。」
⑥東は「征」、西は「服」、海北は「平」、とわざわざ文字を変えて美文調にしている。この三つの用語を各々に意味のある表現で使い分けた、というのは考えにくい。東55国の毛人は征したのであって、西の衆夷は66国みな服従させて、さらには半島では95国はすべて平定したのだ、という捉え方では説明できないと思われる。
⑦上表文作成者は漢文に長けた渡来人。百済上表文と倭王武上表文の漢籍利用の類似点があり、百済にいた中国系知識人による作成と考えられる。「躬擐甲冑,跋涉山川」と少し後の「掠抄邊隸,虔劉不已」は『春秋左氏伝』より。「不遑寧處」は『詩経』から。「臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統」は東晋桓沖の上表文と言い回しが同じという。ほかにも後漢書朱浮伝の「廓土」「百万」などがある。また上表文には「驅率所統」(統ぶる所を驅率し)という一節があるが、江田船山古墳大刀銀象嵌銘には後半に「不失其所統」とある。その銘文の末尾には書者張安とあることから、この人物が上表文にも関わっていた可能性は否定できない。
⑧「海北渡平95国」が半島南部での制圧行為であったのなら、なぜそのような痕跡、史料の記述はないのであろうか。新羅本紀には「倭人」との紛争が数多く記されているが、たいていは撃退しており、占領されて新羅の陣地が後退していったという記事は見当たらない。
⑨宋書には「倭国在高驪東南大海中」とあり、後漢書は「倭在韓東南大海中依山㠀為居」とある。中国に倭の半島支配という認識はない。
⑩そもそも東西海北216国は、478年以降どうなってしまったのか?雲散霧消してしまったのでしょうか?
⑪古墳時代には、争乱の痕跡が見つからないと、早くから言われている。この点について次にのべる。

⑵古墳時代の倭国になぜ山城は造営されなかったのか?
 
 以下は山本孝文氏の指摘である。「半島の三国時代の各国の遺跡の中で、代表的なものは都城関連遺構であり、都城遺跡は必須の調査研究対象である。ところが、一方で日本列島の古墳時代には、各地で首長居館は発見されているものの、中心や周辺の諸勢力が集住し、国家レベルの政治システム運営の舞台となったような都城は存在せず、それが現れるのは飛鳥時代以降となる。社会発展の一つの基準として城郭の出現が重視されている中国・韓半島を含む東アジア諸国のなかにおいて、これはきわめて特殊な状況といえる。
 日本列島の古墳時代に山城のような重厚な軍事施設が築かれなかったのは、拮抗する政体間の長期に及ぶ激しい抗争が、韓半島に比べて極端に少なかったためではないか。逆に、山城築城のような大規模な労働力を必要とする作業がなかったからこそ、古墳築造にコストを投入できたともいえる。」(山本2018)
 以上だが、半島に多数存在する山城が、その同時代になぜ列島には形成されなかったのか、という視点はたいへん重要な指摘といえよう。
 「城の定義と数え方にもよるが、主に高句麗・百済・新羅の三国時代に築造された850カ所に達する城郭が存在」(田中2008)しているとのことだが、この点だけからも、半島の長期にわたる不安定な状態、紛争の絶えない政情であったことがうかがえる。もし、列島内に、次々と他国を制圧するX王国があったとすると、制圧される側の中には、あっさりと降伏するのではなく、抵抗する国も出てくるのではないか。そして、中にはX王国に対し防衛策にでる国もあるはずだ。ならば、なぜ山城などを築くことはしなかったのか。
 山城については、書紀敏達紀に日羅の提言で「毎於要害之所堅築壘塞矣」(すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように)とあり、対馬の金田城など、九州を中心とする各地の山城が、この時期以降に始まったのではないかと考えられる。ちなみに播磨国風土記の神埼郡には、応神の世に渡来した百済人が城を造って住んだとあるが、時代も実体も不明である。私見では、岡山県鬼ノ城は、亡命加耶勢力が縁の深い吉備の定住の地に防衛としての山城を築いたと考えている。

⑶中国側の5世紀の倭国にたいする認識
 
 倭の珍は安東大将軍を求めたが、認められたのは讃と同じ第三品の安東将軍。これは高句麗高璉(長寿王)の征東大将軍、百済の餘映は(毗有王)の鎮東大將軍が上位となろう。
 さらに、済、世子興も安東将軍とかわらず、ようやく武になって安東大将軍と除された。つまり、中国は、倭国を5世紀後半まで、高句麗、百済よりも格下と認識していたのである。後述するが、百済を含めた六国諸軍事の要請のうち、百済をはずしたのも当然といえる。中国側に、半島において95国を制した国という認識はないといえる。繰り返すが、史書の出だしに書かれているように、倭は半島の東南の大海にある国という認識なのだ。
 次に、関連するので、「六国諸軍事」について説明する。

⑷倭の五王の「六国諸軍事」は半島への軍事的支配を意味するのか
 
 この問題に関しても、従来とは異なる認識がすすんでいる。仁藤敦史氏の指摘だが、「481年に、大伽耶と百済が高句麗の侵入に苦しむ新羅に援軍を送ったことは、大きな転機だった(『三国史記』新羅本紀)。これは反高句麗勢力の結集が可能となったことを示している。」(仁藤2024)とあるが、それ以前の高句麗による漢城陥落の直後に、新羅は百済からの援軍要請に応えて百済支援の派兵をおこなったが、これは間に合わなかったのだが、反高句麗の共同戦線の形があることが窺える。そうすると、諸軍事の要求は、百済が本来は主導するものを、倭国が、百済に代わって宋に対して要請したと考えることができる。
 建元元年(479)に加羅の荷知王は南斉へ朝貢し、輔国将軍に除正されている。もし、倭王の要請した六国諸軍事が、軍事的支配を意味するならば、これは、中国側が倭と加羅に対し重複除正をしたことになるが、ともに第三品で授爵されていることにかわりなく、加羅は倭と対等の独立国の扱いだった。つまり、加羅への諸軍事は、実体のない一方的な倭国側の要求にすぎないことを示している。(河内2018)
 同様に次のような指摘もある。「479年に加羅の荷知王が輔国将軍に授爵されているが、それ以前、宋が加羅の宗主国であったことはなかった。加羅は(略)521年にはじめて梁に朝貢している。朝貢関係のない国々の都督権を倭にあたえたのである。宋の国家的利害関係にもとづく専断にすぎない。このことをもって倭が百済を除く諸国の支配権を宋から承認され、あたかも『海北95国』を平らげたというような論はなりたたない。」(東2022)
 研究者は冷静に評価しており、そうであるならば、六国諸軍事なるものは高句麗を敵視し百済に肩入れする倭国の、反高句麗半島諸国同盟といった政治的パフォーマンスといったものではなかろうか。百済と六国は高句麗の圧迫にさらされていることは共通している。倭国が対象国に対し軍事的政治的に支配した、などということを示すものではないのである。

⑸中行説の匈奴へのアドバイス
 
 最後に、新川登亀男氏の中行説(ちゅうこうえつ)に関する記事を紹介しておく。中行説は燕国出身で前漢前の宦官であったが、のちに匈奴の指導者の老上単于の側近として仕えた人物で、「匈奴に対して、「疎記」(箇条書き的な記録)の効能を教え、匈奴の人数や家畜の種類などを記録し、漢の皇帝に送れと助言している。そして漢の皇帝が匈奴に送る1尺1寸(当時の1尺は23cm)に牘(とく)に書かれた尊大な修辞に対抗し、同様な牘に大きな封印を施し、尊大な言辞・修辞を加えた贈り物を漢の皇帝に送ったという。人、動物、種類、単位、数値を箇条書き的に羅列し、実物も送り、それに付随していろいろな修辞・文字で飾り、相手に見せつけ、自己主張しろと中行説は言った」(荒川2016)という。
 倭王武の上表文も、外交文書として最大限の修辞で飾って中国にアピールしているのである。上表文の内容をこのようにとらえる必要があるわけで、書いてあることをすべて鵜呑みにしてはいけないのである。

 以上のように、上表文の一節をもって列島の倭国が東西海北126国を制圧していたなどというのは、史料批判もなく、さらにはエビデンスもない状態で、これを額面通りに受け取ることはできないのである。

参考文献
山本孝文『古代韓半島と倭国』中央公論新社2018
田中邦煕『朝鮮半島の城』土木史研究講演集Vol.28 2008 ネット掲載 
河内春人『倭の五王』中公新書2018  
仁藤敦史『加耶/任那』中公新書2024  
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022
森浩一「著作集2」新泉社2015年  
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書2019 
荒川登亀男『漢字文化圏の成立』ユーロナラジアQ 2016

水城
 日本書紀の斉明紀には、いわゆる狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)といわれた大工事をおこなったという記事がある。一般的には、奈良県の、香具山の西から現在の天理市付近と考えられる石上山までに至るもので、石を運搬するための運河と呼ぶべきものと考えられている。石上山を飛鳥あたりとする考えもあるが、実際には、この地に該当するような大掛かりな運河の跡などは見つかっていない。それは、そもそもこの地にはないのであって、書紀の記述の誤読なのである。また、なんでも奈良を中心に考えるのも良くないことである。古代において全国どこでも治水工事や大古墳造営が行われており、使用する石材を運搬するために涙ぐましい努力がされていたはずだ。当然、河川利用のために、そこをつなぐ水路などいくつも作ったであろう。大工事には変わらないが、いわばどこでもあった工事であり、それを「狂心」とはいえないはずだ。「狂心」と言うからにはそれなりの強烈な内容の工事があったと考えられるのではないか。私は、それを九州福岡の大宰府に隣接する古代の防衛施設である水城のことだと考えている。

【1】斉明紀の記事の誤読
 書紀の該当記事と講談社文庫宇治谷孟氏の現代語訳を参考のために掲載する

於田身嶺、冠以周垣田身山名、此云大務、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。
時好興事、廼使水工穿渠、自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。
時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、
費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。

 多武峰の頂上に、周りを取り巻く垣を築かれた。頂上の二本の槻の木のほとりに高殿を立てて名付けて両槻宮といった。また天宮ともいった。天皇は工事を好まれ、水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香具山の西から石上山にまで及んだ。
 舟二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、宮の東の山に石を積み垣とした。時の人は謗って「たわむれ心の溝工事。むだな人夫を三万余。垣造りのむだ七万余。宮材は腐り山頂は潰れた」といった。また謗って「石の山岡をつくる。つくった端からこわれるだろう」

 この現代語訳では、渠が垣を作るための石を運ぶ船を通す運河ととらえられる。つまり、石垣が主たる工事で、渠工事は従属的な工事となり、その渠が香山から石上山まで通じていたと考えられてきた。しかしこれには疑問がある。それは記事の終わりに人々の謗った言葉が載せられており、そこでは、狂心の渠に三万、垣造りに七万と、それぞれが多数の人手を使ったと記されているのだ。つまり渠と垣は別の大工事として扱われているのではないだろうか。 
私はここで「水工(みづたくみ)穿渠」で区切りがあると考えた。従来は、渠が垣造営の石の運搬のためと理解されたが、区切りを変えて水工に渠を掘らせた、で完結し、その渠が香山から石上山までつなげたのではなく、船を使って香山から石上山まで川の流れのように運搬して石垣を積んだ、と解釈したい。この箇所も漢籍が参考にされているようであり、書紀集解には史記河渠書に「穿渠自徴引洛水至南顏下」とある。これによって渠と石を流すことが連続する表現になったことも影響しているかもしれない。だが渠の工事と石垣の造営はやはり別のことではないか。実はこの記事に呼応する一節がある。
 後の斉明四年の記事で有間皇子に対し、蘇我赤兄臣は天皇の失政として次のように三つ挙げている。
 天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘、三也。
 この箇所の二つ目が長く渠を掘ったことであり、三つ目に、船に石を積んで運び丘にすることだとしている。つまり、ここでも渠と垣は別の事業とみなしており、垣造りのために渠を準備したのではないと理解できる。
 三万人余りも使う渠を掘る大工事とは水城のことではないか。そして多数の石を東の山に重ねて、垣をめぐらすのは百閒石垣に代表されるいわゆる山城の大野城や基肄城などのもう一つの工事であり、ここに七万人余りを費やしたのだ。さらに失政としてあげた一つ目は、人民の財を集め積むこと、としている。これは現地の解説にも、大野城だけでも七十あまりの倉庫群が存在し、大宰府出土の木簡からそこに大量の米がいざという時のために蓄えられたとある。建物跡が倉庫用の総柱の構造であったのだ。また当然武器庫もあったであろうし、人民の財の中には、武器に使えそうな木工品、金属類の供出もあったかもしれない。そうすると、蘇我赤兄臣が掲げた三つの失政の工事とは、大宰府を取り囲む防衛施設をいったものでなかろうか。斉明紀には大野城とその周囲の防衛施設の記事とともに、水城の記事があったのだ。元の記事にあった水城という名前を斉明紀ではふれずに渠と称し、あとの天智紀で明確に水城として記載したのではなかろうか。それをどうして「渠」と書いたのか。記事からすると、人々も「渠」と言っていたようである。
 水城は簡単に言ってしまえば敵の侵入を防ぐために水を貯める溝をもった土塁となる。しかしその内実はかなり複雑な作業工程があり、大変な困難を伴うものでもあった。工事の最初には溝を掘って片側に土を盛る作業があったであろう。それで正式名称とは別に「渠」と称したのではないだろうか。それをなぜ狂心の渠といったのか。そこで水城という土木施設について、専門家の説明などを見てみたい。
水城断面
 
【2】桁違いの難工事と高度な技術による水城造営(図①)
 天智紀の水城の説明には、「大堤を築いて水を貯える」とある。この表現だと土を盛って堤を構築することが主たる工事だと理解してしまう。確かに高さ10mにもなる土塁を版築作業で完成させること自体もたいへんであっただろうが、しかしそれだけではない。土塁に沿って大きな渠を掘っているのだ。幅60m、深いところで4mになる渠を長さ1.2㎞にわたって掘り続けたのだ。(ちなみに現在の大阪城の外濠の水面の幅はおよそ70m前後である)しかも土塁の反対側に内濠も敷設しているのだ。地面を掘る作業では厄介な問題がつきまとう。この地は東西が山にはさまれた平野部でありしかも真ん中に御笠川が通っている。自ずとその土地は掘れば水が染み出してくるので、工事の期間中はずっと水との戦いになったと予想される。作業者である水工の足場は常に泥まみれの中での難作業であったはずだ。しかもその幅や長さも前代未聞の規模だ。これを見て狂気じみた工事と考えてもおかしくない光景があったのではないか。さらに詳しくふれてみたい。

⑴高度な技術の土木作業
 濠に水を貯めるための木樋は御笠川の東側は一本、西側に三本確認されている。建築技術を応用した狭山池のものより高度な技術で作られていた。さらに小田和利氏によれば、「水城築堤に際しては、版築土塁、壁面石垣、敷粗朶、梯子(はしご)胴(どう)木(き)、抑え盛り土、カウンターウエイトなど当時としては最高レベルの技術を駆使して築造されていた」という。
 版築や敷粗朶はお馴染みであるが壁面石垣は西門跡の西側土塁壁面に検出され、土盛りと石垣の間を版築土で充填させることで土砂が締まる効果があるという。梯子(はしご)胴(どう)木(き)などは木材を組んで設置することで、低湿地などの軟弱地盤における上部構造の沈下を防止する基礎改良工事のこと。抑え盛り土は、博多側の斜面の途中にテラス状の平坦面を作っているが、防衛上は不都合だが、土塁本体の崩壊を抑制するものだという。また土塁基部の列石は土塁の荷重を支える働きを持つ土留石であり、角度をつけて設置することで、重さを受け止めると左右の列石が相互に手をつないで持ちこたえるような力学的構造をもち、カウンターウエイトと呼ばれるものだという。まさに現代に通じる技術が施されているのだ。他にも積土工法において種類の違う土の使用など、今後の調査で新たな知見がさらに増えるであろう。

⑵御笠川との交差部の洗堰(図2)
水城御笠川
 一般の説明ではあまり強調されていないが、御笠川の水を取り込むための洗堰ではないかと思われる石敷遺構が検出されている。林重徳氏は旧地形図や航空写真などの検討と合わせ、この遺構が洗堰といったものであり、ここから大宰府側の内濠に水を取りこんだとされる。その水をこれもまた技術力が見られる木樋で外濠に流していく。この箇所の実体はまだまだ不明な点が多いが、現代の河川の堰と似た構造物があったと考えられるのだ。増水時に大宰府本体に水が浸からないような対策もとっていたであろう。低湿地を深く掘るのも難工事だが、川を塞いで水流を変えるような工事もたいへん困難な作業であったはずだ。トラブルを繰り返しながらのまさに水との戦いであったのではないか。

⑶水城は平野部を完全に封鎖する施設
 現在の水城の遺構をながめても、その壮大な景観を実感したとしても、そこには現在、国道や高速道路に鉄道が走っていることからも、平野部を完全に閉鎖して、東西の官道の通る二ヶ所に関所を設けて往来を制限するものであったとは実感できないのではないか。博多側と大宰府とは、自由に人は通行できないようにしたのだ。当然生活物資の運搬にも支障があったであろう。
 万葉歌でも水城での別れが歌われている。立場上の遠慮から別れの気持ちを抑えている愛する人である児島に、大伴旅人は「ますらをと 思へる吾や 水茎の水城のうへに涙拭はむ」と水城の門で涙をおとす。ここは大宰府と外界との境界なのだ。このようなものだから、現地ではやりすぎではないかと思う人々がいたとしても不思議ではないだろう。しかも水城の真ん中を流れる御笠川も、堰を設けて川船の通行を制限したと考えられている。さらに封鎖したのは大宰府の北西側だけではない。南側も阿志岐城と基肄城をつなぐ土塁が想定されている。土塁の発見された前畑遺跡と阿志岐城を結ぶ中間点の平野部に、西谷正氏は関所と考えられる南門を検討されている。南方からの行き来も制限されるのだ。(注1)
 水城と土塁による防衛ラインが、尋常ではないまさに狂気の工事と考えられてもおかしくないのではないか。水城の工事は現代の見積もりでは総合計で九十八万六千人日、一年ほどの工事とするならば一日あたり約三千二百人日になるという。書紀のいう三万人は誇張ではない。

【3】なぜ「渠」と呼ばれたのか
 水城はけっして渠だけの構造物ではなく、高度な技術を取り入れた複合施設だ。渠とは運河のことであり、狂心の渠を水城のこととするには無理があるのではないかとの考えもあろう。この点については以下のように解釈したい。
 小田和利氏は水城の構築過程を検討されている。外濠を掘削し、その掘削残土を利用しつつ土塁本体を段階的に構築したという。まずは渠を掘ってその残土を片側に積み上げる。外部から良質の土なども運び込んで版築で土塁を築く。土塁をつくるには、まずは渠を掘るところから始める。人はこれを見て渠の工事と考えたのではないか。そしてこれは水城だけに該当することではない。水城の西に小さな谷を塞ぐように小水城が数か所確認されている。いずれも渠を備えた土塁だという。
 ここで上大利の小水城跡の調査報告書の一部を参考のためにふれる。
小水城
 図③は80-1トレンチの断面図である。最底辺の実線が地山のラインでありその右側が版築層であり、左側は後から埋まった状態であることがうかがえる。「盛り土開始に当たっては砂礫層を掘りくぼめている可能性が強いとし、より堅固な地山面まで掘り下げて、いわば地盤を固めて盛り土を開始したことが考えられる。敷粗朶工法を採用、木杭が盛り土後に打ち込まれている ~~ ただ水城と同じ水濠があったかの判断はむずかしい」とのことだ。このような工事では、まずは長い距離を掘削しているということであり、この工事の始まりを見て、異様な渠工事と考えた者もいたのではないか。  
 大宰府羅城のモデルとして百済の州柔(つぬ)城が言われている。ここには水城も作られていたようであり、現地に水城洞という地名も残っている。百済王豊璋も天智元年の記事に「東南據深泥巨堰之防」(深い泥池の大きな堰で防御)と語っているのが水城にあたるのではないか。渡来した百済人は工事を主導しており、水城の名称を当然使っていたと考えられるが、一般には渠と言い合うこともあったのではないか。
 当初は渠が水城のことをさすと考えたが、水城も含む大宰府防衛ラインの渠が狂心の渠と称したかもしれない。水城だけでも困難な作業であるのに、さらに桁違いの渠を周回させる工事は、異様なものであっただろう。古代人は複合的な構造物の工事を正式な名称とは別に「渠」と称したと考えられる。(注2)
 また隋は通済渠や永済渠などの桁はずれの大運河の建設を推進したが、それは人民の不満を募らせるものであった。この大宰府の要塞の工事には近畿からも多数の人夫が駆り出された可能性がある。その不満も含めた状況が日本書紀に狂心の渠と書かせたと考えたい。(注3)
 以上のように、奈良県にこのような構造物は存在しないのであって、日本書紀の誤読なのである。
山城
 まとめ
①斉明紀の狂心の渠は石垣を運ぶための運河のことではなく、水城に代表される50キロにも及ぶ大宰府の防衛ラインの工事に不満を抱く人々が渠と皮肉ったものである。また有間皇子の謀反の記事の天皇の失政もここに対応している。
②水城や大野城の記事は斉明紀に登場するが、正式な名称を天智紀にずらして記述したものであり、白村江敗戦の前の工事であることは明白であろう。
③大宰府の要塞はまだまだ未解明なところも多いが、その意義は大きく、もっと評価されてよい世界遺産級の構造物である。

注1.前畑土塁については、南側から侵入を図る敵からは視認性が悪く、防衛上の効果を疑問視する声や、道路を兼ねた施設との意見もある。土塁に沿って犬走といわれるような作業用の道路を想定する考えもある。いずれにしても、さらなる調査が必要だ。
注2.「渠」については水路の意味であり、水城とは異なるとの指摘もあるが、「城を周るほり塹壕」(淮南子)(諸橋大漢和より)の用例もあると、正木裕氏(古田史学の会)より御教示いただいた。
注3.正木裕氏の御教示による。

参考文献
杉原敏之「水城の築堤」季刊考古学102 2008   
林重徳「水城」季刊考古学102 2008
小田和利「神籠石と水城大堤」九州歴史資料館研究論集22 1997
全榮來「百済滅亡と古代日本」雄山閣 2004 
小田和利「水城大堤の築堤年代についての一私論」九州歴史資料館研究論集36 2011
西谷正「大宰府の防衛体制をめぐって」大宰府の研究所収 高志書院 2018

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