室見川
 1948年に博多湾岸の室見川河口近くより、「延光四年」(125年)の文字がある金属片が発見されたが、中国側の鑑定結果は、清朝の文鎮と言ったものであった。しかし古田武彦氏は、『邪馬一国の証明』のなかで、中国側の鑑定内容に関してコメントされて、字体が稚拙、各時代の文字が混じっていることなどから、列島の倭人による制作で、弥生時代の吉武高木遺跡に関係する王国の遺物とされたことから、これを信じる向きもあった。しかし以下に述べるように、中国側の鑑定通りの清朝あたりの文鎮の類いであることを述べる。

1.延光四年の意味
 この銘板の下に延光四年五(月)と刻されている。この西暦125年は、中国では特筆するような年ではないのだが、列島では弥生時代の吉武高木に宮殿がつくられた年であって、倭人にとって記念すべき年号となるのでそれを記した銘板であるというのだが、そうとは言い切れない。国立博物館所蔵品統合検索システムには「延光残碑」についての記載があり、その碑は清の康煕六十年(1721)、山東省諸城県で出土したが、現在は所在不明とある。そこには延光四年と書かれていたようだ。さらには、篆書と隷書が入り交じった特異な書風との説明も付加されている。
 また重慶市の後漢磚室墓(9号墓 )から,「延光四年五月十日作」の紀年題記を持つ銭樹仏豫が発見されている。延光の年号使用の銘文は中国に存在しているのである。これらを参考に刻字したとも考えられる。

2.延光四年を囲む枠も清朝に使われていたデザインだった
扁額
 この延光四年の線刻の周囲は枠線で囲んである。その文様は中華風であり工字文に近いものである。なぜ元号と月日だけ囲ったのかは定かではないが、清朝時代のモンゴル仏教寺院の扁額の周囲を囲っている枠が同じものがあって、よくモンゴルに行かれる文化人類学者島村一平氏のX(ツイッター)に掲載されていた。清の時代にはこのような文様がよく使われていたのであろう。島村氏はこの扁額の中に書かれた文字に関して「清朝時代に建てられたモンゴルの仏教寺院の扁額(表札)。チベット語・モンゴル語・漢語。彼らがいかにハイブリッドな文化の中で生きていたのかがよくわかる。」とされているのも興味深い。

3.最初から明らかだった分析結果
 『邪馬一国の考古学』の巻末に分析報告書が添付されている。高槻市の理学電機工業株式会社によるこの金属片の分析結果にある銅59%に亜鉛30%というのは、それが真鍮製品であることをしめしている。日本では野中寺遺跡出土品に真鍮製のものがあったようだが、早くに中国では秦の時代には利用されていたという見解があり、金と同じぐらいの価値をもっていたようだが、そのような貴重品を弥生時代の倭国は入手し加工することなど可能であったのか。だが弥生時代の青銅器に亜鉛が検出された例は今のところはない。
 さらによく見ると、分析結果にはニッケルが8%と記載されている。銅に亜鉛を加えると真鍮になるが、そこにニッケルが加わると洋白と呼ばれる見た目が銀製品と似た合金となり、早くに19世紀には硬貨としても使われていたようだ。よって、自然に銅と亜鉛が混和された鉱物である鍮石との説は、この金属の成分分析の結果が間違いでないなら、ここにニッケルも含まれることからして考えにくいであろう。
 ちなみに2000年から作られた五百円硬貨の成分は、銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%とのことだ。現代の硬貨と同じ成分の銘板が古代にあったとはとても言えるものではない。

4.古代文字にも、参考にされた元ネタがあった。
 延光四年に関しては先に触れたが、上部と中間に刻された「高暘左」と「王作永宮齊鬲」について、中国側の鑑定の資料とされたと考えられる該当箇所がわかったので掲載しておく。
古代漢字
 実は古田史学の会服部静尚氏より、この文面の典拠が『積古斎鐘鼎彝器款識』にあるとされ、「『高暘左』の字形、『王作永宮齊鬲』の字形・折り返し割順が同じであり、これら金石文を見て刻したとしか考えられない。」とのご教示があったが、まさにその通りの字体であろう。この文鎮の作成者は、この資料とそっくりに刻印して完成させたのである。その意図はあくまで製品の文様としてであろう。
 当初の中国側の鑑定どおりに、室見川の銘版はやはり清朝の文鎮だった可能性でほぼ間違いないと思われる。さらに言えば、参考にされた1804年の『積古斎鐘鼎彝器款識』の刊行以降に制作された文鎮となろう。
 中国側の鑑定は、安易に結論を出されたものではなく、日本側からの依頼に誠実に調査をされたものと考える。莫大な量の蓄積を誇る中国の文化遺品を苦労して比較検討された結果としての結論だと考えて、尊重する必要があったと考えたい。

 この金属片は、いわゆるフェイクと言われるものになるかというと、少し事情が違う。もともとの制作者は、これを弥生時代の王国の記念物と言った意図を狙っていたわけではない。あくまで資料を参考にデザインとして描いたにすぎないのだ。それを現代の人たちが、弥生時代の銘板と誤解釈したまでだ。このような事例は、歴史の解釈において数多くみられるのではないか。当時の人には九州の地名のつもりだったのが、後世に奈良あたりの地名にされるといったこともある。後世のフェイクとなろうか。こういった誤解・誤読されたような事例についても、探っていきたい。
 ネットなどを拝見すると、まだこの金属片が弥生時代の遺物であり、弥生人は早くから文字を使いこなしていたという説明もされているものがあるが、改めていただくことを望みたい。

この点については、後に、先行して指摘しておられる方があることが、後の検索で気が付いたので、付記させていただく。益滿新吾氏のX(旧ツイッター) 2022年6月23日 に、
【「ネタ本は阮元の『積古齋鐘鼎彝器款識』である。
そこに「高暘(陽)左」「王作永宮齊鬲」「延光四年」が揃って見える。】 とされている。


参考文献
岡村広法「銅の眼」九州古代史研究会 1987
古田武彦「邪馬一国の考古学」古代史コレクション5 ミネルヴァ書房 
三辻利一 他『古代銅コインのケイ光X線分析(第2報)-古銭材質の年代変化-』 ネット掲載
「中国文化財図鑑」中国国家文物鑑定委員会 三秀舎 2016
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017



・古田史学会報№172に掲載のものを改訂したものです。