石材に図像を彫刻したものを画像石と呼び、築かれた古代の墳墓の装飾品としておかれる。その画像の題材に秦王の暗殺未遂事件を描いたものがよく使われた。なぜこの場面が死者を葬る墓室に飾られるのか。荊軻が投げつけた匕首が柱に突き刺さる。崑崙山を象徴する柱を射抜き、今まさに昇仙の資格をえたかのように描かれる。
前漢末から三国時代にみられるもので、墓主の高徳を称揚しその魂の安寧を願った制作者による義士の英雄化と神仙化、という意図的な構図の再構成とされる。
前漢末から三国時代にみられるもので、墓主の高徳を称揚しその魂の安寧を願った制作者による義士の英雄化と神仙化、という意図的な構図の再構成とされる。
上図は後漢時代の頃の四川省合川県の皇墳堡画像石墓。匕首が刺さった柱を挟んで、その左右に荊軻と秦王を相対させるという基本構図を踏襲している。この図では画面左で取り押さえられる荊軻のみが三山冠を被っている。注1.これは東方絶海の三神山を象徴するものとして、西王母の伴侶である東王公に特有の冠、さらに荊軻の左方に三足烏と九尾狐を従えた被髪有翼の神仙がいる。左手には彼に差し出す袋をもつ。それは不死の仙薬の薬嚢で、西王母の命により荊軻に永遠の生命を与えるために訪れた場面とされる。
燕国の暗殺者荊軻は伴として秦舞陽(シンブヨウ)を同行させ、咸陽宮(カンヨウキュウ)で秦王に謁見する。途中で秦舞陽が恐怖のあまり震えだしたため危うく事が露見しそうになるが、荊軻がこれを言いつくろい、どうにか事なきを得る。そして、手土産に持参した燕の領地の地図を広げると事前に仕込まれた匕首で、秦王の袖を掴み右手で突き刺すのだが秦王に手元にあった刀で反撃され、匕首を投げかけたが銅柱に突き刺さった。荊軻は目的を果たせず逆に切り殺されてしまう。怒った秦王はその荊軻を何度も切りつけたという。画像石の右側には荊軻に対して刀を振りかざそうとする秦王が描かれている。
この事件は未遂に終わったものの、荊軻は人々に英雄化され、柱に突き刺さった刀子が神仙への導きとされるようなシンボルとなり、この構図が多くの墓室に使われるようになった。
【2】乙巳の変と荊軻の秦王暗殺未遂事件
司馬遷はこの事件の全容を細部にわたって記している。そこに次の下りがある。秦王との謁見の際に荊軻と同行した秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると荊軻は「北方の田舎者故、天子の前にて恐れおののいています」とごまかした、とある。これに似た話が日本書紀にある。
乙巳の変では、上表文を読み終わろうとする倉山田麻呂は子麻呂がなかなか出てこないので恐ろしくなり、声も乱れて震えた。それを蘇我入鹿が怪しんでとがめると、「天皇のおそばに近いので恐れ多くて汗が流れて」と言い訳をする。この様子の描写が似ているという指摘は、ネットブログにもあるが、他にも刀子を持ち込むために献上する地図に巻いていたのが、乙巳の変では箱に入れられている。どうも日本書紀の乙巳の変の主要な部分は、この秦王暗殺未遂から取り込んだようである。すると入鹿殺害の描写は、重要人物の殺害はあったとしてもその多くが作り話とも考えられる。中大兄は長い槍をもって待ち構え、鎌足も弓矢を持っているなど、どうして宮中でできるのだろう。子麻呂等は水をかけて飯を飲み込むも吐き出すというが、これから人を斬りつけようとする直前に食べ物を口に入れるなど考えにくく、緊迫感を演出するためだったのか。
それにしてもなぜ秦王の暗殺未遂事件を参考にしたのか。これは蘇我入鹿の殺害を企図した側が、当時絶大な権力を持って憎まれていた秦王のイメージと重ねていたのではないか。この事件を契機に秦は燕を滅ぼすことになる。そして燕の人々は迫害されて倭の地に逃げ延びた祖先の末裔かもしれない。乙巳の変の場面は、この秦王暗殺未遂の説話だけでなく、より完全な物語にするための工夫をしている。書紀の岩波注にも類似が指摘されているが、蘇我馬子が崇峻天皇の殺害を目論んだ際に、東国調(あづまのみつぎ)をでっち上げている。「馬子宿禰、詐群臣曰(まえつきみをかすめていわく) 今日、進(たてまつる)東國之調。乃使東漢直駒(やまとあやのあたひこま)弑(しい)于天皇』。これを利用して、入鹿を招くために三韓調(みつのからひとみつき)なるものを設定したのであろう。さらには入鹿殺害を失敗させないために、神話も参考にされているようだ。
注1.三山冠 福岡県五郎山古墳絵画の人物に、頭に荊軻の三山冠と同様のものが描かれ、 右手を大きく上げて、左は腰に当てているので、相撲力士の表現にもとれるが、頭に三本角冠帽ともいわれるものが表現されている。突厥の石人などにも見られる。
参考文献 楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017