流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

喪船

神功皇后の喪船と空船による策略の謎

エジプト曳航船
    セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者

 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来より見解の分かれる所となっており、そこで、ここに一つの解釈を提示したい。

1.理解しにくい「赴喪船將攻空船」(喪船におもむきカラ船を攻める)の一節(※空はウツホ、などの訓みあり)

於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思將待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。

 「息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子(後の応神天皇)をその喪船にお乗せして、まず「御子はすでにお亡くなりになった」と、そっと言いもらさせなさった。こうして大和へ上ってこられる時、忍熊王は、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船を攻めようとした。そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。」   
 「喪船に向かってその空船を攻めた」という箇所は、喪船と空船は同一のものか、それとも別の船なのか議論の分かれる所であった。しかし、喪船にむかってその無人の船を攻めた、と解釈するのは奇妙であろう。その喪船には御子を乗せて、さらに皇后の軍勢も乗せていたはずである。しかし敵はその喪船を攻めるのだが、実は空船だったとするのは奇妙である。襲撃前に途中で降りたので襲撃しようと近づくと無人の船であった、とでもしないと話が通じないのではないか。
 この空船については以下のような注釈がある。「からの船、人の乗っていない船、と解釈されてきたが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」(次田真幸1980)とある。だがここは戦闘の場面であり、事前に皇后は策略として、皇子は亡くなったとの偽情報を流して喪船を用意するという周到に準備された話であって、それを空船が信仰と関係するという考えでは説明にならないであろう。
 国文学者尾崎知光氏は、喪船と空船は別の船として捉え、喪船は攻めないとする想定にはまって、別の空船を攻撃したところ、不意打ちをくらわされる、という流れが自然だとする(2016)。そのように説明されながら尾崎氏は、「赴」を告げるという意味で解釈されている。

2.船が二隻であったとすることの意味。
 日本書紀持統紀七年二月に「來赴王喪」(まうきて王の喪をつげまうす)といった用例から、この「赴」を告げるという意味にとらえ、神功側が喪船と告げたので空船を攻めたのだという。これから戦闘になるという段階で、近づく敵にどうやってこの船が喪船であると相手に知らせたのであろうか。船に棺が積まれて、葬送儀礼としての飾りが施された船ならば、遠くからでも喪船であると認識できるはずではなかろうか。よってこの解釈は無理があろう。
 一方で島谷知子氏は、尾崎氏の説にふれながら、喪船と空船を同一とみない立場は、訓みの面で問題を残すとされている(2014)。   
 「喪船に赴き攻めむとするも空船なりきと訓む」のが穏当な解釈とされるのだ。だがこれだと、皇后側の兵士がどこから現れたのかという説明がつかないのである。喪船と空船は同じ一隻なのか、それとも別々の二隻であったのか堂々めぐりとなってしまうが、ここは以下のように考えたい。
 この箇所は、いささか言葉足らずであったので、決着のつかない表現になったのではないか。私見では、喪船と空船をセットで考えれば問題は解決すると考える。つまり、空船とは、喪船を曳航する動力船で、喪船はいわばバージ船となる。敵は、喪船には棺に入った遺体しかないと思い込んでいたからこれは無視して、喪船を曳航する空船を攻めたのではないだろうか。
 このようにとらえれば、喪船に近づいて空船を攻めるという表現で問題はなくなる。もちろんこの場合、曳航する空船は全くの無人ではなく、最小限の漕ぎ手は搭乗して船を走らせているのである。古代においても別の船が曳航するという事例がいくつか見られる。

3.喪船が陸地だけではなく、水上でも曳かれていた可能性
 仁徳記には、皇后が酒宴の準備で、御綱(みつな)柏(かしわ)を採って御船に積んで戻る時に、天皇が八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶ったと聞いて怒り、御船の御綱柏を全て捨てて山代国に戻る一節がある。

卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。
すなわち宮に入りまさずて、その御船を引き避(よ)きて堀江に泝(さかのぼ)ぼり、河のまにまに山代に上り幸(いでま)しき。

 注釈では、「引き避けて」は、船を綱で曳いて皇居を避けての意、とされている。つまり皇后の乗る御船は、曳航されていたのである。
 隋書倭国伝には、「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす。」とあるように、喪船を引く習俗があったことが記されている。
喪船移動復元
 奈良県巣山古墳では、喪船と考えられる板材が見つかっており、被葬者の棺を載せた喪船を修羅で古墳まで曳いたと考えられていた。ただ残念ながら現在は準構造船などとの解釈がされているのだが。さらにこの喪船が、どうやら河や海で別の船に曳かれていた事例も見つかっている。ピラミッドの脇から見つかった二隻の太陽の船である。
 「船の舳先が二隻目のものも西側向きだった、帆柱と帆布見つかった、帆柱を受ける留め金(ブロンズ製)も見つかった。そしてオールを漕ぐのに使う金属の留め金が見つかっている。・・・このことで何が解るのかと言うと、東側の第一の船と今回発見された西側の第二の船はつながれて航行するということだ、しかも二隻が縄でつながれていたため、前方の船が引っ張る役目、すなわち動力船で、後ろが神や王が乗る客船ということになる。これは王家の谷などで太陽の船が描かれる時こういう形がとられているのだが、今までほとんどの人が気づかなかった・・。」(吉村作治2018)と説明されている。
 つまり、太陽の船は喪船であってもう一隻の船で曳航されるのである。曳航される船は、現代ではバージ船と呼ばれて通常の船では運搬しにくいものを運ぶ特殊な形状の船のことである。阿蘇ピンク石の石棺を運ぶ実験でも、石棺の運搬方法を検討して、棺を別の筏のようなものに載せて、「海王」が牽引するという方式が採用されたのである。まさに喪船を曳くイメージとなる。

4.残る問題、兵士はどこに潜んでいたのか?
 以上のように、問題の箇所は喪船とそれを曳航する空船というセットで捉えることで理解は進むのだが、まだ疑問は残る。それは何故、押熊王側は喪船ではなく、牽引する船を攻めたのかということである。牽引する船は、漕ぎ手は数人いたとしても、空船とされたようにそこに皇后や主力の兵士の姿は見えなかったはずなのだが、彼らがこの船にいると考えたから襲撃したのである。
 ところがそこに相手はいなかった。一方で喪船には兵士が多数潜んでいたのであるが、押熊王側は気が付かなかった。棺を積んだ船であるが、その棺を囲むような部屋を作って、そこに待機したとするなら、かなり大きな構造物を上に載せないと無理であり、それでは敵に怪しまれてしまう。では大勢の兵士は喪船のどこに潜んでいたのであろうか。
沈没船
 地中海では紀元前1300年前のウルブルン沈没船が発見されて復元図がつくられた。そこには、船底に船倉があって、大量の交易品が積まれていたのである。このタイプの構造船であれば、お宝の代わりに大勢の兵士を潜ませる事ができる。そう考えれば空船を攻めたのも、外見上は漕ぎ手しか見えないが、中に皇后や兵士が潜んでいると判断して、喪船には目もくれず攻め込もうとしたのではないか。そして、喪船の方は、棺が積まれているだけであったが、実は甲板の下の船倉に大勢の兵士が待機していて、期を見計らって出陣したのであろう。
 このように考えると、皇后の策略が分かり易くなるのではないか。だが当時の日本に、兵士を潜ませるような構造船があったかどうかは不明であり、実際に喪船で敵をごまかすことなど困難であろう。これは、作者があくまでそのように考えたとするだけのつくられた話であって、史実といったものではないのである。

5.トロイの木馬のプロットが使われた古事記の説話
 難解な「赴喪船將攻空船」(喪船に赴き空船を攻める)も、同一の船ではなく、牽引船と喪船のセットであって、しかも両船とも大勢の兵士を潜ませる船倉を持った構造船であったと解釈できるが、言葉足らずで、解釈の落ち着かない説話になってしまったということではないだろうか。
 神功皇后の策略は、トロイの木馬に似ているといわれている。兵士がこもった喪船が木馬に相当するのであろう。喪船には誰も乗っていないと考えてしまったために、まんまと敵地に入り込めたのである。実は、トロイの木馬は、誤訳であって、実際は馬の飾りを着けた船であったという説がある。先端が馬頭であしらわれた大型船に兵士を潜ませて台車に載せて敵の城へ置いたとするなら、まさにこの古事記の一節とより近い話となるのではないだろうか。トロイの木馬のプロットを応用してこの物語はつくられたと考えられ、さらに、この箇所の作者は兵士が隠れる空間を持つ大型船を理解している人物であったのではないか。このように記紀の説話には、日本古来の伝承が採録されたという以外に、中国のみならず西方の文化の情報をよく知ったものが、その作成に関わったと考えられるケースが存在していると考えられるのではないか。
   ※「トロイの木馬と神功皇后の戦略」もご覧ください。

 参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
島谷知子『息長帯比売命と品陀和気命の伝承』学苑879号昭和女子大学2014
尾崎知光「古事記讀考と資料」新典社2016
吉村作治「太陽の船復活」窓社2018
ブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」

喪船の図はYouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」より
エジプト絵画は河江肖剰氏のエジプト考古学YouTube「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7」より
ウルブルン沈没船の図はブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」より

TV番組での持統天皇の奇妙な冠

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1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 
 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに細工されたのではないかと思える。
鴨稲荷山冠
 古墳時代には、船形埴輪や土器絵画、装飾古墳などに船が多く描かれている。これは被葬者を他界へ送るための乗り物として描かれたと考えられる。他にも、船がデザインされた冠をいくつか見受けられる
 奈良県藤ノ木古墳金銅製冠はアフガニスタンのティリヤ・テペとの類似が言われるが、実はそこにはないものが描かれている。藤ノ木古墳のものはゴンドラ型の船に鳥が止まっているのである。
藤ノ木舟
 また、小倉コレクションの加耶の冠も当初は花弁とガク(早乙女雅博1982)とされていたが、実は花ではなく船であって、古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り2号墳の船形とそっくりなのである。  
伽耶冠
 辰巳和弘氏は、藤ノ木古墳や鴨稲荷山古墳の金銅製飾履も実用のものでなく、冠の船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとし、すぐに王権との関係などと説明されることの多い傾向に対し、宗教的側面からの検討を全く怠っている、と厳しく指摘されておられる(2011)。
 また船だけでなく、馬の表現が古墳時代によく見られるのは、霊獣であって被葬者の乗り物と考えられていたからであろう。しかしこのことが理解されていない例がTV番組にあった。

2.持統天皇役にかぶらせた間違った冠
持統冠
 先日、前年放映の再放送の歴史番組をみて、ありえない小道具に気が付いた。NHKの「英雄たちの選択 古代日本のプランナー・藤原不比等」という番組だ。そこに持統天皇役の女性のかぶる冠を見て、何か変だと思い、録画をしていたので見直した。
持統アップ
 馬の形に見覚えがあったのだが、この冠は実際に古墳から出土した副葬品を模したものであった。それは茨城県三昧塚古墳出土の金銅製冠で、左右がそれぞれ山形を呈し,全体の長さは約60cm。正面には蝶形の飾金具を二段階配し,上縁には花形と馬形の飾りを交互に配しているというものだ。さすがにこの演出に使われた小道具はいただけない。
三昧塚
 この古墳の時期は5世紀後半とされている。西暦500年以前であるが、持統天皇が活躍したのは700年前後である。番組スタッフは、200年も前の冠と同型のものを持統の冠に仕立ててしまったのである。時代考証はされなかったのか、それとも、されても素通りであったのか。
 もう一つの問題は、前段で紹介したように、古墳からの出土品や図形の表現は、その多くが葬送儀礼のためのものと考えられるのである。被葬者のための霊船、さらには霊獣である馬の形をあしらった冠はあくまで死者を送るための副葬品と考えられる。それを生存中の天皇が頭に飾るなど、とても考えられないのである。
 今後も同様の歴史番組が作られても、このような小道具は使われないようにしていただきたい。

※高島歴史民俗資料館は、各施設の老朽化などによる統廃合のため、令和6年3月閉館しました。新たな施設での早期の展示の再開を望みます。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
早乙女雅博氏は「新羅・加耶の冠」 (Museum372)
西都原古墳群の船形埴輪の図は HP日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会

古代船『なみはや』の復元は喪船をモデルにしていた

なみはや航海
1.失敗だった実験航海
 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各区間を分担して漕いだ。最後、対馬から釜山までは伴走船にも分乗して全員で行った。 漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。 八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」(OSAKA ゆめネット)
 これを見るに、惨憺たる結果であって、漕ぎ手は精いっぱい頑張ったのだが、そもそもの復元された「準構造船」に問題があったということではないか。齋藤茂樹氏は「現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だった」とし、「非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。五十センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」ような状態であって、「舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかった」(『理系脳で紐解く日本の古代史』)と断言、埴輪の船は「陸地や内海・池で曳かれるだけの喪舟」だったのではないかと指摘されている。祭祀のための船という説にも同意するのだが、私は、この『なみはや』の復元には根本的なところで大きな誤認、勘違いがあったと考えるものであり、この点について、さらに喪船、祭祀のための船について説明していきたい。

2.準構造船という考え方の問題点
 「なみはや」の復元では、アメリカのオレゴン州から直径二m越えの米松をわざわざ取り寄せて、それを繰り抜いて船体に仕立てている。なぜそのような巨木が必要であったのか。 
準構造船説明
 準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船、と説明されている。やがて、骨組みと板材によって建造された構造船となるという。だがこの説明だと、準構造船は、船底となる丸木舟の大きさに規制されてしまう。広い幅のある船、二人が横並びで櫂を漕ぐことができるだけの空間のある船はつくれないのである。守山市HPでは、「板材の結合技術が未熟なわが国では、この準構造船は長らく使われ、室町時代まで大型船の主流を占めていました。」と説明がされている。根拠のない決めつけの説明でしかない。この考えに縛られて『なみはや』の場合、幅を広くするためには巨木が必要となったのである。
おもき
 では、幅の広い準構造船はないのかといえばそうではなく、木材の湾曲部分を断ち割って船底部を平板でつなげばよいのである。五世紀中頃には船底を三材組み合わせて横継ぎにし、横幅を二メートルほどに増した横継ぎ組み合わせ式船体の存在も考えられる(福岡市吉武樋渡(ひわたし)遺跡で出土の船体資料)。船底部の丸木を半分に割って「おもき」とし、その間にもう一枚の平板の材(かわら)を挟み込むのである。守山市HPの「板材の結合技術が未熟」という説明は、何の根拠もない。縄文時代には、ほぞ穴のある加工された材木が出土しているのである。紀元前から地中海周辺で作られた構造船の木材の接合技術は、早くに広がっているのではないだろうか。
 以上のように、船底も板をつないだ工法をあったことを検討されずに、一般的に言われる単純な準構造船で復元しようとされたところに問題があることを示したが、さらに『なみはや』の復元にはモデルとした船について大きな勘違いがあったのである。
歴博船
3.モデルにした高廻り二号墳の船形埴輪の姿を見誤った。
 大阪市平野区高廻り古墳の一号墳と二号墳から出土の船形埴輪のレプリカが、大阪歴史博物館にいっしょに展示されている。
 奥が一号墳、手前が二号墳のものだが、この両者をよく見てほしい。なにも目を皿のようにして見るまでもなく、素直に見れば違いがわかる。一号墳は筒型の二つの台の上に置かれており、2号墳号墳は別の船形の上に安置されているように見えるのではないか。上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。
 あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。多くの埴輪は、直接地面に置かれてはいない。なぜ円筒埴輪を台にしているのかというと、埴輪はみな祭器として置かれるものであり、それが地面に直接触れると、地中の邪気が移る、または霊気が吸われてしまうといった観念から、忌避したと考えられる。一号の舟形埴輪だけでなく、三重県松坂市宝塚古墳の立派な装飾のある船も円筒埴輪を台にして古墳の片隅に置かれたのである。二号墳の場合は、その台が船形になったにすぎないのである。
船埴輪の分離
 これをそのままモデルにして復元したから、重心が上がり、とても漕ぎにくい船になってしまったのである。このような誤解が他にもある。

4.同じ轍を踏んでしまった奈良県巣山古墳の喪船の解釈
 巣山古墳で出土した竪板と舷側板などから、当時の広陵町教委文化財保存センター長の河上邦彦氏は、左右二枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。葬送用の特別な用具で、修羅で引っ張ったのでは、と説明されていた。
喪船移動復元
 これはまさに、『隋書倭国伝』の「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす」に関連するものであろう。復元図も作画されたが、残念なことに後の復元では、出土物に加える形でワニの下あごや船底などが盛り付けられてしまっている。
巣山復元
 そのようなものは全く出土していないにもかかわらず、いつのまにか修羅に置かれた喪船が、船底部に一本の丸太をくりぬいた丸木舟をくっつけて、上に舷側板を加えた準構造船なるものに鞍替えされたのは理解に苦しむ。
 牽引のための修羅に載せられた船を表現した船形木製品が、弥生後期の京丹後市古殿遺跡から出土している。下あごに小孔があり、ここに綱を通して牽引するものとして作られたのであろう。また東大阪市西岩田遺跡のものは、船形木製品と説明されているが、先端部に、切り込みと、穿孔があり、修羅のようなものにして、この上に別の船の造形物を載せていたのではないか?
修羅模型
 大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の修羅の実物も先端部は穿孔があり、上向きに反るように盛り上がっている。
 以上から、高廻り二号墳の船形埴輪も、喪船を円筒埴輪の代わりに船の形をしたものに安置したものであって、それは修羅としても使われるものでもあったととらえたほうがよさそうである。

5.船首の竪板と考えられるものを船内に配置する例
 大阪府八尾市久宝寺遺跡からは、実物の準構造船の船首部が出土したとして、その復元がされている。これによって、竪板と船底部の接合方法も明らかになったというのである。するとこの場合、先端が二股のワニの口のような船があったということになるかといえばそうはならない。
カラネガ
 弥生時代から古墳時代にかけての土器や銅鐸、板絵、古墳絵画に描かれた船絵に、先端がワニの口となった表現に見えるような図があるが、それは、船内の構造物の表現である。京都カラネガ岳2号墳の船絵は、船の前後に、梯子状のものが斜めに描かれている。これは竪板と同じものと考えていいであろう。つまりこれは、船首と船尾の中に竪板を置いているのである。久宝寺の出土した船も、巣山古墳のものと同様に、祭祀用の船であったと考えられる。 
 宮城洋一郎氏は、万葉歌などから祭祀の場が舳先であって、ここには特別な意味があったとされている。海上の守護神である住吉神は船の舳先に祀って安全を祈願するのである。また、天皇への服属儀礼もあったようである。景行紀十二年には、神夏礎媛が、「素(しら)幡(はた)を船の舳にたてて」参向している。舳先が、祭祀や儀礼に使われる、聖なる空間であったのだろう。古代に描かれた船絵には、このようなものも描かれたのであり、それがワニの上あごのように見えたのであろう。
 日本書紀履中三年に両枝(ふたまた)船の記事がある。古事記垂仁記にも二俣小舟とある。研究者の中には、これを、ワニ口の準構造船のことだとされるご意見もあるが、いずれも池に浮かべており、とても海上を進む船とは別のものであろう。なお、記紀のフタマタ船が南洋の事例から、二艘の丸木舟を繋ぎ合わせたものという説がある。いずれにしてもワニの口の準構造船とはならない。
 
6.時空を超えて広がる祭祀船のイメージ
宝塚
 三重県宝塚古墳の見事な造形の船形埴輪は、古墳の墳丘の裾の造り出しとの間の隙間に置かれていたようで、外側からは見る事ができない状態で置かれていた。見せびらかすものではなかったようで、あくまでこの古墳の被葬者の死後の世界の旅立ちのために置かれたかのようである。これは、ちょうど大ピラミッドの太陽の船と同じ状況ではないだろうか。こういった類似は、他にもある。舟の上部に大きく太陽を描いた構図は、九州の装飾古墳に同じモチーフのものが描かれている。
 また、隋書の喪船を引く習俗も、同様のものがある。ピラミッドのクフ王の船からマストや帆は見つからず、12個の大きなパドル(オール)は発見されている。しかしこれらのパドルは巨大すぎて漕ぐものとすることは困難であり、航行の際には「舵を取る」ために使われたと考えられることからクフ王の船は自力で進むことのできる能力はなく、他の船などに牽引されて使用される「バージ船」であったと考えられる。
エジプト曳航
 王墓の壁画には、王の船を従者がロープで曳く光景も描かれている。つまり、実用的な船ではなく、王のための祭祀用の船が別に存在しているのである。日本でも喪船と考えられる出土品が同様のものではないだろうか。

7.埴輪の祭祀船が冠にも表現されていた
船の冠.png
 また各地の古墳から出土している金銅製冠にも船が描かれている。奈良県藤ノ木古墳の場合、鳥と樹木の表現からその出自が論議されているが、よく見れば鳥が止っているのはゴンドラ船の中央の柱である。それが連続するように描かれている。ティリヤ・テペとの類似が指摘されているが、そこには船形の表現はない。
 辰巳和弘氏は、いっしょに置かれていた金銅製の履も実用のものではなく、冠に描かれた船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとする(「他界へ翔る船」2011)。他にも小倉コレクションの加耶冠、滋賀県鴨稲荷山古墳の冠の立飾りには船が描かれており、さらによく見ると、その船の形は、櫂座の表現もみられ、古代船復元のモデルとなった高廻り古墳や西都原古墳の舟形埴輪とそっくりなのである。いずれの冠も葬送用であり、死者を送る祭祀船が描かれているということになる。これらの豪華な副葬品を、ヤマト王権が下賜したものといったありきたりの表現がよくされているが、あくまでこの冠は、死後に棺に添えるものであって、決して生前に王が儀礼の時などにかぶっていたものではないのである。
 以上のように、土器や古墳の副葬品や埴輪に描かれた船は、その多くが死者のための喪船、祭祀船であって、それを復元しても実際に自力で海面をすすめるかどうかはわからないのである。では、渡海できるような船はどのようなものであったのか。舟の絵画には、帆船とおぼしき表現が多数見受けられる。古代の帆船について、世界にある事例なども参考に検討しなければならないだろう。
 繰り返すが、復元された『なみはや』のモデルとなった船形埴輪は、あくまで墓に眠る被葬者のための喪船なのであって、他の博物館などで同じように復元されたものも、祭祀船との説明をして展示してほしいものであって、とても外洋を航行できるものではないということである。


参考文献
齋藤茂樹「理系脳で紐解く日本の古代史」ネット掲載
佐原真「美術の考古学 佐原真の仕事3」岩波書店2005
OSAKA ゆめネット「古代船「なみはや」の解説のお知らせ」ネット掲載
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会
角川春樹「わが心のヤマタイ国 : 古代船野性号の鎮魂歌 」(角川文庫)1978
YouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」
宮城洋一郎「船の民俗と神話」月刊考古学ジャーナル臨時増刊№536 2005 ニューサイエンス社
YouTube河江肖剰古代エジプト「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7 」 
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
三重県松坂市市HP 「宝塚古墳船型埴輪」
大阪府藤井寺市HP「高廻り古墳船形埴輪」