森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』中公新書2023 より
「最近、隋唐革命が成功した別の要因も明らかになってきている。それは隋末から唐初の世情が不安定で、各地に群雄が割拠し、先の見通しがたちにくい時期に、率先して李淵集団に協力したグループがいた。
ソグド人たちは、北魏から北斉、北周にかけて、河西回廊から黄河流域へ積極的に進出し、各地にコロニー(植民聚落)をつくっていく。この時期に河西回廊の武威(甘粛省)や固原(寧夏回族自治区)、西安(陝西省)、太原などには、ソグド人のコロニーがあった。こうしたコロニー在住のソグド人と、ソグド本土からやってくるソグド商人とが協力しながら、中国の物産(おもに絹)を買い求め、交易活動をおこなっていた。隋末の群雄割拠の混乱時期に中国を安定させてくれる群雄に協力。それが李淵だった。李淵が挙兵した太原には、ソグド人のコロニーが存在、李淵挙兵の際、この太原のソグド人コロニーの住民が兵士として組織化され、これを中央アジア出身のトカラ人である龍潤なるものが率いて、李淵に従っている。太原の南にある介州は、李淵が太原から大興城へと進軍するルート上にあり、ここにもソグド人コロニーがあった。この地のソグド人の曹怡が、李淵の挙兵に呼応し、その軍に従っていることが、「曹怡墓誌」(2010公刊)から明らかに。現在の介州には、この地にいたソグド人が信仰していたゾロアスター教寺院の遺構が「祆神楼」という名で残っている。」
こういった状況がすすみ、李淵に帰順する勢力が一層強固になっていったのである。
『岩波講座世界歴史6中華世界の再編とユーラシア東部4~8世紀』(岩波書店2022)より
「唐の初代皇帝高祖李淵は遊牧民の軍事力を借りるために突厥の可汗に臣属したほか、国内でも宗教勢力や匈奴・ソグド人などの諸集団と連携し、10年ほどの間に各地の割拠勢力を平定、その動きの中心が次男の秦王李世民。兄弟を殺害して第二皇帝に即位。注目されるのは、側近の一人で庫真となっていたソグド人の武力援助があった。この庫真あるいは親信は『家人(家奴)』とともに皇帝の側近集団をなし、律令に規定された『公』の官員とは比較にならない親密な関係が皇帝との間に構築された。」
※「庫真」は鮮卑語であるとされ、北朝から唐初期の文献・石刻に見られる称号ないし官職。(田熊 敬之)
ごく一部の例だが、唐建国とソグド人の深い関係が明らかになりつつある。さらに、唐の経済的文化的発展にも寄与している。
「唐代の対外全面開放政策にのって、唐王朝の全盛期・長安の春を演出したのは、西方五十か国を越える国々の物産を長安に運び、また、長安の絹、漆器、宝石、薬品などを西方の国々へともたらしたソグド人だったということが判ってきました。」(中村清治「シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国」新潮新書2021)
しかしこのような繁栄は、755年の安史の乱によって終焉する。父がソグド人の安禄山、ソグド出身といわれる史思明の二人による反乱が8年後に終息。ソグド人への弾圧、殺戮、粛清が行われ、姿を消していった。ただ、周辺国、渤海国などでは活動を続けていたようだが、シルクロード交易は衰退していった。
7世紀末の倭国の王朝交代においても、同じように、表舞台には現れずとも一定の財力や情報網を持つ集団が、新政権への支援を行っていたのではないかと想像している。
