流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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鯨の骨
 安部頼時の遺骨ともされた鯨の化石 和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』の口絵

 『東日流外三郡誌』を創作した和田喜八郎は、斎藤光政氏の著書『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』に詳しく描かれているように、贋物を歴史的遺物であるかのように相手に信じさせるようなことをいくつも行っている。安部頼時の遺骨は鯨の化石だったのだが、その同じ鯨の化石を津保化族の骨片と別の自著に再利用するようなことを行っている。こういった詐欺的手法を見抜けずに、いとも簡単に信じてしまったのが古田武彦である。既に説明しているように弥生時代の銅鏡のレプリカを、青森で出土したものと喜八郎の言うことを鵜呑みにして自分の論考に記している。(こちら)それが他にもあるのだ。
 三内丸山遺跡の六本柱建物については、後出しジャンケンであることを(こちら)で説明しているが、ここでも古田は、喜八郎から提示された石ころを石神、隕石だと信じてしまっている。この点について以下説明する。

 三内丸山遺跡の六本柱建物に関して、これが「石神殿」であり、その「石神」は和田喜八郎が所有していた隕石だと古田氏が説明する一節がある。既に説明しているが、もともとの『東日流外三郡誌』には、津保化族は馬で狩りをする人たちと書かれている。それが、なぜか縄文時代の六本柱につなげてしまっているのだ。古田は次のように述べている。

わたしはすでに見た。右にのべられている石神たる「隕石」や「化石」が、和田喜八郎氏のもとに蔵されているのを見たのである。喜八郎氏は、ただ「これは隕石だ。」「これは化石だ。」として、わたしにしめしたのみであったけれど、それらこそ実は、往古の「神像」の姿だったのである。〕(古田「新・古代学 古田武彦と共に 2巻 『和田家文書の検証 和田家文書の中の新発見』新泉社1996)

 これを古田氏はそのまま信じたようだ。そして、この石神なる隕石が、青森の資料館に展示されているという情報を聞いて古賀達也(現古田史学の会代表)が直接訪れて、これを確認したというのである。(末尾にこの経緯の記事を掲載)この「隕石」を見て「隕鉄」の可能性がある、として、資料館の対応者に詳しい分析を依頼し、資料館側も調査するとの返事をされているのである。
 ところが、その後の関連する記事を見ても、この「石」のことが何ら話題になっていなかった。私は、この「石」の調査がされたのかどうか疑問に思ったので、その後の隕石に関する記事、古田史学の会HPや洛中洛外日記でも検索したのだが確認できなかった。そこで、直接、展示されていたという森田村歴史民俗資料館(現つがる市森田歴史民俗資料館)に問い合わせてみると、ほどなく調査していただいた結果の返信があった。
 過去の記録を丁寧に調べていただいたようであり、この「石」の分析調査も依頼されていたのである。では、古賀は、自分で依頼しておきながらこのことを忘れてしまったのであろうか。それとも、後日に問い合わせをして調査結果を聞いたが、そのまま意図してか忘れただけなのか不明だが、何ら報告はしなかった、ということなのであろうか。
 
その内容は、予想通りのものであった。太字は筆者による。
 以下全文をそのまま掲載する。

【当時の森田村歴史民俗資料館の日誌等を調べましたところ
インターネット上の「古田史学会報」No.16に当該の文章を寄稿された
古賀達也氏と思われる方は確かに1996年9月に来館されています。
何分にも村時代のことで、専門の学芸員もいなかった時期ですので、
どう対応したか不明の点も多い旨、ご了解ください。
文中の「係の人」は恐らく、石神遺跡の保存調査にも尽力された
地元の個人の方で、1996年当時、資料館の管理にも携わっておられました。
個人としても、青森県重宝に指定された貴重な資料などをお持ちでしたが
現在は亡くなっております。
文中に書かれた「石神」に関する持説を生前に周囲の者も聞いております

さて、文中に記載された石4点については、現在は資料館に展示しておりません。
ただし「黒の石」と思われる資料1点のみについては
市内の文化財収蔵庫という施設に保管しております。
実は2004年に、国立科学博物館で自然科学分析を行っておりますが
分析結果としては隕石でなく、磁鉄鉱を含む班れい岩の可能性が高いとのことです。

現在持ち合わせている情報としては以上です。
お役に立てるか分かりませんが
ご回答とさせて頂きます。
よろしくお願いいたします。

*********************
   〒038-3138 青森県つがる市木造若緑52
   つがる市教育委員会 教育部文化財課
            学芸員 ○○○○ 】
                    以上

 正直驚いた。きちんと調査をしていただいていたのである。問い合わせをしなかったらわからないままであった。この文面で、どうしてよそから持ち込まれたまがい物が資料館に展示されていたのかという事情がわかる。
 当時の資料館は、おおらかというか、ルーズなところがあったことがうかがい知れるが、この石ころの科学調査はきちんとしていただいたことには敬意を表したい。そして過去の来訪記録などお調べいただいた担当者には、重ねてお礼を申し上げたい。

「石神に関する持説を聞いていた」とあるが、現在は亡くなっているということから「石」を持ち込んだ人物が誰なのか察しはつく。重宝指定の資料を持っていたとあるが、あやしいもので直接確認したわけではないであろう。

 それにしても、斑レイ岩なら見た目からして、隕鉄として素人には騙せると考えたのであろうか。現に効果はあったようだ。
 古田は、当時の著名な古代史、考古学の先生方には、きわめて厳しい態度をとっていた。また「活字本ではなく原本がないとダメ」と言う研究姿勢を見せていたはずが、どうしてこうもやすやすと、和田喜八郎の言うことは何の疑うこともなく信じたのであろうか。首をかしげるしかない。
 また、隕鉄の可能性を力説して、分析調査を依頼しておきながら、ほったらかしにしていたのも失礼な話ではある。
 最後に参考資料を付けているが、ここでも藤本光幸が登場する。斎藤光政氏の著書でも、何度も顔を出す人物だ。
 余談だが、喜八郎が持ち出した「化石」というのは、あの鯨の化石だったかもしれない。何度も再利用したのだろうか。

 参考資料  太字は筆者
(古田史学会報 1996年10月15日 No.16「平成・諸翁聞取帳 」東北 ・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)京都市 古賀達也)

〔和田家に隕鉄が伝存しており、それが「天の石神」であること、そして三内丸山遺跡から出土したような六本柱の高層建築物に天地水の石神が祭られていたことを、筆者は会報十号で紹介し、将来同様の遺跡から隕石や化石が出土する可能性を示唆したばかりだったので、小島氏の情報にいかに驚いたか想像していただけよう。
実は同じ事に気づき、森田村の歴史民俗資料館で石神を既に見ておられた人が他にもおられた。藤本光幸氏である。石塔山例祭の前日、藤本邸に泊めていただいたのだが、私が森田村石神遺跡の隕鉄のことを話すと、藤本氏はすでにご存じで、資料館で以前見たことがあるとのこと。早速二人で資料館へ赴き、石神を探した。資料館には石神遺跡の出土品が展示されており、それは縄文前期から晩期に至る大規模な遺跡だ。あの三内丸山よりも古い時期を含む。(中略)
 問題の石神は何の説明もなく展示ケースの中に並んでいた。直径十五センチくらいの丸い白と黒の石が二個、やや卵型のものが二個と、「石神」は知らない人が見ればただの丸い石としか映らない。(中略)
私が、黒い石神は隕鉄の可能性があるので是非検査してほしい、地球上の鉄であれば、その産地が特定できるかも知れないし、縄文時代に鉄球を石神として祭っていたことは宗教史の面からも貴重なニュースになることを述べると、それならば調査してみたいと係の方は返答された。〕  以上

参考文献
和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』  八幡書店1989
斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』集英社文庫2019

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1.「石」の説明はない

 『東日流外三郡誌の逆襲』という本を準備していると聞いた時、唖然としたのだが、そのタイトルに笑ってしまった。逆襲?ではなく逆ギレではないのかと。
 私は、参加している古田史学の会の集まりの中で、この件については質問し、意見も述べてきた。私自身はまだ新参者で、古田武彦氏との面識などもまったくなかった。そして、この問題で騒がれていた時のことも何も知らないで遅くにこの会に参加した身であった。そういう中で、時に話題となるこの件で質問したのだが、会の代表の古賀達也氏や、当時のベテランの方も、その返事が「玉石混交」という説明であった。石も混じっているが、本物もあるのだというのである。
 だがその後も、この件については、語られる内容において「石」についての説明は聞いたことがない。同じ趣旨で運営されている関東の組織の定期発行紙の記事に、ピラミッドやらシュメールが登場するのを見て、これはどう考えても「石」じゃないのかと思った。まあ、言論の自由だから何を言っても構わないのだろうけど、これでは、新たな会員は増えないのではなかろうか。
 私は、『東日流外三郡誌』の内容で、これを信じて記事を書かれて、会誌に掲載されたものを批判したことがあるのだが、どうも右から左に流されてまともに受け止めてもらえなかった。最近では、何を言っても無駄だと思うようになってきたが、今回の『東日~の逆襲』なる本の目次を見ても、「石」についてはふれようとしていないように見える。もちろん、まだ完成本を見たわけではないが、これまでに発表されてるものや古賀氏のブログから、およその内容は判断できる。自分に有利な話ばかり載せてもフェアではないと思う。

2.原本なしでも話はすすんだ

 あと、さらに不信となるのが、この件での古田武彦氏の対応だ。この文書が初めて持ちかけられた時の古田氏の言葉は次のようであった。 
 古田史学会報81号 寛政原本と古田史学 昭和63年(1988)年頃    
【 (一)「寛政原本」問題の出発点
 わたしは青森市における講演において、講演終了後、控室において一人の中年紳士の訪問を受けた。
 「東日流外三郡誌の研究をしていただきたいのです。』
 「しかし、わたしは活字本ではなく、原本を見ないと、研究できません。」
 「原本をお見せいたします。」
 これが、藤本光幸氏との、最初の会話だったのである。】以上
 
 ここから話が始まるわけだが、当時の古田氏は、「原本なしでは研究できない」と明言しているのである。ところが、その後は、原本などないままに、「活字本」を読んで、これにのめり込まれたのである。話が違うのではなかろうか。
 藤本氏は、原本を見せる、と言われたそうだが、実際はそれから20年以上たってから寛政原本なる物などが登場したという。(これもかなりあやしいのだが)
 また、引用した記事の最初には、亡くなる直前の和田喜八郎と古田氏のやりとりが記されている。
【 「あった、あった、あったよ。」(これは喜八郎)
 「何があった。」
 「寛政原本だよ、寛政原本。」
 「そうか、見せてくれ。」
 「うん、また連絡する。」
爾来、二十有余年。事態は一変した。肝心の『寛政原本』が出現したのである。】
 
 和田喜八郎の亡くなる直前なので、1999年頃のやりとりだろう。この時点でさえ、古田氏は原本を見ていないということだ。「事態は一変した」などとよく言えるなあと思う。しかも、「そうか見せてくれ」とはどういうことだ。今まで見せてもらえなかったことを変だとは思われなかったのか?

 古田氏は、当時の古代史関係の学者さんと激しい論争を行い、かなりきつい調子で、相手を非難するようなことをおやりになった。そのうち、誰も氏を相手にしないようになるのだが。しかも、相手が学者だけでなく、自主的に運営する古田史学の会の会員の研究発表でも、その内容が気にくわないと、相手がやる気をなくしてしまうほどのかなり厳しい批判をされていたようだ。
 他人には大変厳しい古田先生だが、こと喜八郎に対しては、すべて信じてしまっているのだ。既に、銅鏡の件については(こちら)説明したが、ちょっとぐらい疑うことはされなかったのかと呆れてしまう。「原本を見ないと研究しない」というのは何だったのか。人にはきつく、自分には甘いということであろうか。

 この本の出版については、あまり騒ぎ立てることなく、静観して終わらせたいのだが、これから古代史に関心をもっていこうとされる人たちに、こういった類いのものを信じることのないように、「石」の説明は、今後もしていきたいと思う。
 
写真は大宰府の木うそ  Webマガジン『コロカル』より

 
米占い
  
 筑後国風土記逸文として筑紫の名の由来が三つ挙げられているが、その一つに甕依姫の登場する説話がある。この人物を、古田武彦氏は「みかよりひめ」と訓じて、卑弥呼と同一人物との可能性が高いとされたが、まだまだ検討すべき余地があると思われるので、この点について述べていきたい。注1)

1.風土記の中の荒ぶる神
 「三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半は死にき。其の数極多(いとさは)なりき。因りて人の命尽しの神と曰ふ。時に、筑紫君・肥君等占ふるに、筑紫君等が祖なる甕依姫(みかよりひめ)して、祝祭(まつ)らしめき。こゆ以降(のち)、路行く人、神に害はるることなし。ここを以て、筑紫の神と曰ふ。」(小学館「風土記」)

 筑紫の名の由来を語るものの一つだが、後述するように、類似の筋立ての説話に較べて簡略化されており、まさに逸文であって情報量の少ないものである。
 まずは、「此の堺の上」の「此の」をどう見るかである。この逸文の筑紫の名の由来の二つ目の説として、筑後国はもと筑前国と合わせた国だったが、この両国の間に急峻な山があって、狭い坂を人が往来する馬のシタクラ(馬の鞍の下に敷く布)がすりきれたので「したくら尽くしの坂」との記述から、筑前と筑後の境と考えられる。さらに、筑紫の君と肥の国が占うとあることから、肥国の境界とも接するとすれば、基山から現在の筑紫神社のある筑紫野市筑紫あたりと考えられ、「堺の上」とあることから、峠と考えられる。この峠の道行く人々の通行を妨げる神がいたということであろう。
 次に命尽くしの神とは、手ごわい存在であったので、両国の指導者が兵力では太刀打ちできないと考えたから、その解決策を占ったわけであり、人間の力を超越したものには、祭祀、呪術で対応するしかないのである。神は人を守ってくれるだけではなく、場合によっては恐ろしい敵になるのである。
 そして、巫女である甕依姫に白羽の矢が立ち、どのような祭祀行為があったかは不明だが、無事に神の怒りを鎮めることができたのである。その神の名が筑紫(ちくし)の神と呼ばれたという。ここで明確なのは筑紫の君と筑紫の神は別物ということである。ただし、筑紫の君の筑紫から、人の命を奪うという意味の名前を持つことになる。
ではこの神の人命を根絶やしにするほどの行いとは、どのようなことを意味するのであろうか。実は神が道行く人々を半生半死にしてしまうという説話は他にも類似のものがある。

2.風土記における半生半死説話
 以下に、類似の説話を列記してみる。各原文は一部だけ記載。
①播磨国風土記揖保郡 意此(おし)川 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人半死(半)生
  いつも旅人の道を遮り通る人の半数を殺し半数を殺さないで通した。その時、伯耆の小保弖(をほて)らが心憂えて朝廷に訴え、神の殿舎を作り楽しんだと見せかけて櫟(いち)山の柏を帯にかけ腰に差しはさんで川を下って鎮めた。
② 同  佐比岡 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲国人経過此処者 十人之中留五人 五人之中留三人
  出雲の国の人でここを通り過ぎる者の、十人のうち五人を引き留め、五人のうち三人を引き留めて殺した。岡を祀ったが、うまくいかず、それは女神が男神を祭らなかったから恨んだとのことだが、河内の国の枚方の里の漢人が祭って鎮めることができた。
③ 同 神前郡 生野  此処在荒神 半殺往来之人 由此号生野
  昔此処に荒ぶる神在りて 往来の人を半数殺した。これによって死に野と名付けた。
④肥前国風土記基肆郡 姫社郷(ひめこそのさと) 有荒神 行路之人 多(さは)被殺害 半凌半殺
  通行する人がたくさん殺され、半数は助かったが半数は殺された。占って筑前の国宗像郡の珂是古を祭らせた。捧げた幡が飛ぶ様子と見た夢によって織物の女神とわかり社をたてて祭った。
⑤ 同  神崎郡 昔者 此郡有荒神 往来之人 多被殺害
  昔、荒々しい神に道を行き来する人がたくさん殺された。景行天皇が巡狩(巡視)した時にこの神は穏やかになった。
⑥ 同  佐嘉郡 此川上有荒神 往来之人 生半殺半
  この川上に荒々しい振る舞いをする神がいて、その道を行き来する人の、半数は殺さないで半数は殺した。県主らの祖である大荒田が占って神意を問うと、土蜘蛛の大山田女・狭山田女という二人の女子が、人の形・馬の形を作って祭るようにと言ったので、大荒田はそのように従って神を鎮めた。 
⑦逸文 摂津の国 下樋山 昔有大神 化為鷲而下止此山 十人往者 五人去五人留
  天津鰐という大神が鷲の姿になって、この山に居着いた。十人通行したら、五人は通り過ぎ、五人はつかまってしまった。久波乎(くはお)が、この山にきて、下樋(暗渠)を使って天津鰐のもとに行き、ここを使って通行してはお祭りをした。
⑧逸文 筑後の国 昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神
  昔、国堺の山の上に荒々しい神がいて、行き来の人の半分は通行できたが半分は命を失う有様であった。死亡する人の数はとても多かった。よって命尽くしの神と呼んだ。(本稿の既出のもの)
⑨播磨国風土記賀古郡 鴨波(あわわ)里 此里有舟引原 昔神前村有荒神 毎半留行人之舟 於是 往来之舟
  この里に舟引原がある。昔、神前の村に荒れすさんだ悪神いて、通行人の舟を半数妨害して通さなかった。そのために船を上流にさかのぼり、山越えで船を曳いて迂回して別の川を下った。⑨は人ではなく船ではあるが、その内容は同じものと考えられる。注2)  

 以上のように、簡略化されたものもあるがこれらの半生半死の説話は、荒ぶる神への対策として占いを行い、祭祀者を招き、なんらかの祭祀行為を行い鎮めることができたという同じモチーフが使われている。注3)共通するもののひとつに、通行に使われる道や山の峠に荒ぶる神が現れるというのがあるが、これをどう理解すればよいであろうか。
 荒ぶる神については、国つ神であるとの定説があり、天つ神の侵攻にたいして抵抗する集団をまつろわぬ神とされている。しかし、常陸国風土記の久慈郡の条には、人々を苦しめる立速男(たちはやをの)命は天より降った天つ神とあり、秋本吉徳氏の解説にあるように異例の神とされている。支配される側の反乱にもとづく説話とは異なるものもあるのではないだろうか。

3.人知を越えた畏怖すべき観念からつくられた説話
 ちなみに出雲国風土記の出雲郡宇賀の郷では、脳(なづき)の磯というところの窟(いはや)の内に穴があり、夢でこの磯の岩窟のあたりに行くと、必ず死ぬ、と言う話が見られる。萩原千鶴氏の解説では、この洞窟がかって墓地として利用されていたことから、黄泉の穴と考えられてその世界に入ることが死につながるとされたとの解説がある。そうすると、山の上の荒ぶる神も、人の通り道の付近に黄泉の穴を作っていた、というように人々が考えていたかもしれない。
 また、日本書紀と古事記の崇神天皇の段には、半生半死ではないが似た筋立ての説話がある。古事記では「伇病多起、人民死爲盡」、書紀では、「國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣」、すなわち、疫病が大流行して国民が絶滅しそうになり、民の死亡するもの半ば以上という。これは半生半死と同じ意味であろう。崇神天皇はこれを憂いて、八十万(やそよろず)の神々を招いて占いをされる。そして神意を聞いて大田田根子に祭祀をさせると疫病は収まったのである。これが原型かと思えるような同じモチーフの物語ではなかろうか。疫病への対応ではあるが、古代人にとっては疫病も荒ぶる神の仕業であったと考えられていた。
 いずれにしても、人知の及ばない神のおこないに対する死への怖れに苦慮する人々の観念からつくられ、伝承されてきたものであろう。具体的には、伝染病の他に通行を妨げるという点では、洪水、土砂崩れといった自然の猛威の体験談が根底にあったかもしれない。こういったことが、各地の地名譚につながったこともあったと考えたい。
 
4.古代の戦争は、命を尽くすようなものだったのであろうか。
 先の甕依姫の説話に戻るが、この「半死半生」によって人の命が尽きるような状態であったということは、つまりはほぼ皆殺しということである。
 古田武彦氏は、この甕依姫を卑弥呼のこととされて、半死半生は、弥生時代の内乱といった解釈をされた。しかし、これが戦いの話なら、筑紫国と肥国のリーダーが揃って占いをするというのは奇妙であり、まずは、荒ぶる相手に自国の兵力をぶつけるべきであろう。だが、類似の説話含め、最初から力で抑えることはしていないのである。どの説話も、最初から神意を問うことで解決を図ろうとしている。これを弥生時代の内乱、戦争のようにとらえることに疑問が生じる。先ほどの荒ぶる神が国つ神側の集団で、侵略した側の集団に反撃を挑んだとしても、通行する人々の無差別的な殺人は行わないのではないだろうか。古代の戦争というよりは、古代人が畏怖しているものへの祭祀行為として理解してよいのではなかろうか。
  ⑤のエピソードも、景行天皇は戦闘行為を行ってはおらず、あくまで巡視の結果、鎮めることができたのである。省略されてはいるが、天皇によるなんらかの祭祀行為があったのではないだろうか。
 また、古田氏は甕依姫を「甕(みか)」を依り代とする、甕棺の盛行した弥生時代の筑紫の巫女と考えられた。同じく弥生時代(三世紀)の卑弥呼と同時代の人であったというのだが、別のことも考えられる。そもそも、甕棺墓が弥生時代の末まであったかどうかは今のところ不明だ。注4)卑弥呼が甕棺墓に眠っているとは考えにくいのである。  
 古墳時代には祭器として須恵器の甕がよく使われている。沖ノ島祭祀遺跡でも、須恵器甕が据え置かれた状態で出土しているのである。ここは棺としての甕というよりは、古墳時代の甕で祭祀を行う巫女としての甕依姫と考えたほうがよさそうではないか。タケミカヅチも日本書紀では武甕槌と表記されており、これを甕棺に結びつけることは出来ないであろう。また崇神紀の大田田根子は武甕槌の子なのである。さらに書紀には、武甕槌は、イザナギが斬った軻遇突智(カグツチ)から生まれた甕速日神の孫とされている。こういったところの検討も必要ではなかろうか。

5.甕依姫の行う祀りとは?
 以下は、同じ古田史学会員の方のご教示による。
 甕依姫がどのような祭祀を行っていたのかは、風土記逸文には何も語られていないので想像するしかない。甕依姫と関係する筑紫神社は、由緒によると祭神が筑紫の神、後に竈神社より玉依姫を勧請したとある。その祭祀に粥占(かゆうら)という独特の行事がある。粥占は、釡や鍋で炊いた米の粥や小豆粥を器に盛り、一定期間神前に供えて置いた後、粥に生えたカビの状況を見極め、神慮を伺うという。同じ祭祀を行う神社が、北部九州の福岡県の背振山麓北側の福岡平野や南東側の平野部、筑後川流域に見られる。
 およそ45カ所の神社で確認できるようだが、その中には高良大社末社の大学稲荷神社、竈門神社、老松神社など、九州王朝との関係が考えられる神社もこの粥占行事を行っているというのは興味深い。現在、文化庁の「大原八幡宮の米占い行事」注5)において、詳しい説明が写真入りでみることができる。発生したカビの状態で川筋の異変を的確に占うというのは、洪水被害に対する人々の切実な思いからくるものであろう。
 粥占に共通するのは、はじめに土製もしくは金属製の竃や甕でグツグツと小豆や米を煮るという行為で、これを、「甕依姫」が執り行っていたのかもしれないのだ。あくまで一つの例ではあるが、神事に欠かせない祭器の甕を扱う巫女が妥当としたい。なお、筑紫神社の由緒にある祭神の筑紫の神は他に見られない神名であり、その正体も気になるところである。

 以上をまとめると、
 類例の多い半生半死の説話は、古代人の死生観、信仰という視点でとらえることも必要と思われること。
 荒ぶる神も、崇神紀の例のように被支配者の抵抗という側面以外の視点もあると考えられること。
 甕を古墳時代以降の信仰上の祭器とも想定できること。
 記紀には甕の名を持つ神が複数存在しており、この検討も必要であり、さらに筑紫神社の祭祀なども考慮が必要であること。
 甕棺墓は、現在のところ、卑弥呼の時代まで存続したとは言い難いこと。
 このようなことから、甕依姫を卑弥呼と断定することや、その説話から卑弥呼の都の所在地の傍証にするというのも無理があると思われ、甕依姫については、まだまだ検討の余地があると考えたい。

注1.本誌掲載の谷本茂氏の《「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要―》に詳細な解説がある。
注2.半死半生については、こちらで半殺しのことと説明しています。
注3.なお、古田氏は、筑紫風土記に、重大な「原文改定」が行われていたとして、「令(改定)」は「今(原文)」とする解釈を提示されたが、2.の①では、額田部の連久等々を遣りて祈らせている。その箇所に「令禱」とある。また、2.の④でも、「令筑前国宗像郡人珂是古祭吾社」さらに「珂是古令祭神社」とある。これら一群の説話との共通性から、令の字は適切であると思われる。ただ、「今」であった可能性は否定できないが、その場合も本稿の結論を左右するものとはならないと考えられる。
注4.「桜馬遺跡甕棺の時期は、後期前半中頃」となるが、後期後半代に出土する遺物から、「弥生時代後期の期間を通じた重要な墓地」(片岡2019)とされる。しかし、甕棺墓を条件に卑弥呼の墓を探ることは出来ないであろう。
注5. 文化庁HP「大原八幡宮の米占い行事」表題写真が表紙
リンクはこちら  ページ数が多いですが、ぜひ写真、解説の図などをご覧ください。

参考文献
「風土記 日本古典文学全集5」小学館1997
萩原千鶴「出雲国風土記全訳注」講談社学術文庫1996 (解説を参照)
秋本吉徳「常陸国風土記 全訳注」講談社学術文庫2001
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫
片岡宏二「邪馬台国論争の新視点―遺跡が示す九州説―増補版」雄山閣2019
古田武彦「よみがえる卑弥呼―日本国はいつ始まったか」古代史コレクション ミネルヴァ書房2011
寺前 直人/設楽 博己【編】「Q&Aで読む弥生時代入門」吉川弘文館2024

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図は古田武彦氏の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』(ミネルヴァ書房 2016)のP236に掲載の和田喜八郎の所有していたという鏡である。
 ※タイトルの東日流外三郡誌は「つがるそとさんぐんし」です。
 古田氏はこの鏡について次のように書いている。
「和田喜八郎氏の収蔵品(発掘物)中に,一個の前漢式鏡がある(図2︱36。注=なお銘文は本書一〇三ページ参照)。立岩出土のものと酷似している。学問的発掘でないため、その出土位置や出土状況が判明しないのは、残念であるけれど、「津軽︱筑紫」のつながりを暗示するもの、として注目されよう。」以上。

 私はこの図をみて気になったので調べてみたが、すぐに出所がわかった。古田氏は、「立岩出土のものと酷似している」と書かれておられるが、それもそのはず、これは、福岡県飯塚市立岩遺跡の連弧文「日有喜」銘鏡(1号鏡)のレプリカなのである。
福岡県飯塚市立岩遺跡の連弧文「日有喜」銘鏡

福岡県飯塚市立岩遺跡の連弧文「日有喜」銘鏡(1号鏡)
 飯塚市デジタルミュージアムで写真の閲覧可能だ。その図を利用させていただいて比較してみた。なお、図を合わせるために本物の図は回転させて掲載した。

本物との比較
 上図は、和田氏の物(左)と本物の図を合わせたものである。
比較してみると細部の違いがよくわかる。
 鈕の周囲の12個ある円文が小さい。他の内行花文鏡を見ても、円文の小さいものはない。
 その円文を取り巻く3列ある斜線(櫛歯文)の間隔があいており本数が少なく、非常に雑だ。 下の拡大図を見ていただくと一目瞭然であろう。右が本物。
比較拡大

 銘文も異なる。銘文の彫りが浅いのか弱弱しく、文字そのものは合っていても全く違う彫り方だ。
 おわかりいただけたであろうか。和田喜八郎のものが偽物、レプリカであることは明白である。しかも、最近のネット掲載のレプリカよりも質が悪い。調べてみると、これと全く同じ図柄の鏡の複製品がネット販売されているものを見つけた。(これも怪しいサイトです)
 
IMG_1177 (1)
 この最近のネットでの複製品と本物と比較すると、和田喜八郎所有のものよりも、はるかにリアルである。喜八郎はいつどこで仕入れたのか不明だが、現代のものより質が落ちるものを手にしたのだ。 

 これを古田氏に見せて、信じ込ませたというのも恐れ入る。もしこれが本物なら、重大な問題であり、大きな話題になるはず。疑うことなく信じた、あるいは騙されたというのも残念だ。とてもではないが、「筑紫と津軽」の関係など言えるものではないのである。
 古田氏は他の教授に対して、さらに研究会のメンバーの発表するものには、厳しいことをよく言われたようだが、自分自身は、疑うことをされず、喜八郎の言うがままを盲信してしまった。他にも室見川の銅板(こちら)もだが、古文書の一字一句に厳しい目を注がれていたはずの古田氏が、その一方で、安易に信じ込まれるというのは、どうしたことであろうか。
 そして、この写真の数ページあとのP240に、本物の鏡が「連弧文銘帯鏡」として掲載されている。同書は編集本なので、時間差のあるものが連続するのであるが、この写真と喜八郎所有の図が酷似していることに気が付かなかったのであろうか。この図を掲載した出版社も、校正作業の中で、確認することはされなかったのか、残念である。

奴国王墓石
春日奴国王墓
 東アジア考古学の門田誠一氏が2023年第13回日本考古学協会賞大賞を受賞された著作。    
 その対象となった研究書が『魏志倭人伝と東アジア考古学』(吉川弘文館2021)こちら
 
 魏志倭人伝に記された倭と倭人の事物・習俗・社会を、同時代の史書・文献、考古資料から検証。これまでの研究とは一線を画す研究をすすめ、中国王朝と周辺勢力との国際関係、編纂の史的環境、描かれた物質文化史の視点から分析し、三世紀の東アジアにおける相対的な位置づけを試みるという労作である。
 受賞に際して日本考古学協会の推薦文がある。そこに以下のような一節がある。
 「一例を挙げると、『魏志倭人伝』が「大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人」と記す卑弥呼の墓について、著者は巨大な墳丘を持つ古墳に直結させる通説とは距離を置く。そして著者は多方面からの検討によって、この記事の記主は卑弥呼の墓を高い封土を持つものとは認識していなかったし、多数の奴婢の殉葬というのも事実ではなく、むしろ倭が漢人社会とは異質な礼俗によってたつ社会であるという中国的な思想の産物であるという斬新な結論を提示している。」
 その「多方面からの検討」の中に、実は古田武彦氏の論考も引用されている。次の一節だ。
「古田武彦氏は『三国志』のなかの蜀志五・諸葛亮伝の『山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る』という記事、および蜀志一四蔣埦伝の『大君公侯の墓が通例”墳“であった』とする記事を引いて、歴然とした高さのある人工の墓を『墳』と呼び、それよりも規模の小さい盛り土『冢』と表現したことを記述している。」『邪馬壹国と冢』(歴史と人物1976年9月号)
 卑弥呼の墓の真実を示した古田氏の慧眼というべき指摘だ。さらに森浩一氏などの引用をされたあとに、門田氏は、同時代的意味に近づくことを目的とするという視点で卑弥呼の墓について検討し、古田氏が引用した諸葛亮伝にふれて、「棺を収めるための狭義の墓としての意味の冢としているのだろう。実際にヒミコの冢は『径百余歩』とあり、平面的な大きさに関する記述はあるものの高さに関する記述はなく、これが上述のような倭における墓に対する認識の一端を示しているとすれば、冢そのものは必ずしも高大な封土を備えているという認識はなされていなかったと考えられる」
 現在に至っても箸墓古墳を卑弥呼の墓とするような妄論が絶えないが、半世紀も前に古田氏は高塚ではないこと指摘しているのである。これを引用された門田氏は、膨大な資料を渉猟して意義のある論考は分け隔てなく採用されたのではないか。
 とにかく大作であり、一般人は読むのに躊躇してしまいそうなボリュウームではあるが、魏志倭人伝に関心を持つ人たちには、ぜひ挑戦してほしい考古学の価値ある一書であろう。

※写真は、福岡県春日市奴国の丘歴史資料館、王墓の上石

3. 狭穂彦王のセリフ、「枕を高くして百年を終える」という現代語訳の疑問  
 次は、日本書紀の垂仁天皇紀の狭穂彦王と妹の狭穂姫が、天皇殺害を企てるも果たせずに自分たちの身を亡ぼすという顛末の説話。妹に対して、狭穂彦王の次のような台詞がある。
  「必與汝照臨天下、則高枕而永終百年、亦不快乎」
 垂仁天皇の后で自分の妹である狭穂姫に、狭穂彦王は「お前と一緒に天下に臨むことができる。枕を高くして百年でもいられるのは快いことではないか」(宇治谷孟現代語訳岩波文庫)と天皇暗殺をせまるセリフがある。しかし百年もいられるとはどうでしょうか。もし妹が上沼恵美子のような女性なら、「あんたぁ!いつまで生きる気やねん」と突っ込まれるでしょう。さらに小学館日本古典文学全集の現代語訳でも、「必ずお前とともに、天下に君臨できるならば、枕を高くして、長らく百年も時を過ごすことも、また快いことではないか」とあるように、百年という時間を過ごすというセリフになっているが、それはちょっとありえないのでは。この場面は兄妹で謀議を図るたいへんシリアスな場面であり、冗談が入る余地のないところだ。
 この百年は二倍年暦と考えられるかもしれない。実際は五十年とすることが適切と言える。あと五十年、枕を高くして寝よう、ということではないか。ただ、自分たちの余命を台詞とするのはどうもしっくりいかない気もする。他に二倍年暦で単純に考えられないのではないかという事例がある。
 この「百年」は、日本書紀ではもう一カ所登場する。それは天武の台詞で、壬申の乱となる挙兵を決意した際に次のような言葉がある。 
 「獨治病全身永終百年」 
 岩波の現代語訳では、「ひとりで療養に努め、天命を全うしようと思ったからである。」と百年を天命と意訳されている。小学館でも「病を治して健康になり、天寿を全うしようとしたからにすぎない」とここでは百年は天寿の意味とされている。百年が人間の一生を表す言葉として使われ、しっくりくる意訳となっている。同じような例が、三国志にもあった。
 「魂而有霊,吾百年之後何恨哉」(三国志・魏書一・武帝紀)
 曹操の台詞だが、現代語訳として「霊魂というものが存在するならば、わしの死せるのちもなんの思い残すことがあろうか」(『正史三国志』今鷹真・井波律子訳 筑摩書房)と、この百年が寿命の意味に使われている。
  そうすると狭穂彦のセリフも枕を高くして百年生きよう、という意味でなく、残りの人生を安心してすごそう、という意訳のほうが現実的と考えられるのではないか。
 訳された方が、天武の場合は百年を人生という意味で解釈されているのに、どうして狭穂彦の台詞は年数を表す百年とされたのかはよくわからないが、この場合も残りの人生といった意味の台詞にした方が良かったといえる。また古語としての「百」にはたくさん、といった意味でも使われている。残りの人生という言い方は、やや否定的にも感じられるので、多くの時間を有意義にすごそう、といった意味合いにしてもいいかもしれない。
 では、ここでは二倍年暦は全く関係ないのであろうか。現代は、保険会社などのキャッチコピーで、人生百年時代とよく言われている。しかし、古代の場合は長寿もいたであろうが、多くは百年も生きられなかったであろう。当時は五十年が寿命の目安と考えられ、それが二倍年暦で百年となるので、そのまま百年が人生の意味になった、とは考えられないか。わずかな可能性を残しておきたい。

 2. 三十年も泣いてばかりいる誉津別命
  日本書紀の垂仁天皇二十三年秋九月の記事。天皇暗殺をもくろんだ狭穂彦(サホヒコ)の妹で垂仁天皇の皇后である狭穂媛が生んだ皇子の誉津別命は、三〇歳にもなっているのに髯も長いのに泣いてばかりいてしゃべれない。困った天皇が配下の者に解決策を問うのだが、ある日皇子は白鳥を見て言葉を発したことから、その白鳥を捕らえ遊び相手にするとしゃべれるようになったというお話。しかし、いくらなんでも天皇は息子が30歳になるまでじっと待っていたのであろうか?だいたいその歳で泣いてばかりでしゃべれないというなら、あきらめて彼に世話をするものを付けて、適当なところに幽閉してしまうのではないか。しかしこの疑問も次のように考えられる。三〇歳は年齢が立ちすぎており、これを二倍年暦だとすると十五歳となる。この歳なら髭も生えてくる。またこの記事は垂仁紀二十三年の記事であるのだが、そうすると子供が三〇歳だということになると垂仁天皇が皇位につく7年も前に生まれたことになるが、実際は皇位についてからの誕生となるので辻褄は合う。古代では成人儀礼は15歳前後であろうと考えられるので、息子の成人儀礼を控えてなんとかしたいと天皇は苦慮したということであろう。

 不自然な年齢、年数も二倍年暦で理解できるが、なかには、微妙なケースもある。(つづく)

 

 古事記や日本書紀では、天皇の年齢が百歳を超えるといった記述がいくつもあり、古代の天皇は長寿だったのか、などと言われますが、それはありえないといえるでしょう。これも魏志倭人伝の記事と同様に、古田武彦氏の提唱された二倍年暦とすると不自然な年齢ではなくなります。ところが、これがなかなか受け入れられず、無視されたまま、辻褄が合わないような、無理な解釈がされ続けている。
 例えば、天皇の年齢以外にも次のような説明がある。林屋辰三郎氏の「日本史探訪」(角川書店1975)では、「日本書紀で見る限り、景行天皇は六〇年間にわたってたいへんな勢いで国の統一をやるわけです。」60年も各地の制圧に奮闘されたというのは、事実ならかなりエネルギッシュな天皇といえるが、それはとても考えにくいことだ。これも60年は二倍にされたものなので、実際は30年とすれば無理なことではない。
 このように、二倍年暦と考えたほうが不自然でなくなる説話が記紀にはいくつも存在している。

⒈古事記の雄略天皇の赤猪子の説話
 雄略天皇は三輪川での遊行の際に、川で洗濯をしていた赤猪子(アカヰコ)という美しい少女を見初めます。そして「ほかの男に嫁がないように。今に宮へ招くから」と声をかける。その少女はじっと召されるのを待っていたのだが、とうとう八十年たってしまう。その女性はもはや召されることはないとあきらめますが、これまでの待ち続けた気持ちを天皇に伝えたいと思い、直接宮中に参上し、天皇に説明します。すっかり忘れてしまっていた天皇は、おわびにたくさんの品々を賜ったというお話です。なんとも罪作りな天皇ですが、その言葉を信じて待ち続けた赤猪子にも感心します。しかし、八十年も待つとはちょっとおかしくないでしょうか。
 この箇所に関して、次田真幸氏の全訳注『古事記』(講談社学術文庫)では次のような解説がされています。
「ここで八十年待ったとあるが、八十年とはまたおそろしく長い年月待ったものだと思う。赤猪子はすくなくとも九十何歳かになっているし天皇も同じく年をとるわけで、百歳あまりであろうか。とするとむしろ滑稽で、この八十というのは、八十神(ヤソガミ)、八十氏人(ヤソウジビト)、八十伴緒(ヤソトモノオ)、八十島、八十隈、八十日、八十国というような、数の多いことを表現するための言葉で、数学的な実数を表したものではないのであろう。」
 実に滑稽な解釈ではないか。これを二倍年暦で、半分の年数でみると10歳の頃に声を掛けられて、40年待って50歳の頃に天皇に会いに行く。その天皇も20歳頃に声をかけたとすると60歳であり、不自然なことにはならない。まあ、しかし、それでも40年待ったというのは長すぎであり、やや誇張のはいったお話かもしれない。
 二倍年暦でとらえれば不自然でなくなる説話を、他にも紹介したい。(続く)

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