その対象となった研究書が『魏志倭人伝と東アジア考古学』(吉川弘文館2021)(こちら)
魏志倭人伝に記された倭と倭人の事物・習俗・社会を、同時代の史書・文献、考古資料から検証。これまでの研究とは一線を画す研究をすすめ、中国王朝と周辺勢力との国際関係、編纂の史的環境、描かれた物質文化史の視点から分析し、三世紀の東アジアにおける相対的な位置づけを試みるという労作である。
受賞に際して日本考古学協会の推薦文がある。そこに以下のような一節がある。
「一例を挙げると、『魏志倭人伝』が「大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人」と記す卑弥呼の墓について、著者は巨大な墳丘を持つ古墳に直結させる通説とは距離を置く。そして著者は多方面からの検討によって、この記事の記主は卑弥呼の墓を高い封土を持つものとは認識していなかったし、多数の奴婢の殉葬というのも事実ではなく、むしろ倭が漢人社会とは異質な礼俗によってたつ社会であるという中国的な思想の産物であるという斬新な結論を提示している。」
その「多方面からの検討」の中に、実は古田武彦氏の論考も引用されている。次の一節だ。
「古田武彦氏は『三国志』のなかの蜀志五・諸葛亮伝の『山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る』という記事、および蜀志一四蔣埦伝の『大君公侯の墓が通例”墳“であった』とする記事を引いて、歴然とした高さのある人工の墓を『墳』と呼び、それよりも規模の小さい盛り土『冢』と表現したことを記述している。」『邪馬壹国と冢』(歴史と人物1976年9月号)
卑弥呼の墓の真実を示した古田氏の慧眼というべき指摘だ。さらに森浩一氏などの引用をされたあとに、門田氏は、同時代的意味に近づくことを目的とするという視点で卑弥呼の墓について検討し、古田氏が引用した諸葛亮伝にふれて、「棺を収めるための狭義の墓としての意味の冢としているのだろう。実際にヒミコの冢は『径百余歩』とあり、平面的な大きさに関する記述はあるものの高さに関する記述はなく、これが上述のような倭における墓に対する認識の一端を示しているとすれば、冢そのものは必ずしも高大な封土を備えているという認識はなされていなかったと考えられる」
現在に至っても箸墓古墳を卑弥呼の墓とするような妄論が絶えないが、半世紀も前に古田氏は高塚ではないこと指摘しているのである。これを引用された門田氏は、膨大な資料を渉猟して意義のある論考は分け隔てなく採用されたのではないか。
とにかく大作であり、一般人は読むのに躊躇してしまいそうなボリュウームではあるが、魏志倭人伝に関心を持つ人たちには、ぜひ挑戦してほしい考古学の価値ある一書であろう。
※写真は、福岡県春日市奴国の丘歴史資料館、王墓の上石
※写真は、福岡県春日市奴国の丘歴史資料館、王墓の上石