流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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河尻
古事記の神武東征でよく議論になるところである。
「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」
 吉野川で筌を使って漁をしていたのである。
 しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う漁夫と出会っているのだ。魚を取る筌(うけ・うえ)は竹などで作った筒状の漁獲器で、漏斗状の口に魚が入って閉じ込めるものだ。この筌は上流や川幅の狭いところで使うものであり、河口とか川下の川幅の広いところでは効率は悪く普通は使わないだろう。
 ただ出雲国風土記にも筌が登場する。島根郡の朝酌の促(せ)戸(と)の渡りで筌を使っている。位置的には河口部になるが、解説では宍道湖と中海の中間の間が狭い水路となっているところで、そこは当然急流となり筌に入った魚は抜け出せないから効率よく獲ることができる。やはり川上と同じ条件となり、ゆったり流れる川下では使わないと考えていいだろう。古代の筌は弥生時代の太宰府市の雛川遺跡や北九州市の辻田遺跡などで発掘されているが、佐賀の東名遺跡では縄文時代の編組製品が多数見つかっており、吉野ケ里に近いこの地で古くから筌も作られていたのではないか。さらに古事記には河下が一か所だが登場する。垂仁記のホムツワケが言葉を発したセリフに河下がある。
 そうとなれば、おのずと神武が漁夫と出会ったのは、吉野川とされた本来の嘉瀬川の山間地やそのふもとあたりと考えてもいいのではないか。ではなぜ尻を川の上流と考えたのか。尻の意味は、古田武彦氏も地形の表現とされているが、私も尻の形、ラインを表していると考えるので、つまりは川の湾曲するところや蛇行しているところを地名にしたのではないか。そこは大雨の際には洪水になりやすい地域であろう。
 たびたび被害に見舞われる木津川のほぼ直角に流れるところの南西部あたり、JR西木津駅周辺に川ノ尻がある。図のように、木津川が大きく蛇行しており、これはお尻のように曲がったところを意味するのではないか。他にも兵庫県朝来市生野町川尻はそのエリアの真ん中を市川が蛇行している。熊本市の加勢川も蛇行に沿った範囲が川尻である。広島県世羅郡の芦田川など他にもいくつもあるのではないか。「尻」はその多くが後方や末端などを意味するが中には出尻(でっちり)のように状態の表現もある。川の尻は湾曲や蛇行した箇所を意味することもあると考えたい。

イザナギイザナミ
1.
列島の統治のために派遣されたイザナギ・イザナミ

 

 イザナギ、イザナミは、国生み、神生みの説話の中で描かれているが、本来は国を統治するという天神からの使命を担っていたと考えられる。古事記には、次のような一節がある。

 於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。

 二神に、「このただよえる国を修(おさ)め理(つく)り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて。とある。

 現代語訳では、「国土をよく整えて、作り固めよ」とされているが、これは統治のことではないか。この後に、二神は、次々と島を産んでいく。そして、既に国を生み竟(を)へて、更に神を産んでいくと書かれている。ところが、カグツチを生んだが為に亡くなったイザナミに、イザナギは黄泉の国まで会いに行くのだが、その時の台詞が次のようで奇妙なのである。

 「吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。」  吾(あ)と汝(いまし)作りし国、未だ作り竟えず、よって還るべし、とイザナミに戻ってくるように呼び掛けている。

 なにやら食い違っているような表現だが、これは異なる説話を合成したことによる不整合と見てよいのではないか。すなわち、国を修める話と、国生み、神生み説話がつながれた際のほころびと見られる。

 イザナギ・イザナミは、国土を生むのではなく、列島の統治を任されたと古事記の記述では考えられるのだが、日本書紀にも同様の記述がある。

 書紀:一書(第一)曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰「有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之。」廼賜天瓊戈。

 「いまし往きて脩(しら)すべし」は現代語訳(宇治谷孟)で、「お前たちが行って治めるべき」とされている。古事記では「修」だが、日本書紀では「脩」が使われている。

 日本書紀でも、イザナギ・イザナミは統治するために派遣されたと理解できる記述があるのだ。それは、神武紀の末尾の記事でも明らかとなる。

 

卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」 

 

 (以下現代語訳)
 天皇の御巡幸があった。腋上の嗛間(ほほま)の丘に登られ、国の形を望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲の名ができた。

 昔、イザナギ尊がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器がたくさんある国、勝れていてよく整った国」といわれた。またオオアナムチ大神は名づけて「玉牆の内つ国」といわれた。ニギハヤヒ命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本の国(大空から眺めて、良い国だと選ばれた日本の国)」と言われた。

 つまり、イザナギは東征を行った神武や、神武より先に降臨したニギハヤヒ、スクナビコナと共に国づくりをすすめたオオアナムチと同じ扱いで記されている。イザナギも、天神からの勅命で新天地に渡来して国づくりを進めたことを表しており、途中の国生み、神生みの話は、別系統の挿話と考えられる。

 

2.記紀で使われる脩・修は、支配の後の統治、管理運営の意味か?

 
 日本書紀には、「脩」が17カ所で使われている。神武紀では船舶の準備、仁徳紀では宮垣、宮室の修繕、雄略紀では、修短という熟語、高麗との友好、貢納、顕宗紀に宮の整備、武烈紀に貢納、安閑紀に人名、欽明紀に貢納と修理、推古紀に貢納と船の修理、となっており、残りの4カ所で、少し異なる使われ方がされている。

 イザナギの「宜汝往脩之」については、先述のとおり。

 神功紀52年「汝當善脩和好」は七支刀の登場する記事であり、近肖古王(346375)が孫の枕流王に語った一節にあり、この点については、枕流王に七支刀を持参させたとする見解を既に提示している。(こちら

 応神8年 (百濟記云)遣王子直支于天朝 以脩先王之好            

雄略5年 (百濟新撰云)蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好  兄王は「先王」との異文あり

雄略天皇5年に百済蓋鹵王は昆支に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と命じるのだが、後の百済新撰の記事では、天王に侍(つかえまつ)らしむ。以て兄王の好を脩むるなり、とある。前者の日本の天皇に仕えよ、というのは書紀の筆法であり、後者の脩めよ、というのが実態ではなかろうか。

なお、「侍」に関しては、持統摂政前紀に「皇后始めより今に至るまで、天皇をたすけて天下を定めたまふ。つねに侍執(つかへ)まつる際にすなわち言、政事に及び、毗(たす)け補ふ所多し。とあることからも、「侍」に統治への関与の意味があったと考えられる。

つまり、派遣された百済王子は、列島での治政への関与のために渡来し、この地で経験を重ねて、半島に戻って百済王として即位しているのではなかろうか。よく、人質といった記載が見られるが、決してそのようなものでなく、あくまで書紀の記述では「質」(むかはり)であって、後の豊璋(私見では鎌足と同一人物)も、白雉の儀に参加するなど、当時の政治運営に関与していたと考えてよいであろう。この豊璋は半島に戻って最後の百済王となっている。

  

 以上のように応神紀の直支、雄略紀の昆支も、倭国に来朝して「脩める」、すなわち政治的運営への関与を託されていたと考えてよいであろう。

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2.スサノオから試練を受けるオホナムヂ(大国主)
  オホナムヂが大国主神として成長する物語について、次のような解説がある。「蛇やムカデ、蜂の室に入れられ、さらに野火攻めに遭う話は、成年式儀礼として若者に課せられる苦難と試練とを、神話的に語ったもの」(古事記講談社文庫解説)とされる。そうしてスサノオの神宝を手に入れて、祭祀王の資格が認められ、葦原中国の首長としての大国主神として新生する。
 ほんとうにこのような儀礼があったのかと思ってしまうが、それよりも試練を受けることになるのが話の進行からして、やや唐突に思えるのである。兄弟の神々に恨まれてオホナムヂは二度も殺されては蘇生されて息を吹き返すも、さらに追手がせまったのでスサノオのいる根の国に避難するのである。そこで娘のスセリビメはたちまち気に入るのだが、命からがら逃げてきたオホナムヂに、スサノオは、何の説明もなくすぐに蛇の室に入れるのである。次にムカデ、蜂の室に入れ、さらには、野火に囲まれてあわや焼死しそうになる。何か、この一節ははめ込まれた感じがするのである。
 実は『魔笛』にも王子タミーノがザラストロから、沈黙の試練を受け、さらにパミーナといっしょに火と水の試練を受ける場面がある。ザラストロは、「われらの試練の神殿へ案内せよ」と命じるが、オホナムヂが入るのは室なのである。次に野火に攻められるのだが、スセリビメは野火に囲まれたオホナムヂを死んでしまったと早合点して、葬式の用具を持って泣く場面がある。
 パミーナも、王子のタミーノが沈黙の試練の最中であることを知らずに、声をかけても返事がないことから、自分はタミーノに捨てられたと絶望する場面がある。
 最後に、試練を乗り切ったオホナムヂはスサノオの神宝を持って、スセリビメと一緒に逃げていく。するとスサノオは彼らに、「太い宮柱で空高くそびえる千木の宮殿に住め」と言うのだった。
 一方、ザラストロは試練を乗り越えた二人に「試練に勝った、さあ神殿に入るがよい」と言っているのだ。
 このように古事記のオホナムヂが唐突に試練を与えられるのも、似たような話が取り入れられたからだと考えればよいのではないか。

3.『魔笛』と古事記に共通のプロットがある理由
『魔笛』と日本とには不思議な関係がある。『魔笛』の物語の冒頭で登場するタミーノは、「日本の狩りの衣装」(japonischen jagdkleid)をまとっているのである。しかも彼は、すぐに蛇に襲われてしまい、そこを三女神が救う。どこまで似ているのかと思ってしまうが、この日本の衣装というのは自分の楽屋の衣裳部屋に、日本の狩衣と呼ばれたようなものがあったので舞台に用いたとの説明がある。当時のヨーロッパでは日本の浮世絵などとともに、着物も好まれて「ヤポン」と言われていたようだ。フェルメールも着物を羽織った人物を描いている。着物の類いが楽屋にあったのかもしれない。だがいっしょに古事記の話が伝えられたかどうかは定かではない。
 『魔笛』との相似から古事記が参考にされたとは考えにくいが、その逆はどうであろうか。だが『魔笛』の物語そのものも、シカネーダーが参考にしたとされる種本がいくつも指摘されている。ところがそれらの物語のプロットも古来からの伝承や、宗教的な説話を参考にして作られたと思われる。その参考にした古来の物語のプロットが東方へも伝承され、古事記にも使われたと考えられるのではないか。そこにはギリシャ神話やゾロアスター教の教義などの要素も考えられるだろう。タケミカヅチの『ベーオウルフ』も同じような事情であろう。
 魔笛には認められないのだが、古事記のサホビメの一節に次のような表現がある。城に籠ったサホビメを引っ張り出そうとするのだが、「爾握其御髮者、御髮自落」 髪をつかむとその髪が自然に落ちたという。これはカツラのことではないかという指摘がある。ユーラシアでは早くから使われていたようだが、日本ではどうであろうか。これも外来の説話のアイデアを利用したものかもしれない。
 『魔笛』と相似形の古事記の説話には共通する大陸由来のプロットが関係していると思われるが、それがどうして日本にまでやって来たのか。この垂仁記には、田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)を求める説話があり、私はその話のプロットもシルクロードにあったものと考え、他にも山口博氏の指摘されたスサノオに関わる北方騎馬民族の習俗との一致などを説明しているが、こういった様々な物語が大陸で収集され伝播する担い手が存在することや、またサホ兄妹が最近親婚(父母と子、兄妹など、より近しいものどおしの通婚)の関係であると考えられること、さらにサホは薩保(キャラバンのリーダー)に由来するといわれていることから、それはソグド人との関係を示していると考えている。東アジアのみならず日本にも彼らがやってきて、記紀の編纂にも関わったのではないかという可能性を今後も検討していきたい。
 
参考文献
新井秀直『魔笛 モーツァルト』音楽之友社 2000 
クルトホノルカ『「魔笛」とウイーン 西原稔訳 平凡社1991
『古事記』全訳注 次田真幸 講談社1977     

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 モーツァルト晩年の傑作オペラである『魔笛』(初演1791年)は、楽曲そのものの評価とは別にその物語には矛盾があるとか、善悪が途中で逆転するといった批評がある。なんでも作者のシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメーソンに加入しており、その教義が筋書きに使われたとか、登場人物のザラストロの名前がゾロアスター教と関係しているとかも言われている。だがそれ以上に、私には気になることがある。それは、物語の要所要所に日本の古事記の説話となにやら似たようなものを感じるのである。気づいた範囲でその箇所を書き出してみたい。

1.古事記のサホビコ(沙本毘古)とサホビメ(沙本毘売)の説話
 垂仁天皇記には、后のサホビメと兄のサホビコの兄妹が図って天皇殺害を目論むが失敗に終わり、城に逃げ込んで抗戦するも、二人とも亡くなり子のホムチワケ(本牟智和気御子)だけ救い出される説話がある。日本書紀にも同様の内容をさらに詳しくした記事がある。
 『魔笛』では、王子タミーノが神殿に仕える大祭司のザラストロから試練を与えられるも無事に乗り切り、夜の女王の娘パミーナと結ばれることになる。そのパミーナは夜の女王からザラストロの殺害を命じられるが、はたせず悩んだ挙句、相手のザラストロに白状してしまう。実はザラストロが善人で夜の女王が悪役だったのであるが、実母である夜の女王が娘のパミーナに、「お前は彼を殺し偉大な太陽の環をその手に戻すのです」と言う。
 一方の古事記では兄であるサホビコは妹のサホビメに、「お前が私を愛するのなら、二人で天下を治めよう」と天皇殺害を命じる。これは殺害動機に「太陽の環」の奪取、「天皇の代わりに二人で天下を治める」という大義名分、動機を語っているのではないか。
 次に、夜の女王は娘に「お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、もう親でもなければ子でもない」と決断を迫って、短刀を渡すのである。有名なアリアの歌われるシーンである。またその短刀について、夜の女王は「ここに短刀がある。これはザラストロのために研がれたもの」と特別にこしらえた刀物であると語っている。
 サホビコの方は、妹に「夫(垂仁天皇)と兄のどちらを愛しているのか」とせまり、紐小刀を渡している。原文では「八塩折(ヤシホオリ)の紐小刀」で、何度も繰り返して打ち鍛えたという意味であり、この場合も特別に作られたものだと説明しているのである。
 だが、殺害計画は未遂でおわる。パミーナは悩んだ末に、ザラストロに母から殺害を命じられたことを告白する。するとザラストロは「罪はあの女にある。お前の母親は自らを恥じて自分の城に引き返すことになるだろう」といってパミーナについては許そうとしたのである。
 サホビメも、天皇を殺めることなどできずに、天皇に気づかれて、すべてを白状してしまう。天皇は討伐軍を出すが、サホビコは稲城を作ってそこに入って戦うことになり、サホビメも城に入るが、天皇は最後まで后であるサホビメを城から救出しようとしたのであるが失敗して子供を残して二人は絶命する。
 相手が城に逃げるところと、殺害に失敗したパミーナとサホビメはともに許されるところも共通だ。
 以上のように、近親のものが殺害を命じる、そこに大義名分を語り、その際に脅すように相手を従わせ、特別に準備した小刀を用意する。だが未遂に終わり、相手に白状してしまうが、その罪は許し、首謀者の方は城に逃げる。酷似しているとまでは言い切れないが、それにしても似たようなプロットである。しかし、この相似形は、別の説話にも見受けられる。それは大国主の話だ。(つづく)

タケミカヅチ

1.国譲り譚のタケミカヅチ(建御雷)とタケミナカタ(建御名方)の奇妙な戦い
 古事記では国譲りを迫るタケミカヅチに、大国主の二番目の子のタケミナカタが戦いを挑む一節がある。しかし威勢よく現れたタケミナカタだったが、腕が剣に変わったタケミカヅチにたちまち怯んでしまう。自分の腕を剣の形に変えることができるというのは、どのような思い付きから生まれたのか。それは、彼が剣の神であるから、剣の制作過程の表現を意味しているところからくるのかもしれない。そもそもタケミカヅチの祖神の石の神、火の神、水の神の出生の仕方も、火を焼き、石に載せて打ち鍛え、水に浸すという、鍛冶の工程を表していることは早くから指摘されている(大林1981)。同様に、腕が刀に変わるという表現も、赤く焼かれた鉄の塊が、何度も打たれることで、やがて剣の形に変わることを意味しているととらえることができる。
 この腕が剣に変わるというアイデアは世界にあったのであろうか。映画『ターミネーター2』では、T-1000型ロボットが腕を剣に変化させて、相手を瞬殺する場面がある。脚本を制作した監督が、古事記がヒントにされたのかと思えるような意表をつくシーンである。ところが古事記ではこの場面と次の展開には、いささかの疑問がある。それは、タケミカヅチはせっかく腕を剣に変えたのに、そして相手は怖気づいてしまったのに、どうして一気にその剣で仕留めなかったのかということである。さらに奇妙なことがある。
 爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者 (ここにそのタケミナカタの手を取らむと、乞ひ帰して取りたまへば)
とある。なんと、今度は自ら素手で相手の手をつかまえている。剣になった腕をいつのまにか元に戻してしまっているのだ。そして、タケミナタの腕をつかんでちぎってしまい、たまらずタケミナカタは諏訪まで逃げて命乞いをするのである。そうであるなら、最初から腕を剣に変えなくても素手で勝負がついたはずであり、話の筋として奇妙なのである。実はこういった謎も、他に類似の話があってそれが取り込まれたと考えれば説明がつくと思われる。

2.『ベーオウルフ』との類似が指摘される、日本の伝説や伝承
 『ベーオウルフ』という中世イギリス英雄叙事詩は、諸説あるが8世紀には作られたとされている。この英雄詩の第一部では妖怪で巨人のグレンデルが、デンマークのフロースガール王の城の中で家臣を次々食い殺していたために、隣国からやって来た主人公であるベーオウルフが退治をする物語で、第2部では、そのグレンデルの母親が、ちぎられた息子の腕を取り返そうとするが、これもベーオウルフによって殺されるといった物語である。
 多ケ谷有子氏によると、英国学者パウエルは『ベーオウルフ』と「源平盛衰記」内の「剣巻」や謡曲「羅生門」で語られる「渡辺綱伝説」とにおける五つの類似点を挙げている。①鬼または妖怪の出没 ②鬼(妖怪)の敗北と片腕の喪失 ③借りた刀または剣 ④女の姿をした怪物 ⑤失った片腕の取戻し、以上の 5 点である。パウエルは、「英国と日本の物語の共通点については、同じ物語が双方にあると考えざるを得ない」としている。(多ケ谷有子2011)このような類似は他の研究者からも指摘がされている。
 金石文や能の研究家でもある藪田嘉一郎氏は、能『松風』の西欧からの伝播を主張し、合わせて、能『羅生門』も、元朝を介しての西欧からの伝播であろうと論じた。南北朝から室町初期にかけて、外国生まれの説話によって作られた戯曲は相当あるとし、幸若舞の「百合若大臣」、能の「船弁慶」「羅生門」「大江山」などを挙げている。ギリシヤ神話がマルコ・ポーロに表れるような東西交通によってもたらされたという。
 中世に伝わった話が元になっているというのだが、古代の話にも類似があるという。多ケ谷氏は、古事記の国譲り神話のタケミナカタの戦いにいくつもの共通点を指摘している。(つづく)

※剣の先にあぐらを組む姿のタケミカヅチの図をよく見かけるが、これは古事記の誤読と考えられる。
   拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前
   (とつかつるぎを抜き、さかさまに波頭の刺し立て、その剣の切っ先にあぐらをかいて)
 この場合は剣の柄を刺して立てるのであって、タケミカヅチは立てた剣を前にして坐るとするのが妥当。ここでは、彼が雷神でもあることから、剣先に稲光を放つイメージにした。

鍵穴蛇
 日本書紀・古事記には時代の合わない記事が多数練り込まれており、その中には外来の要素が盛り込まれている場合が少なからず見受けられる。
 古事記の崇神天皇の段に、苧環(おだまき)型蛇聟入伝承といわれる奇譚説話がある。夜な夜な活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)の所に通う男の正体を知るために、着物に糸をつけてみると、その糸は鍵穴を通って、美和山神社までたどれたことで、生まれた子が神の子であることがわかったという。
 「所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出」  
 「爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子」
 鍵穴という小さい穴を通ることができるということは、それが小さな蛇であったと想像できる。日本書紀の崇神紀には、大物主の正体が小蛇であったことに驚いた倭迹々日百襲姬(ヤマトトトヒモモソヒメ)が急死する説話が記されていることから、記紀の説話はセットとして捉える事ができる。
 この鍵穴が表記されたものは古事記と先代旧事本紀である。だがここに年代が合わないという問題がある。古代のカギは正倉院宝物など鍵穴のない形が多い。つまり、作り付けではなく、別の錠前を取り付けて鍵をかけるのである。鍵穴が付いたタイプのものは、奈良時代末頃の當麻寺の東塔、法隆寺五重塔、法起寺三重塔など、寺院や貴族の邸宅にあったようだが、どこにでもあるものでない。
當麻東塔
當麻寺講堂
 写真は、奈良県當麻寺の東塔と講堂の鍵穴である。戸の下の方に付いているが、これは猿落としといわれるもので、L字型をした棒状の鍵を差し込んで回すと開錠できる仕組みで、現地で伺ったのだが、金堂のほうは、今も毎日この鍵の開け閉めがされているとのことだ。下図はその仕組みを表したものである。
サル落とし
 この説話には別に参考にした資料があることが指摘されている。(中川1995)この物語の背景に漢訳仏典があるという。それは「大智度論巻第二大蔵経」で、そこに「即以神力従門鑰孔中入」とある。その内容は、修行に疲れた阿難が休息しようとしたときに、突然悟りを得たという。だが信用できないので長老の大迦華は「その言葉がほんとうならば、門の鍵穴の中から門の中に入ってきなさい」と命じたので、彼は実際に、穴から中に入る事ができたので、それから彼は大きな仕事をまかせられるようになったという。
 これで出典が明らかになったわけだが、まだ問題は残る。それはなぜ、鍵穴の説話が持ち込まれたのかである。
ウォード錠
 『鍵の文化史』(浜本1995)では、古代から現代までの鍵の歴史をふまえて列島と大陸の「風土」の大きな違いがあることが明らかにされている。ローマ時代に、鍵穴の付いた「ウォ-ド錠」がすでに広まっていた。鍵の中に障害物を設け、それを通過する鍵のみが回転して、ロックを外すことができる仕組みのものである。大陸では、日本の古代では考えられないような様々な錠前が、より精巧に作られてきた。異民族とたえず接触し、侵略や戦争を繰り返してきたヨーロッパ人の生活から生み出されたものである。
 それに反し、日本においては四方を海に囲まれ、外国の侵略をほとんど受けなかったので、防衛意識はヨーロッパと大きな相違があった。これが鍵や錠に対する意識と密接に関わっているというのである。ヨーロッパ中世といえども、その錠前と鍵との精巧さにおいて、現代日本よりははるかにすぐれている。
 それに比べれば日本のかんぬきや土蔵の鍵などはほとんど原始的といったものなのだ。このことから、古代の列島の中では8世紀であっても、鍵穴のある錠前が使われた住居を想定した話など作りえないのである。
 その長い歴史を持つヨーロッパでは、鍵と錠前は、その形状や開閉の機能による類推から、古代より愛のシンボルと考えられてきた。これは悪ふざけという意図からではなく、生命を生み出すものに対する畏敬の念から、イメージされていったのであろう。このことから、夜な夜な娘のところに通う謎の人物が、鍵穴を通るというのは、明らかに性を暗示している。古事記が美和の神の子を生んだという説話に鍵穴を通る話が持ち込まれた由縁である。
 この説話を採録したのは、列島人ではむずかしい。そもそも列島の中では鍵穴を通る、といった発想はこの時代には思いつかないのではないか。大陸文化を良く知る人物が持ち込んで応用したものであろう。古事記は古代の伝承を採録したとは考えにくい事例が多くあるのである。

参考文献
中川ゆかり『鍵穴を通る神』 古事記年報 古事記学会 編1995
浜本隆志『鍵の文化史 鍵穴からみたヨーロッパ』関西大学経済・政治研究所1995
※猿落としの仕組みの図は、ALSOKのHP 

⑴神功皇后と忍熊王(オシクマノミコ)
 次田正幸全訳注の講談社学術文庫版の現代語訳を、一部を割愛しながら記す。
 「忍熊王の反逆
 息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子(後の応神天皇)をその喪船にお乗せして、まず「御子はすでにお亡くなりになった」と、そっと言いもらさせなさった。こうして大和へ上ってこられる時、オシクマノミコは、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船(ウツホフネ)を攻めようとした。そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。」
 この中の空船については以下のような注釈がある。「からの船、人の乗っていない船、と解釈されてきたが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」とある。空船が信仰と関係するという考えは、納得はできない。それでは神功皇后の巧妙な作戦の話が生かされないのではないか。ここはやはり、空は「から」であって敵をだまして無人の船である空の船を襲撃させて、兵士を潜ませていた喪船から、攻撃を仕掛ける、というのが話の筋として通っているように思える。
 この物語は、トロイの木馬によく似ている。兵士がこもった喪船が木馬に当たるのだ。ギリシャ軍はトロイ城を攻めあぐね、戦いを断念したとの情報を流し、巨大な木馬を残して撤退する。木馬を戦利品として城内に引き込んでしまい、潜んでいた兵士によってトロイ城は一夜にして陥落する。この史実とされる物語の要素、プロットを参考に喪船の話は作られたのではないだろうか。御子が死んだと嘘の情報を流すのも、ギリシャ軍が戦いを断念したとの偽情報を流すのと同じことだ。
 金関丈夫氏は『木馬と牛馬』において、トロイの木馬が中国では巨大な石牛になって敵をだます話があることや、水滸伝にも無人の糧船を装って敵に侵入する話のあることなどを紹介している。

⑵舟だったかも知れないトロイの木馬
 最近、海外の研究者が、木馬というのは誤訳で実は馬の頭の形を先に付けた船、馬頭船だったという説を発表されているようだ。たしかに戦争状態の中、敵から巨大な木馬のオブジェをもらって喜ぶのはおかしいといえる。それが馬の頭のついた巨大な船ならば相手も実利的な価値もあるので獲得しようとしたならうなずける。もしこれが真実なら、神功皇后の喪船の説話はよりいっそうトロイ戦争のエピソードに近いことになる。先ほどの水滸伝の場合も船が登場する。
 トロイの木馬のプロットは、その話の面白さから現代のドラマや映画にも取り入れられているのはうなずける。イギリス映画「U-157」(2000年制作)では、ドイツの潜水艦が故障して漂流していることをキャッチした連合軍は、暗号解読のためにそこに搭載されている暗号機「エニグマ」を奪取しようと、自国の潜水艦をドイツ風に改造して相手に近づくという話である。兵士たちの会話の中で「トロイの木馬作戦」というセリフを言わせてネタ元を明らかにしている。他にも世界中で今も類似の話がつくられているであろう。それだけ偽装作戦というこの話が、人々に共感するものがあるのであろう。だから古代においても、最初にある場所で生まれた話が面白ければ、話好きの商人や遠方に渡る人々によって、世界各地に語り継がれていったのであろう。そして、古事記の執筆に関わった人物に、大陸文化を良く知る人物がいたのではないか。
 記紀説話には、こういった大陸文化の要素を取り込んだ例がたくさん見受けられる。天若日子(アマワカヒコ)の返り矢とニムロッドの矢の話の類似など、早くから研究者による指摘がある。こういったことも踏まえて、見直していきたい。

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