流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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土器編年

         図は 各地(半島東南部・北部九州~東海西部)の併行関係と暦年代案
      クリックして御覧ください。

 これまでの説明の要点などをまとめとしてあげておきたい。まだまだ不十分な点もみられるが、引き続き検討していきたい。

①初期の三角縁神獣鏡は弥生末期から九州の発生期の墳丘墓や古墳から出土している。
 もし三角縁鏡が国産であったと仮定しても、近畿大和から全国に配布されたという主張は看過できないのではないか。

②全国の分布状況は、ヤマト中心ではなく、九州勢力が配布していると見ることができる。
・布留0式(250年頃)の段階に三角縁鏡はないとするのは間違い。久住猛雄氏らの指摘。
藤崎32次1号墓 石棺の周溝部の調査で、周溝下層から布留0式古段階に併行するⅡA期の一括土器が出土。(図を参照)
 この布留0式古段階に三角縁神獣鏡はないという説が一部にあるが、実際は存在することを証する布留0式古相での副葬例が「少ない」のは、まだ舶載され、「配布」された直後だったからと考えられる。
・纏向型前方後円墳は九州に早くから築造され、そこに三角縁鏡が出土していると想定。一方で近畿大和地域の纏向型前方後円墳からの出土事例は皆無。これこそが、三角縁鏡が九州からの配布を示している。ただし、津古生掛古墳以外の九州の古墳の編年観の検討も必要である。

③創作模倣鏡(3~4世紀)の時代に生まれた三角縁神獣鏡           
 漢代400年の間に創出された鏡を3世紀以降は模倣を特徴とする鏡づくりが行われ、この動きの中で三角縁神獣鏡が登場した。過去の中国鏡を模刻するために、左右の逆転や神獣の配置の乱れなどが三角縁鏡以外にも発生。

④「陳是作竟」は、190年頃の洛陽市吉利区出土の画文帯同行式神獣鏡をモデルに和泉黄金塚古墳「景初三年陳是作」画文帯神獣鏡を作成。図像の逆向き、画文帯の反時計回りが発生。一方で三角縁神獣鏡に継承される特徴の、新たに内区の外周線を隆起する鋸歯文に、径を大きくし突起する乳が加わる。
 次に島根県神原神社「景初三年陳是作」三角縁神獣鏡を製作。外区文様、三角縁に改変。図像は同じだが、左右逆転が見られる。つまり神原鏡は黄金塚鏡をベースに外区に三角鋸歯文を取り込んで三角縁鏡とした。よって、黄金塚と神原の景初三年鏡は図像が異なるだけの兄弟鏡といえる。
 陳氏は引き続き、景初四年鏡、正始元年鏡を製作。景初四年の銘文では、「陳」が反転している。自分の名前で漢字を知っているから、うっかり正字で刻印してしまったとも考えられる。

⑤景初四年鏡の存在が、国産説を否定する。景初三年の末に前もって四年と刻印した可能性もある。
・国産説の王仲殊氏も北朝鮮地域の墓碑などに改元を知らずに前の年号を刻んでいた例を指摘。
・森浩一氏などの鏡の銘文の紀年は、後の時代(4世紀)に、記念すべき年号として鏡制作時に加えられた、と解釈されているが、後の時代に年号を入れるのならば、景初4年が存在しないことは知っているはず。さらに景初四年は渡来した工人が改元を知らずに刻んだ、という主張は、ではなぜ正始元年が存在しているのか説明不可ではなかろうか。

⑥官営工房の尚方銘の三角縁鏡が少なくとも10枚存在している。奈良県佐味田宝塚古墳神人車馬鏡(三角縁)21.1㎝の銘文と書体も同じものが、 河南省岳家村30号墓尚方作神獣車馬画像鏡である。他に新山古墳、熊本県葦北城ノ越など。

⑦神岡鉱山の鉛使用による国産説が言われるが、原料の産地と製作地はイコールという確定は出来ない。神岡鉱山で弥生時代後半に鉛を採掘していた根拠はない。周辺に弥生時代の遺跡もない。中国から鉛丹も下賜されているが、法隆寺の壁画での使用まで確認されず、採掘していたなら鉛丹も製造していたのではないか。

⑧国産では説明つかない車馬鏡や時代の合わない仏獣鏡が存在している。
 群馬県北山茶臼山古墳(4C前半)の神人龍虎車馬画像鏡。馬に引かれた馬車が、精密に描かれ、鞭を振る御者、後ろに主人が乗る姿も鮮明。この頃、列島に馬車は存在しない。馬の利用も始まったばかり。

⑨三角縁神獣鏡は葬送儀礼の祭器でランクが低い、という見方について。
 黒塚古墳の例の場合で言われているが、棺外に並べられた葬儀用のレベルの低い鏡という説も成り立たない。
天理天神山古墳画文鏡
        奈良県大和天神山古墳の鏡の副葬状況 (橿原考古学研究所博物館)
 大和天神山古墳では、被葬者を囲むように20面、棺外に3面の鏡があった。内訳は、方格規矩鏡6面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面である。三角縁鏡だけ低く見ることは出来ない。

⑩その他
・百枚以上あるのも何らおかしくはない。3世紀末まで何度も遣使しており、中国からも使者が来ている。正始元年に下賜品として刀などと共に鏡の記述もある。
・三角縁鏡だけでなく、画文帯神獣鏡、斜縁鏡、方格規矩鏡なども邪馬台国は公孫淵や魏晋から入手した可能

参考文献 
岡村秀典2017『鏡が語る古代史』岩波新書
図の出典は『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』實盛良彦編勉誠出版2019

 
IMG_1957分布図
     黒塚古墳展示館の鏡の分布の距離と出土数をグラフ化したもの

 黒塚古墳展示館のパネルに上記のようなグラフを示して、その意義が解説されている。 
 「初期大和王権の中枢部であった奈良盆地周辺からの三角縁神獣鏡の出土数が、他地域からの出土数を圧倒していることがわかる。」というのだが、王権の中心が鏡の出土数で決まるような、そんな単純なものであるのだろうか。
 もしこれが周辺国への支配の為の配布を示すものであるならば、もう少し曲線が遠方部までなだらかな分布になっていてもよいのではないか。これでは特に畿内地方に集中しているようにしか見えないのだが。とても卑弥呼が魏の下賜品を国中に示しているとは言えないのではなかろうか?
 さらにこのグラフの左端に注目してほしい。九州に一つの山ができていることがわかる。ここが重要ではないだろうか。
 
 かって三角縁神獣鏡の同笵鏡の関係を示す表を作成された小林行雄氏も、福岡県一貴山銚子塚古墳や佐賀県谷口古墳を含む一群は「別な中心の存在を思わせる」と語っていたのである。「別な中心」というのはたいへん重要であろう。 
 さらに近藤喬一氏も大和中心史観の立場からだが、次のような興味深い指摘をしている。 
 中国地方の日本海側と瀬戸内海側、四国では香川・愛媛の瀬戸内海側に限定される。瀬戸内海では周防灘に面した山口県と福岡・大分の海岸沿いにやはり三角縁神獣鏡を持った古墳は出現する。そして北部九州では、圧倒的に博多湾を取り囲むような形で三角縁神獣鏡をもつ古墳が出現する。
 伊都国では若八幡宮古墳を含めて考えると、早くに三角縁神獣鏡を持つ人物がいたことになるが、奴国でも中枢の地、須玖丘陵の北端、福岡平野に面した位置に那珂八幡古墳が出現し、副主体から三角縁神獣鏡が出土している。 
 初期畿内政権が最も欲したのは瀬戸内海を通じての朝鮮・中国へのルートの確保であったことは、三角縁神獣鏡の分布図からわかるとし、さらに次のようなグループ分けが見て取れるという。
 
①椿井大塚山古墳と同笵鏡を有するグループ 
 福岡原口、福岡石塚山7,福岡天神ノ森1,大分赤塚5、福岡神蔵1、那珂八幡1、すべて前方後円墳、先端がバチ形に開くタイプ。   
②福岡祇園山(高良神社蔵)の鏡は原口と同笵。
 御陵(赤坂山古墳群とも)は石塚と同笵で、両者とも方墳で箱式石棺。 
③岡山湯迫車塚(備前車塚)と同笵鏡グループ   
 那珂八幡古墳(椿井古墳に同笵)、藤崎方形周溝墓の鏡。 

 以上から、近藤氏はその立地は奴国の本拠地に畿内政権が楔を打ち込んだ形に見える、とされるのだ。しかし、この3つのグループがすべて九州に関係しているというのは別の見方ができるのではないか。 ①の椿井大塚山古墳の多数の鏡の中に、三角縁獣文帯三神三獣鏡がある。この鏡の同笵鏡が、原口・石塚山2・天神森・赤塚とすべて九州の古墳から出土しているのである。九州で配布されたものが畿内にも広がっていったとならないだろうか。
 楔を打ち込む、とされているが、ひょっとするとこれはベクトルが逆ではないか。この場合、九州側が畿内方面に進出して楔を打ち込んだ形にもとれるのではないだろうか。

 九州の卑弥呼に三角縁神獣鏡が渡されたというが、実際には、近畿圏に多数存在しているのではないか、との疑問をお持ちの方もおられるだろう。
 これについては、古代中国の鏡の政治的利用について研究者が次のような指摘を行っている。
 西豊西岔溝(せいほうせいたこう)遺跡後に匈奴の文物だけでなく漢の文物も多数出土しており、その漢鏡の年代との関係から、前2世紀後葉から前1世紀前葉にかけて、大量の鏡が流れ込んだといえる。この時期の鏡は衛氏朝鮮を攻める前に中継地の懐柔を行ったことを意味している。最終的には1世紀初頭を最後に西岔溝遺跡の墓地を営んだ人々はみえなくなるが、そのころ遼東半島で烏桓墓とされる墓地が増える。漢、あるいは王莽新の制作に従って動いたのであろう(中村2024)。
 すなわち匈奴対策の為に先行して鏡を利用したというのである。邪馬臺国においても、卑弥呼は東遷する配下の者に鏡を持たせて、相手国の懐柔、統治の安定化に利用したと考えられよう。
 よって、近畿に三角縁神獣鏡が多数あってもそれは、畿内側の勢力を示すものではないのである。
 
 つまり、懐柔の為に、中国から得た自分の祭器としての宝物を、進出地域の相手に譲渡するのだと考えれば、納得できるのではないか。邪馬臺国勢力の配下の集団が東進するにあたっての譲渡であるとするならば、近畿圏などに多数あってもそれは懐柔の為に配布されたと理解できる。 
 
 次回では、初期三角縁神獣鏡の分布で論じられている事例で説明したい。

参考文献
近藤喬一『三角縁神獣鏡』東京大学出版会1988 
中村大介『青銅器が変えた弥生社会』吉川弘文館2024

黒塚埋葬施設
          奈良県黒塚古墳 中央の棺内に置かれた画文帯神獣鏡

 鉛の神岡鉱山説以外についての国産説の問題点を説明する。

①古墳の副葬品として他の鏡より粗雑に扱われている?
 粗雑というわけではない。遣使に渡すために急いで量産してそろえたので、仕上げ加工がおろそかになったと考えられるが、黒塚古墳の場合も、鏡面についてはどれも丁寧に磨かれていたと報告書にある。黒塚の鏡もそれぞれ絹製の袋に包まれており、遺体(棺)を囲むように配置され、呪術の意味などで置かれていたのである。
 黒塚古墳の棺内にあった1枚の画文帯神獣鏡が、棺外を取り巻くように33面の三角縁神獣鏡が副葬されていたことから、画文帯神獣鏡が重視されて、三角縁神獣鏡の位置づけは低いものといった理解があるが、この点について説明する。
 
 先に「特別な取り扱い」のあった鏡について。
 一貴山銚子塚古墳 8面の彷製三角縁神獣鏡とは異なり、鍍金方格規矩四神鏡・内行花文鏡が頭部側にあった。
 紫金山古墳の出土した11面の鏡はすべて棺外に副葬。方格規矩四神鏡のみが棺内の被葬者の傍らに副葬。この鏡は尚方鏡だった。銘文に「尚方御竟大母傷・・・」 陝西省成安市漢墓の四神規矩鏡と銘文同一。特別なものとして区別したのは間違いない。では、黒塚の場合はどうとらえるか。
銅鏡の副葬は弥生時代の九州からはじまる。図の三雲南小路王墓1号甕棺内部の被葬者を31面の前漢鏡が囲むように置かれていた。同じようなことが黒塚古墳でも行われたのであり、前漢鏡が三角縁神獣鏡に変わって副葬されたということである。つまり鏡のランク(そのようなものが当時あったかどうか不明だが)としては前漢鏡と変わらない同等の扱いといえる。
三雲
     三雲南小路1号甕棺内部の復元図 伊都国歴史博物館常設展示図録2011より
 他にも、上図の様に青柳種信の記録として、福岡県三雲甕棺墓に大小35面の前漢鏡の副葬があった。
 
 一方、黒塚古墳の画文帯神獣鏡は、直径13.5㎝ 銘文には、吾作明竟自有紀□□公宜子 とあった。
 この同じ吾作明竟が黒塚の19・22号鏡にもある。吾作銘の三角縁神獣鏡は他にも見受けられる。「吾作」は個人名ではなく「自分が作った」という意味であろうが、吾作が同じ人物、同一工房の鏡工とも考えられる。なお、画文帯神獣鏡は華西、江南だけではなく華北エリアでも作られており、呉の鏡というわけではない。
 棺内にあった鏡は13.5㎝と手のひらサイズだ。これは手鏡としては手頃なサイズでなかろうか。三角縁神獣鏡は大きく重いので実用的ではない。死後の世界でも手に持って使ってもらえるように棺内に入れたと考えられる。よって、特別な鏡として棺内に入れたのではない。
 こういった事例が他にもある。
 京都府園部垣内古墳 6面の鏡の内、頭部のやや離れた位置にあったのは龍虎鏡で14.3㎝ 残りは19cm以上の三角縁神獣鏡などだ。
 京都府城陽市久津川車塚古墳 頭骨を取り囲んで3面 頭の真ん中と腹に画文帯神獣鏡(1枚は16.1㎝)、胸上に三角縁神獣鏡であったことから、特にランクで区別する状況は見えない。
 奈良県天神山古墳では、三角縁鏡、画文帯鏡、方格規矩鏡、内行花文鏡などが囲むように並べられており、すべてが同格の大切な鏡であったと考えられる。
 以上の様に、弥生墓の前漢鏡の副葬と同じように黒塚古墳では三角縁神獣鏡で被葬者を守護したのであり、棺内の画文帯神獣鏡も別格の鏡ではなく、おそらく死者の為の手鏡として置かれたものであろう。決してランクが低いなどというものではないのである。

②魏の年号が使われた鏡は中国に例は少ない  
 紀年鏡は前漢永始二年(前一五)網具規矩四神鏡を稽矢として後漢から西晋時代に盛行した。他に建安、黄初、黄武、黄龍などがあり、決してまれなものではない。
 逆に、紀年銘がある鏡が何故存在するのかという問題では、その前後に製造されたと考えるのが自然。国産説を裏付けるものにはならないであろう。
 付け加えると、近年、洛陽市で収集された鏡に景初三年吾作獣首鏡があったという、その銘文が同じ景初三年の神原神社鏡や「陳是作」三角縁同向式神獣鏡と共通する銘文があったという。「景初三年」は不自然なものではない。

③国内で100枚を大きく超える出土している。
 これについても答えは簡単だ。魏志倭人伝には次のように書かれている。
正始元年、大守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金、帛、錦、刀、鏡、采物を賜う、とある。その後も、遣使のたびに、鏡を下賜されたと考えられるので、舶載鏡も100枚を超えてもおかしくない。
 さらにいうと、三角縁神獣鏡は239年あたりから4世紀前葉の百年近くの間製造されていたと考えられている。相当な数を生産していたと考えられる。このことから、4世紀前半の古墳から出土しても何もおかしくないのである。
 とにかく、三角縁神獣鏡がすべて卑弥呼の鏡などと、誰が主張したのであろうか。百年近くの間に製造された鏡の初期、古相の段階のものが卑弥呼の手に渡ったにすぎないのである。

④三角縁神獣鏡は中国から出土していないから国産だ、との考え方について。
 日本にあって、中国にない、または少ない鏡種は他にもある。多紐細文鏡は中国には遼寧省あたりで発生し、半島から列島に流入しており、中国中原では見られない。
 そもそも卑弥呼の遣使をきっかけとする特注の生産であったので、中国内には残らなかったといえる。最近の研究で、三角縁神獣鏡の系譜が斜縁神獣鏡など中国内にあることが明確になってきている。また、後に取り上げたいが、最近では、三角縁に極めて近い鏡が中国でも見つかっている。これもまた列島産とする根拠にはならない。

⑤図像・銘文が稚拙、よって国産。
 実は中国も三世紀以降は、漢代の鏡を模倣する鏡が作られ(創作模倣)、図の配置の乱れ、神像と獣像の組み合わせの乱れ、逆字などの「粗雑化」がみえる。(上野祥史2019)
後の時代に古い銅鏡を踏み返した製品や模倣品も盛んに作られた。三角縁神獣鏡の図像も様々なオリジナルを組み合わせた試行錯誤の結果と言える。
 「三角縁神獣鏡が創出されたのは、紀年鏡が示す239年頃。その際に、魏の版図内で手に入ったであろう種々の鏡式から図像や銘文を選択し組み合わせて模倣する手法がとられた。」
 「三角縁神獣鏡は、それまで半円方形帯をもつ画文帯神獣鏡や銘文帯神獣鏡しか存在しなかった神獣鏡に、方格規矩鏡や画像鏡、盤龍鏡などに特徴的だった複波鋸歯文の外区を導入したという点で特異だが、その複波鋸歯文帯を神獣鏡に採用した嚆矢といえるのは、斜縁鏡群の中で神獣鏡の形態を採った斜縁神獣鏡だからだ。三角縁神獣鏡の創出には、斜縁鏡群、特に斜縁神獣鏡の影響が大いに及んでいると考えるべき。」(実盛2019)
 「創作模倣」によるもので、従来の漢鏡のイメージとは大きく異なるのである。

⑥中国の鏡はほぼ20㎝以内で三角縁神獣鏡と合わない。
 兵庫県森尾古墳などの第一段階の三角縁神獣鏡の銘文に次のようにある。
 新作大竟 幽律三剛  新たに大鏡を作るに、三剛を幽律す(後漢鏡の幽涷三剛にならう)
 銅出徐州 師出洛陽  銅は徐州に出で、師は洛陽に出づ。 師は鏡の作者で洛陽出身
  大きなサイズの三角縁神獣鏡の制作開始をうかがえる銘文なのである。
 また、中国が20cm以上の鏡は作っていないというのも誤解である。

⑦存在しない景初四年の銘文の鏡がある。
 逆に景初四年はなかったと言い切れるのであろうか。
 景初3年正月の明帝崩御の翌年正月元旦は改元されずに景初4年正月とされた。正月は明帝一周忌の命日となるので改元を遅らせたのである。次の2月から正始元年とされたと三国志にはある。
 三国志小帝紀には次のようにある。 

十二月詔曰「烈祖明皇帝、以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀。其復用夏正。雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」

 儀礼体系の変更として後12月を設け、翌2月を改元としたというのであるが、この後12月が鏡工人には理解されず景初四年と認識されたとも考えられる。工人だけでなく一般庶民も後十二月などといわれても、正月行事はやらなければならないであろう。
 また呉の工人の作鏡であるという説を主張した王仲殊は、朝鮮北部の漢人の塼室墳の塼や墓壁の題記の中に用いられている年号には、改元を知らず使い続けられた指摘する(王仲殊『三角縁神獣鏡』六一書房1992)。
 新聞もテレビもネットもない時代のことであり、さらには数年間隔で改元される年号は、一般人に常に認識されていたのであろうか。よって、工人が改元がわからないまま作業に集中し、早めに次の年号を鋳型に彫ることは十分あり得ることであろう。

参考文献
上野祥史『 朝鮮半島南部の鏡と倭韓の交渉 』 国立歴史民俗博物館2019
實盛良彦『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』勉誠出版2019

卑弥呼1
  大阪府立弥生博物館の卑弥呼が手にしているのは、景初三年銘の画文帯神獣鏡とのこと

 三角縁神獣鏡に関しては、ヤマト王権と結びつける次のような説明がある。
 
 長野県千曲市森将軍塚古墳は円筒埴輪が並べられ副葬品の三角縁神獣鏡などから、「ヤマト王権ときわめて強い関係を結んだ被葬者像が浮き彫りとなる」(若狭2026)
 三角縁神獣鏡でヤマト王権と強い関係を判断できるとのことのようだ。もはや常套句のようである。しかし現在の奈良県と長野県のあいだに当時どのような人や物資の流れがあったのであろうか。

 「初期ヤマト政権が地域把握を進める際に各地の有力者に与えた「威信財」としての評価が定着している」(福永2024)
 はたして「定着」しているのであろうか。

 33面の三角縁神獣鏡が副葬されていた黒塚古墳の博物館の解説パネルには次のような記述がある。
「三角縁神獣鏡は初期ヤマト王権が最も重視した鏡といってよいものである」 
「このような(神仙と霊獣の図像)霊力の宿る三角縁神獣鏡を、ヤマト王権が地域支配の一環として列島各地に配布したとする説が有力である」

 このように鏡でヤマト王権の存在、関係が謳われているのだが、残念ながらこういった短絡的な見解が主流のようである。ただここで別の問題もある。

 それは九州説からの批判についてである。邪馬臺国九州説からは、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡でないとして、その国産説を強く主張されている。だが私は、国産説を否定すればそれで済む話なのかと疑問を持つ。もちろん上記の様にヤマト王権の存在を三角縁神獣鏡で示す論理は認めたくないが、国産だと主張しても、相手にとっては、国産であっても、大和を中心に出土し、かつ配布されたという点は否定できないのである。
 
 私は、この鏡に対する見方を変えて、当時の九州の状況から再評価できないかと考えている。
 さらに、国産だとみなして終わりと軽視するのではなく、古代史を解明する重要な手がかりとしての位置づけを持たすべきだと考えている。これに関しては次のような研究者の見解がある。
 三角縁神獣鏡を広域編年の基軸に据えるもので、その理由を以下のように挙げている。
①単一の器物である点(画一性)
②分布域がきわめて広域かつ資料数が豊富な点(広域性)
③古墳時代前期を通じて複数の資料が組み合わせとなって古墳から出土(一括性)
④前期古墳のなかでは最も多数の段階を設定しうる点(細分安定性)
 これに合わせて埴輪、土器などと全体的に整合性のとれた広域編年を提示する(林2024)
 
 なるほど、見方を変えれば実に重要な史料ということになる。大和がどうだというのではなく、この三角縁神獣鏡が謎の多い古墳時代前期の解明に大きな力を秘めているということになるのではないか。

 以上の様に、三角縁神獣鏡をヤマト中心の配布物といった一面的な考え方を見直しながらも、国産かどうかだけで済ませられない歴史的遺物と考えたいのである。

 そのために、国産説をも批判的に見ながらこの鏡の意義を検討していきたい。

参考文献
若狭徹『馬と人の古代史』角川選書2026
福永伸哉『三角縁神獣鏡とヤマト政権の形成』「日本史の現在1考古」山川出版社2024
林正憲『青銅鏡からみた古墳年代編年』「日本考古学の論点」雄山閣2024

神功年表
 図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表
 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください)
 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。急死した仲哀天皇の皇后として、69年間も摂政として統治を行っていたとあるのだが、年齢の百歳というのも疑問であるが、新羅征伐のあとに九州に戻って生まれた応神は、60年以上も天皇としての即位がなかったのだが、これが二倍年暦としても35歳まで皇太子のままであったというのも不自然であろう。                                                                                                                                                                 
 この神功紀は13年の記事あとに、26年も飛んで、魏志の女王遣使の記事が挿入されている。
「卅九年、是年也太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等」
 これは、一般的に言われているように、神功という人物を卑弥呼に見立てようとしたのであろう。そしてこの翌年、さらに43,46年と関連記事を載せ、次は66年に泰初2年の貢献記事を記している。これは岩波注にもあるように、卑弥呼の次の女王である臺与のことのはずが、どうも書紀編者は神功に見立てたようである。そのために、百歳まで生かしたように設定したのであろう。この箇所も、2倍年暦で説明できないのであって、あくまで通常の年数経過で記事が入れ込まれているのである。
 逆に言えば、両者の記事の女王を神功という一人の人物に見立てるために長寿にしたと言えるのではないか。特に後半はほとんどが半島関係の記事であり、とても一人の実在の人物の記録とは考えにくい。複数の人物の記事を、まとめて作り上げたとしか考えられないのである。
 この中国への43年の遣使記事のあとに、百済王の没年と次の王の即位記事が3回記されている。これが、ちょうど一般的な解釈にあるように、干支が二運120年繰り上げて記されるのである。そしてここから、かなりくわしく、倭国と百済の通交の開始が述べられており、七支刀に関する記事も盛り込まれているのである。もちろん、銘文にある泰和四年(372)からも120年ずれているのである。
 日本書紀編者は、神功皇后を卑弥呼という存在にあてて、さらには、百済との国交をすすめた指導者としたのではなかろうか。また臨月であった皇后は、腹の帯に石を挟んで新羅討伐に向い、凱旋後に九州の地で応神を生んだというのも、説話であって史実とはとても考えられない。
 神功という存在一つをとっても、万世一系が作りものであることを示しており、応神誕生につなぐための造作にすぎないのである。
 
 なお、常陸国風土記に気になる記事がある。
「多祁許呂命仕息長帯比売天皇之朝、当至品太天皇之誕時、多祁許呂命有子八人・・・」
 茨城の郡の一節に、茨城国造の遠い祖先の多祁許呂は、息長帯比売の天皇の朝廷に仕え、品太天皇の生まれた時まで仕えた、という割注があるのは興味深い。神功は摂政ではなく天皇とし、しかも即位してからしばらくの期間の後に応神が生まれたようになっている。風土記と日本書紀に大きな食い違いのある事例であろう。

※お詫び スマホの画面では、文章の途中に空白がありますが原因がわからず修正できません。

卑弥呼

 弥生時代の環濠遺跡やその出土物を、真っ先に軍事面でとらえる傾向があるのは、その背景に魏志倭人伝の「倭国乱」の解釈の誤解があって、卑弥呼登場までの長期間にわたって大規模な内乱があったかのように刷り込まれてしまったことが要因と考えられる。
 早くに古田武彦氏が、後漢書の「大乱」が魏志倭人伝の誤読による誇張とされたが、さらに古田史学の会の正木裕氏は、この問題をさらに詳細に述べておられるので、この内容に触れながら現在も続いている誤解を説明したい。

⑴魏志倭人伝の記述を誤読し、さらに創作を加えた范曄(ハンヨウ)の後漢書
 魏志倭人伝の卑弥呼共立前の該当記事は以下のようである。
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。
 岩波文庫の訳注は以下通り。 
「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。」
 次は現代語訳。
「その国は、もとは男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年」
 岩波は、現代語訳としながら、原文をそのままなぞるような記述になっている。問題となるのは「歴年」で、ネット記事などをみても、「年を経た」という解釈がされていることが多い。ここを古田氏は、他の漢籍の使用例から、この「歴年」は10年程度とされた。出典は不明だがウィキペディアを見ると、「中国正史で歴年とは平均して8年±数年」と記載されている。
 この「歴年」の解釈が異なると、内乱が七、八十年もの間ずっと続いたかのようにも読み取れてしまう。同じように、後漢書の撰者である范曄も誤解をしてさらには、余分な内容も追加しているのである。
 次は後漢書の該当記事。 
「桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 」
 訳注は以下の通り。
  「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、歴年主なし」
 次は現代語訳。
「桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、歴年、主がいなかった。」
 後漢書は「桓・霊の間、大乱、主無し」という魏志倭人伝にはない言葉を付け加えているのである。

⑵范曄は漢の滅亡までの混乱から卑弥呼共立までの経緯を創作した
 陳寿が記した魏志倭人伝では、男王の在位期間が七、八十年で、倭国が乱れて相攻伐したのが歴年の10年ほどなのである。乱と在位期間は別なのである。それを、後に後漢書はいらぬ言葉を加えて倭国に大乱があったとしたのである。正木氏は、范曄が漢の末期の様子をもって倭国乱を描いたのであったと指摘する。
 桓帝・霊帝は暗愚な皇帝の代名詞とされており、桓帝は質帝の毒殺で即位したが、毒殺した梁冀を誅殺後に上層部の抗争が続き、霊帝は政治に無関心で黄巾の乱がおきて漢の滅亡へとすすむ。このような経緯と重ねるように、倭国乱を、桓・霊の間からの長期間の大乱でリーダーもない状態になったとしたのだが、実際に主がいなくなって混乱したのは中国の方だったのだ。
 このような結果、桓・霊の間(146~189年)の長期間に渡ってに倭国大乱があったと記述される論考が登場するのである。

⑶誤解で誇張された倭国乱
 弥生時代後半をまるで戦国時代であったかのようにとらえ、各地の遺跡や出土物を、戦争、紛争の視点で説明されることが今も続いている。ローマ逆茂木佐原氏の著作には、「ガリア戦記」のシーザーのローマ軍の例で逆茂木の図との説明があるが、おそらくこういったものから愛知朝日遺跡の場合も、環濠から出土した杭などを、防戦のための逆茂木・乱杭だと決めつけたのではないか。吉野ケ里でも、防御的役割で遺跡の説明がされ、環濠に沿って外堤が盛られ、柵が隙間なく張り巡らされ、さらにはありもしない先のとがった杭を無数に並べるという虚構の復元が行われたのである。
 岩波書店の『魏志倭人伝・後漢書倭伝~』の訳注が、「歴年」をそのままにせず、10年程度の期間であることを明示してもらわないと、この誤解はずっと続くと思われる。誇張された倭国乱が長期間続いたと思い込まされ、弥生時代の遺構、遺物を、なんでも先に戦闘行為という観点で解釈しようという傾向は、早く見直してほしいものだ。
  くどいようだが、リーダーもいなくなるような「大乱」はなかったのであり、男王の即位していた期間の10年ほどの紛争で、ついに卑弥呼が登場することになったということである。

参考文献
古田武彦「邪馬一国への道標」ミネルヴァ書房2016 など
正木裕 「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」 2018.10.14久留米大学講演
久世辰男「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
原田幹 「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲 「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
佐原真 「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真 「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002

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