流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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前方後円墳体制
   実情に合わない前方後円墳体制論は過去のものになろうとしている
    
 古墳時代の考え方として、長きにわたって支配的であった「前方後円墳体制論」という考え方も、少しずつ見直されてきているようである。いくつか紹介しておきたい。

 以下は講談社ホームページ 松木武彦『古墳時代の歴史』のプロモーション記事である。
《坂氏や清家氏の研究によって、複数の門閥氏族が、それぞれの経済基盤をもって並び立ち、そのいくつかから競合的に王が出るという経済的・政治的しくみが古墳時代の倭の社会を織りなしていたというイメージを、近年ではかなり多くの研究者が共有するようになった。「ヤマト政権」「ヤマト王権」などとさかんにいわれてきたが、ヤマトに単一の政体や王統などがあったわけではない。
 今尾文昭氏は、とくに4世紀に顕著なこの状況を「諸王の割拠」とよぶ(今尾2014)。文献史学からも、古墳時代の近畿周辺に複数の「王族」が分立していた状況が復元されている(古市2021)。「大王」を頂点とする一つの階層秩序が列島の広い範囲を一元的に覆うという古墳時代のイメージをもつ人は、実のところ、もうそんなに多くない。したがって、「大王」の巨大前方後円墳を頂点とした王権の構造がそのまま古墳に表示されているとみたり、各世代最大の前方後円墳を「大王墓」と判定してその系譜をたどったりするような方法も、ややうさんくさいとみる人が増えているのである。》

 出版社サイドがこのような挑戦的な宣伝文句を打ち出したのは、画期的かもしれない。
 その松木武彦氏は、この著書よりも先に出版された著作で、次のように述べておられる。

松木武彦「古墳」角川文庫2024  ※これは一般向けガイドブック。論考ではありません。
「巨大な古墳とはいったい、歴史的にどのような存在意義や役割や機能を果たしたのでしょうか。この大疑問に真っ向から立ち向かう姿勢は、実は、これまでの日本の考古学研究や古代史研究では、あまり盛んではありません。その大きな原因の一つは、古墳の意味や意義を日本列島の中だけで考えることが、学会の一般常識であり続けてきたからでしょう」
「古墳が一貫して『秩序』や『体制』や『国家』の表現や反映であったわけではないことを考える起点にしたいと思います」  
 最新の(遺作の)著書の内容については改めてふれるとして、ここでは、時期は前後するが他の研究者の一文を紹介する。

北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」『考古学講義』筑摩書房2019
 「これまでの定説的な見解すなわち国家形成過程の一環として古墳の巨大性を解釈しようとすれば、解けない謎に直面する。そのうえ常識的かつ合理的な政権運営を想定しつつ前方後円墳を「王陵」だとみなした場合には、説明しようのない矛盾を抱え込む。代表的なものは次に示す五項目だ。」
 ①墳丘規模の拡大  ②過剰な労働力の投下  ③富の浪費  ④本土的な共有関係  ⑤階層序列の固定化を阻む作用     ※内容は省略  直接お読み下さい。

村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」(同上)
 「したがって地域社会の維持・発展を支える鉄のコントロールが近畿地方に移行する様子はどこにもみられない。しかし前方後円墳とその葬制が各地に波及していくことは紛れもない事実である。むしろ北部九州を鉄の受容窓口とし、それを起点とする鉄の交換体制は維持され、それとは全く異なった形で前方後円墳にみられる地域間関係が新たに形成されるのであろう。」

赤塚次郎『東之宮古墳からの提言』(月刊考古学ジャーナル№551)
「すなわち、倭鏡を含めた鏡の分布が、一元的制作環境と王権からの分与という特殊なシステムによって実施されたのだという従来の方向性とは異なることになる。・・・・  王権からの一元的な文物の広がり・関係性を前提にする考え方は再検討が必要である」

青木敬『土木技術の古代史』吉川弘文館2017
「列島各地を一元化させて論じる割には、古墳という存在は、あまりにも地域性強い」
「梅原「(1955)は巨大前方後円墳の墳丘や外堤をはじめとする盛り土は、周濠など墳丘周辺の採土のみでは充足できないと提起した。古墳周辺だけではなく、それより遠方からも土砂を運搬するだけの指導力や強制力が確立したからこそ、古墳という巨大なモニュメントをつくったと、と考えるべきではないか。」

 以前より研究者のところで、ヤマト中心の歴史観への疑問を呈する事例を紹介しているが、この傾向はさらに広がる可能性はある。その点でも、坂靖氏や松木武彦氏が早くに逝去されたのは大変残念なことであった。

段階古墳
                               鳥取県西穂波16号墳       福岡県の日拝塚古墳
 前方後円墳はすべてが、方部と円部を同時に作り上げたわけではないようだ。明らかに、円墳を造り、その後に新たに方部を付け加えるという築造もあった。いくつかの事例を紹介しておきたい。

⑴段階築造とされる古墳
 
白米(しらげ)山古墳 京都加悦町(現与謝野町)後円部側根石に大きな石を斜面に沿うように置き、その上にも石を貼るように隙間なくびっしり葺いている。それがくびれ部を境として前方部では小口積みとなる。明らかに方部は後から異なる工法で築造している。
中山大塚古墳 奈良県天理市 全長132m ほぼ全面葺石 箸墓と似ている。
養久山1号墳 兵庫県たつの市 三世紀後半の造営。
矢塚古墳  桜井市纏向古墳群 円形部に突出部が付く古墳(石野博信氏)。
 
 後から前方部をつけたことのわかりやすい実例が図の右の福岡県の日拝塚古墳だ。先に円墳とそれをとりまく周濠がつくられ、前方部敷設時に周濠を切って構築されている。このような古墳がほかにいくつもあること指摘する研究者がいる。
 
 図の左の鳥取県西穂波16号墳の調査で、植野浩三氏は前方後円墳の築造における区画溝の検討をされている。氏の論考では後円部を取り巻く周濠が前方部の下をもぐるように存在するものを区画溝とし、これは後円部を築造するためのもので、前方部の築造時には埋められてしまうことから、周濠とはことなる区画溝と呼称される。氏は他の周濠との関係などから、後円部を完成させてすぐに区画溝を埋めてから前方部の築造となり、最初から前方後円墳を企図したものとされて段階築造は否定されている。
 しかし、この場合、わざわざ溝を全周に掘って、方部との接合部を円部完成後に埋めてから方部の築造をするなどというのは現実的ではない。仮にすぐに工事にかかるとしても、湧水や雨水のある溝を埋めて安定させるのに時間はかかる。ここは当初は円墳を作ったがあとから方部の追加工事をしたと考えるのが普通だろう。同様のケースである日拝塚古墳の場合は担当者は段階築造と判断しているのだ。氏はこの区画溝のある古墳を合計十二か所あげておられ、地元の調査者が方部は後の付加と解説される古墳もある。
 
 植野浩三氏の区画溝のある古墳のリスト  ※氏は他に福岡県那珂川町観音山1号墳も方部は後の追加とされる。
福岡市神松御陵古墳(横穴式・六世紀中)、  日拝塚古墳(横穴式・六世紀中)、  兵庫県豊岡市見手山一号墳(横穴式・六世紀中)、  鳥取県倉吉市鋤・高鼻二号墳(箱式石棺・六世紀中)、  鳥取県東伯郡大栄町上種西十四号墳(木棺・六世紀後)、  同西穂波十六号墳(横穴式・六世紀後)、  石川県七尾市温井十五号墳(木棺・六世紀中)  千葉県市原市持塚二号墳(横穴式・七世紀)、  千葉県木更津市高千穂七号墳(不明・六世紀)、同山伏作一号墳(不明)、  埼玉県児玉郡長沖八号墳(横穴式六世紀後)、  群馬県前橋市総社町王山古墳(横穴式・六世紀後)

⑵その他 段階築造の可能性を考えたい古墳
 
 広瀬和雄氏は奈良県西殿塚古墳が円部と方部がつながらないことを指摘。奈良市五社神古墳(神功)も前後のテラスが同一平面でつながらない。また福岡市の那珂八幡古墳も前方部との境目が不明瞭と言われている。他に岸和田市の帆立形の風吹山古墳、奈良県築山古墳なども可能性がある。さらに以下のようなものもある。
岐阜県昼飯大塚古墳 墳丘の埴輪破片の上に葺石があり、改築がなされた可能性が考えられる。
滋賀県田中王塚古墳 帆立貝式とされるが突出部の接合が調査で不自然とされ、後の追加と判断。ただしその追加工事が古墳時代に行われたかは不明。
松山市三島神社古墳 排水口もつ横穴式前方後円墳。円部と方部の土が全く異なり、前方部を後に構築したとされる。

千曲川
        長野県千曲川市森将軍塚古墳

⑶私見による段階的と考えたい古墳
 
 千曲川市森将軍塚古墳。山上に尾根に沿って作られた全長100mの前方後円墳で四世紀半ばの築造とされ、長期に渡って埋葬が行われ、周囲に計81基の埋葬が検出されている。くびれ部の後円部前面の石垣が前方部墳丘の盛土で埋まっており、また後円部の裾部の周囲の貼石帯が前方部には全く存在していないことなどから、先に円墳をつくり初代首長を埋葬し、後に前方部を付加させて二、三代目の石郭を作ったと考えられる。現地の説明では同時に築造と説明されているが、理由があいまいである。よってこの古墳も円墳完成後に新たに方部を増築したと考えたい。

 このような段階的、つまり後からの追加工事で方部が足される事例は今後も見つかるのではないかと思われる。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019  
植野浩三「区画溝と周溝墓」1997 近江町教育委員「法勝寺遺跡」1990
森田克行「シリーズ遺跡を学ぶ よみがえる大王墓」新泉社2011 
更埴市教育委員会「森将軍塚古墳 Ⅴ」

 王や首長が複数で埋葬されていると思われる古墳が多数存在している。ここで廣瀬和雄氏の『前方後円墳とは何か』より、参考資料として掲示させていただく。一部、ブログ主による追記もある。

 廣瀬和雄氏の古墳の追葬の類型 
ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを三つに細分化して
  ⅠAa 同一墓壙に複数施設 ⅠAc 複数の墓壙 ⅠAbそれらが共存したもの
ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬

以下、各事例を示す。

ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを細分化して
 ⅠAa 同一墓壙に複数施設 
  三重県石山古墳 三基の粘土槨 武器・武具でまたがって埋置されるという特徴ある。
  岐阜県昼飯大塚 竪穴石槨、粘土槨、木棺直葬
  兵庫行者塚古墳 三基の粘土槨  
    奈良県新沢508号墳、岡山県月の輪古墳 それぞれ二基の粘土槨   ※同時埋葬少なくない
 ⅠAbそれらが共存したもの
  京都府平尾城山古墳 竪穴石槨の墓壙を切り込んで、粘土槨二基を併置
  大阪府豊中大塚古墳(円墳) 木棺直葬と、同一墓壙に二基の粘土槨
  京都府宇治二子山北墳 同一墓壙の中央槨と東槨を切り込んで西槨が作られる。
  福岡県井手ノ上古墳 竪穴石槨と箱形石棺(熟年男性)、石蓋土壙(青年男性)
 ⅠAc  複数の墓壙  ※最も多い
 兵庫県天坊山古墳(円墳) 二基の竪穴石槨が併行
 京都府蛭子山古墳 三基が後円部に併存し、舟形石棺と竪穴石槨におのおの円筒埴輪列の方形区画を伴う。
 福島県会津大塚山古墳 墳頂に二基の割竹型木棺
 岐阜県矢道長塚古墳 東槨から三角縁神獣鏡三面、鍬形石、鉄刀、銅鏃、鉄斧、玉類など 西槨は、三角縁神獣鏡と内行花文鏡三面、石釧、杵形石製品、合子形石製品、鉄刀、鉄槍、鉄剣などともに豊富な副葬品 
 岡山県金蔵山古墳 二基の竪穴石槨にそれぞれ方形区画、豊富な副葬品
 大阪府和泉黄金塚古墳 三基の粘土槨 性差はあるものの、副葬品からどれが傑出しているか言えない。
 広島県三ツ城古墳 時期差をもった三基の箱形石棺   東京都野毛大塚古墳 粘土槨、箱形石棺、木棺直葬の計四つ
 岡山県随庵古墳 竪穴石槨と粘土床の二基が併存
 大阪府弁天山D2号墳(前方後円墳)三基の木棺が切り合って直葬。
 兵庫県茶すり山古墳(円)二基の木棺、いずれも多量の鉄製品
 京都府私市丸山古墳 木棺直葬三基   大阪府長持山古墳 家形石棺が二基

ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
 神奈川県白山古墳 円部に木炭槨一基と粘土槨二基、方部に粘土槨一基
 大阪府駒ヶ谷宮山古墳 円部に竪穴石槨一基、方部に粘土槨二基。その1号槨から内行花文鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧。2号槨から三角縁神獣鏡、鉄刀など。
 安土瓢箪山古墳 円部に竪穴石槨三基、方部に箱形石棺二基 ※方部は劣位
 香川県快天山古墳 円部に割竹形石棺三基、方部に組合せ式箱形石棺が四基以上
 香川県高松茶臼山古墳 円部に竪穴石槨二基、方部に箱形石棺二基、方部端の裾に箱形石棺四基、また一号竪穴石槨から人体骨二体分
 奈良県島の山古墳 円部に竪穴石槨、方部の粘土槨の被覆粘土に腕輪型石製品133個貼り付け
 福岡県老司古墳 円部に竪穴石槨二基、横穴式石室一基、前方部には横穴式石室一基、墳裾に石蓋土壙一基が設けられ、一号、二号には二体以上、三号は三~四体、四号は二体と多数の人の埋葬されている。
 
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
 千葉県猫作・栗山16号円墳 木棺に石枕が三個 周辺から立花など。 同 石神二号円墳 木棺に石枕が二個。 二基の円墳は石枕がなければ一体のみの埋葬とみなされていた。
 熊本県八代市大鼠蔵山古墳群の組合式箱型石棺1号棺に計五体の人骨 八久保古墳、三度の追葬

Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
 京都府久津川車塚古墳 長方形の掘り込み   兵庫県行者塚古墳 北東造出し部で粘土槨 

Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬     長野県将軍塚古墳など

 2019年現在の資料ですので、ご了承ください。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019 


 栄山江流域の前方後円墳、さらには特に半島南岸部にみられる倭系古墳についての研究者の見解は、まだまだまとまらないが、共通の問題意識を持たれているようである。それは多元的にとらえなければならないということであろう。機械的、短絡的に解釈は出来ないということである。そのような研究者の考え方について紹介する。

  古墳時代の日朝共同研究の報告集で、高田貫太氏は次のように述べている。
「古墳時代は、日本列島の倭人社会が、半島から先進地域を盛んに受容した時期である。これまでの日本側の研究においては、古墳時代における半島からの先進文化の受容の契機として、倭王権の軍事的活動を重視してきた。多くの場合、日本列島各地で出土する朝鮮半島系の遺構、遺物の導入過程は『倭王権による朝鮮出兵→獲得した品物や技術者の独占→地方の配布』という枠組みで(ある時は、朝鮮出兵を軍事的提携と置き換えて)説明されて来た。
 しかし、近年の調査、研究の進展によって、軍事的契機のみならず、より恒常的かつ多元的な交渉の様態が想定できるようになり、朝鮮半島諸勢力の側にも明確な交渉意図があったことも想定されている(高田2019)。」と述べておられる。

 また同じ報告集で権五栄氏は、「倭系古墳に認めらえる多様性は、そのまま当時の韓半島南部と日本列島の交渉が非常に多元的であったことを示している」というように、ここでも両者の多元的な関係という問題意識をもっておられる。
 
 そして、氏は韓式系土器の問題にふれておられる。
栄山江韓式土器
 列島に於いて韓式系土器が広範囲の地域で出土し、福岡県西新町、大阪府長原、蔀屋北、奈良県南郷などが代表的。その器種構成、器形、制作技法などから、栄山江流域との関連が究明されるようになってきたという。カマドやオンドルを備えた住居にある土製煙筒も、半島南部では馬韓―百済圏から出土するが、特に栄山江が目立つという。
 カマドの焚口に取り付けられるU字形土製品も近畿に集中して見られる。
 このことからも、栄山江に前方後円墳が存在するといっても、その一方で列島各地に栄山江流域に主たる韓式系土器が大量に出ている事実と合わせて検討しなければならない。前回にふれたが、生活に直接かかわる土器の栄山江と同じものが各地に見つかるということは、そこに栄山江関係の集団が住み着いたことを示しているのである。これをどう理解しなければならないのかが重要であろう。

 なお権五栄氏は、この時期の問題では継体朝の登場が意識されることが多いが、同時代の武寧王について関心が向いていないことを注意喚起しておられるのは、重要なことであろう。栄山江流域・馬韓への百済の進出には、武寧王の関りが大きいのである。

 次に権五栄氏の栄山江流域の倭系古墳の分類と被葬者像についても参考として掲載する。
A:構造や葬法、遺物がすべて倭的な場合 (高興野幕古墳・新安ベノルリ古墳)
B:前方後円墳を模倣した構造と葬法が認められる一方で、在地的な要素や百済の影響が共存する場合 (大部分の前方後円墳)
C:構造と葬法に倭の要素が一部認められるが、在地系の遺物または百済中央関連の威勢品が存在する場合(羅州伏岩里3号墳96年調査石室・羅州丁村古墳・高興吉頭里雁洞古墳)
D:構造は在地的であるが、葬法や遺物に倭の要素が多く認められる場合(咸平金山里方台形墳)
E:構造と葬法は在地的で、倭系遺物が少量認められる場合(髙敞鳳徳里1号墳)
F:横穴墓という独特な構造、倭系遺物と類似した副葬品が存在する場合(公州丹芝里遺跡)

 被葬者の特徴
A=倭人の可能性が高い
B=在地首長である可能性が高い
C=在地首長であろう
D=基本的には在地首長の墓である可能性が高いが、B,C類型との違いが明確でない
E=明らかに在地首長の墓
F=東城王の即位と関連した九州出身人物、及びそれに関連した人物(子孫などを含む)であった可能性が高い

 このように、栄山江の前方後円墳といっても、特徴を考慮して分類してみると、その内容、性格はかなりまちまちなのがわかる。たいへん重要な視点だが、次の被葬者の特徴となるとほとんど栄山江流域の在地の人物と解釈されている。これでは、わざわざ前方後円形に墳丘を造る意味が説明できないようにも思える。せっかく「多元的」と述べておられるのだから、引き続き広い視野で検討してほしいところである。
 とりあえずは、様々な意見の一つとして紹介させていただいた。

参考文献
『国立歴史民俗博物館研究報告・第217集』 弘文社2019

 宋書倭王武の上表文の記述に
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
 その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。

①栄山江の前方後円墳は5世紀末から6世紀前半という限定された期間だけの造営
 そうであれば、武の上表文の話は、祖先の業績を讃えているものであり、それは478年以前のこととなるのであって、時代の下がる栄山江はなんの証明にもならない。さらに以下に付け加えていきたい。

②列島の中の渡来文化はどう説明するのか?
外国に前方後円墳があるから、倭国の支配を示している、などと考えるのであれば、列島の中にある半島勢力の特徴が数多くみられる状況は、どう説明するのでしょうか。近畿地域には、片袖式の横穴石室が多数見られるが、それは百済系と言われている。すると、近畿は百済勢力が支配していた、というのでしょうか。

③前方後円墳の配置された場所の問題
 栄山江の前方後円墳と在地の高塚古墳は、排他的ではなく併存するかのように作られていると指摘されている。

④様々な特徴を持つ栄山江の古墳
 栄山江の古墳の埋葬施設の構造、副葬品などは、倭系だけでなく百済系や加耶系、そして在地系の特徴なども見られます。
 例えば、月桂洞1号墳は、石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっているが、一方で、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済の特徴をもっている。
新徳1号墳は、武寧王陵と同じくコウヤマキ製の木棺があったことから、被葬者は百済系と考えられる。そこに百済の金銅製の冠帽や飾り履、金製の耳飾り。また新徳2号墳は百済式の石室になっている。

⑤九州式石室に甕棺が埋葬されている例もある。

横穴式甕棺
 伏岩里3号墳という方墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例がある。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきたことから、被葬者は在地の人物と考えられる。経緯は不明だが、わざわざ九州式の石室を造らせたのであろう。

⑥墓誌があったから百済王墓とわかった武寧王陵
 栄山江ではないが、一例として。武寧王陵はその出土物の大半が中国系の器物であって、百済系の須恵器などは皆無であったことから、もし墓誌がなければ、被葬者は中国系百済官人、中国系有力者などとされていたかもしれないという話がある。出土物などで出自を判断するにはこういった問題もある。
 
 以上のように、栄山江流域の6世紀前半の古墳の状況はそう単純ではなく、それに伴い様々な説が乱立している。被葬者の性格については,亡命倭人説,倭から派遣された倭人説,土着勢力説,百済が派遣した倭人説、倭人の百済系官人説などが提示されているが,未だ見解の一致をみていない状況である。
 次のようなユニークな説もある。林永珍の馬韓系亡命客説は、百済の勢力拡大で北部九州に移住した集団の一部が、磐井の勢力拡大などで、再度栄山江へ亡命し、現地埋葬で継承無しだという。
私見では、東城王の護衛で渡った倭兵が、引き続き栄山江支配に使われ、そのリーダー格が埋葬されたと考えている。実は、この見方を支持するような見解がある。
 金洛中氏は、栄山江流域における倭系文物には、帯金式甲冑や各種の武器に関連するものが多い。その一方で、日本列島における百済・栄山江流域の文物は、オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ、渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は、高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や、倭人たちが百済に進出し活動した理由が、移住・定着ではなく、比較的短い期間に終えることができる活動(軍事的支援)などであったことを示している、というものである。まさに、九州から護衛を兼ねて渡った倭兵の痕跡が残っているのではなかろうか。

 いずれにしても、栄山江の前方後円墳の存在だけをとりあげて、九州勢力の支配があったなどとはいいきれない。そんな単純な問題ではなく、まだまだ新たな調査研究が必要な課題である。

参考文献
高田寛太『異形の古墳』角川選書2019
金洛中『古墳からみた栄山江流域・百済と倭』(国立歴史民俗博物館研究報告・第217集)弘文社2019

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