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⑴記事の内容についての問題点

自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統
 
 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが、これは史実なのであろうか。史実と判断する前に、史料批判、内容の吟味が必要かと思われる。この点について述べていきたい。 
①制覇の時代はいつ頃なのか。倭王武以前ではないのか?
 史実だとされる方の中には、倭武王の事績も含まれると考えられるような説明もあるが、「祖禰」は倭王武を含まないし、さらには、かたじけなくも先緒を胤ぎ、とあることから、倭王武は引き継いだことになる。よって、軍事行動は、倭王武の遣使のあった478年以前のこととなり、栄山江の問題も無関係となる。126国とは、遠い過去のご先祖の言い伝えの累積であろうか?
②「東征」、「西服」の拠点はどこなのか?もし九州であるならば、西の方が国数が多いのは奇妙。または、5世紀後半には、近畿を中心とする倭国があったのか?
③「毛人」とはどこの何を意味しているのか?同様に「衆夷」とはどこの国なのか?中心点を確定できない状態では、憶測しか言えないのではなかろうか。
④「海北」は、常陸国風土記でも使われる用語。行方郡条に、「倭武天皇巡狩天下、征平海北」とある。ここでは「海」は湖を意味する。これを無視してよいのであろうか。海北を韓半島と断定できるのであろうか?
⑤複数の研究者が、史実ではなく外交上表現、「天下観念の表現」(東潮2022)などと説明しておられる。
 また以下のような指摘もある。
「東征」「西服」は、「文章規範に則った表現」(河内2018)とされ、次のような例を挙げている。
『晋書』乞伏乾帰伝 「我が王は神の如き雄大な姿で隴右(西晋)を建国し、東へ西へ敵を打倒し、領土とならないところはない。」
『晋書』陽騖伝 「〔慕容〕皝が王位に即と、(陽騖)は左長史の職に遷り、東西に征伐し、帷幄の中で謀をめぐ
らした。」
⑥東は「征」、西は「服」、海北は「平」、とわざわざ文字を変えて美文調にしている。この三つの用語を各々に意味のある表現で使い分けた、というのは考えにくい。東55国の毛人は征したのであって、西の衆夷は66国みな服従させて、さらには半島では95国はすべて平定したのだ、という捉え方では説明できないと思われる。
⑦上表文作成者は漢文に長けた渡来人。百済上表文と倭王武上表文の漢籍利用の類似点があり、百済にいた中国系知識人による作成と考えられる。「躬擐甲冑,跋涉山川」と少し後の「掠抄邊隸,虔劉不已」は『春秋左氏伝』より。「不遑寧處」は『詩経』から。「臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統」は東晋桓沖の上表文と言い回しが同じという。ほかにも後漢書朱浮伝の「廓土」「百万」などがある。また上表文には「驅率所統」(統ぶる所を驅率し)という一節があるが、江田船山古墳大刀銀象嵌銘には後半に「不失其所統」とある。その銘文の末尾には書者張安とあることから、この人物が上表文にも関わっていた可能性は否定できない。
⑧「海北渡平95国」が半島南部での制圧行為であったのなら、なぜそのような痕跡、史料の記述はないのであろうか。新羅本紀には「倭人」との紛争が数多く記されているが、たいていは撃退しており、占領されて新羅の陣地が後退していったという記事は見当たらない。
⑨宋書には「倭国在高驪東南大海中」とあり、後漢書は「倭在韓東南大海中依山㠀為居」とある。中国に倭の半島支配という認識はない。
⑩そもそも東西海北216国は、478年以降どうなってしまったのか?雲散霧消してしまったのでしょうか?
⑪古墳時代には、争乱の痕跡が見つからないと、早くから言われている。この点について次にのべる。

⑵古墳時代の倭国になぜ山城は造営されなかったのか?
 
 以下は山本孝文氏の指摘である。「半島の三国時代の各国の遺跡の中で、代表的なものは都城関連遺構であり、都城遺跡は必須の調査研究対象である。ところが、一方で日本列島の古墳時代には、各地で首長居館は発見されているものの、中心や周辺の諸勢力が集住し、国家レベルの政治システム運営の舞台となったような都城は存在せず、それが現れるのは飛鳥時代以降となる。社会発展の一つの基準として城郭の出現が重視されている中国・韓半島を含む東アジア諸国のなかにおいて、これはきわめて特殊な状況といえる。
 日本列島の古墳時代に山城のような重厚な軍事施設が築かれなかったのは、拮抗する政体間の長期に及ぶ激しい抗争が、韓半島に比べて極端に少なかったためではないか。逆に、山城築城のような大規模な労働力を必要とする作業がなかったからこそ、古墳築造にコストを投入できたともいえる。」(山本2018)
 以上だが、半島に多数存在する山城が、その同時代になぜ列島には形成されなかったのか、という視点はたいへん重要な指摘といえよう。
 「城の定義と数え方にもよるが、主に高句麗・百済・新羅の三国時代に築造された850カ所に達する城郭が存在」(田中2008)しているとのことだが、この点だけからも、半島の長期にわたる不安定な状態、紛争の絶えない政情であったことがうかがえる。もし、列島内に、次々と他国を制圧するX王国があったとすると、制圧される側の中には、あっさりと降伏するのではなく、抵抗する国も出てくるのではないか。そして、中にはX王国に対し防衛策にでる国もあるはずだ。ならば、なぜ山城などを築くことはしなかったのか。
 山城については、書紀敏達紀に日羅の提言で「毎於要害之所堅築壘塞矣」(すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように)とあり、対馬の金田城など、九州を中心とする各地の山城が、この時期以降に始まったのではないかと考えられる。ちなみに播磨国風土記の神埼郡には、応神の世に渡来した百済人が城を造って住んだとあるが、時代も実体も不明である。私見では、岡山県鬼ノ城は、亡命加耶勢力が縁の深い吉備の定住の地に防衛としての山城を築いたと考えている。

⑶中国側の5世紀の倭国にたいする認識
 
 倭の珍は安東大将軍を求めたが、認められたのは讃と同じ第三品の安東将軍。これは高句麗高璉(長寿王)の征東大将軍、百済の餘映は(毗有王)の鎮東大將軍が上位となろう。
 さらに、済、世子興も安東将軍とかわらず、ようやく武になって安東大将軍と除された。つまり、中国は、倭国を5世紀後半まで、高句麗、百済よりも格下と認識していたのである。後述するが、百済を含めた六国諸軍事の要請のうち、百済をはずしたのも当然といえる。中国側に、半島において95国を制した国という認識はないといえる。繰り返すが、史書の出だしに書かれているように、倭は半島の東南の大海にある国という認識なのだ。
 次に、関連するので、「六国諸軍事」について説明する。

⑷倭の五王の「六国諸軍事」は半島への軍事的支配を意味するのか
 
 この問題に関しても、従来とは異なる認識がすすんでいる。仁藤敦史氏の指摘だが、「481年に、大伽耶と百済が高句麗の侵入に苦しむ新羅に援軍を送ったことは、大きな転機だった(『三国史記』新羅本紀)。これは反高句麗勢力の結集が可能となったことを示している。」(仁藤2024)とあるが、それ以前の高句麗による漢城陥落の直後に、新羅は百済からの援軍要請に応えて百済支援の派兵をおこなったが、これは間に合わなかったのだが、反高句麗の共同戦線の形があることが窺える。そうすると、諸軍事の要求は、百済が本来は主導するものを、倭国が、百済に代わって宋に対して要請したと考えることができる。
 建元元年(479)に加羅の荷知王は南斉へ朝貢し、輔国将軍に除正されている。もし、倭王の要請した六国諸軍事が、軍事的支配を意味するならば、これは、中国側が倭と加羅に対し重複除正をしたことになるが、ともに第三品で授爵されていることにかわりなく、加羅は倭と対等の独立国の扱いだった。つまり、加羅への諸軍事は、実体のない一方的な倭国側の要求にすぎないことを示している。(河内2018)
 同様に次のような指摘もある。「479年に加羅の荷知王が輔国将軍に授爵されているが、それ以前、宋が加羅の宗主国であったことはなかった。加羅は(略)521年にはじめて梁に朝貢している。朝貢関係のない国々の都督権を倭にあたえたのである。宋の国家的利害関係にもとづく専断にすぎない。このことをもって倭が百済を除く諸国の支配権を宋から承認され、あたかも『海北95国』を平らげたというような論はなりたたない。」(東2022)
 研究者は冷静に評価しており、そうであるならば、六国諸軍事なるものは高句麗を敵視し百済に肩入れする倭国の、反高句麗半島諸国同盟といった政治的パフォーマンスといったものではなかろうか。百済と六国は高句麗の圧迫にさらされていることは共通している。倭国が対象国に対し軍事的政治的に支配した、などということを示すものではないのである。

⑸中行説の匈奴へのアドバイス
 
 最後に、新川登亀男氏の中行説(ちゅうこうえつ)に関する記事を紹介しておく。中行説は燕国出身で前漢前の宦官であったが、のちに匈奴の指導者の老上単于の側近として仕えた人物で、「匈奴に対して、「疎記」(箇条書き的な記録)の効能を教え、匈奴の人数や家畜の種類などを記録し、漢の皇帝に送れと助言している。そして漢の皇帝が匈奴に送る1尺1寸(当時の1尺は23cm)に牘(とく)に書かれた尊大な修辞に対抗し、同様な牘に大きな封印を施し、尊大な言辞・修辞を加えた贈り物を漢の皇帝に送ったという。人、動物、種類、単位、数値を箇条書き的に羅列し、実物も送り、それに付随していろいろな修辞・文字で飾り、相手に見せつけ、自己主張しろと中行説は言った」(荒川2016)という。
 倭王武の上表文も、外交文書として最大限の修辞で飾って中国にアピールしているのである。上表文の内容をこのようにとらえる必要があるわけで、書いてあることをすべて鵜呑みにしてはいけないのである。

 以上のように、上表文の一節をもって列島の倭国が東西海北126国を制圧していたなどというのは、史料批判もなく、さらにはエビデンスもない状態で、これを額面通りに受け取ることはできないのである。

参考文献
山本孝文『古代韓半島と倭国』中央公論新社2018
田中邦煕『朝鮮半島の城』土木史研究講演集Vol.28 2008 ネット掲載 
河内春人『倭の五王』中公新書2018  
仁藤敦史『加耶/任那』中公新書2024  
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022
森浩一「著作集2」新泉社2015年  
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書2019 
荒川登亀男『漢字文化圏の成立』ユーロナラジアQ 2016