流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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⑴記事の内容についての問題点

自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統
 
 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが、これは史実なのであろうか。史実と判断する前に、史料批判、内容の吟味が必要かと思われる。この点について述べていきたい。 
①制覇の時代はいつ頃なのか。倭王武以前ではないのか?
 史実だとされる方の中には、倭武王の事績も含まれると考えられるような説明もあるが、「祖禰」は倭王武を含まないし、さらには、かたじけなくも先緒を胤ぎ、とあることから、倭王武は引き継いだことになる。よって、軍事行動は、倭王武の遣使のあった478年以前のこととなり、栄山江の問題も無関係となる。126国とは、遠い過去のご先祖の言い伝えの累積であろうか?
②「東征」、「西服」の拠点はどこなのか?もし九州であるならば、西の方が国数が多いのは奇妙。または、5世紀後半には、近畿を中心とする倭国があったのか?
③「毛人」とはどこの何を意味しているのか?同様に「衆夷」とはどこの国なのか?中心点を確定できない状態では、憶測しか言えないのではなかろうか。
④「海北」は、常陸国風土記でも使われる用語。行方郡条に、「倭武天皇巡狩天下、征平海北」とある。ここでは「海」は湖を意味する。これを無視してよいのであろうか。海北を韓半島と断定できるのであろうか?
⑤複数の研究者が、史実ではなく外交上表現、「天下観念の表現」(東潮2022)などと説明しておられる。
 また以下のような指摘もある。
「東征」「西服」は、「文章規範に則った表現」(河内2018)とされ、次のような例を挙げている。
『晋書』乞伏乾帰伝 「我が王は神の如き雄大な姿で隴右(西晋)を建国し、東へ西へ敵を打倒し、領土とならないところはない。」
『晋書』陽騖伝 「〔慕容〕皝が王位に即と、(陽騖)は左長史の職に遷り、東西に征伐し、帷幄の中で謀をめぐ
らした。」
⑥東は「征」、西は「服」、海北は「平」、とわざわざ文字を変えて美文調にしている。この三つの用語を各々に意味のある表現で使い分けた、というのは考えにくい。東55国の毛人は征したのであって、西の衆夷は66国みな服従させて、さらには半島では95国はすべて平定したのだ、という捉え方では説明できないと思われる。
⑦上表文作成者は漢文に長けた渡来人。百済上表文と倭王武上表文の漢籍利用の類似点があり、百済にいた中国系知識人による作成と考えられる。「躬擐甲冑,跋涉山川」と少し後の「掠抄邊隸,虔劉不已」は『春秋左氏伝』より。「不遑寧處」は『詩経』から。「臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統」は東晋桓沖の上表文と言い回しが同じという。ほかにも後漢書朱浮伝の「廓土」「百万」などがある。また上表文には「驅率所統」(統ぶる所を驅率し)という一節があるが、江田船山古墳大刀銀象嵌銘には後半に「不失其所統」とある。その銘文の末尾には書者張安とあることから、この人物が上表文にも関わっていた可能性は否定できない。
⑧「海北渡平95国」が半島南部での制圧行為であったのなら、なぜそのような痕跡、史料の記述はないのであろうか。新羅本紀には「倭人」との紛争が数多く記されているが、たいていは撃退しており、占領されて新羅の陣地が後退していったという記事は見当たらない。
⑨宋書には「倭国在高驪東南大海中」とあり、後漢書は「倭在韓東南大海中依山㠀為居」とある。中国に倭の半島支配という認識はない。
⑩そもそも東西海北216国は、478年以降どうなってしまったのか?雲散霧消してしまったのでしょうか?
⑪古墳時代には、争乱の痕跡が見つからないと、早くから言われている。この点について次にのべる。

⑵古墳時代の倭国になぜ山城は造営されなかったのか?
 
 以下は山本孝文氏の指摘である。「半島の三国時代の各国の遺跡の中で、代表的なものは都城関連遺構であり、都城遺跡は必須の調査研究対象である。ところが、一方で日本列島の古墳時代には、各地で首長居館は発見されているものの、中心や周辺の諸勢力が集住し、国家レベルの政治システム運営の舞台となったような都城は存在せず、それが現れるのは飛鳥時代以降となる。社会発展の一つの基準として城郭の出現が重視されている中国・韓半島を含む東アジア諸国のなかにおいて、これはきわめて特殊な状況といえる。
 日本列島の古墳時代に山城のような重厚な軍事施設が築かれなかったのは、拮抗する政体間の長期に及ぶ激しい抗争が、韓半島に比べて極端に少なかったためではないか。逆に、山城築城のような大規模な労働力を必要とする作業がなかったからこそ、古墳築造にコストを投入できたともいえる。」(山本2018)
 以上だが、半島に多数存在する山城が、その同時代になぜ列島には形成されなかったのか、という視点はたいへん重要な指摘といえよう。
 「城の定義と数え方にもよるが、主に高句麗・百済・新羅の三国時代に築造された850カ所に達する城郭が存在」(田中2008)しているとのことだが、この点だけからも、半島の長期にわたる不安定な状態、紛争の絶えない政情であったことがうかがえる。もし、列島内に、次々と他国を制圧するX王国があったとすると、制圧される側の中には、あっさりと降伏するのではなく、抵抗する国も出てくるのではないか。そして、中にはX王国に対し防衛策にでる国もあるはずだ。ならば、なぜ山城などを築くことはしなかったのか。
 山城については、書紀敏達紀に日羅の提言で「毎於要害之所堅築壘塞矣」(すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように)とあり、対馬の金田城など、九州を中心とする各地の山城が、この時期以降に始まったのではないかと考えられる。ちなみに播磨国風土記の神埼郡には、応神の世に渡来した百済人が城を造って住んだとあるが、時代も実体も不明である。私見では、岡山県鬼ノ城は、亡命加耶勢力が縁の深い吉備の定住の地に防衛としての山城を築いたと考えている。

⑶中国側の5世紀の倭国にたいする認識
 
 倭の珍は安東大将軍を求めたが、認められたのは讃と同じ第三品の安東将軍。これは高句麗高璉(長寿王)の征東大将軍、百済の餘映は(毗有王)の鎮東大將軍が上位となろう。
 さらに、済、世子興も安東将軍とかわらず、ようやく武になって安東大将軍と除された。つまり、中国は、倭国を5世紀後半まで、高句麗、百済よりも格下と認識していたのである。後述するが、百済を含めた六国諸軍事の要請のうち、百済をはずしたのも当然といえる。中国側に、半島において95国を制した国という認識はないといえる。繰り返すが、史書の出だしに書かれているように、倭は半島の東南の大海にある国という認識なのだ。
 次に、関連するので、「六国諸軍事」について説明する。

⑷倭の五王の「六国諸軍事」は半島への軍事的支配を意味するのか
 
 この問題に関しても、従来とは異なる認識がすすんでいる。仁藤敦史氏の指摘だが、「481年に、大伽耶と百済が高句麗の侵入に苦しむ新羅に援軍を送ったことは、大きな転機だった(『三国史記』新羅本紀)。これは反高句麗勢力の結集が可能となったことを示している。」(仁藤2024)とあるが、それ以前の高句麗による漢城陥落の直後に、新羅は百済からの援軍要請に応えて百済支援の派兵をおこなったが、これは間に合わなかったのだが、反高句麗の共同戦線の形があることが窺える。そうすると、諸軍事の要求は、百済が本来は主導するものを、倭国が、百済に代わって宋に対して要請したと考えることができる。
 建元元年(479)に加羅の荷知王は南斉へ朝貢し、輔国将軍に除正されている。もし、倭王の要請した六国諸軍事が、軍事的支配を意味するならば、これは、中国側が倭と加羅に対し重複除正をしたことになるが、ともに第三品で授爵されていることにかわりなく、加羅は倭と対等の独立国の扱いだった。つまり、加羅への諸軍事は、実体のない一方的な倭国側の要求にすぎないことを示している。(河内2018)
 同様に次のような指摘もある。「479年に加羅の荷知王が輔国将軍に授爵されているが、それ以前、宋が加羅の宗主国であったことはなかった。加羅は(略)521年にはじめて梁に朝貢している。朝貢関係のない国々の都督権を倭にあたえたのである。宋の国家的利害関係にもとづく専断にすぎない。このことをもって倭が百済を除く諸国の支配権を宋から承認され、あたかも『海北95国』を平らげたというような論はなりたたない。」(東2022)
 研究者は冷静に評価しており、そうであるならば、六国諸軍事なるものは高句麗を敵視し百済に肩入れする倭国の、反高句麗半島諸国同盟といった政治的パフォーマンスといったものではなかろうか。百済と六国は高句麗の圧迫にさらされていることは共通している。倭国が対象国に対し軍事的政治的に支配した、などということを示すものではないのである。

⑸中行説の匈奴へのアドバイス
 
 最後に、新川登亀男氏の中行説(ちゅうこうえつ)に関する記事を紹介しておく。中行説は燕国出身で前漢前の宦官であったが、のちに匈奴の指導者の老上単于の側近として仕えた人物で、「匈奴に対して、「疎記」(箇条書き的な記録)の効能を教え、匈奴の人数や家畜の種類などを記録し、漢の皇帝に送れと助言している。そして漢の皇帝が匈奴に送る1尺1寸(当時の1尺は23cm)に牘(とく)に書かれた尊大な修辞に対抗し、同様な牘に大きな封印を施し、尊大な言辞・修辞を加えた贈り物を漢の皇帝に送ったという。人、動物、種類、単位、数値を箇条書き的に羅列し、実物も送り、それに付随していろいろな修辞・文字で飾り、相手に見せつけ、自己主張しろと中行説は言った」(荒川2016)という。
 倭王武の上表文も、外交文書として最大限の修辞で飾って中国にアピールしているのである。上表文の内容をこのようにとらえる必要があるわけで、書いてあることをすべて鵜呑みにしてはいけないのである。

 以上のように、上表文の一節をもって列島の倭国が東西海北126国を制圧していたなどというのは、史料批判もなく、さらにはエビデンスもない状態で、これを額面通りに受け取ることはできないのである。

参考文献
山本孝文『古代韓半島と倭国』中央公論新社2018
田中邦煕『朝鮮半島の城』土木史研究講演集Vol.28 2008 ネット掲載 
河内春人『倭の五王』中公新書2018  
仁藤敦史『加耶/任那』中公新書2024  
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022
森浩一「著作集2」新泉社2015年  
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書2019 
荒川登亀男『漢字文化圏の成立』ユーロナラジアQ 2016

一言主神社参道
奈良県御所市 葛城一言主神社参道
ワカタケル像
ワカタケル像
一言主神社ワカタケル像掲示板
解説パネル

1.幼少期にワカタケルと呼ばれていたのは斯麻王ではなかったか。

 古事記では大長谷若建命、日本書紀では大泊瀬幼武天皇である雄略は、葛城山で一事主神と出会い、自ら幼武尊と名乗っている。幼い武という名は少し奇妙ではないか。瑞歯別の反正天皇も歯の特徴からついた名前のようだが、雄略は年端も行かぬうちに天皇になったというのだろうか。だが雄略は書紀では62歳であり、在位期間が23年と考えられており、それならば即位時の年齢は39歳であって、これがもし2倍年暦としても、20歳に手が届くころである。 
 ここは書紀の語る天皇でなく、雄略に充てられた実在の人物に幼い武と呼ばれていた人物がいて、その彼が若くして倭国王になった人物を想定できるのではなかろうか。つまり、幼武とは、武寧王となる斯麻のことではないか。
 武寧王は40歳で百済王となっている。少し遅くはないか。40歳までどうしていたのか。百済で活動していたなら、何らかの記録があってもよいのではないか。時期は不明だが幼い時から日本に滞在し、百濟に戻った昆支の後に倭王となって、40歳まで日本で活躍したと十分考えられる。生誕が462年ならば、成長した斯麻は、477年の遣使記事の前年に倭王として即位したとすると、15歳のこととなる。昆支は世子興として倭国滞在中に、幼少からの斯麻を幼武、ワカタケルなどという愛称で見守っていたかもしれない。
 近畿一元論の倭の五王の武の雄略比定説には従えないが、書紀の編者が雄略天皇の創出に、斯麻こと倭の武王を想定したとは考えられないか。もちろん記事には、別の人物の事績も混在していると考えられる。
 稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が、雄略のワカタケルのことだと言われているが、これも、斯麻王である倭王武の統治の時代を意味すると解くことができる。

2.頭を撫でて百済に送り出す天皇の記事

 雄略23年に百済の文斤王がなくなる。天皇(天王)は昆支王の二番目の子の末多王(東城王)を内裏へよばれ、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろにいましめて)とあるのだが、これと似たような表現がある。壬申の乱の記事では、天武が戦術の相談の際に、子の高市皇子をほめて、「携手撫背、曰愼不可怠」(手をとり背を撫でて、しっかりやれ、油断するなよ」と言うのも、身内だからこそできる行為といえる。するとこの「天王」は当然のことだが雄略とは異なる。岩波注ではもとはこの個所は「大王」という表記であった可能性も指摘している。
 武寧王の前の百済王である末多王(東城王)を百済に送ったのは筑紫の兵士を500人も護衛として付けるなど破格の対応を遂行できる倭国の高位の人物であり、本人とは親族関係にあることが考えられる。そうすると、東城王を百済に送り出したのは、幼年期を倭国で過ごした倭武王こと斯麻のことなのである。
 この筑紫の兵士が帰還したという記録はない。彼らは、栄山江などの百済の非征服地に送られ、そのリーダーは定着して彼の地で前方後円墳を造り、多数の兵士たちは、これも多数見つかっている倭の特徴をもつ横穴墓に葬られたと考えられる。墳形が方円形で、石室が九州式の特徴を持っていても、副葬品に百済や加耶の特徴も見られ、中には、甕棺の置かれた石室もあるところから、九州勢力の支配を示すものとは考えられない。この特徴ある墳墓がほぼ一代限りであることからも、百済主導の倭系官人の先行的な配置であって、その後は百済の支配が確立していったことを物語っているのである。すなわち、百済に戻った斯麻こと武寧王が、栄山江などの進出を推進したと考えてよいであろう。
 





 先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の次の倭王であったとの考えを述べる。

純陀太子も倭王であった可能性を「太子」の意味から解く

 武烈紀7年 百濟王遣斯我君進調(中略)故謹遣斯我奉事於朝 遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
 百済王が斯我君(キシ)を遣わして調をたてまつった。(略)故に謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます、という。その後、子が生まれて法師君という。これが倭君の先祖である。(宇治谷訳)

武烈紀系図
 上記では、法師君の父親はわからないが、冨川氏は、「系図で示した《?》は「朝(みかど)」であり、「倭君」とは単なる「倭」姓にとどまらず、「倭国」の君主を指すにちがいない」とされた。
 一方の続日本紀では「后(高野新笠)の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」とあり、武寧王の子の純陀太子が、新笠の父親の和(ヤマト)乙継につながるのである。
 では、武烈紀の斯我君の相手は誰になるのであろうか。倭君が、続日本紀の和乙継につながるのであれば、それは純陀太子(書紀では淳陀)となる可能性が高い。ただ問題が二点あった。まず、斯我君と百済王の関係である。毗有王が送った新齊都媛は、「其妹」とあるところから、近親の女性であり、毗有王の実娘である可能性がある。斯我君の場合も、書紀に記された百済王は、時期から判断して武寧王となるので、斯我君も実娘の可能性があるが、相手が同じ王の子であるならば、近親婚となるので、おそらくは、血縁のやや離れた百済王族の女性と考えられる。
 
 次の問題は、その相手が「太子」と称していることである。武烈紀では、ミカドに奉事するわけであり、それが即位前の太子であれば、遂に後継ぎが生まれたとはできない。もしも父親となる《?》が、純陀太子に違いないとするならば、どうして太子とされているのか。
 これについては、宋書の倭の五王の世子興と同じ状況と考えてよいのではなかろうか。「世子興」は、倭国においては王であったはずだ。しかし世継ぎの意味である「世子興」を宋書は、二か所で記載している。奇妙な事であるが、あまりこの点について関心が払われていない。「世子」は中国や半島では使われる用語であるが、これが何故、倭王であるはずの興に使われたのかは不可解であり、本来は蓋鹵王の後継ぎであったからとせざるをえない。本来はいずれ百済王を継ぐ人物であったが、高句麗の侵攻による混乱で、半島に戻るも即位することなく亡くなってしまう。
 ならば、この純陀太子の場合も、武寧王の子であり、百済王の世継ぎであったので、それを日本書紀側の表現として「太子」と記したのではなかろうか。つまり純陀太子は、倭国では王となる存在であったが、継体紀にあるように、状況は全く不明のまま崩御(薨)したのである。同じ武寧王の子の聖明王が次に即位することになり、純陀は太子のままで世を去ったのである。
 すると、純陀太子が、世子興と同じように倭国王の位置にいたことになり、斯我君との間に法師君が誕生することになる。だが、法師君、及びその末裔は、純陀太子を継いで、倭国王の地位にとどまることはなかった、と考えられる。継体7年(513)淳陀太子薨との記事に、その死因は記されていないが、なんらかの政変があったことも考えられる。
 
 これまでのところをまとめると以下のような図となる。
蓋鹵王から武寧王
443年 倭王済は宋に遣使 
455年 百済毗有王の急死で、済は蓋鹵王として即位。 かわりに不  
   明のX王が倭王継承
460年 X王が宋に遣使
461年 蓋鹵王は昆支を倭国に派遣。彼が世子興として遣使をおこな
   うが、高句麗の襲来の後に帰国後急死。
477年 世子興の昆支が帰国し、斯麻こと武寧王が倭王武として即
   位。翌年に遣使、上表文を渡す。
502年 斯麻は、東城王の急死で帰国し、武寧王として即位。子の純 
   陀太子が倭王即位。
513年 純陀太子薨去

参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

百済王と倭王の関係

1.百済のために高句麗を非難する倭王武
 
 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができなかった、という状況の説明と、宋からの支援を要請するものであった。
 これは、既に指摘されていることだが、「上表文では済が怒り、大挙せんと欲すとあるが、これでは次の倭王である興の存在を飛ばしている」(河内春人2018)ということになるのはもっともなことである。
 さらに、高句麗から被害を受けているのは百済国であって倭国ではない。『三国史記』に475年漢城陥落の後に使を遣わして宋に謁見しようとしたが、高句麗に阻まれた、という記事があり、あくまで妨害を受けたのは百済国である。実際に百済蓋鹵王は、北魏延興二年(472)に、中国の北魏に対して次のような訴えを行っている。        
 「百済は魏との間に豺狼(山犬・狼すなわち高句麗)が立ちふさがって路を隔てているために、魏の外藩となる機会をもてない。臣は高句麗に深い憤りを抱いており、このような片田舎の臣であっても、なお、万代の信義を募っております。どうして、小豎(しもべ、こわっぱの意。ここでは高句麗)に王道をはばませてよいことがありましょう。」
 これは武の上表文とよく似ている、というか、実際はその逆で、蓋鹵王の訴えと同じような表現を、上表文にも取り入れたということではなかろうか。だが、百済の言い分を北魏は疑って対応しなかったようだ。このように、蓋鹵王の高句麗への怒りが、武王の上表文に引き継がれているのではないか。倭王武は、百済に成り代わって、高句麗非難をおこなったのである。「句麗無道」などと高句麗への怒りが強く表されているのだが、他国の王がよその国のために感情込めた上表文を、自国の遣使に持たせたというのは不可解としか言いようがない。さらに、重要な問題がある。

2.「奄喪父兄」(にわかに父兄をうしない)とは?

 この上表文の一般的な解説で、苦労をされているのが、倭王武が自分の父と兄を亡くし、喪中に入ったので兵を出せなかった、と述べているところである。武の父は済であり、兄は世子興となるのだが、済の死後に世子興が倭王を継いだはずなのに、これでは理解不能になるのである。では、どのように考えればよいのであろうか。それは、先述の高句麗非難の姿勢の謎と同様に、済が蓋鹵王、興が昆支、武が武寧王とすれば説明が可能となるのである。
 475年、高句麗侵攻によって、百済の漢城は陥落、蓋鹵王は殺害される前に、次の王となった文周王を逃がす。
 文周王は新羅に救援を求め、兵一万を得て戻る。これは間に合わなかったのだが、百済は南下して熊津(広州)を都として再建をすすめる。そして、宋に朝貢しようとした時に高句麗の妨害に合う。この文周王は3年ほどで亡くなり、次に三斤王が即位するがこれも短命で479年に死去。次に倭国にいた東城王が帰国して即位する。
 その前の477年に、倭国にいた昆支は百済に帰国して文周王を支援するも、この年に死去している。事情は不明だが、昆支は、蓋鹵王刑死の2年後に亡くなっている。これが「にわかに父兄を失い」となるのではなかろうか。
 昆支については、蓋鹵王の弟か子であるのか、意見の分かれるところだが、仮に昆支が蓋鹵王の弟で、武寧王の兄にはならないとした場合でも、高句麗侵攻で、蓋鹵王と共に妃や王子などの王族も多数殺害されており、その中に、武寧王の兄弟にあたる人物がいたとすると、父の蓋鹵王といっしょに刑死したとも考えられる。つまり、昆支が兄でなくても、武寧王にとっては、父と兄弟がにわかに亡くなってしまったことになるのである。
 このようにとらえると、宋への上表文にある倭王武の怒りと哀切きわまる訴えの背景、すなわち百済王族の刑死や中国への遣使の妨害の元凶である高句麗への怒りが説明できるのである。
 さらに、済が怒って兵を準備したのは、興を無視しているという河内春人氏の疑問も解消できる。倭王済であった蓋鹵王が、高句麗に対し戦闘準備をしていた時には、世子興である昆支は、倭国に派遣されていたのである。
 また、河内春人氏の、「蓋鹵王が処刑された際に倭国の百済救援の資料的痕跡はない」との指摘についても、武である武寧王が、おそらくは3年にわたる喪に服したから、百濟応援の軍事行動をすぐに起こせなかったという事情の説明もつく。ちなみに羅済同盟を結んでいた新羅は、すぐに百済支援に向けて出兵していたのである。
 
3.「世子興」の謎も解ける。

 またこの説によって、『宋書倭国伝』にある「世子興」についての説明しがたい問題も氷解する。倭の五王の中で、興だけが世子、すなわち世継ぎと記されている。既に「武寧王と倭の五王⑵」で説明しているが、この中国史料には、済が死んで世子興が遣使と記されている。済が死んでから後を継いだとされるが、中国側は、きちんと調査をしたわけではないので、次の王の遣使であるならば、当然、前の王は死んだと判断しただけではないか。
 また、この記事の後半にある武の上表文には、父兄がにわかに亡くなったと書いてあることとも矛盾するのだが、中国側は、所詮、東夷の蛮国のことであり、細かい点まで熟慮せずに記載したと考えられ、必ずしも、済が死んでからの即位と断定しなくてもよいであろう。
 なお、世子については、中国の『晋書』本紀太元11年(386)4月条に餘暉(辰斯王)が百済王世子として使者を派遣し、使持節都督鎮東将軍百済王に任命されたという記事がある。中国側は、直接使者から事情は確認したであろうが、何も世子と名乗っても問題にしていないのである。
 以上から、本来の済は倭国王が世子興になっても、百済で蓋鹵王として生存したと考えてもおかしくはない。もともとは、昆支である興は、蓋鹵王の後継ぎであったので、倭国に渡っても世子興であった。倭国滞在中に高句麗侵攻による蓋鹵王殺害で、急遽、文周王が即位する。後に昆支も帰国するが、何らかの事情で王になれないまま亡くなってしまう。こういうわけで、世継ぎであるはずの世子興が、後を継がないまま、次の東城王や武寧王が王位を継承するとなれば、不自然ではなくなる。だがこれを、倭国の中だけで考えると回答不能の問題となるのである。

 蘇鎮轍氏は倭王武だけを百済王とされたが、済が蓋鹵王、世子興が昆支とすれば、上表文に描かれた、まるで百済の立場での高句麗非難と、にわかに父兄が亡くなって喪に服するという記述、さらには、世子興の意味も矛盾なく説明できるのではないかと考えている。引き続き、他の事例もみていきたい。 

 以下は宋書の倭の上表文        順帝昇明二年,遣使上表曰:
「(略)臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟,實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,(略)」

 上表文の現代語訳       
臣(武)は下愚ではあるが、かたじけなくも先緒(先人の事業)をつぎ、統べるところを駆り率い、天極(天道の至り極まるところ)に帰崇(かえりあつめる、おもむきあがめる)し、道は百済をへて、もやい船を装いととのえた。
 ところが句驪は無道であって見呑をはかることを欲し、辺隷をかすめとり、虔劉(ころす)してやまぬ。つねに滞りを致し、もって良風を失い、路に進んでも、あるいは通じ、あるいは通じなかった。臣の亡考(亡父)済はじつに仇が天路(宋に通じる路)をとじふさぐのを怒り弓兵百万が正義の声に感激しまさに大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない、垂成(まさにならんとする)の功もいま一息のところで失敗に終わった。
 むなしく喪中にあり兵甲を動かさない。このために相手に打ち勝つことができなかったのである。いまになって甲を練り兵を治め父兄の志をのべたいと思う。

(日本書紀現代語訳は講談社学術文庫、原文と解説は岩波文庫版使用 宋書も岩波文庫版)※一部改変

参考文献
河内春人「倭の五王」 中公新書2018
蘇鎮轍 「海洋大国大百済 百済武寧王の姿」彩流社2007


二中歴武烈
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある.

 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあってのことだが、該当の記事をよく見れば、誤解であることがわかる。この点を説明する。

⑴中国、半島の史料に、二人が同時に存在したとする記述はない
  
 同時に存在しているのではとされる根拠となる天監元年の倭王武の進号記事には、合わせて高句麗王と百済王の進号記事が記されている。『梁書』には、次のようにある。
天監元年(502)戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王 梁 彌𩒎進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。
 よく見るとこの時の百済王の名前は「餘大」となっている。これは武寧王のことではない。というのは、同じ梁書には、
普通二年(521),王餘隆始復遣使奉表  
普通五年(524)隆死、とある。
 つまり梁書は「隆」を武寧王と認識している。
 すると餘大は武寧王の前代の王、すなわち東城王となる。その東城王は501年に死去している。ちなみに梁書の武寧王の没年も墓誌年より一年遅くなっている。
 よって、天監元年(502)の記事は、倭国は倭王武と百済は東城王という認識での進号記事となる。なおこの記事に百済も倭国も遣使をしたという記述はない。中国の認識していた時期の前後に事態は急変し、東城王は殺害され、そのあとを日本にもいた可能性のある斯麻こと武寧王が即位したと考えられる。以上を年表にすると、

501年 12月百済東城王(餘大)死去      武寧王(餘隆)即位(月日不明)
502年 梁建国(梁書)高句麗王高雲、百済王餘大、倭王武に進号の記事 
503年 隅田八幡神社人物画像鏡癸未年  ← 斯麻こと武寧王が男弟王に贈る
504年 武烈紀6年 百済王(武寧)が麻那君を派遣
521年 普通2年(梁書)百済王餘隆(武寧王)遣使
524年 普通5年(梁書)隆(武寧王)死 (墓誌では523年)

 このように二人は同時に存在しておらず、『梁書』の餘大を東城王でなく武寧王と誤解されてのことであった。

⑵二人は「将軍仲間」ではなかった
 
 古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』では、その第六部第一章の隅田八幡神社銅鏡に関する一節の中で次のように述べておられる。
「㊃百済の『斯麻王』(武寧王)は、南朝の梁朝下の『寧東大将軍』だった。同じく、この梁朝から『征東将軍』に任命されていた倭王武(天監元年五〇二)は、前述来の検証のように、筑紫の王者だった。すなわち、武寧王と筑紫の王者とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされている。
 倭王武が筑紫の王者であることに全く異論はない。しかし、「将軍仲間」として、武寧王と同時に存在していたかのような表現には同意できない。よくみると、梁朝下の武寧王の記事は先述のように普通二年(521)の記事。一方で倭王武の記事は502年のものであり、二〇年近い差のある記事だ。つまり503年以降に倭王武の記事はない。よって「将軍仲間」という一定の期間、同時に存在していたとする表現は正確ではないといえる。「武寧王と筑紫の王者(倭王武)とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされる根拠となるものは提示されていない。
 同じ論説の中に古田氏は、倭の五王全資料として二十二項目挙げておられる。その最後に『襲国偽僭考』の「継体一六年(522)武王 年を建て善記」の記事については、史料の信憑性については別に論ずる、とされているのだがその後に該当するものの確認はできない。この「武王」が倭王武ならば、彼は宋への貢献記事の478年からおよそ40年以上も倭国王として君臨していたことになる。さすがにこれは考えにくいことであり、作成者の鶴峯戊申も二中歴(注1)を参考にしたとあり、ここは転記の誤りが考えられる。この箇所の「武」は実際は「武烈」であったようだ。
 その二中歴(上図参照)には次の記事がある。「善記四年元壬寅三年発護成始文善記 以前武烈即位」とある。壬寅は522年)で善記元年にあたる。それより以前に武烈が即位したということであり、彼は九州王朝の王者であった。前にもふれたが、日本書紀の武烈紀は、跡継ぎがいない人物と後継ぎが生まれた人物が描かれており、後者が、書紀では隠されている本当の武烈であったと考えられる。
 よって、503年以降に倭王の武が、存在していたという資料はないのである。このことからも、二人は別人ではなく、倭王武が、武寧王になったという説を否定することにはならないのである。

注1.鎌倉時代初期に成立した百科全書的な書物。そこに、九州年号の総覧が記載されており、古田武彦氏はこれを原型本とされた。

図は、内倉武久氏の、吾平町市民講座 2022 年 12 月用 「九州年号について」 よりコピーさせていただいたものを、一部加工しました。

参考文献
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」古代史コレクション⑳ミネルヴァ書房2014

斯我君系譜

図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの

⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。

 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカド、すなわち、朝廷の主要な人物であると考えられる。それは書紀が記す武烈天皇ではなく、別の、いや本来の王権である倭国王権(九州王朝)のことである。その人物の末裔が、後に倭君(ヤマトノキミ)になるのではないか。
 一方で、続日本紀は、光仁天皇の后の高野新笠の先(おや)は、武寧王の子、純陀太子より出づ、とある。ならば、倭君が何代かを経て、和乙継につながり、その娘が高野新笠となるということであろう。
 すると、上記の系図のように、書紀では不明の人物が、武寧王の子の純陀太子となり、その彼の「遂に生まれた」後継ぎが、法師君となる。このようにして、日本書紀と続日本紀の系図が、図のようにつながるのではないか。斯我君は、朝廷の主要な人物に輿入れしたわけであり、それは上位の王族、もしくは本来の天皇との成婚であったはずだ。純陀太子(書紀では淳陀)は、継体紀7年(513)に薨(崩御)とある。状況は不明だが、自然死とは考えにくく、上層部内での何らかの出来事によるものとも考えられる。純陀太子に関しては、後に改めてとりあげたい。
 先に説明したように、蓋鹵王が中止させた女性の派遣を、どうして武寧王は復活させたのであろうか。子が倭国王権の構成員であるならば、父親の武寧王も、以前に倭国王権と深く関係していたからかもしれない。それは、時期から判断して倭王武にあたるのではなかろうか。

2.近畿一元論ではなく、多元史観で解明する

 韓国の研究者から、「百済王即位以前は侯王である倭王として在位のようにみえる」(蘇2007)との説が出されたことがある。その根拠として、『宋書』にある倭王武の上表文に注目されている。高句麗の攻勢に対し、百済の蓋鹵(コウロ)王は、北魏の高祖に救援を求める上表文に類似があることや、二つの上表文が、高句麗非難と、百済を支援されればその恩恵は忘れないといった表現が共通していること、字句に共通点があること、「奄喪父兄」(にわかに父兄を失い)は父の蓋鹵王とその王子のことしかない。さらに、列島の古墳の金銅製冠や飾履などの百済と関係する出土品が多数あげられること、などである。
 蘇氏は、「斯麻王は十代で武という名で倭の王位についた」と指摘されるが、私見では、武だけではなく、五王のうちの済、世子興も百済王との関係があるとしている。讃と珍については、判断がむずかしいが、あとの済は蓋鹵王、世子興は昆支、武は斯麻王こと武寧王となると考えるのである。
 そんなことは信じがたい、と思われる方は多いであろうが、これから提示するいくつかの論拠でご判断いただきたいと思う。また、同様に百済王と倭国王の関係はネットを含め少なくない方が論じておられる。ここでは、日本書紀の天皇ではなく、6世紀あたりまで九州に拠点があった倭国王権という視点、さらには、これまで話題にさせていただいた、列島への渡来移住者の影響を踏まえるという点で、自分なりに整理をしてこの問題を説明していきたい。

 なお、繰り返し掲載した武烈紀と続日本紀の記述を合わせた系図は、重要な問題を含んでいるが、これについては後述したい

参考文献
蘇鎮轍(ソ・チンチョル)「海洋大国大百済 百済武寧王の世界」彩流社2007

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