流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

倭の五王

武寧王と倭王武の同一人物説  武寧王と倭の五王⑹

斯我君系譜

図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの

⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。

 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカド、すなわち、朝廷の主要な人物であると考えられる。それは書紀が記す武烈天皇ではなく、別の、いや本来の王権である倭国王権(九州王朝)のことである。その人物の末裔が、後に倭君(ヤマトノキミ)になるのではないか。
 一方で、続日本紀は、光仁天皇の后の高野新笠の先(おや)は、武寧王の子、純陀太子より出づ、とある。ならば、倭君が何代かを経て、和乙継につながり、その娘が高野新笠となるということであろう。
 すると、上記の系図のように、書紀では不明の人物が、武寧王の子の純陀太子となり、その彼の「遂に生まれた」後継ぎが、法師君となる。このようにして、日本書紀と続日本紀の系図が、図のようにつながるのではないか。斯我君は、朝廷の主要な人物に輿入れしたわけであり、それは上位の王族、もしくは本来の天皇との成婚であったはずだ。純陀太子(書紀では淳陀)は、継体紀7年(513)に薨(崩御)とある。状況は不明だが、自然死とは考えにくく、上層部内での何らかの出来事によるものとも考えられる。純陀太子に関しては、後に改めてとりあげたい。
 先に説明したように、蓋鹵王が中止させた女性の派遣を、どうして武寧王は復活させたのであろうか。子が倭国王権の構成員であるならば、父親の武寧王も、以前に倭国王権と深く関係していたからかもしれない。それは、時期から判断して倭王武にあたるのではなかろうか。

2.近畿一元論ではなく、多元史観で解明する

 韓国の研究者から、「百済王即位以前は侯王である倭王として在位のようにみえる」(蘇2007)との説が出されたことがある。その根拠として、『宋書』にある倭王武の上表文に注目されている。高句麗の攻勢に対し、百済の蓋鹵(コウロ)王は、北魏の高祖に救援を求める上表文に類似があることや、二つの上表文が、高句麗非難と、百済を支援されればその恩恵は忘れないといった表現が共通していること、字句に共通点があること、「奄喪父兄」(にわかに父兄を失い)は父の蓋鹵王とその王子のことしかない。さらに、列島の古墳の金銅製冠や飾履などの百済と関係する出土品が多数あげられること、などである。
 蘇氏は、「斯麻王は十代で武という名で倭の王位についた」と指摘されるが、私見では、武だけではなく、五王のうちの済、世子興も百済王との関係があるとしている。讃と珍については、判断がむずかしいが、あとの済は蓋鹵王、世子興は昆支、武は斯麻王こと武寧王となると考えるのである。
 そんなことは信じがたい、と思われる方は多いであろうが、これから提示するいくつかの論拠でご判断いただきたいと思う。また、同様に百済王と倭国王の関係はネットを含め少なくない方が論じておられる。ここでは、日本書紀の天皇ではなく、6世紀あたりまで九州に拠点があった倭国王権という視点、さらには、これまで話題にさせていただいた、列島への渡来移住者の影響を踏まえるという点で、自分なりに整理をしてこの問題を説明していきたい。

 なお、繰り返し掲載した武烈紀と続日本紀の記述を合わせた系図は、重要な問題を含んでいるが、これについては後述したい

参考文献
蘇鎮轍(ソ・チンチョル)「海洋大国大百済 百済武寧王の世界」彩流社2007

倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵

宋比較
 宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿のヤマトに神武より天皇が君臨していたという観念にしばられて、こじつけて当てはめているにすぎない。実際に批判的な通説の研究者もおられるのだ。(河内2018)
 倭の五王が日本書紀の天皇に当てはめられない理由を、私見では細かい問題もあるが、重要なところを二つ指摘しておきたい。

1.書紀が宋書倭国伝を無視していることの説明が必要

 一つ目は、倭の五王の記述が全く日本書紀に記されていないということである。いや、そんなことは言われなくてもわかっている、だから苦心を重ねて各天皇に比定しているのではないか、と思われる方もおられるであろうが、このことが重要な問題なのである。つまり、中国側の史書である宋書倭国伝、他に南斉書、梁書には記されているのに、どうして日本書紀は、その記事を少しでも採用しなかったのか、という問題である。宋に対して何度も遣使を行っていたのであれば、書紀は記事にしたはずであるのに、なぜそうはしなかったのか。
 書紀は、漢籍と言われる中国の史料などを多数引用している。それも、個々の莫大な史料の記事を渉猟して引用したのではなく、芸文類聚などの、記事のテーマごとに採集、編集された便利な資料集を活用して、書紀編者が、その場面に応じてふさわしい一節や熟語を抜き出してはめ込んでいたのである。これによって、潤色といわれるが無味乾燥とした記事に豊かなイメージを与える歴史書に変容させたのである。
 さらに年代を具体的に示す外国史書の引用も取り入れている。例えば神功皇后紀の39年(西暦239)には、景初3年6月倭女王遣使の記事を引用し、さも神功が卑弥呼であるかのように装っているところが見られる。さらに66年(266)にも、中国史書の泰初2年倭女王遣使の記事を記している。ここで神功は、長寿の女王にされてしまっているのだ。また百済の史書からも、百済王の崩御と新王の即位記事を繰り返し記載している。ところが、允恭や雄略に年代が該当するところでは、中国史書の倭の五王の記事は全く無視されているのである。
 それは、書紀にとっては不都合な、本来の倭国を示す中国側の証言集であったからだ。不都合な真実を載せるわけにはいかなかったのだが、通説の一元論では、それが説明できないのである。この点についての説明がないまま、倭の五王についての推論を進めること自体が疑問なのである。

2.書紀の天皇では説明できない世子興
宋書

 二つ目は、これが最大の問題と思われるのだが、宋書の五王の中で、興については「世子興」と繰り返し記されていることである。「世子」とは、世継ぎのことであり、天皇でいうならば太子にあたるのだが、日本書紀には日本の王の世継ぎに世子という表現はない。ただ一カ所、高句麗王族の記事にあるだけである。
 欽明紀7年に高麗内乱の記事 「中夫人生世子其舅氏麁群也」
 この世子には「まかりよも」との訓みが与えられているが、太子のことだと岩波注は記している。
 中国晋書には、「百濟王世子餘暉為使持節都督鎮東將軍百濟王」
 ここでは、辰斯王は、本来の後継者の阿莘王が若かったので代わりを務めたので正式な王ではないとしたのであろうか。また他にも、広開土王碑に「世子儒留王」、さらに七支刀銘文に、「百済王世子奇生聖音」とあるように、半島の王族に使われる用語といえる。書紀に記される日本の天皇の後継者に、このような用語は使われていないのである。世子とされた天皇が存在していたのであろうか。この点についての説明がないまま、興を訓みがコウと共通するところから安康に当てはめるなど、とても学術的な説明とは言えないのである。

 宋書に記された倭の五王は、日本書紀が描いた天皇とは違って、当時実在した倭国王の事績が書かれたものである。これは、後の隋書倭国伝に記された多利思比孤や利歌彌多弗利が、推古や厩戸皇子に比定できないのと同じ事情なのである。よって、倭の五王も、当時は九州に拠点のあった王朝との関係で検討しなければならないのである。

参考文献
河内春人「倭の五王」中公新書2018 宋書と記紀の比較図も同書より
宋書倭国伝の図は、岩波文庫の原文より

2024.11.12 古代史講演会のご案内 武寧王と天皇

済です。ありがとうございました。
武寧王チラシ
 和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 

 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。どうも武寧王は、倭国に長期間滞在していたかのような状況が見えてきます。
 この謎を、倭の五王と合わせて自説を述べさせていただきます。
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