流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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1. 百済三王と倭の三王の同一人物説
 
 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無関係である。
①倭王武の上表文の内容に対する疑問。直接の影響のない倭国が高句麗を非難しているが、高句麗の被害に遭っているのは百済であり、中国への遣使を妨害されている。
②上表文の済が高句麗征討の準備をするというのでは、次の興の存在を飛ばしている。
③上表文のにわかに父兄が亡くなるのは、漢城落城で刑死する蓋鹵王と王子のことと考えられる。
④武は、百済支援の兵を喪中で出せなかったのも、蓋鹵王刑死のこととすれば符合する。
⑤宋書倭国伝の「世子興」の「世子」は半島で使われる表現。しかも世継ぎが倭王になるのも不審である。
⑥蓋鹵王の指示で昆支が渡海した翌年に、世子興は宋に朝貢している。
⑦昆支の百済帰国の翌年に倭王武は遣使をしている。つまり昆支は武に引き継いで帰国したことになるのでは。
⑧日本での古墳などの出土遺物と武寧王、百済との深い関係が見られる。
⑨斯麻は日本で誕生してから、百済王に即位するまでの40年間の足跡は不明。蓋鹵王も即位前の事績は不明。
⑩日本に渡った昆支の事績も不明だが、飛鳥戸神社の祭神に祀られ、「新撰姓氏録」に飛鳥戸氏の祖とされる。
⑪百済と倭国の深い関係。日本にいた東城王の帰国の際には筑紫国軍士500人の護衛。彼らのその後は不明。
⑫日本に滞在した百済の王子が、帰国して百済王になっている。直支王、東城王、武寧王、恵王(聖明王次男、威徳王の次に即位)、豊璋(百済最後の王)。他に昆支は帰国後に死去。阿佐も帰国したかは不明。
⑬日本書紀には肖古王薨、貴須王即位から威徳王即位までの11名(毗有王は不記載)の百済王名を記載している。これは異例のことであり、なぜ百済王だけ記しているのか。
⑭白村江戦で倭国軍が多大な犠牲を払うことになった原因も、百済との深い関係を物語る。
⑮武寧王の子の純陀太子が、桓武天皇の母の高野新笠につながる、和(ヤマト)氏の祖というつながりのあること。

2.神社に祀られる昆支王
 昆支の16年あまりの倭国滞在時の事績は不明であるが、わずかな情報がある。書紀の雄略5年秋七月に軍君(昆支)京(みやこ)に入る、との記事の後に、既に五人の子があったと記している。そのうちの子の一人が東城王となる。
 『新撰姓氏録』は、飛鳥戸氏の祖とし、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神になっている。日本の神社の祭神に個人の名のある百済王が祭られるというのは禎嘉王を祀る宮崎県神門神社があるぐらいでめずらしい物であろう。倭国の地で、一定の実績を収めたからこそ崇められたのは間違いない。昆支の末裔は、河内飛鳥の首長、飛鳥戸氏で、後に改姓して百済宿禰となる。
 高井田山古墳(大阪府柏原市)は近畿の初期横穴式石室の採用や武寧王陵出土例に似る火熨斗の出土から、被葬者が百済王族の人物であるのは確実であろうが、これを安村俊史氏は、昆支の墓との説を出されている。百済に帰国してそこで亡くなったという確実な根拠もないから、可能性は否定できない。しかし、別の案もある。
武烈紀3年に、百濟意多郎(おたら)卒、葬於高田丘上、との記述があり、私はこの人物の可能性が高いと考えるが、この高田は大和国の地名との意見もある。
 昆支の足跡としては、高井田山古墳の被葬者が証明されるまでは、あまり多くの情報はないが、武寧王については、日本の古墳などの遺物から、倭国との深い関係を物語るものが存在している。

3.武寧王陵と倭国との深い関係を思わせる古墳の遺物
 
 武寧王の記事も多くはないが、その事績は評価されている。前代の東城王を殺害した苩加を征伐し、即位後には高句麗、靺鞨と交戦し撃退させている。512年には高句麗を大破し、強国として復活させている。栄山江への進出、支配も推進した。前方後円墳の絡む問題だが、この点については別の機会にしたい。
 521年に梁に朝貢し、使持節都督諸軍事寧東大将軍となる。523年には双峴城築く、といった程度の記事があるだけだ。そして「百済本記」に即位前の記事はまったくない。あとは、日本書紀に書かれた半島記事と、列島と半島での関係する出土品から推測するしかない。
 日本書紀には、重出の生誕記事と、武烈4年(502)に即位記事、継体17年(523)百濟國王武寧薨とあり、これは墓誌の記述と整合するが他に記事はない。
 武寧王陵は1971年に発見された未盗掘の墳墓であった。ここに葬られた夫婦と見られる二つの棺は半島には自生しない日本産のコウヤマキが使われていた。ちなみに、高井田古墳の棺もコウヤマキ製であったが、ここからほぼ同型の火熨斗(ひのし:アイロンのようなもの)が出土している。武寧王本人が、日本滞在時に高野槙の品質の良いことを知って、送ったのであろうか。さらに銅鏡も重要な問題を持つ。
 王妃の冠飾りの下に置かれていた後漢鏡モデルの獣帯鏡の踏み返しといわれる同型鏡が、滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土している。そもそも半島に銅鏡を副葬するという例は少ない。
 森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出土状況に比すべきもの」としている。
 銅鏡の問題では、隅田八幡宮銅鏡の銘文に斯麻とあり、武寧王のことであるのはほぼ定説になっている。
 武寧王陵は見事な磚室墳(レンガ造り)であるが、そこに鉤状鉄製品が認められ、石室や棺を布幕で覆う際に使用したと想定される。同様のものが同型鏡のある綿貫観音山古墳、甲山古墳からも見つかっている。さらには、藤ノ木古墳にも認められる。豪華な金銅製品や銅鏡だけでなく、埋葬儀礼に直接かかわるような金具のセットも同じというのは大変重要と考える。同族の葬送儀礼であるからこそ、同じようなしきたりや形式があるのではないか。綿貫観音山古墳の鉤状鉄製品については、こちら
 さらに、単龍・単鳳環頭太刀だが、梁の高祖が斯麻王に節刀(中国からの任命の印)として下賜したのではという説があるが、この模造刀が倭の古墳から出土している。福岡県日拝塚、茨木市海北塚、大阪府一須賀1号墳などがあり、関係の深さを物語る。
 他に滋賀鴨稲荷山古墳の耳飾りは、武寧王陵王妃の耳飾りと構成(主環、中間飾鎖、)が共通。さらに、熊本江田船山古墳の冠帽、飾り履、長鎖耳飾、馬具は百済との関係は深い。
 武寧王陵の北西7㎞にある横穴墓群が倭人墓の可能性と指摘され、帰国の際の「護衛」の倭兵の可能性がある。

参考文献
新納泉『単竜・単鳳環頭大刀の編年』京都大学ネット掲載1982
「百済武寧王と倭の王たち」実行委員会編『秘められた黄金の世紀展』六一書房2004

百済王と倭王の関係

1.百済のために高句麗を非難する倭王武
 
 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができなかった、という状況の説明と、宋からの支援を要請するものであった。
 これは、既に指摘されていることだが、「上表文では済が怒り、大挙せんと欲すとあるが、これでは次の倭王である興の存在を飛ばしている」(河内春人2018)ということになるのはもっともなことである。
 さらに、高句麗から被害を受けているのは百済国であって倭国ではない。『三国史記』に475年漢城陥落の後に使を遣わして宋に謁見しようとしたが、高句麗に阻まれた、という記事があり、あくまで妨害を受けたのは百済国である。実際に百済蓋鹵王は、北魏延興二年(472)に、中国の北魏に対して次のような訴えを行っている。        
 「百済は魏との間に豺狼(山犬・狼すなわち高句麗)が立ちふさがって路を隔てているために、魏の外藩となる機会をもてない。臣は高句麗に深い憤りを抱いており、このような片田舎の臣であっても、なお、万代の信義を募っております。どうして、小豎(しもべ、こわっぱの意。ここでは高句麗)に王道をはばませてよいことがありましょう。」
 これは武の上表文とよく似ている、というか、実際はその逆で、蓋鹵王の訴えと同じような表現を、上表文にも取り入れたということではなかろうか。だが、百済の言い分を北魏は疑って対応しなかったようだ。このように、蓋鹵王の高句麗への怒りが、武王の上表文に引き継がれているのではないか。倭王武は、百済に成り代わって、高句麗非難をおこなったのである。「句麗無道」などと高句麗への怒りが強く表されているのだが、他国の王がよその国のために感情込めた上表文を、自国の遣使に持たせたというのは不可解としか言いようがない。さらに、重要な問題がある。

2.「奄喪父兄」(にわかに父兄をうしない)とは?

 この上表文の一般的な解説で、苦労をされているのが、倭王武が自分の父と兄を亡くし、喪中に入ったので兵を出せなかった、と述べているところである。武の父は済であり、兄は世子興となるのだが、済の死後に世子興が倭王を継いだはずなのに、これでは理解不能になるのである。では、どのように考えればよいのであろうか。それは、先述の高句麗非難の姿勢の謎と同様に、済が蓋鹵王、興が昆支、武が武寧王とすれば説明が可能となるのである。
 475年、高句麗侵攻によって、百済の漢城は陥落、蓋鹵王は殺害される前に、次の王となった文周王を逃がす。
 文周王は新羅に救援を求め、兵一万を得て戻る。これは間に合わなかったのだが、百済は南下して熊津(広州)を都として再建をすすめる。そして、宋に朝貢しようとした時に高句麗の妨害に合う。この文周王は3年ほどで亡くなり、次に三斤王が即位するがこれも短命で479年に死去。次に倭国にいた東城王が帰国して即位する。
 その前の477年に、倭国にいた昆支は百済に帰国して文周王を支援するも、この年に死去している。事情は不明だが、昆支は、蓋鹵王刑死の2年後に亡くなっている。これが「にわかに父兄を失い」となるのではなかろうか。
 昆支については、蓋鹵王の弟か子であるのか、意見の分かれるところだが、仮に昆支が蓋鹵王の弟で、武寧王の兄にはならないとした場合でも、高句麗侵攻で、蓋鹵王と共に妃や王子などの王族も多数殺害されており、その中に、武寧王の兄弟にあたる人物がいたとすると、父の蓋鹵王といっしょに刑死したとも考えられる。つまり、昆支が兄でなくても、武寧王にとっては、父と兄弟がにわかに亡くなってしまったことになるのである。
 このようにとらえると、宋への上表文にある倭王武の怒りと哀切きわまる訴えの背景、すなわち百済王族の刑死や中国への遣使の妨害の元凶である高句麗への怒りが説明できるのである。
 さらに、済が怒って兵を準備したのは、興を無視しているという河内春人氏の疑問も解消できる。倭王済であった蓋鹵王が、高句麗に対し戦闘準備をしていた時には、世子興である昆支は、倭国に派遣されていたのである。
 また、河内春人氏の、「蓋鹵王が処刑された際に倭国の百済救援の資料的痕跡はない」との指摘についても、武である武寧王が、おそらくは3年にわたる喪に服したから、百濟応援の軍事行動をすぐに起こせなかったという事情の説明もつく。ちなみに羅済同盟を結んでいた新羅は、すぐに百済支援に向けて出兵していたのである。
 
3.「世子興」の謎も解ける。

 またこの説によって、『宋書倭国伝』にある「世子興」についての説明しがたい問題も氷解する。倭の五王の中で、興だけが世子、すなわち世継ぎと記されている。既に「武寧王と倭の五王⑵」で説明しているが、この中国史料には、済が死んで世子興が遣使と記されている。済が死んでから後を継いだとされるが、中国側は、きちんと調査をしたわけではないので、次の王の遣使であるならば、当然、前の王は死んだと判断しただけではないか。
 また、この記事の後半にある武の上表文には、父兄がにわかに亡くなったと書いてあることとも矛盾するのだが、中国側は、所詮、東夷の蛮国のことであり、細かい点まで熟慮せずに記載したと考えられ、必ずしも、済が死んでからの即位と断定しなくてもよいであろう。
 なお、世子については、中国の『晋書』本紀太元11年(386)4月条に餘暉(辰斯王)が百済王世子として使者を派遣し、使持節都督鎮東将軍百済王に任命されたという記事がある。中国側は、直接使者から事情は確認したであろうが、何も世子と名乗っても問題にしていないのである。
 以上から、本来の済は倭国王が世子興になっても、百済で蓋鹵王として生存したと考えてもおかしくはない。もともとは、昆支である興は、蓋鹵王の後継ぎであったので、倭国に渡っても世子興であった。倭国滞在中に高句麗侵攻による蓋鹵王殺害で、急遽、文周王が即位する。後に昆支も帰国するが、何らかの事情で王になれないまま亡くなってしまう。こういうわけで、世継ぎであるはずの世子興が、後を継がないまま、次の東城王や武寧王が王位を継承するとなれば、不自然ではなくなる。だがこれを、倭国の中だけで考えると回答不能の問題となるのである。

 蘇鎮轍氏は倭王武だけを百済王とされたが、済が蓋鹵王、世子興が昆支とすれば、上表文に描かれた、まるで百済の立場での高句麗非難と、にわかに父兄が亡くなって喪に服するという記述、さらには、世子興の意味も矛盾なく説明できるのではないかと考えている。引き続き、他の事例もみていきたい。 

 以下は宋書の倭の上表文        順帝昇明二年,遣使上表曰:
「(略)臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟,實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,(略)」

 上表文の現代語訳       
臣(武)は下愚ではあるが、かたじけなくも先緒(先人の事業)をつぎ、統べるところを駆り率い、天極(天道の至り極まるところ)に帰崇(かえりあつめる、おもむきあがめる)し、道は百済をへて、もやい船を装いととのえた。
 ところが句驪は無道であって見呑をはかることを欲し、辺隷をかすめとり、虔劉(ころす)してやまぬ。つねに滞りを致し、もって良風を失い、路に進んでも、あるいは通じ、あるいは通じなかった。臣の亡考(亡父)済はじつに仇が天路(宋に通じる路)をとじふさぐのを怒り弓兵百万が正義の声に感激しまさに大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない、垂成(まさにならんとする)の功もいま一息のところで失敗に終わった。
 むなしく喪中にあり兵甲を動かさない。このために相手に打ち勝つことができなかったのである。いまになって甲を練り兵を治め父兄の志をのべたいと思う。

(日本書紀現代語訳は講談社学術文庫、原文と解説は岩波文庫版使用 宋書も岩波文庫版)※一部改変

参考文献
河内春人「倭の五王」 中公新書2018
蘇鎮轍 「海洋大国大百済 百済武寧王の姿」彩流社2007


斯我君系譜

図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの

⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。

 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカド、すなわち、朝廷の主要な人物であると考えられる。それは書紀が記す武烈天皇ではなく、別の、いや本来の王権である倭国王権(九州王朝)のことである。その人物の末裔が、後に倭君(ヤマトノキミ)になるのではないか。
 一方で、続日本紀は、光仁天皇の后の高野新笠の先(おや)は、武寧王の子、純陀太子より出づ、とある。ならば、倭君が何代かを経て、和乙継につながり、その娘が高野新笠となるということであろう。
 すると、上記の系図のように、書紀では不明の人物が、武寧王の子の純陀太子となり、その彼の「遂に生まれた」後継ぎが、法師君となる。このようにして、日本書紀と続日本紀の系図が、図のようにつながるのではないか。斯我君は、朝廷の主要な人物に輿入れしたわけであり、それは上位の王族、もしくは本来の天皇との成婚であったはずだ。純陀太子(書紀では淳陀)は、継体紀7年(513)に薨(崩御)とある。状況は不明だが、自然死とは考えにくく、上層部内での何らかの出来事によるものとも考えられる。純陀太子に関しては、後に改めてとりあげたい。
 先に説明したように、蓋鹵王が中止させた女性の派遣を、どうして武寧王は復活させたのであろうか。子が倭国王権の構成員であるならば、父親の武寧王も、以前に倭国王権と深く関係していたからかもしれない。それは、時期から判断して倭王武にあたるのではなかろうか。

2.近畿一元論ではなく、多元史観で解明する

 韓国の研究者から、「百済王即位以前は侯王である倭王として在位のようにみえる」(蘇2007)との説が出されたことがある。その根拠として、『宋書』にある倭王武の上表文に注目されている。高句麗の攻勢に対し、百済の蓋鹵(コウロ)王は、北魏の高祖に救援を求める上表文に類似があることや、二つの上表文が、高句麗非難と、百済を支援されればその恩恵は忘れないといった表現が共通していること、字句に共通点があること、「奄喪父兄」(にわかに父兄を失い)は父の蓋鹵王とその王子のことしかない。さらに、列島の古墳の金銅製冠や飾履などの百済と関係する出土品が多数あげられること、などである。
 蘇氏は、「斯麻王は十代で武という名で倭の王位についた」と指摘されるが、私見では、武だけではなく、五王のうちの済、世子興も百済王との関係があるとしている。讃と珍については、判断がむずかしいが、あとの済は蓋鹵王、世子興は昆支、武は斯麻王こと武寧王となると考えるのである。
 そんなことは信じがたい、と思われる方は多いであろうが、これから提示するいくつかの論拠でご判断いただきたいと思う。また、同様に百済王と倭国王の関係はネットを含め少なくない方が論じておられる。ここでは、日本書紀の天皇ではなく、6世紀あたりまで九州に拠点があった倭国王権という視点、さらには、これまで話題にさせていただいた、列島への渡来移住者の影響を踏まえるという点で、自分なりに整理をしてこの問題を説明していきたい。

 なお、繰り返し掲載した武烈紀と続日本紀の記述を合わせた系図は、重要な問題を含んでいるが、これについては後述したい

参考文献
蘇鎮轍(ソ・チンチョル)「海洋大国大百済 百済武寧王の世界」彩流社2007

宋比較
 宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿のヤマトに神武より天皇が君臨していたという観念にしばられて、こじつけて当てはめているにすぎない。実際に批判的な通説の研究者もおられるのだ。(河内2018)
 倭の五王が日本書紀の天皇に当てはめられない理由を、私見では細かい問題もあるが、重要なところを二つ指摘しておきたい。

1.書紀が宋書倭国伝を無視していることの説明が必要

 一つ目は、倭の五王の記述が全く日本書紀に記されていないということである。いや、そんなことは言われなくてもわかっている、だから苦心を重ねて各天皇に比定しているのではないか、と思われる方もおられるであろうが、このことが重要な問題なのである。つまり、中国側の史書である宋書倭国伝、他に南斉書、梁書には記されているのに、どうして日本書紀は、その記事を少しでも採用しなかったのか、という問題である。宋に対して何度も遣使を行っていたのであれば、書紀は記事にしたはずであるのに、なぜそうはしなかったのか。
 書紀は、漢籍と言われる中国の史料などを多数引用している。それも、個々の莫大な史料の記事を渉猟して引用したのではなく、芸文類聚などの、記事のテーマごとに採集、編集された便利な資料集を活用して、書紀編者が、その場面に応じてふさわしい一節や熟語を抜き出してはめ込んでいたのである。これによって、潤色といわれるが無味乾燥とした記事に豊かなイメージを与える歴史書に変容させたのである。
 さらに年代を具体的に示す外国史書の引用も取り入れている。例えば神功皇后紀の39年(西暦239)には、景初3年6月倭女王遣使の記事を引用し、さも神功が卑弥呼であるかのように装っているところが見られる。さらに66年(266)にも、中国史書の泰初2年倭女王遣使の記事を記している。ここで神功は、長寿の女王にされてしまっているのだ。また百済の史書からも、百済王の崩御と新王の即位記事を繰り返し記載している。ところが、允恭や雄略に年代が該当するところでは、中国史書の倭の五王の記事は全く無視されているのである。
 それは、書紀にとっては不都合な、本来の倭国を示す中国側の証言集であったからだ。不都合な真実を載せるわけにはいかなかったのだが、通説の一元論では、それが説明できないのである。この点についての説明がないまま、倭の五王についての推論を進めること自体が疑問なのである。

2.書紀の天皇では説明できない世子興
宋書

 二つ目は、これが最大の問題と思われるのだが、宋書の五王の中で、興については「世子興」と繰り返し記されていることである。「世子」とは、世継ぎのことであり、天皇でいうならば太子にあたるのだが、日本書紀には日本の王の世継ぎに世子という表現はない。ただ一カ所、高句麗王族の記事にあるだけである。
 欽明紀7年に高麗内乱の記事 「中夫人生世子其舅氏麁群也」
 この世子には「まかりよも」との訓みが与えられているが、太子のことだと岩波注は記している。
 中国晋書には、「百濟王世子餘暉為使持節都督鎮東將軍百濟王」
 ここでは、辰斯王は、本来の後継者の阿莘王が若かったので代わりを務めたので正式な王ではないとしたのであろうか。また他にも、広開土王碑に「世子儒留王」、さらに七支刀銘文に、「百済王世子奇生聖音」とあるように、半島の王族に使われる用語といえる。書紀に記される日本の天皇の後継者に、このような用語は使われていないのである。世子とされた天皇が存在していたのであろうか。この点についての説明がないまま、興を訓みがコウと共通するところから安康に当てはめるなど、とても学術的な説明とは言えないのである。

 宋書に記された倭の五王は、日本書紀が描いた天皇とは違って、当時実在した倭国王の事績が書かれたものである。これは、後の隋書倭国伝に記された多利思比孤や利歌彌多弗利が、推古や厩戸皇子に比定できないのと同じ事情なのである。よって、倭の五王も、当時は九州に拠点のあった王朝との関係で検討しなければならないのである。

参考文献
河内春人「倭の五王」中公新書2018 宋書と記紀の比較図も同書より
宋書倭国伝の図は、岩波文庫の原文より

済です。ありがとうございました。
武寧王チラシ
 和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 

 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。どうも武寧王は、倭国に長期間滞在していたかのような状況が見えてきます。
 この謎を、倭の五王と合わせて自説を述べさせていただきます。
   お気軽にご参加ください。


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