流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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高松塚絵画

 既に説明させていただいているが、天智と鎌足の出会いのエピソードの蹴鞠は誤解であり書紀では「打毬(まりく)」とある。これは、新羅の金春秋と金庾信の蹴鞠(ホッケー)の逸話を利用。高松塚古墳壁画の右端の男子が持つのもホッケー用のスティックなのである。

 金庾信はわざと金春秋の裾の紐を踏み破る。そして金庾信の妹の文姫が繕ったことが縁で金春秋と結ばれる。この時に、当初は妹ではなく姉に頼んだのが断られて、妹の文姫に繕わせた。書紀では中大兄は鎌足のすすめで倉山田麻呂の長女を娶るはずが、親族に誘拐され、次女が身代わりになって娶ることになる。このように、乙巳の変は、新羅女王をささえる金春秋とその配下で重要な協力者である金庾信の関係をモデルに、書紀では天皇の体制を中大兄と鎌足で支えるという物語を構築したのである。
 くわしくはこちらをご覧いただきたいが、新羅では647年に毗曇の乱がおこっている。女性である新羅善徳王の廃位を求めるクーデターが、金庾信の活躍で鎮圧される。そのさ中に善徳王は亡くなるが、反乱後に従妹にあたる真徳王を擁立。金春秋と金庾信らが女王を支える体制を確立する。これは中大兄と鎌足が女帝の皇極を支えるという構図と同じ。そして新羅は、この647年を太和と改元している。  
 他にも、始皇帝の秦王殺害未遂事件を参考にし、鎌足の策略で「俳優(わざおき)」に入鹿の刀を預かるエピソードを盛り込むなど、とても史実とは言えない物語で構成されている。


 この乙巳の変の問題について、いただいたご質問への説明をさせていただく。
 一つ目は、新羅女王を金春秋と金庾信がささえるという構図の毗曇の乱は、クーデターだが、乙巳の変はクーデターとは言えないのでは、というご指摘があった。

 まずは、日本書紀の該当記事を記す。
入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。
 次に宇治谷孟の現代語訳。
「入鹿は御座の下に転落し、頭をふって、『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え』と言った。天皇は大いに驚き中大兄に、「これはいったい何事が起ったのか」といわれた。中大兄は平伏して奏上し、「鞍作(入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」

 入鹿を殺害した後の中大兄の天皇への説明だが、「盡滅天宗將傾日位」は、「天宗(きみたち:家伝は王宗)を尽し滅ぼして、日位(ひつぎのくらゐ:家伝は天位)を傾けむとす」とありますように、これはまさしくクーデターと解釈できる。
 新羅の毗曇は、645年に和白会議の首座であると同時に、新羅の最高官職である上大等の地位に就いていた。入鹿も同様の高官の立場であり、両者が、女帝に対して反旗を翻すという構図になっている。入鹿の場合は、中大兄の説明により未遂で終わらせたという話にしているだけであり、新羅女王を守ろうと協力した金春秋と金庾信の構図と同じものを、入鹿を毗曇に見立てて、女帝を中大兄と鎌足が協力して守るというストーリーに仕立てたのだ。よって元々はでっち上げだが、入鹿のクーデター未遂という物語にしたもので、毗曇の乱と類似していると考えてよいであろう。

 二つ目は、乙巳の変の蹴鞠のエピソードの話は、新羅の説話を後から書紀が参考にしたとの説明に対して、この話の出所は、三国史記よりも日本書紀が成立年代からして先ではないか、つまり、新羅の説話を日本書紀が編集したとはできないのでは、といった趣旨のご意見について説明しておきたい。

 日本書紀の元となる史料は様々な出所の史料、口誦、伝承などを参考に編集されているはずだ。百済三書は明記されているが、出典を記さないものも多々あったと思われる。
 日本書紀には、倭国に質としてやってきた新羅の金春秋について次のような記事がある。
 
 孝徳紀大化3年 新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談笑
 
 ここに、質としてやってきた金春秋について、容色美しく快活に談笑した、と書かれている。すると、書紀は、金春秋について何らかの記録、或いは口承があって、それにもとづいて書かれたと考えられる。しかもこの金春秋は「善談笑」とあるように、おそらく、自分の妻とのエピソードも宴席などで倭国の役人に対して具体的に、面白おかしく話していたのではないだろうか。その内容が記録され、あるいは記憶されたものを、日本書紀の乙巳の変の編集に参考として活用したと考えられる。新羅の方でも、高官たちが金春秋、さらには金庾信の話を記録し、後の史書に反映させたということになる。なお、金春秋は647年(孝徳大化3年)正月の毗曇の乱の収束後に来朝していると考えられる。書紀は新冠位制の制定記事の後に記載している。
 よって、蹴鞠のエピソードなどは、日本書紀に先に書かれていてもおかしくはなく、金春秋本人が、倭国で話をしていたものを参考にしたということになる。 

☆ここで少し余談を・・・・・ 金春秋(新羅武烈王)は九州王朝にとって大変重要な関りを持つ人物
 彼は、647年に新羅から日本にやってきたが、その目的は、当時の百済との関係で倭国の支援を取り付けることだった。しかし当時の倭国は、いい返事はしなかったようで、次に唐に派遣され太宗から厚遇を受け、新羅は唐に恭順することになった。中国が新羅支援の軍事行動を起こし、斉明紀にあるようにさっそく高句麗への軍事行動を起こし、さらに金春秋も唐軍の支援をえて百済を攻撃する。遂には白村江戦で倭国軍まで大敗したことで、九州王朝の衰退を招くことになった。すると、金春秋は倭国の命運に関わる人物であったことになる。日本書紀は、新羅のことをあまりよく描いていないが、金春秋については、「春秋美姿顏善談笑」と好意的に記したのは、新政権であるヤマト王権にとっては功労者であったからということになるのではないだろうか。   (続く)

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           大阪府高槻市阿武山 矢印あたりに阿武山古墳がある。

 藤原(中臣)鎌足と百済王豊璋について述べさせていただく。
 鎌足(614〜669)は、中大兄と乙巳の変を挙行。最高冠位の大織冠と,藤原姓を賜る。談山神社にまつられたが,近年高槻市の阿武山古墳埋葬説が有力になった、と一般的な説明がされる。歴史上の有名人物だが、実は日本書紀にはほとんど事績はない。
 豊璋は生没年不詳。百済最後の義慈王の王子 豊章・余豊璋・余豊・扶余豊などの名が史料にある。他に翹岐・糺解などと呼ばれる。半島の混乱の中、倭国に渡るが、百済再興の為半島に戻り、百済王となり白村江戦を先導するも敗戦後に不明になっている。

 既に関裕二氏が、鎌足の正体が豊璋であるとの説を発表しておられるが、賛同の声もある一方で、中には奇説といった否定的見方も根強いようだ。私はこの説に賛同するものであり、さらには、関裕二氏の指摘にはない点を、多元史観、すなわち近畿のヤマト王権史観ではなく、九州にあった倭国王権という観点での説明も加えて、さらには、独自に解明した問題についても付加させていただくことにする。そして、これがもっとも重要な問題だが、白村江戦での大敗北の後、豊璋は不明となっているのだが、関氏はいつ日本に戻ったかはわからない、とされている。このもっとも重要な問題が不明瞭では、奇説と言われても仕方がないと思われる。私は、独自の視点で豊璋が日本に戻ったと考える根拠を説明させていただく。
 以上のような点も含めて、かなり多数の根拠なり傍証を提示させていただくので、トンデモ論とか、歴史上の有名人物が渡来人などというのはあり得ない、などという思いもおありかと思われるが、ぜひ、これからの説明を検討していただきたい。


1. 阿武山古墳の被葬者は鎌足とするだけでは、遺跡、遺物の状態を説明できない。
 
 大阪府高槻市の阿武山古墳は、研究者の多くはその被葬者を藤原鎌足だとされている。だが、その墓の構造や出土品などは、倭国の人物とするのでは説明できない現状がある。また、日本書紀における彼の事績は乏しいはずが、後に過大ともいえる評価が与えられている。このアンバランスを解消するには、もう一人の織冠を持つ豊璋に注目をせざるを得ない。以下に説明するが、鎌足が豊璋であるならば、この疑問は解消できるのではないかと思われる。今回、新たな視点を加えて整理したものを提示させていただく。

①織冠の保持者
 織冠が授与されたのは鎌足と豊璋。二人のうち、国内で没したのが鎌足。だから阿武山古墳の被葬者は鎌足。これが唯一の根拠とされている。
 この織冠が日本書紀に登場するのは、孝徳紀大化3年の冠位十三階の記事だ。その後、大化五年に冠位十九階を制定し、筆頭が大織である。
 先に豊璋が、天智即位前紀に織冠を授かり、その後に百済に戻る記事がある。
 天智8年に藤原内大臣(鎌足)が、東宮大皇弟(天武とされるが)から大織冠を授かる。しかしその翌日に亡くなるというのも話が出来すぎているのだが。また、この豊璋と鎌足だけが織冠を授かるというのもよくよく考えれば不可解であろう。他には誰も授かっていないのであろうか。鎌足亡き後に織冠の地位を得る人物もいなかったのか、書紀はなにも記していない。
 豊璋は白村江戦の後、倭国には戻っていないという理由での消去法で鎌足が残る、というのが根拠だが、書紀が記していない人物で、織冠を授かったものがいた可能性は否定できないのではなかろうか。
 よって出土した冠帽を鎌足のものと断定するのは疑問となろう。

②被葬者の年齢
 残りのよい人骨から被葬者は五十から六十歳代の男性であることが享年五十六歳とちょうど会う。
 鎌足の年齢は、日本書紀は日本世記の記事として、50歳、また碑には56歳とある。これで被葬者の推定年齢と合うということだが、そもそも、古代では50歳台の寿命は珍しくないはず。なお、豊璋は生没年が不詳であり、この豊璋も年齢の問題では否定できないことになろう。

③被葬者の骨折
 レントゲン写真から腰椎に圧迫骨折と肋骨の骨折が確認され、鎌足が落馬して負傷したことと符合するという。ただしこの落馬については、後にまことしやかに作られた話であり、籐氏家伝などにもそのような事実はない。ただ、左腕肘に変形が見られる点が、弓を扱うことが原因とされた。ちょうど乙巳の変で鎌足は弓矢を持って構えていることから、弓矢を使い慣れていたことからの骨の変形と考えることはできる。ただこれも、豊璋も弓の使い手であった可能性はある。

④大織冠神社
 大阪府茨木市の大織冠神社は鎌足ゆかりの神社であり、この地域に縁がある。ただしこの神社にある古墳は時代の異なるもので無関係であることは明白。鎌足が日本書紀に記されたように三島と関係するのは確かであるが、それ以上に、この周辺地には百済との関係が見えてくるのである。

  この程度のことであり、具体的なものは乏しく、鎌足と言いきれないのではなかろうか

⑵古墳の構造、遺物の特徴は、鎌足というだけでは説明できない。

①中央を花崗岩の切石と塼で組み上げて、内側を漆喰で仕上げた墓室で、横口式石槨であること。

②埋葬されていた夾紵棺。木型をもちいて麻布に漆を塗り重ねて作る。脱活乾漆棺と呼ばれる。百済王族の棺がみな漆塗りの木棺である。

③その棺は塼積みで作られた棺台に載せられていた。これは百濟泗泚時代の陵山里王陵の東下塚の壁画のある古墳に同様のものがある。

④玉枕のガラス玉は直径の異なる三種類が使われ、高度な技術が必要。その玉を50m近い銀の一本の針金を通して作られている。この玉枕のガラス加工は高度な技術が必要。このような技術など日本では無理といえる。

⑤冠帽に使われた金糸は純度90%以上の金の針金を平らに伸ばして軸となる絹糸に巻き付ける。長さは100m以上あったという。金についてのかなりの知識、技術を持たないとできるものではない。
 冠帽に長方形の枠組みが20個。その枠内に連続S字文(蛇文)と四弁花文のような輪郭があった。これは、百済観音の金銅製宝冠の縁に方形区画と六弁花文と類似する。
 なおこの大量に金糸が使われた織物は正倉院には見当たらない。則天武后が身にまとっていた衣装の大量に使われた金糸に匹敵するという。列島には他に事例のない貴重なもののはずだ

⑥冠帽の縁回りに樹皮が見つかり、同例として慶州の金鈴塚古墳の白樺の皮でできた冠帽。

⑦塼には青海波文の整形具痕が残ったものが見つかっている。河内飛鳥、奈良の飛鳥でも確認されている。青海波は半島でよく使われる文様。今城塚古墳の埴輪にも見られる。

⑧百済の王は、出土したものと類似の金で飾った冠をしていた。『北史百済伝』には、王は烏(黒色の)羅(で作った)冠を金(製)花で飾り、素(白色)皮帯をしめ、との記述がある。

⑨金製の垂飾付耳飾りの部品の連結に金糸を使う技法も百済の特徴であり、金の加工技術に長けていた。

⑩ミイラ処理がされていた。遺体の残りがたいへんよくて、肉片の付着もあったという。発見当時に蓋を開けたときに樟脳の香りがしたとの証言がある。化学的な調査はされていないがクスノキもしくは他の香木が腐敗防止に使われていたのではないか。実は藤ノ木古墳の被葬者も腐敗防止が施されたミイラとして埋葬されていたようだ。このあたりについては改めて説明したい。

⑪阿武山古墳の麓に散在する古墳群は、同一規格、製法の塼の使用や石室に漆喰が塗布されるなど渡来系の集団の奥津城であったと言える。阿武山南東斜面の塚原古墳群も渡来系の墓域であり、塚原P1号墳からは武寧王陵出土と同型の単竜環頭太刀が出土している。

 古墳の構造や副葬品、さらに埋葬状況からして渡来の王族のものと深く関係するものであり、それが日本に戻ったことが否定できない豊璋の墓である可能性は高いと考えられるのではなかろうか。 (続く)


1.二人の出会い以外にも参考にされていた。
 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は金庾信の妹で、次の文武王を生む。
 金庾信(595~673)は新羅に併合された金官加羅王の後裔で武将。647年、善徳王の廃位を唱えた毗(ひ)曇(どん)の反乱軍と戦い鎮圧に貢献。妹が金春秋の后だが、逆に金春秋の三女を夫人にしている。武烈王と子の文武王を支えて半島統一に邁進した。
 この二人に関する出会いの説話がある。
 金春秋と補佐の金庾信が蹴鞠に興じていた時に、庾信はわざと金春秋の裾の紐を踏んで裾を破ってしまう。これを妹の文姫が繕い、その縁で金春秋と結ばれる。書紀は恐らくこの説話を利用したと思われる。だが、日本書紀では、蹴鞠でなく打(ま)毬(りく)とある。これは雅な蹴鞠ではなく、ホッケー、ポロといったものであろう。当時の日本に雅な蹴鞠はなく、先にホッケーのような遊戯が入って来たのかもしれない。新羅の場合も中国から始まった蹴鞠は、サッカーに近いもので、雅な蹴鞠ではなかったから、裾を踏むことがありえたのであろう。しかし後の藤原氏の伝記である「籐氏家伝」では、靴が飛ぶような動作のある蹴鞠に変えたのかもしれない。
 この二人の記事と中大兄と鎌足の描写が似ていることについては、『つくられた乙巳の変1(こちら)』で説明しているが、二人の出会いである蹴鞠の逸話以外にも見る事ができる。注1

2.出会いだけでなく他にも利用された二人の関係
 金春秋の裾をわざと破った金庾信は、すかさず自分の裾の紐を裂いて、これで縫わせると言って、姉の宝姫に命じる。しかし姉は些細なことで軽々しく貴公子に近づくのは失礼と固辞する。その為に妹の文姫に縫わせることになって金春秋と結ばれる。一方、乙巳の変では倉山田麻呂の少女を中大兄が娶っている。鎌足の策略で中大兄は先に倉山田麻呂の長女を娶る手はずとなったが、彼女はその夜に一族に盗まれてしまう。落ち込む父にわけを聞いた少女(おとひめ)は身代わりを申し出る。父は喜び皇子に少女を奉る。書紀の少女は妹と断定できないが、当初目論んだ姉との婚姻が果たせずに代わりの女性と結ばれるという筋書きの類似は否定できない。なぜ次女や妹とせずに「少女」と表記しているのかは興味深い点である。天智天皇の后になるので慎重な記述をしたのだろうか。
 つまり金春秋と金庾信の話の利用は一つでおさまらないのだ。次も利用されたのではないか。病に臥せってしまった金庾信を、金春秋が慰問する。その時の言葉は「臣愚不肖 豈能有益於國家」とある。「臣は愚かで不肖でありましたから、どうして国家に対して有益であったと言えるでしょう。」
 天智天皇も床に臥す鎌足から次の言葉を聞いて感激する。
「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」
「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょう。・・略・・ 生きては軍国(おほやけ)のためにお役に立てず・・略・・」これも参考にしているのではないか。

3.中大兄と鎌足の関係を描くモデルは金春秋と金庾信の関係と同じ構図
天智鎌足新羅
 中大兄と鎌足が意気投合し、計画を練って殺害計画を遂行するという二人の関係は、新羅の女王をささえる金春秋と金庾信の関係に符合する。女性である新羅善徳王の廃位を求めるクーデターである毗曇の乱(647年)は、金庾信の活躍で鎮圧される。そのさ中に善徳王が亡くなるが、反乱後に従妹にあたる真徳王を擁立。金春秋と金庾信らが女王を支える体制を確立する。これは中大兄と鎌足が女帝の皇極をささえるという構図と同じではなかろうか。それはこの入鹿殺害の目的、狙いが入鹿と中大兄のセリフにあらわれている。
「入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎」
「私入鹿は、皇位簒奪の謀を企てているとの罪を着せられて、今殺されようとしているが、無実の罪。調べて明らかにしてほしい。」
 この後に中大兄が皇極天皇に殺害理由を説明する。「鞍作(入鹿)は帝位を傾けようとしている。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」
 つまり、目的は、天皇の座を狙う入鹿を殺害して、皇統を守るということなのだ。金春秋と金庾信が女王を守ったように、中大兄と鎌足は皇極天皇、帝位を守るという設定にしているのだ。毗曇の乱とは2年違いで乙巳の変が設定されているのも、無関係でないことを示している。
 書紀はその目的を達成した一番の功労者を鎌足に仕立てた。皇統を知恵と力で守った人物として鎌足を礼賛しているのである。天児屋命を祖とする中臣氏から別れ出たとする藤原氏の祖である鎌足を、古代の英雄としてまつりあげることだった。
新羅の二人と同様に中大兄と鎌足が女王、帝位を守る存在としての構図が完成したのである。
 このように鎌足は作られた人物像であった。日本書紀において彼の事績は乙巳の変をのぞいては他に見るべきものはないのである。後に栄華を誇る藤原氏という系図の始まりが意図的に創造されたのである。

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。
参考文献
藤原仲麻呂「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997

鯰絵アマテラス
              
 記紀の説話にはその解釈に誤解があって、本来の話の真意が伝わりにくくなっているものがあることを、いくつかの事例で説明する。既に多くの研究者によって指摘されていることを利用させていただき、そこにわずかな私見を交えて論じるものであることをお断りしておく。

【1】アマテラスは女性神なのか?
 日本書紀に記された乙巳の変の説話の多くはつくられたものであり、その狙いの一つに藤原氏の祖とされる鎌足を卓越した行動力と才知あふれる人物として礼賛することがあった。たとえば、用心深い蘇我入鹿の刀を預かるために、鎌足の智恵で俳優(わざひと)を近づける。すると入鹿は疑うことなく咲って相手に刀を渡してしまう。俳優がどのように働きかけたのか書紀は全く記していない。岩波の解説では、俳優は芸人などという説明があるだけで、これでは護身用の刀をあっさりと渡す理由にはならない。
 日本書紀にはこの俳優という表現が、海幸山幸の説話と岩戸神話のアメノウズメの仕草に使われている。乙巳の変の俳優は後者のアメノウズメを人物像として想定したのであろう。岩戸にこもるアマテラスに対して、ウズメは妖艶に舞い八百万の神も盛り上がる。そして、外の様子を見ようとしたアマテラスを岩戸から引き出すことが出来た。乙巳の変の場合も、俳優とはアメノウズメのような妖艶な女性であり、意味深に入鹿に近づいて何かを語る。用心深い入鹿も「咲って」刀を渡してしまう。ただこれは史実ではなくあくまで書紀編者がそのように想定したことであって、俳優の役割がこれで理解できるのである。だが、この話はその説得力という点でやや弱い部分がある。それはアメノウズメの相手が女神であることだ。だがこれが男神であれば、たいへんわかりやすい話となるのではないか。

【2】あとから女神にされたアマテラス
 京都の祇園祭の岩戸山の山車にはアマテラスの人形が飾られている。祇園祭のハウツー本にはこの人形が、髭を生やした男性神と当たり前のように説明されている。京都界隈では、アマテラスが男性であったのは常識だったのであろうか。茨城県北相馬郡の布川神社の絵馬にも、髭の描かれたアマテラス像が岩戸の隙間に描かれている。さらには江戸時代の鯰絵にも髭を生やした天照大神が描かれて庶民に出回っている。
 研究者の中にも認識があり、両性具有の神などともっともらしい表現も見られる。既に指摘されていることだが、古事記にはアマテラスが女神であるとは、それをうかがわせる表現はあっても明確なものはない。(注1)日本書紀も客観的な文面には女性神とは書かれておらず、スサノオとのうけいの場面で、彼が「姉」と何度も述べ、彼の悪行の中で「姉田」という表記はある。またアマテラス本人は武装する際に「婦女」と述べる箇所が一度だけ見られる。
 津田左右吉氏は、ウケイの場面では、男を生まば心正し、女を生まば邪(よこしま)なりとあるのは、日の神が女神であれば不適切な詞とされるのはもっともなことであろう。また、同じ方法で子を生むというのも、両者が男神であったからで、女神なら別の方法となるという指摘ももっともだ。
 世界の事例からも元々の太陽神は女性神だけではなく、男性神の場合もあったのであり、このアマテラスも男性と認識されていたこともあったのではないか。古事記では女性と明記しなかったが、日本書紀はアマテラスを女性神にする手直しを施しており、これを、当時の中国の武則天や日本の女性天皇の存在を反映させたとの意見もある。何らかの事情、前王朝の太陽神を否定するような意図も考えられる。日本書紀では女性神とされたが、男性神であるという様々な伝承から、江戸時代には男性神としての認識もみられたのが、これが明治に入ると女性神であることに徹底されたのであろう。
 よって、アメノウズメの意味深な仕草の舞は、男性神に対するものとして想定されたものと考えたい。(2へ)
注1)古事記では、イザナギはイザナミを那邇妹とし、イザナミはイザナギを那勢と呼んでいる。那勢は女性から男性を親しんで呼ぶ語とされており、アマテラスもスサノオを那勢と言っている。

青銅器変遷

【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化
 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通していた明刀銭の出土で、半島への影響が見られそれは列島にまで広がっている。野島永氏によると弥生文化における二条の突帶を持つ鉄斧は九州から関東にまで及んでいるが、燕の鋳造鉄斧と共通し燕国から直接伝わったという。唐津市鶴崎遺跡出土の有柄銅剣は紀元前五、六世紀の河北省燕山付近のもののようだ。博物館の説明にも、この有柄銅剣は、吉野ヶ里の有柄銅剣を含め、弥生時代の国内出土の銅剣とは全く形態が異なっており、中国における戦国式銅剣に系統を求められる国内唯一の資料とされる。また列島最古の武器形木製品は、福岡市の比恵遺跡で出土した遼寧式銅剣形のものであり、青銅武器が入る前からこの武器形木製品で祭祀が行われていた。
 小林青樹氏は佐賀吉野ケ里の青銅器工房で出土した燕国系の鉄製刀子から、青銅器の制作への燕国の関りを示唆される。熊本県八ノ坪遺跡では多数の初期弥生青銅器の鋳型が発見され、同時に遼寧で見られるような鋳銅用の馬形羽口もあった。
 さらに図にあるように、遼寧式銅戈もおよそ紀元前四世紀に半島に渡り、大型化と細形化をへて細形銅戈が誕生し列島に入っていったという。吉武高木遺跡の木棺内から出土した細形銅戈がその代表例である。

【2】燕国からの子孫が、燕国の荊軻の説話を語り継いだか
 以上のように、燕国の金属器技術を持つ集団が半島に入りやがて列島にもやってきたと考えられる。山海経巻十二の海内北経に「蓋国は鋸燕の南 倭の北に在り 倭は燕に属す」とある。ここでいう「倭」は、列島ではなく、やがて列島に移動する半島のこととも考えられるが、上記の青銅器などの出土状況が、半島から列島への深い関係を示していることを疑う余地はない。燕国は紀元前500年頃には、燕山を越えた遼西西部や半島への領域拡大がはじまったようだ。燕国の墓制はその副葬品に西周前期の青銅器を模したものが見られ、これは燕国の西周への回帰を示すもののようだ。のちには始皇帝に追われた燕国の人々が、半島や列島にまで逃避してきたことも間違いないのではないか。その人たちの秦王への恨みは、遠い子孫にまで伝えられ、それが入鹿殺害の説話に使われたのかもしれない。燕国の滅亡と乙巳の変では時代が随分離れていることに疑問を持たれる向きもあろう。しかし中国少数民族のイ族は、祖先が三星堆から秦によって追われ、さらには諸葛孔明によっていっそう山深い地に追いやられたことを今でもシャーマンが歌にして語り継いでいる。
 正木裕氏は弥生時代の倭奴国や邪馬壹国が、周の官制を用いていたことを明らかにされている。魏志倭人伝に登場する「泄謨觚(せもく)、柄渠觚(ひょごく)、兕馬觚(じまく)」などの官位は儀礼で使われる青銅器と関係しているという。すると西周王朝の侯国から発展した燕国の青銅器儀礼の官制や文化が、影響している可能性も考えたい。
 なお青銅器の倭国への流れでは、斉国との関係も示唆されているので、今後の研究の進展も注視したい。


参考文献
楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017
小林青樹「倭人の祭祀考古学」 新泉社 2017 
正木裕「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」(古田史学論集第二十四集卑弥呼と邪馬壹国)明石書店 2021
林俊雄「ユーラシアの石人」雄山閣 2005

【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?
 次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。
「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」
 用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳優を使って入鹿に近づく。すると入鹿は見事に「咲って」相手に自分の剣を渡す。
 入鹿殺害の顛末が、秦王殺害未遂の件と大きく違うところがある。それは、俳優を登場させて、入鹿が自分の刀を預けさせていることである。相手の反撃にあってはならず、殺害計画を成功させるためには、入鹿の帯刀を解かなければならない。しかしどうやって用心深い相手に不信を持たれずに刀を受け取れるのか。そのために鎌子は方便(巧みな手立て)を考えついて俳優を仕向けたのだ。

【2】妖艶なアメノウズメに油断した入鹿  
 ではその俳優とはどのような人物で、いかにして疑い深い入鹿の刀を解くことができたのか。この俳優は一般的には道化師などと理解されている。だがそれでは入鹿は信用しないのではないか。ここには具体的な行為やどのような言葉をかけたのかは全く描かれていない。だがそれを解くヒントはある。日本書紀にはこの俳優が二か所の異なる場面で登場する。一つは、海幸山幸の兄弟の説話だ。最初に横柄な態度であった兄が、最後には弟に屈服して俳優(ワザヒト)になってしまう。だがそんな人物では役不足であり、相手の刀を手にすることはできないであろう。もう一人の俳優が天岩戸神話に登場するアメノウズメだ。
アメノウズメ
 天鈿女命、則手持茅纒(ちまき)之矟(ほこ) 立於天石窟戸之前、巧作俳優(たくみにわざをきす)
 彼女は天岩戸の前で巧みに振舞って、アマテラスを岩戸から引き出すことに成功する。その実績のあるアメノウズメは天孫降臨の道を阻むかのように立つサルタヒコに対しても、天岩戸の時と同様の仕草を行い、彼の名を明かさせる。得体のしれぬ相手に堂々と立ち向かうアメノウズメこそ、入鹿を欺く役回りとしてふさわしいであろう。岩戸が開くようにアメノウズメはたくみに神事の仕草や踊りを行う。それを見て八百万の神がどっと咲ったという。入鹿も相手に刀を渡すときに咲っている。だがここでの咲いは可笑しくて笑っているのではない。この俳優は女性なのだ。しかもアメノウズメのような妖艶な女性であろう。おそらくこの俳優は、なまめかしい姿で胸元をやや広げて入鹿に近寄るのだ。そして彼女は「刀は後で私が直接お渡しいたします」などとささやいたのではないか。この時、入鹿が鼻の下を伸ばしたかどうかはわからないが、笑ったというより、ニヤついたのであろう。油断をして大事な刀を彼女に渡してしまったのだ。こうしてまんまと入鹿を丸腰にすることが出来たのだ。ただこれは史実ではなく、あくまで日本書紀の編者が想定した筋書きを想像したものだが。
 計画遂行のために秦王の反撃にあうという同じ轍を踏まないように、乙巳の変ではアメノウズメのような俳優を登場させて、入鹿を丸腰にさせたのだ。その奸計をすすめたのが鎌足であり、中臣氏の遠神(とほつおや)である天児屋(あまのこやね)命が重要な役割を果たす天岩戸や天孫降臨神話を参考にしているのは示唆的である。
 それにしてもこの乙巳の変の物語では、鎌足は事を成就させた立役者として描かれている。しかも弓は構えたが自分の手は汚していない。これは後の藤原氏の祖である鎌足が、蘇我氏の横暴であやうくなった皇統を、知恵と努力で守った存在として美化するために、この暗殺事件を利用したと考えたい。

荊軻暗殺未遂
【1】秦王(始皇帝)暗殺未遂を描く画像石                         
 石材に図像を彫刻したものを画像石と呼び、築かれた古代の墳墓の装飾品としておかれる。その画像の題材に秦王の暗殺未遂事件を描いたものがよく使われた。なぜこの場面が死者を葬る墓室に飾られるのか。荊軻が投げつけた匕首が柱に突き刺さる。崑崙山を象徴する柱を射抜き、今まさに昇仙の資格をえたかのように描かれる。  
 前漢末から三国時代にみられるもので、墓主の高徳を称揚しその魂の安寧を願った制作者による義士の英雄化と神仙化、という意図的な構図の再構成とされる。  
 上図は後漢時代の頃の四川省合川県の皇墳堡画像石墓。匕首が刺さった柱を挟んで、その左右に荊軻と秦王を相対させるという基本構図を踏襲している。この図では画面左で取り押さえられる荊軻のみが三山冠を被っている。注1.これは東方絶海の三神山を象徴するものとして、西王母の伴侶である東王公に特有の冠、さらに荊軻の左方に三足烏と九尾狐を従えた被髪有翼の神仙がいる。左手には彼に差し出す袋をもつ。それは不死の仙薬の薬嚢で、西王母の命により荊軻に永遠の生命を与えるために訪れた場面とされる。
 燕国の暗殺者荊軻は伴として秦舞陽(シンブヨウ)を同行させ、咸陽宮(カンヨウキュウ)で秦王に謁見する。途中で秦舞陽が恐怖のあまり震えだしたため危うく事が露見しそうになるが、荊軻がこれを言いつくろい、どうにか事なきを得る。そして、手土産に持参した燕の領地の地図を広げると事前に仕込まれた匕首で、秦王の袖を掴み右手で突き刺すのだが秦王に手元にあった刀で反撃され、匕首を投げかけたが銅柱に突き刺さった。荊軻は目的を果たせず逆に切り殺されてしまう。怒った秦王はその荊軻を何度も切りつけたという。画像石の右側には荊軻に対して刀を振りかざそうとする秦王が描かれている。
 この事件は未遂に終わったものの、荊軻は人々に英雄化され、柱に突き刺さった刀子が神仙への導きとされるようなシンボルとなり、この構図が多くの墓室に使われるようになった。

【2】乙巳の変と荊軻の秦王暗殺未遂事件
 司馬遷はこの事件の全容を細部にわたって記している。そこに次の下りがある。秦王との謁見の際に荊軻と同行した秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると荊軻は「北方の田舎者故、天子の前にて恐れおののいています」とごまかした、とある。これに似た話が日本書紀にある。
 乙巳の変では、上表文を読み終わろうとする倉山田麻呂は子麻呂がなかなか出てこないので恐ろしくなり、声も乱れて震えた。それを蘇我入鹿が怪しんでとがめると、「天皇のおそばに近いので恐れ多くて汗が流れて」と言い訳をする。この様子の描写が似ているという指摘は、ネットブログにもあるが、他にも刀子を持ち込むために献上する地図に巻いていたのが、乙巳の変では箱に入れられている。どうも日本書紀の乙巳の変の主要な部分は、この秦王暗殺未遂から取り込んだようである。すると入鹿殺害の描写は、重要人物の殺害はあったとしてもその多くが作り話とも考えられる。中大兄は長い槍をもって待ち構え、鎌足も弓矢を持っているなど、どうして宮中でできるのだろう。子麻呂等は水をかけて飯を飲み込むも吐き出すというが、これから人を斬りつけようとする直前に食べ物を口に入れるなど考えにくく、緊迫感を演出するためだったのか。
 それにしてもなぜ秦王の暗殺未遂事件を参考にしたのか。これは蘇我入鹿の殺害を企図した側が、当時絶大な権力を持って憎まれていた秦王のイメージと重ねていたのではないか。この事件を契機に秦は燕を滅ぼすことになる。そして燕の人々は迫害されて倭の地に逃げ延びた祖先の末裔かもしれない。乙巳の変の場面は、この秦王暗殺未遂の説話だけでなく、より完全な物語にするための工夫をしている。書紀の岩波注にも類似が指摘されているが、蘇我馬子が崇峻天皇の殺害を目論んだ際に、東国調(あづまのみつぎ)をでっち上げている。「馬子宿禰、詐群臣曰(まえつきみをかすめていわく) 今日、進(たてまつる)東國之調。乃使東漢直駒(やまとあやのあたひこま)(しい)于天皇』。これを利用して、入鹿を招くために三韓調(みつのからひとみつき)なるものを設定したのであろう。さらには入鹿殺害を失敗させないために、神話も参考にされているようだ。
三角帽古墳壁画
ユーラシア三角帽

 注1.三山冠 福岡県五郎山古墳絵画の人物に、頭に荊軻の三山冠と同様のものが描かれ、  右手を大きく上げて、左は腰に当てているので、相撲力士の表現にもとれるが、頭に三本角冠帽ともいわれるものが表現されている。突厥の石人などにも見られる。
参考文献 楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017

高松塚絵画
⑴日本書紀の打毱(だきゅう)
 2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという。直径4.8~5.3センチで、直径約3センチの平らな面もあったという。分析した奈良文化財研究所の小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」とのことだ。共同通信によるものでいずれもこの記事以上の説明などはない。しかし、この打毬が実際に行われていたとするなら、気になる問題が生じる。
 記事では「打毬」だが日本書紀では漢字が異なり、「打毱」とされ「まりく」と訓みがふられている。そしてこの「打毱」は日本書紀には皇極紀の一か所に登場するだけだ。その箇所は、かの中大兄と中臣鎌足が懇意となるシーンである。すると飛鳥時代にはこの遊戯があったのだろうか。だがそれでは中大兄は馬に乗ってポロをしていたことになるが、書紀の記述からはそのようには考えにくい。この打毬にはポロだけではなく、ホッケーのような意味もあるようだ。高松塚古墳の壁画の男子像にはこのホッケーのストックを持つ人物(右端)が描かれている。関西大学博物館の解説では「鞠打ち遊技の毬杖(ぎっちょう)」とある。遊戯を楽しむために、被葬者といっしょにお伴が用具を持って遊行に出かけるところを描いたのかもしれない。中大兄も打毱というホッケーを楽しんでいたところに、ちょうど居合わせた鎌足が、飛んできた履(くつ)を拾ったということであろうか。だがこれはどうも他の説話を参考にした創作のようである。

⑵新羅王の説話が参考にされた乙巳の変
 書紀に書かれた乙巳の変の多くの記事が史実ではないとの疑問や指摘は早くからあった。注1 この中大兄と鎌足の場面は新羅武烈王である金春秋が蹴鞠を楽しんでいた際の説話からのようだが、ここでいう蹴鞠は、全国の神社の祭事などで行われる空中に蹴り続ける蹴鞠ではなく、サッカーに近い対抗戦式の球技であったようで、それは中国で始まったもののようだ。この蹴鞠に興じていた際に、配下の金庾信はわざと金春秋の衣の紐を踏み破って、すかさず自分の襟の紐を裂いて裾を縫わせる。しかし先に姉に頼んだが本人が辞退したので妹に縫わせる。それが縁で後に金春秋は妹の文(ぶん)姫(き)を后にする。一方、鎌足の発案で中大兄は蘇我石川山田麻呂の姉を娶るはずだったが、誘拐されてしまったので代わりに妹を娶ることになる。金春秋は孝徳紀に人質として来日しており、その記事によく談笑する、とあるので、この后とのきっかけの話は酒の席などで語られていたのだろう。それを書紀編者は利用したとも考えられる。だがこれは蹴鞠であって打毬ではない。日本でいつから雅な蹴鞠が始まったのか定かではなく、サッカーのような蹴鞠があったのかもわからないようだ。日本書紀では、露骨に新羅の説話を丸写しにするのを憚って、繕うことを断った姉の話が誘拐されたとしたり、当時の日本に先に伝わっていた打毬にしたのではなかろうか。

⑶原文改定された誤った解釈
 鎌足の伝記である『大織冠伝』は、その多くは日本書紀に沿って著述がされているが、この中大兄が興じていた打毱は、蹴鞠とされている。これはホッケーのような球技では履は飛ばないと考えたのであろう。そして日本書紀の現代語訳の宇治谷孟氏なども、ここを蹴鞠とされている。だがこれは恣意的な原文改定である。そしてこの場面の蹴鞠は、現代の共通認識としての雅な蹴鞠とされる。新羅の説話の蹴鞠はあくまでサッカーのようなものだが、伝記の作者である藤原仲麻呂はおそらく、毬を空中で蹴り続ける雅な蹴鞠こそ履が飛ぶことになると考えたのではないか。現代では、この雅な蹴鞠で中大兄の履が飛んだと当然のように説明され、まことしやかなイラストも描かれている。だがこれは史実でも何でもない。雅な蹴鞠は八世紀頃からと考えられている。乙巳の変にかかわる説話の多くが作り話であることの一端を示すものであるのだ。
  (「古田史学の会『九州王朝の興亡』2023」掲載のものを一部改定したものです)

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。

参考文献
「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
塩見修司「『万葉集』古代の遊戯」 『唐物と東アジア』所収 勉誠出版2011
山田尚子「黄帝蚩尤説話の受容と展開」『東アジアの文化構造と日本的展開』所収 北九州中国書店 2008
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997
図 「高松塚古墳壁画」のイラストは関西大学博物館壁画再現展示室

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