⑴日本書紀の打毱(だきゅう)
2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという。直径4.8~5.3センチで、直径約3センチの平らな面もあったという。分析した奈良文化財研究所の小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」とのことだ。共同通信によるものでいずれもこの記事以上の説明などはない。しかし、この打毬が実際に行われていたとするなら、気になる問題が生じる。
記事では「打毬」だが日本書紀では漢字が異なり、「打毱」とされ「まりく」と訓みがふられている。そしてこの「打毱」は日本書紀には皇極紀の一か所に登場するだけだ。その箇所は、かの中大兄と中臣鎌足が懇意となるシーンである。すると飛鳥時代にはこの遊戯があったのだろうか。だがそれでは中大兄は馬に乗ってポロをしていたことになるが、書紀の記述からはそのようには考えにくい。この打毬にはポロだけではなく、ホッケーのような意味もあるようだ。高松塚古墳の壁画の男子像にはこのホッケーのストックを持つ人物(右端)が描かれている。関西大学博物館の解説では「鞠打ち遊技の毬杖(ぎっちょう)」とある。遊戯を楽しむために、被葬者といっしょにお伴が用具を持って遊行に出かけるところを描いたのかもしれない。中大兄も打毱というホッケーを楽しんでいたところに、ちょうど居合わせた鎌足が、飛んできた履(くつ)を拾ったということであろうか。だがこれはどうも他の説話を参考にした創作のようである。
⑵新羅王の説話が参考にされた乙巳の変
書紀に書かれた乙巳の変の多くの記事が史実ではないとの疑問や指摘は早くからあった。注1 この中大兄と鎌足の場面は新羅武烈王である金春秋が蹴鞠を楽しんでいた際の説話からのようだが、ここでいう蹴鞠は、全国の神社の祭事などで行われる空中に蹴り続ける蹴鞠ではなく、サッカーに近い対抗戦式の球技であったようで、それは中国で始まったもののようだ。この蹴鞠に興じていた際に、配下の金庾信はわざと金春秋の衣の紐を踏み破って、すかさず自分の襟の紐を裂いて裾を縫わせる。しかし先に姉に頼んだが本人が辞退したので妹に縫わせる。それが縁で後に金春秋は妹の文(ぶん)姫(き)を后にする。一方、鎌足の発案で中大兄は蘇我石川山田麻呂の姉を娶るはずだったが、誘拐されてしまったので代わりに妹を娶ることになる。金春秋は孝徳紀に人質として来日しており、その記事によく談笑する、とあるので、この后とのきっかけの話は酒の席などで語られていたのだろう。それを書紀編者は利用したとも考えられる。だがこれは蹴鞠であって打毬ではない。日本でいつから雅な蹴鞠が始まったのか定かではなく、サッカーのような蹴鞠があったのかもわからないようだ。日本書紀では、露骨に新羅の説話を丸写しにするのを憚って、繕うことを断った姉の話が誘拐されたとしたり、当時の日本に先に伝わっていた打毬にしたのではなかろうか。
⑶原文改定された誤った解釈
鎌足の伝記である『大織冠伝』は、その多くは日本書紀に沿って著述がされているが、この中大兄が興じていた打毱は、蹴鞠とされている。これはホッケーのような球技では履は飛ばないと考えたのであろう。そして日本書紀の現代語訳の宇治谷孟氏なども、ここを蹴鞠とされている。だがこれは恣意的な原文改定である。そしてこの場面の蹴鞠は、現代の共通認識としての雅な蹴鞠とされる。新羅の説話の蹴鞠はあくまでサッカーのようなものだが、伝記の作者である藤原仲麻呂はおそらく、毬を空中で蹴り続ける雅な蹴鞠こそ履が飛ぶことになると考えたのではないか。現代では、この雅な蹴鞠で中大兄の履が飛んだと当然のように説明され、まことしやかなイラストも描かれている。だがこれは史実でも何でもない。雅な蹴鞠は八世紀頃からと考えられている。乙巳の変にかかわる説話の多くが作り話であることの一端を示すものであるのだ。
(「古田史学の会『九州王朝の興亡』2023」掲載のものを一部改定したものです)注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。
参考文献
「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
塩見修司「『万葉集』古代の遊戯」 『唐物と東アジア』所収 勉誠出版2011
山田尚子「黄帝蚩尤説話の受容と展開」『東アジアの文化構造と日本的展開』所収 北九州中国書店 2008
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997
図 「高松塚古墳壁画」のイラストは関西大学博物館壁画再現展示室