流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

ヤマトタケル

景行紀の不自然に間隔のあいた記事の違和感   つくられた万世一系⑶

埴輪武人
                     群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪

 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開化、成務も同じく60年である。たまたまなのか、いやひょっとすると、計算がしやすいように干支の一運の60年に合わせたのかどうかはわからないが。
 その景行の年齢もさらにおかしなところがある。垂仁37年に皇太子となり、21歳とある。垂仁15年に日葉酢媛が第一に景行を生む記事と合うのだが、垂仁が99年崩御で翌年に景行が即位するのは63年後の84歳。景行紀60年で崩御なので、21+63+60で144歳のはずが、書紀は116歳と記す。実は古事記では景行は137歳となっている。なんらかのミスがあったのであろう。
 この天皇の長寿も、二倍年暦だと58歳であり、在位年も30年なら、景行は28歳で天皇に即位したことになり、断定はできないが不自然ではない年齢とはなる。だが、書紀の編者は、通常の年暦で編纂を行っているから、こういった長寿の天皇の記事では、どうしても辻褄を合わせるための無理な紀年の記事が現れる。

 景行紀では、28年の記事の次が40年と12年もあいている。しかし、この両者の記事は、12年の時間の差があるとは思えない記事となっている。ヤマトタケルは景行紀28年に熊襲征伐を行う。その次の記事は40年となり、東夷の征伐を命じられ、絶命するまでの長い物語が続いている。その際のヤマトタケルの台詞は、「熊襲既平(熊襲すでにたいらぎて)、未經幾年(いまだいくばくの年もへずして)、今更東夷叛之(いままたひむがしのひなそむけり)・・」といって東国に向かうのだから、「いくばくの年」が12年とは奇妙である。
 書紀継体紀にも「幾年」が使われている。継体6年夏4月「況爲異場、幾年能守」(〔任那四県を百済と切り離しておいたのでは〕何年ともたない)とあるように、数年のこととなる。ヤマトタケルの場合は本当は翌年あたりの記事ではなかったであろうか。これは、60年と長い景行紀の記事を引きのばして埋めていく際に、間隔のあく年代を設定する箇所を間違えて、連続するような記事の中を離して、12年も伸ばした年代に設定してしまったのではないだろうか。  
 他の天皇記事にも見られることだが、本来、天皇が主役の記事であるはずが、天皇以外の記事が多く見えることも奇妙であり、景行紀においても天皇よりもヤマトタケルが主役のような扱いの記事が、差し込まれたようにみえることからも、日本書紀の万世一系には疑問が生じるのである。

ヤマトタケルのひどすぎる殺害方法の意味

 
馬の犠牲

 スサノオの奇妙で乱暴な行為の数々は、北方騎馬遊牧民にとっては普通の習俗であることを、山口博氏は明らかにしている。(こちら) 他にも同じように日本書紀や古事記には、騎馬遊牧民ら大陸の文化で見ないと理解できない記述がいくつも見受けられる。
 古事記のヤマトタケルの記事にも、通常では説明しがたい記述も、上記の視点ならば理解できるものがあるのではないか。
 兄の大碓命を便所で待ち伏せし手足をもぎ取って投げ捨てるという説話は、ヤマトタケルの残虐性を示すものだが、さらには熊襲兄弟の征伐も、かなり残酷な殺害描写となっている。西の方の熊襲兄弟の討伐を、ヤマトタケルは父の景行天皇から命じられる。叔母のヤマトヒメからもらった衣装で女装して、敵地の宴席に入り込む。女性と思って油断した熊襲兄弟の兄のタケルの胸を刺す。驚いて逃げようとした弟を「取其背皮、劒自尻刺通」(その背の皮をとらえて、剣を尻から刺し通した)とある。
 この箇所については、小学館の解説でも理解しにくいところとする表現である。背中の皮を取るというのも奇妙だが、尻から突き刺すというも疑問。心臓を刺さないと致命傷にはならないであろう。これはスサノオが馬の皮を屋根の穴から投げ込む場合と同じく、馬の犠牲行為のことであって、だから背の皮を取るという表現になる。図では、竿のような木にお尻から串刺しにして祀っているのである。スキタイ系の遊牧民は馬を屠り竿にさしてテングリ(天上の神)に捧げるという。
 さらに兄の熊襲タケルを切り裂く表現として、「卽如熟苽振折而殺也」とあり、「熟瓜」を裂くように切り殺したというのはどうであろうか。この箇所の講談社文庫の解説には「ヲウスノ命(ヤマトタケルのこと)の粗暴性と剛勇ぶりを、人形劇でも見るように痛快に描き出した・・・」とある。しかしこれは納得できない。この瓜は解説ではまくわ瓜のこととされている。片手でつかめる程度の瓜を切ってもいささか迫力に欠ける。
 あくまで想像ではあるが、私はこの瓜は西瓜のことではないかと思う。アフリカが原産のようだが、エジプトから西アジアでは早くから利用され、砂漠の民の水瓶(みずがめ)ともいわれるように水分補給に欠かせない物であり、皮も調理されて食されるなど、貴重な自然の産物である。人をスイカ割のように切るなら、リアリティが感じられ、その粗暴性が見事に表現されたということになるのではないか。ただ残念ながら実の赤い西瓜は、品種改良の結果であって、当時は、緑や黄色であったので、古事記の執筆者は、割った西瓜から真っ赤な血がほとばしる、とまでの想定はしていなかったであろうが。人を切る行為を、大きな西瓜を断ち割るという表現にしたかったのではないか。そして日本の古代に西瓜が早くから入ってきたわけではないので、熟瓜と表現したのではないだろうか。このヤマトタケルの説話は、騎馬遊牧民の犠牲行為や西方の食べ物を利用して描いたと考えられる

図は、坂井弘紀「英雄叙事詩とシャマニズム」ネット掲載 より

京都古代史講演会 11月3日(金)お知らせ

市民古代史の会京都 秋の講演会のお知らせ  済 ありがとうございました。
2023年11月3日(金)祝日の日です。12時40分開場 13時開始
 服部静尚さんは、「王朝交代の真相」の講演です。平城京の大和朝廷は、7世紀末の前王朝にとってかわったものなのです。この歴史の真実をぜひお聞きください。ブログ主は火打石をテーマに話をします。お気軽にご参加ください。
11.3京都