流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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 史君墓石堂 複製 陝西省西安市より出土579年に亡くなった史君と妻の康氏(ソグド語ではウィルカークとウィヤーウシー)ために造られた精緻な浮彫が見事な石堂。いわば豪華な家形石棺と言えようか。

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 正面入り口の上部にある銘文は、ソグド語で記されたもの。

石堂正面
 入口の左右には、半人半鳥の神官が、火の祭壇の前で儀式を行う様子が描かれている。楽器(琵琶やハーブ、笛など)を演奏する人たちもいる。

石堂背面
 左側面と裏面には、生前の夫妻の暮らしぶりが描かれている。もちろん裏側は見えないが、その図が図録にあり転載させていただく。(図をクリックしていただくと拡大して見れます)史君は薩保の台形のフェルト帽を被ったり、鳥翼冠を載せていることもある。これだけの立派な石堂であることからも、ソグド人キャラバンのリーダーであり、胡王であったといえる。

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 そして、右側面も重要なのだが、夫妻が渡ろうとするチンワット橋の場面が描かれている。展示室の壁とのすき間から、斜めに見るしかないので、図も掲載して、簡単に説明する。

史君墓チンワト橋
 石槨(石堂)の東壁に、故人の魂がチンワトの橋の上を進んでいく様子が描かれている。右下に二人のゾロアスター教の祭司がバダーム(マスク)をつけて橋の方を向いて立っている。そこで使者の魂を来世に送る儀式をとりしきる役割だという。史と彼の妻が行列を率いて橋を渡っている。あとに子供と馬2頭、ラクダなど動物が続く。重要なのは史と妻が橋の下にいる牙をむき出した怪物を無事にやりすごしたことにある。
 ゾロアスター教の教えによれば、真実を話し、正しい行いをした者だけが、無傷で向こう岸まで渡れる。そうしなかった者は、橋がどんどん狭まって刃1枚ほどになり、最後は下に落ちて死んでしまうという。この話、何か似たものが・・・
 松本清張氏も言及しているので、引用させていただく。
「死んで四日目になると死者の魂は『チンワットの橋』のたもとまで風に運ばれ、アフラ・マズダ神によって生前の行為を秤にかけられる。悪なる魂は橋の下にひろがる地獄へ落され、善なる魂は橋の向こうの天国へ行く。どちらにも行けない魂は、天国と地獄の間にあって最後の審判の日まで待たねばならない。
 ゾロアスター教(拝火教)は中国に入り祆教となり、密教では護摩、東大寺二月堂の修二会の松明、鞍馬の火祭り、民間行事のどんど焼きなどになる。
 またゾロアスター教の『チンワットの橋』の裁きは仏教に入って閻魔大王の裁判、キリスト教の『最後の審判』に変化する。」(松本1990)
 そう、嘘をつけば下を抜かれる閻魔様と三途の川の話の元となるものではないか。半島に胡僧が仏教を伝えたというが、日本にもソグド人が、仏教にゾロアスター教やマニ教などの要素含めた宗教文化を伝えっていったのではないだろうか。

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 正面の階段の左右にも人物が描かれている。泣く人の表現が見られ、なにやら、人の顔にもみえるが体つきは動物?を囲むように悲しんでいる様子も両側にみられる。説明がないので想像だが、この造形は、おそらく人面鎮墓獣かもしれない。一対の鎮墓獣を墓に副葬する習慣が北魏の時代から唐まであったようだ。そういえば武寧王陵からも鎮墓獣が出土している。

江田船山古墳石室
 最後に、このような立派な石堂は日本に例はないが、これも想像ではあるが、熊本県の江田船山古墳の石室は、墓室と棺を兼ねたようなもので、この石堂のイメージで渡来工人が簡略化して作ったものと思っているが、どうであろう。
 まずは、直接ご覧いただいたらと思う。

参考文献
ヴァレリー・ハンセン『図説シルクロード文化史』田口未和訳 原書房2016
松本清張『過ぎゆく日暦』新潮社1990
大シルクロード展図録 発行東京富士美術館

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駱駝さんがお出迎え。本物、というか剥製。名前が付いてます。
中国の敦煌研究院から東京富士美術館創立者の池田大作氏に寄贈されたものだそうです。

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生きてるようにみえます。体毛はけっこうふさふさです。これを見ると、「田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった」で説明しました、『漢書』司馬相如伝下の顔師古注にあります「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」の毛車こそは、毛だらけの乗り物で駱駝のことだと実感できます。

大シルクロード展は2025年2月2日(日)まで開催
京都文化博物館:京都市中京区高倉通り三条上る東片町623-1
開室時間 10:00〜18:00(金曜日は19:30まで)入場料一般1600円
休館日 月曜日(1/13は開館)、12月28日(土)~1月3日(金)、1月14日(火) 
主催 京都府、京都文化博物館、中国文物交流中心、毎日新聞社、京都新聞、MBSテレビ

 実は、なんと、会場に入ってからわかったんですが、撮影OKなんです。事前に知ってたらカメラ持っていったのに、と思いましたが、携帯で撮りまくりました。でも・・・図録の方がとても綺麗。(^_^;) それに、こまかい器物が多く、拡大されたものが見れますのでなおさらです。
 平日に行きましたが、それでもたくさんのご来場。高校生たちが、レポート用紙を持って懸命に美術課題?に取り組んでいました。
 大きなシルクロードの遺跡マップの前で、老夫婦が指で示しながら長いこと語り合っておられたのが印象的。きっと以前にご旅行されたんでしょうね。
 
 入口で音声ガイドを650円で利用しました。石坂浩二さんのナレーションですから、当然、雰囲気出ます。少々高いですが。
 では、ほんの一部を私の拙い写真でご紹介します。

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瑪瑙象嵌杯 5~7世紀 ウイグル自治区 金と瑪瑙  虎がついてます。

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マニ教ソグド語の手紙  ソグド語は縦書きで日本語みたいだが左から右に読むところが違います。彩色の絵の中央は金箔。

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草花文綴れ織り履  砂漠化したニヤ遺跡で1~5世紀頃のミイラとなった被葬者のものですが、複製ではなく色の鮮やかさが残っているのがすごい。

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史君(しくん)墓石堂 複製品 元は北周大象2年(580)ソグド人の墓から見つかったもの。ソグド語の銘文があり夫妻のために造られたもの。浮彫が見事です。 

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車馬儀仗隊  後漢1~3世紀 青銅  馬が曳く車の構造もよくわかります。

男子跪坐像
男子跪坐像  青銅 サカと呼ばれた民族か。尖り帽子が特徴

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樹下美人図  唐8世紀 正倉院の鳥毛立女屏風の女性とそのスタイルなど似ています。

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女子俑 唐8世紀 三彩、加彩  当時の女性の最先端のファッションがうかがえるとか。履の先が上に反っているのも注目です。

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駱駝 唐8世紀 三彩 こぶの間に獣面文の革袋、荷物が詰まっています。

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下からのぞくと大きな穴が。中は空洞なんですね。

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騎馬胡人俑  唐7~8世紀 三彩、加彩  ひげをたくわえたソグド人

胡人俑  いずれも唐7~8世紀 三彩、加彩  頭に山高のフェルト帽

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連珠対鹿文錦帽子 7~9世紀 文様はわかりにくい。つばに35本の絹布が垂れ下がってますが、用途は不明。見学者からかぶったら前がじゃまではとの声も上がってました。

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巨大なシルクロードの風景パネルも雰囲気が感じられていいですね。

 また、後日紹介していきます。



漢語名マップ
 カスピ海の東隣りのアラル海から東南方向に、ソグド人のホーム・グランドである二十余国の都市国家からなるソグディアナがあった。彼らには、漢文史料によると出身地別に漢語の姓が付けられて、何世代にも用いられ続けていたという。ソグド人の中国姓で出身地がわかるというのである。以下はその都市国家名。
 タシケント=石国、ウスルーシャナ=東曹国、カブーダン=曹国、イシュティハン=西曹国、マーイムルグ=米(マイ)国、サマルカンド=康国、クシャーニーヤ=何(カ)国、シャフリサブズ=史国、カルシ=小史国、ブハラ=安国、パイカンド=畢(ヒツ)国、メルヴ=穆(ボク)国、ナサフ=那色波(ナシキハ)国
 他に現地名不明の烏那曷(オナナン)国。 
 またタラス、ホジェンド、ザンダナなどは漢字表記は不明。
 さらに近年の中国でのソグド人墓の発見でその史料から、虞(グ)国、恵国、翟(テキ)国、魚国、羅国、また隋書、新唐書から場所は不明だが、火尋(カジン)、戊地などもあった。(山口2023)
 『大唐西域記』颯秣建国(サマルカンド)条にすべての胡国の中心とあるので、サマルカンドの康国が盟主国であったようだ。
 漢語姓をもったソグド人では、安史の乱(760年平定)の安禄山と史思明は有名。上記の国名の姓が必ずしもソグド人を示すとは限らないが、今後の研究でさらに明らかになっていくであろう。なかには日本にもやってきたソグド人も少なくないと考えられる。鑑真の渡海に随行した安如宝だが、これは8世紀のことだ。私は、もっと早くから渡来してきたソグド人がかなりいるのではないかと考えている。
 たとえば韓国の研究者には、古事記の太安万侶は百済の史家の安万呂アン・マンリョ(金1972)という意見もある。当ブログでは、山口博氏の著書などを参考に、古事記、日本書紀に大陸文化の影響が多くみられることを述べているが、その執筆、編集にソグド人が関わっているのではと考えている。また、7世紀よりももっと早くから、彼らはやって来たのではないか、日本の政治文化に影響を与えることがあったのではないかと想定している。まだまだ確証となるものはなく、妄想のようなものかもしれないが、その痕跡といったものを探っていきたいと考えている。

参考文献
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史第5巻)講談社学術文庫2016 
山口博『ソグド文化回廊の中の日本』新典社2023
金逹寿『日本の中の朝鮮文化 3 近江・大和』講談社1972
※図は森安孝夫『シルクロードと唐帝国』による

楽団俑
 ソグド人の研究が進んでおり、この集団の果たした歴史的役割が浮き彫りにされてきている。わずかだが、そのほんの一部を抜粋させていただく。

  森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』中公新書2023 より
「最近、隋唐革命が成功した別の要因も明らかになってきている。それは隋末から唐初の世情が不安定で、各地に群雄が割拠し、先の見通しがたちにくい時期に、率先して李淵集団に協力したグループがいた。
 ソグド人たちは、北魏から北斉、北周にかけて、河西回廊から黄河流域へ積極的に進出し、各地にコロニー(植民聚落)をつくっていく。この時期に河西回廊の武威(甘粛省)や固原(寧夏回族自治区)、西安(陝西省)、太原などには、ソグド人のコロニーがあった。こうしたコロニー在住のソグド人と、ソグド本土からやってくるソグド商人とが協力しながら、中国の物産(おもに絹)を買い求め、交易活動をおこなっていた。隋末の群雄割拠の混乱時期に中国を安定させてくれる群雄に協力。それが李淵だった。李淵が挙兵した太原には、ソグド人のコロニーが存在、李淵挙兵の際、この太原のソグド人コロニーの住民が兵士として組織化され、これを中央アジア出身のトカラ人である龍潤なるものが率いて、李淵に従っている。太原の南にある介州は、李淵が太原から大興城へと進軍するルート上にあり、ここにもソグド人コロニーがあった。この地のソグド人の曹怡が、李淵の挙兵に呼応し、その軍に従っていることが、「曹怡墓誌」(2010公刊)から明らかに。現在の介州には、この地にいたソグド人が信仰していたゾロアスター教寺院の遺構が「祆神楼」という名で残っている。」
 こういった状況がすすみ、李淵に帰順する勢力が一層強固になっていったのである。

 『岩波講座世界歴史6中華世界の再編とユーラシア東部4~8世紀』(岩波書店2022)より
「唐の初代皇帝高祖李淵は遊牧民の軍事力を借りるために突厥の可汗に臣属したほか、国内でも宗教勢力や匈奴・ソグド人などの諸集団と連携し、10年ほどの間に各地の割拠勢力を平定、その動きの中心が次男の秦王李世民。兄弟を殺害して第二皇帝に即位。注目されるのは、側近の一人で庫真となっていたソグド人の武力援助があった。この庫真あるいは親信は『家人(家奴)』とともに皇帝の側近集団をなし、律令に規定された『公』の官員とは比較にならない親密な関係が皇帝との間に構築された。」
※「庫真」は鮮卑語であるとされ、北朝から唐初期の文献・石刻に見られる称号ないし官職。(田熊 敬之)

 ごく一部の例だが、唐建国とソグド人の深い関係が明らかになりつつある。さらに、唐の経済的文化的発展にも寄与している。
 「唐代の対外全面開放政策にのって、唐王朝の全盛期・長安の春を演出したのは、西方五十か国を越える国々の物産を長安に運び、また、長安の絹、漆器、宝石、薬品などを西方の国々へともたらしたソグド人だったということが判ってきました。」(中村清治「シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国」新潮新書2021)

 しかしこのような繁栄は、755年の安史の乱によって終焉する。父がソグド人の安禄山、ソグド出身といわれる史思明の二人による反乱が8年後に終息。ソグド人への弾圧、殺戮、粛清が行われ、姿を消していった。ただ、周辺国、渤海国などでは活動を続けていたようだが、シルクロード交易は衰退していった。

 7世紀末の倭国の王朝交代においても、同じように、表舞台には現れずとも一定の財力や情報網を持つ集団が、新政権への支援を行っていたのではないかと想像している。

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