【3】スサノオに気づかなかったヤマタノオロチ
有名なオロチ退治の説話も、実はよく考えれば奇妙な点がある。スサノオはクシナダヒメを櫛に変えて髪にさしてオロチに臨む。やってきたオロチは捧げられた酒を飲みほして酔いつぶれる。そこをスサノオが斬りつける。めでたしめでたしのお話のようであるが、ここに異論を唱える研究者は、江戸時代からあったようだ。(注2)
これは山口博氏の指摘だが、その場にめざす人身御供の娘の姿がなく、かわりに髭面で剣を持つ男が控えていれば、オロチは怒り、酒も飲まずに暴れるのではないか。もっともな指摘であろう。そこで日本書紀の本文の該当箇所を見直したい。まずは原文。
素戔嗚尊、立化奇稻田姬、爲湯津爪櫛、而插於御髻
次に岩波文庫版の書き下し
スサノオノミコト、立(たちなが)ら奇稻田姬を、湯津爪櫛に化為(とりな)して御髻に挿したまふ。
そして指摘され、改められた解釈。
スサノオは立らクシナダヒメに化(な)して、湯津爪櫛を爲(つく)りて御髻に挿したまふ。
以上のように、化は姫に、為は櫛に対応すると見るほうが自然である。通常の解釈の「化」と「為」をくっつけて「化為」という熟語にするのは無理がある。するとスサノオは自らが姫に姿を変えたのであり、クシナダヒメを櫛に変えるというのが奇妙な解釈であったことになる。さらに岩波や小学館は、原文を掲載しているが、この該当箇所では、返り点が本文の読み下しとは違っているのである。この原文の返り点に従えば、スサノオは、姫に変身(女装)して、櫛をつくって、みずらに挿した、と読めるのである。
次に古事記の場合を見ると、その該当箇所の文面は微妙だ。
爾速須佐之男命、乃於湯津爪櫛取成其童女而、刺御美豆良
すなはちゆつ爪櫛にそのオトメを取り成して、御みづらに刺して とされている。確かにそのように読める。ここに「取成」があるが、日本書紀には登場しない熟語である。古事記ではあと一カ所、タケミカヅチとタケミナカタの対決の所で2回使われる。
卽取成立氷、亦取成劒刄
タケミナカタがタケミカヅチの手を取ると、その手が、つららに変化し、また剣に変化したというのである。取るという漢字にまどわされるが、「取成」は変化、変身するという意味である。
しかし、日本書紀と同じように、姫を櫛に変身させるというのも奇妙な話であり、この古事記の箇所も、「於」を「…を」とすれば、スサノオは、櫛を、オトメに変身して、みずらに挿した、と読めるのではないか。古事記の場合は、誤字脱字など後の誤写の可能性もあるが、日本書紀では、後の誤読による解釈が広まったと言える。すなわち、ヤマタノオロチは、スサノオの変身である人身御供の女子を前にして、何の疑いもなく気分よく出された酒を飲み干すのである。
山口博氏は、ここで江戸時代の川柳を紹介されている。
『神代(かみよ)にもだますは酒と女なり』
【4】何度も使われた相手を欺いて目的を達する手法
この手法は景行紀にヤマトタケルによる熊襲国の川上梟帥(カワカミノタケル)を殺害する説話にも使われている。酒宴の席に女装してもぐり込んだヤマトタケルを、カワカミノタケルは気に入って横に侍らせて酔いつぶれてしまう。そこをヤマトタケルは隠し持った剣で相手の胸を刺すのである。
また、女性なのか女装なのかが微妙な事例もある。神武紀の道臣命(ミチノオミノミコト)は、残党を討ち取るために、酒宴を設けて敵を招き入れる。宴もたけなわになると、道臣本人が立って舞うことを合図として一斉に襲撃する。この道臣は神武の頼もしい片腕として行動する武人として描かれている。だが酒に酔った相手に、男が舞っても盛り上がらないであろう。道臣も女性だったのだろうか。この一節の前に、神武が道臣を厳媛(イツヒメ)と名付けているのである。岩波注では、神を斎祀する者を斎主といい、これは女性の役であったから、イツヒメの名が与えられた、というやや苦しい解説になっている。女装して神事を行うというのであろうか。すると道臣は女装していた、もしくは女性として酔った男どもの気を引くような舞を行ったと考えられる。
さてこういっただましの手法は、似た例が大陸に見受けられる。ヘロドトスの『歴史』によれば、西アジアのメディア王キャサクレス(BC625~585)とスキタイとの抗争で、キャサクレスはスキタイを宴会に招いて酒に酔わせ、彼らの大部分を殺害したという。遊牧騎馬民はこういった相手を欺く戦法をよく使ったようだ。形勢が不利になると逃げるふりをして、追いかけてきた相手に逆襲することがある。逃げながら馬上から振り返りざまに矢を打つことをパルティアンシュートという。彼らにとっては卑怯とかではなく重要な戦法だったのだ。
こういった文化や説話を持つ集団が倭国にも入り、語り継がれた話を知る記紀の編者がいて、いくつもの説話に応用されたのではないだろうか。
(注2)江戸時代伊勢外宮権禰宜の渡会延佳、江戸国学者白井宗因、高崎正秀(続草薙剣考)
※古田史学会報№177掲載のものを一部改定したものです。
参考文献
山口博「創られたスサノオ神話」中公叢書 2012
林俊雄「スキタイと匈奴、遊牧の文明」講談社学術文庫 2017
千葉慶「近代天皇制国家におけるアマテラス」ジェンダー史学 第2号(2006)
津田左右吉「古代史の研究」毎日ワンズ 2022