シュメル神話について書かれた『シュメル神話の世界』には、日本の神話との類似が見られる。既に指摘されているものもあるが、いくつか紹介したい。
1.『エンキ神とニンフルサグ女神』 シュメルの「楽園神話」
大地・豊饒の女神であるニンフルサグ女神が病めるエンキ神(深淵・知恵の神)の治療を行うのだが、病んだ各々の患部から神が生み出される。その部位と生み出された神の名の一部が、しゃれ、すなわち語呂合わせになっているのである。
頭頂部(ウグ・ディリム)→アブ神
毛髪(パシキ) →ニシンキラ神
鼻(キリ) →ニンキリウトゥ女神
口(カ) →ニンカシ女神
喉(ズィ) →ナズィ女神
四肢(ア) →アジムア女神
肋骨(ティ) →ニンティ女神
脇腹(ザク) →エンザク神
頭部のウグとアブで韻を踏んでいるのかわかりにくいが、これは日本語表記に変換するために少し似ていないようになるのかしれないが、他はみな合っているといえる。筆者はシュメル人の遊び感覚とされているが、いつの時代にもこういった駄洒落を楽しむことが行われていたということであり、それが神話の制作過程で折り込まれているのも興味深い。
実は日本の神話でも同じようなケースで、語呂合わせと考えられるものが指摘されているものがある。それが、保食神の穀物、魚類、動物の生成譚となる神話である。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神に命じられて保食神のもとを訪れる。保食神はおもてなしにと、食べ物などを用意するのだが、その食べ物を口から出す様子を見て、汚らわしいと月夜見尊はその場で剣で撃ち殺してしまう。それを知った天照は怒って、月夜見尊とは会わないと宣言する。これが太陽と月が離れて住むようになったという原因譚であるが、その後に天照は、使いの者に保食神の様子を見に行かせると、死体各部から穀物などが生えていたというのである。
「保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。」
(その神の頭に牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていた。)
岩波注には、「これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。以下朝鮮語をローマ字で書くと、頭(mɐrɐ)と馬(mɐr)、顱(chɐ)と粟(cho)、眼(nun)と稗(nui)、腹(pɐi古形はpɐri)と稲(pyö)、女陰(pöti)と小豆(p`ɐt)とである。これは古事記の場合には認められない点で、書紀編者の中に、朝鮮語の分かる人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)」とある。シュメル神話の場合は神の名前の一部を対応させているのだが、遊び心の語呂合わせという点で共通しているといえる。
2.清張も注目した日本書紀にある朝鮮語の語呂合わせ
松本清張氏は『古代史疑』の「スサノヲ追放」の所で、書紀の朝鮮語の問題でこの箇所を取り上げている。そこで清張氏は、上記の注の説明のところで、次のように指摘されている。「朝鮮語の分かる人がいた、という以て回った言い方よりも、朝鮮人じたいがいた、というべきだろう。『記・紀』の編纂には、漢字のわかる朝鮮渡来人がかなり関与していたのである。」おっしゃるとおりである。
古墳の渡来系遺物の説明でも、実に持って回った言い方、すなわち、半島と交流のある人物が受容したものといったお決まりの説明が繰り返されていることを、以前から指摘している。ただ、清張氏は、朝鮮人の関与した資料が各豪族の記録の作成に挿入されて、それらが後に、日本人文官が朝鮮語の意味が分からずに、或いは分かっていても、そのまま使ったのであろうとされているが、私見では、書紀や古事記の編者には、渡来人やその末裔が直接かかわっていると考えている。
なお、ご存知の方も多いであろうが、清張氏にはこの保食神をプロットに、古代史マニアも登場する推理小説『火神被殺』がある。
一方で、この保食神の語呂合わせについては、岩波注では、古事記には認められない、とされている。だがどうであろうか。古事記の場合は保食神ではなく大氣津比賣(おほげつひめ)が口や尻から食物を取り出すので、これも書紀の月夜見尊と違って、スサノオが汚らわしいと殺してしまう。
「所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。」
(殺された神の体から生まれ出たものは、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた)
ここには、たしかに語呂合わせは見られないようだが、書記の場合と比べて部位も生じるものも少し異なっている。
なぜこのような組み合わせなのか、なんらかのこだわりがあったのか、朝鮮語以外の言葉の可能性も含めて解明できたらおもしろいのだが。
ところが古事記には、動物と土地の神の語呂合わせで物語がつくられたとの指摘がある。神武記の熊野山の神は熊に「化」り、景行記の足柄坂の神は鹿に「化」り、同じく景行記の伊服岐能山の神は猪に「化」るのが、熊野のクマ、足柄のシカ、伊服岐能山のイ(ヰ)という音通の語呂合わせによって生まれた動物だという。
熊、鹿、猪という格好の野獣を登場させるための、格好の音通の地名と考えざるを得ないとのことだ。(川副1981)
熊、鹿、猪という格好の野獣を登場させるための、格好の音通の地名と考えざるを得ないとのことだ。(川副1981)
そうであるならば、記紀の説話には遊び心たっぷりの語呂合わせや、なんらかの仕掛けがある逸話がまだまだありそうである。
参考文献
岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中央公論新社2008
松本清張「古代史疑」文芸春秋1974
川副 武胤 「古事記の研究」至文堂1981
図 「シュメル神話の世界」より