流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

シュメル神話

シュメル神話と保食神(ウケモチノカミ)の語呂合わせ  シュメルと記紀神話⑴

シュメル神話
 大いなる女神(左)に拝謁する若い植物女神(右) 山型の椅子に座るニンフルサグ女神は両肩から植物が芽生え、手に穀物の穂を持つ。(円筒印章印影図 アッカド王朝時代BC2334~2154)

 シュメル神話について書かれた『シュメル神話の世界』には、日本の神話との類似が見られる。既に指摘されているものもあるが、いくつか紹介したい。

1.『エンキ神とニンフルサグ女神』 シュメルの「楽園神話」

 大地・豊饒の女神であるニンフルサグ女神が病めるエンキ神(深淵・知恵の神)の治療を行うのだが、病んだ各々の患部から神が生み出される。その部位と生み出された神の名の一部が、しゃれ、すなわち語呂合わせになっているのである。

頭頂部(ウグ・ディリム)→アブ神
毛髪(パシキ)     →ニシンキラ神
鼻(キリ)       →ニンキリウトゥ女神
口(カ)        →ニンカシ女神
喉(ズィ)       →ナズィ女神
四肢(ア)       →アジムア女神
肋骨(ティ)      →ニンティ女神
脇腹(ザク)      →エンザク神
 
 頭部のウグとアブで韻を踏んでいるのかわかりにくいが、これは日本語表記に変換するために少し似ていないようになるのかしれないが、他はみな合っているといえる。筆者はシュメル人の遊び感覚とされているが、いつの時代にもこういった駄洒落を楽しむことが行われていたということであり、それが神話の制作過程で折り込まれているのも興味深い。
 実は日本の神話でも同じようなケースで、語呂合わせと考えられるものが指摘されているものがある。それが、保食神の穀物、魚類、動物の生成譚となる神話である。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神に命じられて保食神のもとを訪れる。保食神はおもてなしにと、食べ物などを用意するのだが、その食べ物を口から出す様子を見て、汚らわしいと月夜見尊はその場で剣で撃ち殺してしまう。それを知った天照は怒って、月夜見尊とは会わないと宣言する。これが太陽と月が離れて住むようになったという原因譚であるが、その後に天照は、使いの者に保食神の様子を見に行かせると、死体各部から穀物などが生えていたというのである。

 「保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。」
 (その神の頭に牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていた。)

 岩波注には、「これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。以下朝鮮語をローマ字で書くと、頭(mɐrɐ)と馬(mɐr)、顱(chɐ)と粟(cho)、眼(nun)と稗(nui)、腹(pɐi古形はpɐri)と稲(pyö)、女陰(pöti)と小豆(p`ɐt)とである。これは古事記の場合には認められない点で、書紀編者の中に、朝鮮語の分かる人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)」とある。シュメル神話の場合は神の名前の一部を対応させているのだが、遊び心の語呂合わせという点で共通しているといえる。

2.清張も注目した日本書紀にある朝鮮語の語呂合わせ
 
 松本清張氏は『古代史疑』の「スサノヲ追放」の所で、書紀の朝鮮語の問題でこの箇所を取り上げている。そこで清張氏は、上記の注の説明のところで、次のように指摘されている。「朝鮮語の分かる人がいた、という以て回った言い方よりも、朝鮮人じたいがいた、というべきだろう。『記・紀』の編纂には、漢字のわかる朝鮮渡来人がかなり関与していたのである。」おっしゃるとおりである。
 古墳の渡来系遺物の説明でも、実に持って回った言い方、すなわち、半島と交流のある人物が受容したものといったお決まりの説明が繰り返されていることを、以前から指摘している。ただ、清張氏は、朝鮮人の関与した資料が各豪族の記録の作成に挿入されて、それらが後に、日本人文官が朝鮮語の意味が分からずに、或いは分かっていても、そのまま使ったのであろうとされているが、私見では、書紀や古事記の編者には、渡来人やその末裔が直接かかわっていると考えている。
 なお、ご存知の方も多いであろうが、清張氏にはこの保食神をプロットに、古代史マニアも登場する推理小説『火神被殺』がある。

 一方で、この保食神の語呂合わせについては、岩波注では、古事記には認められない、とされている。だがどうであろうか。古事記の場合は保食神ではなく大氣津比賣(おほげつひめ)が口や尻から食物を取り出すので、これも書紀の月夜見尊と違って、スサノオが汚らわしいと殺してしまう。
 「所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。」
(殺された神の体から生まれ出たものは、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた)
 ここには、たしかに語呂合わせは見られないようだが、書記の場合と比べて部位も生じるものも少し異なっている。
 なぜこのような組み合わせなのか、なんらかのこだわりがあったのか、朝鮮語以外の言葉の可能性も含めて解明できたらおもしろいのだが。

 ところが古事記には、動物と土地の神の語呂合わせで物語がつくられたとの指摘がある。神武記の熊野山の神は熊に「化」り、景行記の足柄坂の神は鹿に「化」り、同じく景行記の伊服岐能山の神は猪に「化」るのが、熊野のクマ、足柄のシカ、伊服岐能山のイ(ヰ)という音通の語呂合わせによって生まれた動物だという。  
 熊、鹿、猪という格好の野獣を登場させるための、格好の音通の地名と考えざるを得ないとのことだ。(川副1981)

 そうであるならば、記紀の説話には遊び心たっぷりの語呂合わせや、なんらかの仕掛けがある逸話がまだまだありそうである。

参考文献
岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中央公論新社2008
松本清張「古代史疑」文芸春秋1974
川副 武胤 「古事記の研究」至文堂1981
図 「シュメル神話の世界」より

「カチカチ山」に描かれた火打金と火打石  火打金とポシェット⑵

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1.火打石どうしを打っても発火させるのは困難
 まずは、用語の説明をさせていただく。一般的には、火打石を叩いて発火させるものだとされるのだが、これでは少し不正確なのである。火花が出るのは、火打金とされる鉄に焼き入れをして炭素を含ませた鋼が硬質の石との打撃で削られた鉄紛が火花を発生させるのである。火打石の方から火花が出るわけではない。
 その火打石も、メノウや、石英(チャート・フリントなど)といった硬度が高いものが適しており、前回述べたように黒曜石でも火花を出すことはできる。
 さらに、火花を発生させるだけでは火は起こせない。火口(ほくち)という、繊維やシイタケなどを干してほぐしたものに火花で発火させるものが必要となる。そして、これらのセットのことや打撃式発火法を、便宜上、火打、ということにする。この火打は建築用語にもあるのだが、それは発火とは無関係だ。
 この火打を、火打石どうしを打ち合わせることで火花が発生すると思っている人が意外に多くいる。かくいう私も、小学生の時からそのようなイメージを持っていた。はるか昔のことだが、クラスに理科の得意な男子がいて、ある時、火打を持ってきて、教室内で実演して見せてくれることがあった。その時に飛び散った火花を見て驚いたことは記憶にあるのだが、彼が両手にそれぞれ持っていたものが、石と思われるものを打ちあったようにしか理解しておらず、間近でその石を見せてもらったはずが、まったく覚えていないのだ。この不鮮明な記憶もあって、石と石をぶつけて火花を出すものと思い込んでいたのである。
 このような誤解が、絵本の中にも表されている事例がある。民話の「かちかち山」の絵本には、両手に石を持った兎さんが描かれていることがある。冒頭の図にあるように、戦前の絵本には、吉井の火打金と思われるものをリアルに描いているものや、戦後にもきちんと火打金と火打石を区別して描かれたものは多くあるのである。
 さて、火打は石どうしではないと説明してきたが、実は、石どうしでも火花を出すことができる場合があるのである。その石とは、黄鉄鉱である。

2.アイスマンは黄鉄鉱で火を起こしていた。
 今から5300年前ほど前の、イタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷に横たわっていたアイスマンの所持品(埋葬による副葬品との説もある)には注目すべきものが数多く見つかっているが、その中に着火道具があって、腰に付けていたと考えられる袋から、硬質のフリントにキノコを乾燥させた火口もあった。そして少し離れた場所から、黄鉄鉱が見つかっている。このアイスマンが腰に付けていたであろう袋については後述したい。米村でんじろう氏のYouTubeでも、黄鉄鉱を使った発火の様子がアップされている。火花は、打撃と摩擦による鉄紛の溶ける際の反応であるから、黄鉄鉱でも可能なのである。さらにでんじろう氏は、石どうしの打撃でも発火させることは難しいが、火花は発生させることができるという実験も行っておられる。
 それにしても、はるか古代の人たちは、どうやって黄鉄鉱による着火を発見したのであろうか。石器人は、石を叩き割って斧や鏃などを作製する。様々な種類の石を試して、用途にかなう石材を見つけていったのであろうが、その際に、火花が出る石があることに気が付いて瞬く間に広がっていったのであろう。その前には、摩擦式発火法があったと考えられるが、人類はかなり早くから黄鉄鉱による着火法を駆使していたかもしれない。戸外を動き回っていた狩猟採集民にとっては、雨のこともあるから、摩擦法よりは打撃法による着火は便利であったと考えられる。アイスマンの時代よりもっと早くからこの黄鉄鉱が利用されていたかどうかはよくわからない。  
 また火打金の方も、ベルギーで出土した紀元前400年頃のものが世界最古となっているが、それまではなかったとは言い切れない。見つかったのは、あくまで、加工して整えられたものであり、古代の製品化された火打金の原型となるものであって、異なる形での鉄片を火打金として使っていた可能性は否定できない。鍛冶職人たちは、早くから鉄を打てば火花が出ることはわかっていたはずだから、ベルギーの例よりも古くから火打金があった可能性の否定はできない。ただし、鋼となる焼き入れ工程がいつから始まったのかという問題はあるのだが。鉄の発見はヒッタイトによるものが起源とされているが、さらに時代を千年も遡る見解も出されてきており、そうなると、アイスマンの時代から少し後に、火打金による発火を行う人々も混在するようになったかもしれない。

3.シュメル神話に登場する火打石
 世界最古の神話であるシュメル神話には、いくつも興味深いものがあり、火打石も登場している。
 「ルガルバンダ叙事詩」には、エンメルカル王の王子であるルガルバンダの物語が描かれている。まつろわぬ都市アラッタの征討に出かけたが、途中で病に襲われて、山の洞窟に置き去りにされる。やがて回復したルガルバンダは、腹ごなしにパンを焼く場面が描かれている。
 「野営地で兄たちや従者がパンを焼いていたことを思い出したルガルバンダは、洞窟に置いてあった袋から火打石や炭を取り出して、何度も失敗しながらようやく生まれて初めてたったひとりで火を起こし、麦紛を水でこねて丸めて、パンを焼いてみた。」(岡田・小林2008)
 アイスマンと同じように袋に着火道具が入っていたのである。炭もあったというのが面白い。これならパンでも肉でも料理ができる。だが、ここには火打石とあるだけだから、それが、火打金なのか、それとも黄鉄鉱であったのかはわからない。この神話に登場するウルク第一王朝第二代王エンメルカル王の時代はおよそ4800年前となる。アイスマンから500年ほど後の物語となるので、黄鉄鉱と考えたほうがよさそうである。
 だが、火打石がもう一つ登場する「ルガル神話」に困惑させる記事がある。これは戦いの神であるとともに農業神であるニンウルタ神が、山に住む悪霊であるアサグを退治のために配下の「石の戦士ども」を打ち負かす物語だが、そこに、次のような記載がある。
「一方で、火打石はニンウルタに敵対したことから次のように罰せられる。
 私はお前を袋のように裂くだろうし、人々はお前を小さく割るであろう。金属細工師がお前を扱い、お前の上で鏨(たがね)を使うだろう。」
 ここでは、火打石はその名の通りに角を付けるように割られている。また、鏨が現代と同じ炭素鋼であるならば、火打金となる鏨を打つ火打石となる。火打金がシュメルで使われていたと考えられるのではないか。
 神話世界のことであり、史実とは見なしがたいという判断が大方のところであろうが、わずかな可能性を留保しておきたい。

参考文献
J. H. ディクソン「氷河から甦ったアイスマンの真実」日経サイエンス2003.08
藤木聡「発掘された火起こしの歴史と文化」宮崎県立図書館 ネット掲載
岡田明子・小林登志子「シュメル神話」中公新書2008
図は『カチカチ山』 富士屋の家庭子供絵本 昭和2年刊 オークファン様のブログより