ペルシャ帝国を創建したキュロス二世(前559~前530)は征服者であったが、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人などの帰還を許すなど、寛大な政治を行ったようだ。最後は騎馬民族マッサゲタイ遠征で戦死したと伝えられる。イランのパサルガダエ(現代名パーサールガード)に階段状の台の上に切妻形の石造の墓室がある。
後に反乱が続く中、ダレイオス一世によって支配体制が確立する。写真は、ナグシェ・ロスタム遺跡の王墓4基の中のダレイオス一世の墓 左下のレリーフはシャープール一世 ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするシーンとのこと。冒頭の写真の人(松田美緒さん)との比較から、岩壁に彫られたその大きさが窺える。
ダレイオス一世はキュロス二世の家系から王位を簒奪したのだが、自己正当化のためにキュロスの家系とさも近いとするように系図を捏造している。
キュロスシリンダー(円筒碑文)にあるキュロスの家系は、
私はキュロス(二世)、世界の王、偉大な王、正当な王、バビロンの王、シュメルとアッカドの王、(大地の)四つの縁の王、カンビュセス(一世)の息子、偉大な王、アンシャンの王、キュロス(一世)の孫、偉大な王、アンシャンの王、ティスペスの子孫、偉大な王、アンシャンの王、常に王権を(行使する)家族の。
ダレイオスの系図(ベヒストゥーン碑文)は
私の父はヒュスタスペス、ヒュスタスペスの父はアルサメス、アルサメスの父はアリアラムネス、アリアラムネスの父はティスペス、ティスペスの父はアケメネス。
下図は二つの系図を合わせたもの
キュロスの家系にアケメネスの名は無く、両者の系図はティスペスになってやっとつながる。このことから、ダレイオスが自らを正当化するために、アケメネオスの名をはじめて使って、キュロスの家系と一つにまとめる付会、いわばこじ付けを行っているのである。
小林登志子氏は、「『系図』というのは、功なり名とげた人物が、後になって創作していることはよくあることで、日本史でも知られていること」とされる。よくいわれることだが、継体天皇のケースもあてはまるかもしれない。後継者のいない武烈天皇の後に皇位を継いだ継体は、応神天皇五世とのことだが議論は絶えない。王族となれば、相当な規模の作り込みが行われていると考えられる。
小林登志子氏は、「『系図』というのは、功なり名とげた人物が、後になって創作していることはよくあることで、日本史でも知られていること」とされる。よくいわれることだが、継体天皇のケースもあてはまるかもしれない。後継者のいない武烈天皇の後に皇位を継いだ継体は、応神天皇五世とのことだが議論は絶えない。王族となれば、相当な規模の作り込みが行われていると考えられる。
参考文献
小林登志子『古代オリエント全史』中公新書2022
写真は松田美緒さんからの提供 家系図は『古代オリエント全史』より




