
『東日流外三郡誌』を創作した和田喜八郎は、斎藤光政氏の著書『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』に詳しく描かれているように、贋物を歴史的遺物であるかのように相手に信じさせるようなことをいくつも行っている。安部頼時の遺骨は鯨の化石だったのだが、その同じ鯨の化石を津保化族の骨片と別の自著に再利用するようなことを行っている。こういった詐欺的手法を見抜けずに、いとも簡単に信じてしまったのが古田武彦である。既に説明しているように弥生時代の銅鏡のレプリカを、青森で出土したものと喜八郎の言うことを鵜呑みにして自分の論考に記している。(こちら)それが他にもあるのだ。
三内丸山遺跡の六本柱建物については、後出しジャンケンであることを(こちら)で説明しているが、ここでも古田は、喜八郎から提示された石ころを石神、隕石だと信じてしまっている。この点について以下説明する。
三内丸山遺跡の六本柱建物に関して、これが「石神殿」であり、その「石神」は和田喜八郎が所有していた隕石だと古田氏が説明する一節がある。既に説明しているが、もともとの『東日流外三郡誌』には、津保化族は馬で狩りをする人たちと書かれている。それが、なぜか縄文時代の六本柱につなげてしまっているのだ。古田は次のように述べている。
〔わたしはすでに見た。右にのべられている石神たる「隕石」や「化石」が、和田喜八郎氏のもとに蔵されているのを見たのである。喜八郎氏は、ただ「これは隕石だ。」「これは化石だ。」として、わたしにしめしたのみであったけれど、それらこそ実は、往古の「神像」の姿だったのである。〕(古田「新・古代学 古田武彦と共に 2巻 『和田家文書の検証 和田家文書の中の新発見』新泉社1996)
これを古田氏はそのまま信じたようだ。そして、この石神なる隕石が、青森の資料館に展示されているという情報を聞いて古賀達也(現古田史学の会代表)が直接訪れて、これを確認したというのである。(末尾にこの経緯の記事を掲載)この「隕石」を見て「隕鉄」の可能性がある、として、資料館の対応者に詳しい分析を依頼し、資料館側も調査するとの返事をされているのである。
ところが、その後の関連する記事を見ても、この「石」のことが何ら話題になっていなかった。私は、この「石」の調査がされたのかどうか疑問に思ったので、その後の隕石に関する記事、古田史学の会HPや洛中洛外日記でも検索したのだが確認できなかった。そこで、直接、展示されていたという森田村歴史民俗資料館(現つがる市森田歴史民俗資料館)に問い合わせてみると、ほどなく調査していただいた結果の返信があった。
過去の記録を丁寧に調べていただいたようであり、この「石」の分析調査も依頼されていたのである。では、古賀は、自分で依頼しておきながらこのことを忘れてしまったのであろうか。それとも、後日に問い合わせをして調査結果を聞いたが、そのまま意図してか忘れただけなのか不明だが、何ら報告はしなかった、ということなのであろうか。
その内容は、予想通りのものであった。太字は筆者による。
以下全文をそのまま掲載する。
【当時の森田村歴史民俗資料館の日誌等を調べましたところ
インターネット上の「古田史学会報」No.16に当該の文章を寄稿された
古賀達也氏と思われる方は確かに1996年9月に来館されています。
何分にも村時代のことで、専門の学芸員もいなかった時期ですので、
どう対応したか不明の点も多い旨、ご了解ください。
文中の「係の人」は恐らく、石神遺跡の保存調査にも尽力された
地元の個人の方で、1996年当時、資料館の管理にも携わっておられました。
個人としても、青森県重宝に指定された貴重な資料などをお持ちでしたが
現在は亡くなっております。
文中に書かれた「石神」に関する持説を生前に周囲の者も聞いております。
さて、文中に記載された石4点については、現在は資料館に展示しておりません。
ただし「黒の石」と思われる資料1点のみについては
市内の文化財収蔵庫という施設に保管しております。
実は2004年に、国立科学博物館で自然科学分析を行っておりますが
分析結果としては隕石でなく、磁鉄鉱を含む班れい岩の可能性が高いとのことです。
現在持ち合わせている情報としては以上です。
お役に立てるか分かりませんが
ご回答とさせて頂きます。
よろしくお願いいたします。
*********************
〒038-3138 青森県つがる市木造若緑52
つがる市教育委員会 教育部文化財課
学芸員 ○○○○ 】
以上
正直驚いた。きちんと調査をしていただいていたのである。問い合わせをしなかったらわからないままであった。この文面で、どうしてよそから持ち込まれたまがい物が資料館に展示されていたのかという事情がわかる。
当時の資料館は、おおらかというか、ルーズなところがあったことがうかがい知れるが、この石ころの科学調査はきちんとしていただいたことには敬意を表したい。そして過去の来訪記録などお調べいただいた担当者には、重ねてお礼を申し上げたい。
「石神に関する持説を聞いていた」とあるが、現在は亡くなっているということから「石」を持ち込んだ人物が誰なのか察しはつく。重宝指定の資料を持っていたとあるが、あやしいもので直接確認したわけではないであろう。
それにしても、斑レイ岩なら見た目からして、隕鉄として素人には騙せると考えたのであろうか。現に効果はあったようだ。
古田は、当時の著名な古代史、考古学の先生方には、きわめて厳しい態度をとっていた。また「活字本ではなく原本がないとダメ」と言う研究姿勢を見せていたはずが、どうしてこうもやすやすと、和田喜八郎の言うことは何の疑うこともなく信じたのであろうか。首をかしげるしかない。
また、隕鉄の可能性を力説して、分析調査を依頼しておきながら、ほったらかしにしていたのも失礼な話ではある。
最後に参考資料を付けているが、ここでも藤本光幸が登場する。斎藤光政氏の著書でも、何度も顔を出す人物だ。
余談だが、喜八郎が持ち出した「化石」というのは、あの鯨の化石だったかもしれない。何度も再利用したのだろうか。
参考資料 太字は筆者
(古田史学会報 1996年10月15日 No.16「平成・諸翁聞取帳 」東北 ・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)京都市 古賀達也)
〔和田家に隕鉄が伝存しており、それが「天の石神」であること、そして三内丸山遺跡から出土したような六本柱の高層建築物に天地水の石神が祭られていたことを、筆者は会報十号で紹介し、将来同様の遺跡から隕石や化石が出土する可能性を示唆したばかりだったので、小島氏の情報にいかに驚いたか想像していただけよう。
実は同じ事に気づき、森田村の歴史民俗資料館で石神を既に見ておられた人が他にもおられた。藤本光幸氏である。石塔山例祭の前日、藤本邸に泊めていただいたのだが、私が森田村石神遺跡の隕鉄のことを話すと、藤本氏はすでにご存じで、資料館で以前見たことがあるとのこと。早速二人で資料館へ赴き、石神を探した。資料館には石神遺跡の出土品が展示されており、それは縄文前期から晩期に至る大規模な遺跡だ。あの三内丸山よりも古い時期を含む。(中略)
問題の石神は何の説明もなく展示ケースの中に並んでいた。直径十五センチくらいの丸い白と黒の石が二個、やや卵型のものが二個と、「石神」は知らない人が見ればただの丸い石としか映らない。(中略)
私が、黒い石神は隕鉄の可能性があるので是非検査してほしい、地球上の鉄であれば、その産地が特定できるかも知れないし、縄文時代に鉄球を石神として祭っていたことは宗教史の面からも貴重なニュースになることを述べると、それならば調査してみたいと係の方は返答された。〕 以上
参考文献
和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』 八幡書店1989
斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』集英社文庫2019
参考文献
和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』 八幡書店1989
斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』集英社文庫2019

























