以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあってのことだが、該当の記事をよく見れば、誤解であることがわかる。この点を説明する。
⑴中国、半島の史料に、二人が同時に存在したとする記述はない
同時に存在しているのではとされる根拠となる天監元年の倭王武の進号記事には、合わせて高句麗王と百済王の進号記事が記されている。『梁書』には、次のようにある。
天監元年(502)戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王 梁 彌𩒎進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。
よく見るとこの時の百済王の名前は「餘大」となっている。これは武寧王のことではない。というのは、同じ梁書には、
普通二年(521),王餘隆始復遣使奉表
普通五年(524)隆死、とある。
つまり梁書は「隆」を武寧王と認識している。
すると餘大は武寧王の前代の王、すなわち東城王となる。その東城王は501年に死去している。ちなみに梁書の武寧王の没年も墓誌年より一年遅くなっている。
よって、天監元年(502)の記事は、倭国は倭王武と百済は東城王という認識での進号記事となる。なおこの記事に百済も倭国も遣使をしたという記述はない。中国の認識していた時期の前後に事態は急変し、東城王は殺害され、そのあとを日本にもいた可能性のある斯麻こと武寧王が即位したと考えられる。以上を年表にすると、
501年 12月百済東城王(餘大)死去 武寧王(餘隆)即位(月日不明)
502年 梁建国(梁書)高句麗王高雲、百済王餘大、倭王武に進号の記事
503年 隅田八幡神社人物画像鏡癸未年 ← 斯麻こと武寧王が男弟王に贈る
504年 武烈紀6年 百済王(武寧)が麻那君を派遣
521年 普通2年(梁書)百済王餘隆(武寧王)遣使
524年 普通5年(梁書)隆(武寧王)死 (墓誌では523年)
このように二人は同時に存在しておらず、『梁書』の餘大を東城王でなく武寧王と誤解されてのことであった。
⑵二人は「将軍仲間」ではなかった
古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』では、その第六部第一章の隅田八幡神社銅鏡に関する一節の中で次のように述べておられる。
「㊃百済の『斯麻王』(武寧王)は、南朝の梁朝下の『寧東大将軍』だった。同じく、この梁朝から『征東将軍』に任命されていた倭王武(天監元年五〇二)は、前述来の検証のように、筑紫の王者だった。すなわち、武寧王と筑紫の王者とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされている。
倭王武が筑紫の王者であることに全く異論はない。しかし、「将軍仲間」として、武寧王と同時に存在していたかのような表現には同意できない。よくみると、梁朝下の武寧王の記事は先述のように普通二年(521)の記事。一方で倭王武の記事は502年のものであり、二〇年近い差のある記事だ。つまり503年以降に倭王武の記事はない。よって「将軍仲間」という一定の期間、同時に存在していたとする表現は正確ではないといえる。「武寧王と筑紫の王者(倭王武)とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされる根拠となるものは提示されていない。
同じ論説の中に古田氏は、倭の五王全資料として二十二項目挙げておられる。その最後に『襲国偽僭考』の「継体一六年(522)武王 年を建て善記」の記事については、史料の信憑性については別に論ずる、とされているのだがその後に該当するものの確認はできない。この「武王」が倭王武ならば、彼は宋への貢献記事の478年からおよそ40年以上も倭国王として君臨していたことになる。さすがにこれは考えにくいことであり、作成者の鶴峯戊申も二中歴(注1)を参考にしたとあり、ここは転記の誤りが考えられる。この箇所の「武」は実際は「武烈」であったようだ。
同じ論説の中に古田氏は、倭の五王全資料として二十二項目挙げておられる。その最後に『襲国偽僭考』の「継体一六年(522)武王 年を建て善記」の記事については、史料の信憑性については別に論ずる、とされているのだがその後に該当するものの確認はできない。この「武王」が倭王武ならば、彼は宋への貢献記事の478年からおよそ40年以上も倭国王として君臨していたことになる。さすがにこれは考えにくいことであり、作成者の鶴峯戊申も二中歴(注1)を参考にしたとあり、ここは転記の誤りが考えられる。この箇所の「武」は実際は「武烈」であったようだ。
その二中歴(上図参照)には次の記事がある。「善記四年元壬寅三年発護成始文善記 以前武烈即位」とある。壬寅は522年)で善記元年にあたる。それより以前に武烈が即位したということであり、彼は九州王朝の王者であった。前にもふれたが、日本書紀の武烈紀は、跡継ぎがいない人物と後継ぎが生まれた人物が描かれており、後者が、書紀では隠されている本当の武烈であったと考えられる。
よって、503年以降に倭王の武が、存在していたという資料はないのである。このことからも、二人は別人ではなく、倭王武が、武寧王になったという説を否定することにはならないのである。
注1.鎌倉時代初期に成立した百科全書的な書物。そこに、九州年号の総覧が記載されており、古田武彦氏はこれを原型本とされた。
図は、内倉武久氏の、吾平町市民講座 2022 年 12 月用 「九州年号について」 よりコピーさせていただいたものを、一部加工しました。
参考文献
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」古代史コレクション⑳ミネルヴァ書房2014