流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ:百済と倭国 > 武寧王と倭の王

蘇我氏系図
    蘇我氏系図 ウィキペディア蘇我満智より転載

 雄略紀23年に、倭国に滞在していた東城王を百済王として帰国させる記事がある。この中で雄略は東城王に「親撫頭面、誡勅慇懃」とあり、頭をなでて、やさしくいましめる、とある。何か、これから百済王として即位する東城王に対して、助言でも与えたようなのである。その内容はまったく記されていないが、後の欽明紀に、この内容と考えられる記事がある。この点について説明する。そしてこれは、雄略紀のモデルが、武寧王であることを示すものであり、さらに蘇我氏と百済王家との関係を示唆するような記事でもあったのである。

1.百済王子恵と蘇我稲目
 
 欽明紀16年2月には百済王子恵と蘇我臣のやや長い対話の記事がある。蓋鹵王の死を伝えた恵はしばらく倭国に滞在するのだが、そこで蘇我臣が、彼に助言をするくだりが記されている。
 蘇我臣(おそらく稲目・蘇我卿も同じ)は、まず恵に次のように問う。
「いったい何の科でこのような禍(聖明王殺害)を招いたのか。今また、どのような術策で国家を鎮めるのか」
 これに対して恵は、何もわからない、と心もとない返事をする。そこで蘇我臣は次のような訓示をする。

 「昔在天皇大泊瀬之世、汝國、爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託(かみの)神(みことに)語(つけて)報曰『屈請(つつしみいませて)建邦之(くにをたてし)神・往救將亡之(ゆきてほろびなむとするにりむを)主(すくはば)、必當國家謐(しず)靖(まりて)・人物乂安(やすからむ)。』由是、請(かみを)神(ませて)往救、所以(かれ)社(くに)稷(やす)安寧(らかなり)。原夫(たずねみればそれ)建邦神者、天地割判之代・草木言語之時・自天降來造立國家(あまくだりましてくにをつくりたてし)之神也。頃聞、汝國輟而不祀(すててまつらず)。方今、悛悔前過(さきのあやまちをあらためてくいて)・脩理神宮・奉祭神(かみの)靈(みたま)、國可(くに)昌(さかえ)盛(ぬべし)。汝當莫忘(いましまさにわするることなかれ)。」

 「昔、大泊瀬天皇(雄略)の御世に、お前の国百済は高句麗に圧迫され、積まれた卵よりも危うかった。そこで天皇は神祇伯に命じて、策を授かるよう、天神地祇に祈願させられた。祝者は神語を託宣して、『建国の神を請い招き、行って滅亡しようとしている主(百済王)を救えば、必ず国家は鎮静し、人民は安定するだろう』と申し上げた。これによって、神を招き、行って救援させられた。よって国家は安寧を得た。そもそも元をたどれば、建国の神とは、天地が割け分かれた頃、草木が言葉を語っていた時、天より降りて来て、国家を作られた神である。近頃『お前の国はこの神を祭らない』と聞いている。まさに今、先の過ちを悔い改め、神宮を修理し、神霊をお祭り申せば国は繁栄するだろう。忘れてはならない」(小学館現代語訳)

 以上だが、この内容は雄略紀そのものにはないものである。これは重要な意味を持つと思われるので、説明していきたい。
 稲目は、百済が衰退した原因が、建国の神をきちんと祀らなかったことだと述べている。神宮を修理して祀れと言っていることから、それは百済王族たちが仏教に傾倒していることへの注意喚起でもあったかもしれない。
 天皇は百済を危機から救うために天神地祇に祈願すると、建国の神を招いて百済王を救えば、国家、人民は安定する、というご託宣を受けた。下線の部分であるが、この御託宣は天皇に対してなされたものとなる。主(にりむ)は岩波注では百済国王としている。建国の神(建邦之神)を請い招(屈請)いて百済国王を救えれば、百済は復活するという。どうして百済王を救えば百済を救うことになるのか、と言った疑問も起こり、意味が取りにくいところではあるが、困窮している百済王に力を与えれば、百済が復活することができる、となろうか。以上のように考えると、ここは日本の天皇が百済建国の神を請い招いたということになる。
 岩波も小学館もこの建国の神を倭の神のこととする解釈を行っているが、そうであるならば、日本の天皇が百済存続のために、自国の天孫降臨の神に祈ったということになるのだが、これは不自然な事であろう。書紀の神代紀に「建邦之神」という表現は皆無であり、日本の神とは結びつかない。ここは百済王を救うためには百済の建国の神が必要ととるのが妥当ではないか。百済建国神話は三国史記などに記述はないのだが、おそらく高句麗に神が天降るという山上降臨神話があることから、元は兄弟関係であった百済にも同じ神話があったと考えられる。
 だがそうであれば、これもまた奇妙なこととなる。日本の天皇が、百済を救うために、百済建国の神を招いて救援したというのだ。こんなことがあってよいのかという疑問が起こるので、建国の神を日本の神ととろうとする解釈が生まれたのであろう。岩波注が判断に迷うのは致し方のないことであった。注1)
 ところがこれは、視点が変われば、不思議なことではなくなる。雄略とされる大泊瀬天皇は、幼武ともいわれるが、この人物のモデルが斯麻こと武寧王なのである。彼は即位前に倭国に倭の五王の武として、政事を治めていたのである。高句麗の為に父兄を殺害された斯麻は、その無念をはらすため、百済支援のための行動、宋への上表文での訴えなどを起こしていたのである。
 雄略が百済の為に天神地祇に祈願したのは、ちょうど倭国にいた東城王を百済に送り出す頃のことであったのではなかろうか。天皇は護衛を付けて東城王を送り出す。「雄略23年(479)仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王末多王。」その際、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて)とある。「誡」は、いましめる、との意であり、やさしくではあるが、しっかりと用心することを言い付けたのだ。ここで雄略は、東城王に百済建国の神をないがしろにしない様に戒めたのではなかろうか。「親しく頭を撫でる」行為は肉親であればこそである。東城王の近親に当たる雄略こと武寧王であるからこその対応なのである。
 以上のように、蘇我稲目は百済王子恵にとっては祖父にあたる武寧王の功績を訓示したのであると考える。

2.蘇我氏と百済王がつながる百済系ライン
 
 この蘇我臣とされる稲目は、仮にも百済の王子に対して、対等、いや上から目線で教訓を垂れているのではないか。しかも、彼はどうして百済敗北の事情を理解していたのであろうか。これも次のようにとらえれば合点できる。
 高句麗による漢城陥落のなか、蓋鹵王は、王統が途絶えないようにと、王子文周王と木刕満致(もくらまんち)らを逃がし、その彼らが熊津で再建をすすめることになる。この木刕満致は、本人、もしくは末裔が後に倭国に渡り蘇我氏になったと考えられる。すると、稲目は自分の祖先から、漢城陥落の話を生々しく聞かされ、高句麗に対する油断などの問題点も教わり、国家祭祀も不十分であったとの認識をもつにいたったと考えられる。
 百済王族と行動を共にした祖先の末裔だから、まるで子に諭す親のような立場で、恵に対して国家祭祀の重要性を説いたのではないか。なお、蘇我氏は仏教の推進派であれば天神地祇の重要性を語るのは矛盾するという意見もあるが、稲目そのものは最初から仏教信仰者ではなかったということは付記しておく。
 さらにいうと、後の『扶桑略記』に、飛鳥寺の立柱儀礼の際に参列した蘇我馬子以下百人あまりが、百済服で参列し、観るもの皆喜んだとあるのも、その関係を物語っているのである。
 また、武寧王のこともひとつ付け加えておきたい。
 雄略紀には、漢城陥落を知ってもすぐに出兵するといった倭国側の軍事行動の記事はない。新羅は羅済同盟もあって漢城に向けて大軍を派遣している。倭国の場合は、翌年の3月に久麻那利(熊津のこと)を汶洲(文周)王に賜った、とあるだけである。つまり、当時の倭国の王は、新羅のような軍事行動は起こしていない。それは、倭の武王上表文にあるように、倭王武の父兄が同時に亡くなったがために喪中になったので出兵できなかったということであり、その父兄とは、蓋鹵王と百済王子たちで、その中に自分の兄弟もいたのである。北九州で生まれた斯麻は列島に長く滞在したと思われ、漢城陥落の際も昆支といっしょに列島にいたから助かったのである。
 その雄略の一つのモデルである斯麻は、倭国の地で、百済の為に百済建国の神に祈りを捧げた、というのが、蘇我の稲目が先祖から受け継がれた話となったと理解できるのである。
 このように、百済というラインでのつながりが見えてくるのであり、後の武寧王となる斯麻が、雄略のモデルである倭王の武であった可能性を物語っているのである。
 なお余談だが、百済王子恵は、仏教信仰に熱心に取り組んでいたことを示す倭国滞在中の伝承が残されているので紹介する。

 神戸市にあった明要寺の丹生山縁起
 赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」とされたようだ。「明要」は九州年号541~551。 恵は554年に即位した百済威徳王の弟と考えられ、丹生山縁起が史実を反映しているならば、この寺社建立の後に、軍事援助の折衝を行ったと考えられる。 
 ちなみに、この明要寺には平清盛が月参りを行っていた。平氏は百済系であることとつながるのである。

注1.岩波注には、「通証※は百済の建国神とみるが、(中略)これは日本の建国神で、のちに天之御中主の神や国常立尊以下の人格神観念が形成される以前のかなり漠然とした創世神の観念とみるべきであろうか。」としているが、「漠然とした創世神」を招いて救ってもらうことがはたしてできるのであろうか。※江戸時代谷川士清の注釈書



 蘇我氏系図はウィキペディアより

恵王
            百済王系図 武寧王より豊璋まで

 日本書紀欽明紀には、内臣(後半には有至臣と表記)が、百済からの援軍要請を受けて倭国で兵力を取りまとめ、自ら引き連れて百済に向かう記事がある。日本書紀ではこの内臣について、名を闕らせり、とするのだが、私見では百済王子余昌(聖明王の長男、威徳王)の弟である恵(恵王)のことではないかと推測している。この点ついて述べてみたい。

1.倭国で百済の為に兵力を調達する内臣
 
 内臣は百済の官位にあるが、日本では、鎌足からはじまる官職といった解釈がされるなど定まってはいない。では欽明紀の場合はどうであろうか。先に簡単な年表を掲げて説明していきたい。

13年(552)この年、百済は漢城と平壌を放棄
14年1月 百濟は上部德率科野次酒らを倭国へ遣わし、軍兵を乞う。※内臣も同行か
  6月 内臣を百済に遣わし良馬二匹諸木船など賜る。
  8月 百済、上部奈率科野新羅らを遣わし、弓馬を乞う。※内臣も倭国に戻ったか
  10月 百済王子余昌、高麗を攻める。
15年1月 百濟は中部木刕施德文次らを遣わし、内臣に1月に派遣予定など確認。
      内臣は、勅命を承って回答 「援軍1000、馬100匹、船40隻」
  2月  百済は別の使者を遣わし援軍を乞う
  5月 內臣、舟師を率いて百濟へ。
  12月 百濟は下部杆率汶斯干奴を遣わし、新羅攻撃を報告。有至(内)臣の兵と別に
    追加懇願
     聖明王戦死(三国史記は7月)。余昌を鞍橋君が助ける。
16年2月 王子余昌、弟の恵を遣わし聖明王の死を報告
     蘇我臣、恵に百済の失敗の教訓を諭す
17年1月 王子恵、兵馬を賜り護衛付きで帰国。筑紫火君も兵千名と半島の護衛へ。
 598年 恵王即位 翌年死去

 欽明紀では、内臣は最初に次のような記事で登場する。
 14年6月、遣內臣(闕名)使於百濟、仍賜良馬二匹・同船二隻・弓五十張・五十具(具は50本)
 宇治谷孟訳では、「内臣を使いとして百済に遣わした。良馬二匹・諸木船二隻・・・」
 この箇所だけだと、内臣は倭国の使者のように思える。
 しかし、同8月に百済官人の言葉として「遣內臣德率次酒任那大夫等」とある。岩波は「内臣徳率次酒」と一人の官位と名前にしているが、その岩波注には、徳率に内臣が付くことをいぶかる記述がされているが、それは当然で、本来は内臣と徳率は別の官位であろう。つまり、次酒は別の人物なのだ。つまり14年1月の上部德率科野次酒を略したのが德率次酒であり、内臣を含む彼らを去年遣わした、と記しているのだ。
 15年12月にも 臣等、共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐斯羅 とある。
 百済の汶斯干奴の言葉として、臣等は共に図って、内臣らを遣わし、新羅を討つための軍を乞い、とある。やはり、内臣は百済からの使者なのだ。
 そうすると、最初の14年6月に百済に遣わした、とある内臣は既に倭国に滞在していたのだ。おそらく、14年1月の德率科野次酒らと倭国へ同行したのであろう。そして6月に、賜った馬と船といっしょに百済に戻ったのであろう。その後記事はないが、同月8月の科野新羅らの使者と一緒に内臣は倭国に戻ってきたと考えられる。
 名前の不明な内臣は、百済からの再三の督促に対応して、倭国の地で軍兵の手配を行っていたのかもしれない。さらには、自らが40隻の船団を率いる立場であったことから、この内臣はかなり重要な地位の人物であることがわかる。

2.名の知れぬ内臣は百済王子の恵の可能性

 この内臣は、百済の官位であり、百済蓋鹵王の指示で倭国に質(むかはり)として渡った昆支が内臣佐平であったように、欽明紀の内臣も百済王の王子またはそれに近い存在と考えられる。船団を引き連れて百済に渡ったこの内臣のその後の記事はない。彼はどうなったのであろうか。半島にとどまったのか、倭国に戻ってきたのか皆目見当つかないが、次のように考えられないだろうか。
 内臣が渡った翌年の2月に聖明王の死去を知らせるために来朝した次男の恵が、この内臣だったのではなかろうか。記事の流れとしても矛盾なくつながる。これは、雄略紀の蓋鹵王が派遣した昆支が内臣佐平であったことと共通するのではないか。昆支と同じように恵も内臣だったと考えられるのだ。
そうすると恵は、3年連続で百済と倭国と往復していたことになる。彼はしばらく倭国に滞在した後に、軍兵の護衛付きで帰国している。蓋鹵王の死去を知らせるだけの役割ならば、すぐに百済に戻るはずが、何の説明もないまま滞在し、しかも倭国の高官とやり取りをしているのも、彼が質のような外交官以上の位置にいたからであろう。
 それにしても日本書紀は、何故名前をもらしたとして内臣とだけ記したのか。実際に編纂時に史料が確認できなかったのかもしれないが、意図して隠した可能性もある。名前を出すのが特に不都合とは思われないのだが、強いて言えば、最初の記事に倭国が軍兵を下賜するために内臣を遣わした、という形にするために、それが百済王子の恵と明記したのでは都合が悪いと判断したのかもしれない。

  百済王系図は Wikipedia ©Public Domain より

 既に、『百済本記』に、百済が倭国に王を派遣したといった記事がない、とのご意見に対して、この百済本記には、蓋鹵王から武寧王まで、更には他の多くの王の記事もだが、即位以降の事績しか書かれておらず、即位までどのような活動をおこなっていたのかは、ほとんどわからないのであり、即位前に倭国に渡っていた、というような記事はないのである。
 他にも、百済の王族が倭王であるならば、中国史書は必ず記載するはずだ、とのご意見もあるが、この点について説明する。

1. 中国も周辺国に王子を相手国の王として派遣していた可能性

 倭五王=百済王同一人物説に対する反対意見として、これが事実なら、中国は問題にしないわけはなく、史書にも記するはずだとのご意見に対して、実は中国も同族の男子を他国に派遣しようとする考えがあったことを説明する。
 『三国史記』「新羅本紀」善徳王12年(643)高句麗、百済との戦いに救援を求める新羅の使者に対して、太宗は三策を示し、その一つが次のようなもの。「爾が国、婦人を以て王と為し、隣国に軽侮せらるる・・・・我,一宗枝を遣わし、与えて爾が国守となさん。」
 訳「そなたの国は女を王としているので、隣国に侮られるのだ、・・・我が一族の男子を遣わして王としよう。」
 『冊府元亀』 「爾が国、婦人を以て主と為し、隣国に軽侮せらる・・・我、一宗枝を遣わし、以て爾が国主となさん」と、中国史書にも同様の記事がある。
 使者は返事をしなかったが、翌年唐に特産物を献じ、その功あってか唐は高句麗に使者を送って、新羅を攻撃するなら出兵すると伝えている。
 中国が、周辺国、いわゆる夷蛮の国々の中に、自国の王族を指導者として送るようなことが、実際にあったから、女王の代わりに自分の王子を派遣すると提案したのではないか。百済が王族を倭国に派遣しても、それは特異な例などでないので、特に中国は問題にすることではなかったといえる。

2.倭国にやってきた百済王族の事績の説話 神戸市明要寺  丹生山縁起
 
 縁起によれば、赤石(明石)に上陸した百済聖明王の王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てたという。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」としたそうだ。現在は明要寺の鎮守丹生神社を残すだけだ。ただ、百済の年号としたのは面白いが、この「明要」は九州年号541~551である。九州年号についてはこちら。九州年号を寺院名にしたのはめずらしいものだ。
 恵は百済威徳王の弟だが、昆支王も、自分が関与したかは不明だが、昆支王を祀る飛鳥戸神社がある。百済に限らないが、渡来してきた人々の痕跡はいくつも残されていると言える。

1.武寧王と銅鏡の関係

 武寧王墓に副葬された中国製の銅鏡に関しての森浩一氏の指摘だが、半島にはあまり見かけない習慣であり、倭人社会からの影響とされている。「王の方の銅鏡は棺外の長軸上に一面ずつ、王妃のほうは頭部付近に一面、という出土状況も日本の古墳の銅鏡出土状況に比すべきもの」(森2015)だという。また、その銅鏡の踏み返し鏡をつくり日本の古墳埋葬者に配布されていることも同様であろう。倭国にいた武寧王こと斯麻は日本産のコウヤマキ製の棺が使われたが日本の銅鏡の扱いにも関心があったのであろう。
 このことから、隅田八幡宮神社人物画像鏡の銘文に記されたように、斯麻が作成させて男弟王に贈ったことも説明がつく。百済王が、銅鏡の制作を指示したというのも、これが列島の有力者のためにというのも異例なのである。百済のみならず半島には、銅鏡を重要視する慣習は多くはないが、倭国に滞在した斯麻はこれを理解していた。綿貫観音山古墳などの被葬者に獣帯鏡のコピーが渡った理由も関連付けられるのである。                     

2.風土記の倭武天皇と大橘比売皇后

 常陸国風土記の倭武天皇が、倭王武のことと考える識者は多いが、そうであるならば、私見では斯麻として倭国にいた武寧王のこととなる。上表文の「渡平海北九十五國」と風土記の「倭武天皇巡狩天下、征平海北」の記述の類似は無関係とは思えない。風土記における倭武天皇の記事は、総記と9カ所ある郡のうちの5郡に登場する。斯麻王は東国エリアもくまなく「巡狩」していたのである。 
 またこの風土記には、倭武天皇の皇后として大橘比売命が記されている。ならば、武寧王陵にともに埋葬された王妃は、この大橘比売の可能性が出てくる。武寧王陵の副葬品は、その多くが中国由来のものだが、その中に王妃の頭部付近に銅鏡が置かれていたというのは注目すべきことであって、まさに倭人の風習を示すものと言える。武寧王の皇后が倭人であり、その人物こそ大橘比売であったと想定できるのである。
 歴代の百済王の夫人が倭人ではないかという説は、既に言われていることであるが、今回、銅鏡の問題、常陸国風土記の記事、武寧王陵における副葬された銅鏡などから、大橘比売が武寧王の后であるとの私見を披露させていただいた。

3.倭の五王の郡太守号の要請を真似た百済王
 
 次は、武寧王ではなく、蓋鹵王に関することである。
宋書の記事に関しての河上麻由子氏の指摘だが、「倭国王は451年にも23人の倭人に対して将軍号と郡太守号を与えるよう求めている。458年には百済も臣下への官爵号の授与を求めた。これ以前に百済王が臣下への授与を要請した事例は見出せない。珍・済の成功に依ったものであろう。」(河上2019)と書いておられるが、これは次のように理解できる。
 蓋鹵王は455年に百済王として即位している。彼が百済で官爵号を求めたのであるが、蓋鹵王が倭王済であるならば、済であった時代の451年に23人の軍郡が認められ、この事例を百済に戻ってからも行ったと捉えることができるのである。


 この武寧王と倭王の問題は、いったん区切りを付けさせていただくが、あらたな知見など得られれば、随時、ふれさせていただきます。

参考文献
森浩一『著作集2』新泉社 2015
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書 2019

一言主神社参道
奈良県御所市 葛城一言主神社参道
ワカタケル像
ワカタケル像
一言主神社ワカタケル像掲示板
解説パネル

1.幼少期にワカタケルと呼ばれていたのは斯麻王ではなかったか。

 古事記では大長谷若建命、日本書紀では大泊瀬幼武天皇である雄略は、葛城山で一事主神と出会い、自ら幼武尊と名乗っている。幼い武という名は少し奇妙ではないか。瑞歯別の反正天皇も歯の特徴からついた名前のようだが、雄略は年端も行かぬうちに天皇になったというのだろうか。だが雄略は書紀では62歳であり、在位期間が23年と考えられており、それならば即位時の年齢は39歳であって、これがもし2倍年暦としても、20歳に手が届くころである。 
 ここは書紀の語る天皇でなく、雄略に充てられた実在の人物に幼い武と呼ばれていた人物がいて、その彼が若くして倭国王になった人物を想定できるのではなかろうか。つまり、幼武とは、武寧王となる斯麻のことではないか。
 武寧王は40歳で百済王となっている。少し遅くはないか。40歳までどうしていたのか。百済で活動していたなら、何らかの記録があってもよいのではないか。時期は不明だが幼い時から日本に滞在し、百濟に戻った昆支の後に倭王となって、40歳まで日本で活躍したと十分考えられる。生誕が462年ならば、成長した斯麻は、477年の遣使記事の前年に倭王として即位したとすると、15歳のこととなる。昆支は世子興として倭国滞在中に、幼少からの斯麻を幼武、ワカタケルなどという愛称で見守っていたかもしれない。
 近畿一元論の倭の五王の武の雄略比定説には従えないが、書紀の編者が雄略天皇の創出に、斯麻こと倭の武王を想定したとは考えられないか。もちろん記事には、別の人物の事績も混在していると考えられる。
 稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が、雄略のワカタケルのことだと言われているが、これも、斯麻王である倭王武の統治の時代を意味すると解くことができる。

2.頭を撫でて百済に送り出す天皇の記事

 雄略23年に百済の文斤王がなくなる。天皇(天王)は昆支王の二番目の子の末多王(東城王)を内裏へよばれ、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろにいましめて)とあるのだが、これと似たような表現がある。壬申の乱の記事では、天武が戦術の相談の際に、子の高市皇子をほめて、「携手撫背、曰愼不可怠」(手をとり背を撫でて、しっかりやれ、油断するなよ」と言うのも、身内だからこそできる行為といえる。するとこの「天王」は当然のことだが雄略とは異なる。岩波注ではもとはこの個所は「大王」という表記であった可能性も指摘している。
 武寧王の前の百済王である末多王(東城王)を百済に送ったのは筑紫の兵士を500人も護衛として付けるなど破格の対応を遂行できる倭国の高位の人物であり、本人とは親族関係にあることが考えられる。そうすると、東城王を百済に送り出したのは、幼年期を倭国で過ごした倭武王こと斯麻のことなのである。
 この筑紫の兵士が帰還したという記録はない。彼らは、栄山江などの百済の非征服地に送られ、そのリーダーは定着して彼の地で前方後円墳を造り、多数の兵士たちは、これも多数見つかっている倭の特徴をもつ横穴墓に葬られたと考えられる。墳形が方円形で、石室が九州式の特徴を持っていても、副葬品に百済や加耶の特徴も見られ、中には、甕棺の置かれた石室もあるところから、九州勢力の支配を示すものとは考えられない。この特徴ある墳墓がほぼ一代限りであることからも、百済主導の倭系官人の先行的な配置であって、その後は百済の支配が確立していったことを物語っているのである。すなわち、百済に戻った斯麻こと武寧王が、栄山江などの進出を推進したと考えてよいであろう。
 





イザナギイザナミ
1.
列島の統治のために派遣されたイザナギ・イザナミ

 

 イザナギ、イザナミは、国生み、神生みの説話の中で描かれているが、本来は国を統治するという天神からの使命を担っていたと考えられる。古事記には、次のような一節がある。

 於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。

 二神に、「このただよえる国を修(おさ)め理(つく)り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて。とある。

 現代語訳では、「国土をよく整えて、作り固めよ」とされているが、これは統治のことではないか。この後に、二神は、次々と島を産んでいく。そして、既に国を生み竟(を)へて、更に神を産んでいくと書かれている。ところが、カグツチを生んだが為に亡くなったイザナミに、イザナギは黄泉の国まで会いに行くのだが、その時の台詞が次のようで奇妙なのである。

 「吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。」  吾(あ)と汝(いまし)作りし国、未だ作り竟えず、よって還るべし、とイザナミに戻ってくるように呼び掛けている。

 なにやら食い違っているような表現だが、これは異なる説話を合成したことによる不整合と見てよいのではないか。すなわち、国を修める話と、国生み、神生み説話がつながれた際のほころびと見られる。

 イザナギ・イザナミは、国土を生むのではなく、列島の統治を任されたと古事記の記述では考えられるのだが、日本書紀にも同様の記述がある。

 書紀:一書(第一)曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰「有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之。」廼賜天瓊戈。

 「いまし往きて脩(しら)すべし」は現代語訳(宇治谷孟)で、「お前たちが行って治めるべき」とされている。古事記では「修」だが、日本書紀では「脩」が使われている。

 日本書紀でも、イザナギ・イザナミは統治するために派遣されたと理解できる記述があるのだ。それは、神武紀の末尾の記事でも明らかとなる。

 

卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」 

 

 (以下現代語訳)
 天皇の御巡幸があった。腋上の嗛間(ほほま)の丘に登られ、国の形を望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲の名ができた。

 昔、イザナギ尊がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器がたくさんある国、勝れていてよく整った国」といわれた。またオオアナムチ大神は名づけて「玉牆の内つ国」といわれた。ニギハヤヒ命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本の国(大空から眺めて、良い国だと選ばれた日本の国)」と言われた。

 つまり、イザナギは東征を行った神武や、神武より先に降臨したニギハヤヒ、スクナビコナと共に国づくりをすすめたオオアナムチと同じ扱いで記されている。イザナギも、天神からの勅命で新天地に渡来して国づくりを進めたことを表しており、途中の国生み、神生みの話は、別系統の挿話と考えられる。

 

2.記紀で使われる脩・修は、支配の後の統治、管理運営の意味か?

 
 日本書紀には、「脩」が17カ所で使われている。神武紀では船舶の準備、仁徳紀では宮垣、宮室の修繕、雄略紀では、修短という熟語、高麗との友好、貢納、顕宗紀に宮の整備、武烈紀に貢納、安閑紀に人名、欽明紀に貢納と修理、推古紀に貢納と船の修理、となっており、残りの4カ所で、少し異なる使われ方がされている。

 イザナギの「宜汝往脩之」については、先述のとおり。

 神功紀52年「汝當善脩和好」は七支刀の登場する記事であり、近肖古王(346375)が孫の枕流王に語った一節にあり、この点については、枕流王に七支刀を持参させたとする見解を既に提示している。(こちら

 応神8年 (百濟記云)遣王子直支于天朝 以脩先王之好            

雄略5年 (百濟新撰云)蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好  兄王は「先王」との異文あり

雄略天皇5年に百済蓋鹵王は昆支に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と命じるのだが、後の百済新撰の記事では、天王に侍(つかえまつ)らしむ。以て兄王の好を脩むるなり、とある。前者の日本の天皇に仕えよ、というのは書紀の筆法であり、後者の脩めよ、というのが実態ではなかろうか。

なお、「侍」に関しては、持統摂政前紀に「皇后始めより今に至るまで、天皇をたすけて天下を定めたまふ。つねに侍執(つかへ)まつる際にすなわち言、政事に及び、毗(たす)け補ふ所多し。とあることからも、「侍」に統治への関与の意味があったと考えられる。

つまり、派遣された百済王子は、列島での治政への関与のために渡来し、この地で経験を重ねて、半島に戻って百済王として即位しているのではなかろうか。よく、人質といった記載が見られるが、決してそのようなものでなく、あくまで書紀の記述では「質」(むかはり)であって、後の豊璋(私見では鎌足と同一人物)も、白雉の儀に参加するなど、当時の政治運営に関与していたと考えてよいであろう。この豊璋は半島に戻って最後の百済王となっている。

  

 以上のように応神紀の直支、雄略紀の昆支も、倭国に来朝して「脩める」、すなわち政治的運営への関与を託されていたと考えてよいであろう。

蓋鹵王から武寧王

 百済・倭王同一人物説では、倭国では済であった蓋鹵王は、倭国から百済に戻った後に昆支を倭国に派遣し、その彼が世子興となる。すなわち、世子興はまだ生存している済から後を継いだ形になる。しかし、興の即位記事の前に済が死んだと「宋書・梁書」ともに記載されている点からして、同一人物説は成り立たないのでは、との疑問がある。この点については以下のように考えたい。
 
 この問題では、私は、宋書上表文にある武が、「にわかに父兄が死んだ」とする記事を重要視したい。そこには、倭王武の即位前後に父の済と兄の興が亡くなったと受け取れる表現がある。
 
 方欲大舉、奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇 
(大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない(中略)失敗に終わる。むなしく喪中にあり兵甲を動かさない。)

 ここは無視できないところであって、これについて説得力ある説明が必要であろう。逆に、宋書の本文では、このことに注意が払われていないことに疑問が生じるので、新たな仮説を立てて検討することは無意味ではないと考えたい。
 なお、古田史学の会の正木裕氏より、「奄喪父兄」の「奄」が、通説では、「にわかに」、と訳されるが、「ともに」、という意味が考えられる、とのご教示をえた。この場合も、高句麗の侵攻で、蓋鹵王とともに多数の王族、王子たちも刑死しているので、武寧王にとっては、「ともに父兄が死んだ」と理解できるのである。
 次に、宋書、梁書の関連記事については、いくつも問題があると考えられる点を説明したい。

①宋書には、最初の讃は倭讃とは書かれているが、倭王とも倭国王ともされていない。その一方で、梁書には、倭王賛と記されているものの、残りの4王は「王」の記述は見当たらない。

②宋書では、珍は死んだという言葉は書かれておらず、ここから二系列の王族説も出されることになる。

③宋書では「世子興」とされているが、梁書には「子」とだけあり、「世子」が無視されている。

④宋書での珍は、梁書には彌(ビ、ミ)と記されている。ここから別の王がいたのではという解釈もある。これは、時期はずれるが、私見の済と興の間にX王という設定もあながち無理ではないと思える。ちなみに卑弥呼の弥は、魏志倭人伝も後漢書も彌である。
 余談だが、卑は漢音がヒ、呉音がビである。彌は漢音でビ、呉音でミである。すると、漢音ならヒビコ、呉音ならビミコとなろうか。

⑤梁書には、「有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武」とあるように、なにやら機械的に記述をしたかのように見えてくる。つまり、新しい王の使者が来たら、前王は死んだから、と考えて、前王死、と書いた可能性はあると思われる。

⑥そもそも梁書の倭の五王の記事の直前には、卑弥呼から臺與の記事があり、次に倭王武の記事の直後に侏儒国や黒歯国が登場している。以下は該当箇所の引用。

 梁書 邪馬台国記事の途中より
正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。
(ここから倭の五王の記事)
晉安帝時,有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督 倭 新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東大將軍。
(ここより邪馬台国記事の続き)
其南有侏儒國,人長三四尺。又南黑齒國、裸國,去 倭四千餘里,船行可一年至。又西南萬里有海人,身黑眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之。

 上記のように、魏志倭人伝の記事の途中で、倭の五王の記事が差し込まれているわけで、きわめて適当に編集されたものといえ、信憑性という点では問題がある。

⑦宋書の場合は、上表文に父兄がにわかに死んだとあるわけであり、本来ならば、そこのところを確認すべきだったところ、そのようなこともなく、「済死、世子興」と機械的に記入した、ということではないかと考える。

⑧宋書の大明四年(460)、昇明元年(477)に王名の記載のない遣使記事がある。
 
 以上から、私は、上表文の記述を尊重し、同一人物説はこの点では否定できないと考える。すなわち、世子興は倭王済の死後ではなく、生存中に即位したと考えることは可能であろう。

  ご意見の中には、百済王が別の国でも王になっているなら、外国史書に何らかの記事が書かれるはずだ、との否定論がある。  
 だが、中国史料に関しては、先ほど説明させていただいた通り、わずかな情報の記事しか書かれておらず、しかも、機械的に他の史書の抜粋をなぞっているだけというのが実際のところだ。そもそも東夷の海を隔てた国のことを、細部にわたって調査して記録するようなことは、魏志倭人伝以降は、隋書の裴世清の訪問記までないのである。しかも、隋書の記事も簡単なもので、その為に、当時の都がどこにあったのか、など議論の絶えないものになっているのである。
 また、三国史記の百済本紀にも、百済王子が倭国の王になったなどとはまったく書かれていないが、それを言い出すと、歴代の百済王の記事も、実は、即位以降の記事しか書かれておらず、蓋鹵王が即位前にどこで何をしていたのかなどは全く分からないのである。
 書かれた史料がないから、限られた史料のわずかな記述と、古墳などの発掘資料などから、推測していくしかないのではないか、と考えている。

 先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の次の倭王であったとの考えを述べる。

純陀太子も倭王であった可能性を「太子」の意味から解く

 武烈紀7年 百濟王遣斯我君進調(中略)故謹遣斯我奉事於朝 遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
 百済王が斯我君(キシ)を遣わして調をたてまつった。(略)故に謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます、という。その後、子が生まれて法師君という。これが倭君の先祖である。(宇治谷訳)

武烈紀系図
 上記では、法師君の父親はわからないが、冨川氏は、「系図で示した《?》は「朝(みかど)」であり、「倭君」とは単なる「倭」姓にとどまらず、「倭国」の君主を指すにちがいない」とされた。
 一方の続日本紀では「后(高野新笠)の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」とあり、武寧王の子の純陀太子が、新笠の父親の和(ヤマト)乙継につながるのである。
 では、武烈紀の斯我君の相手は誰になるのであろうか。倭君が、続日本紀の和乙継につながるのであれば、それは純陀太子(書紀では淳陀)となる可能性が高い。ただ問題が二点あった。まず、斯我君と百済王の関係である。毗有王が送った新齊都媛は、「其妹」とあるところから、近親の女性であり、毗有王の実娘である可能性がある。斯我君の場合も、書紀に記された百済王は、時期から判断して武寧王となるので、斯我君も実娘の可能性があるが、相手が同じ王の子であるならば、近親婚となるので、おそらくは、血縁のやや離れた百済王族の女性と考えられる。
 
 次の問題は、その相手が「太子」と称していることである。武烈紀では、ミカドに奉事するわけであり、それが即位前の太子であれば、遂に後継ぎが生まれたとはできない。もしも父親となる《?》が、純陀太子に違いないとするならば、どうして太子とされているのか。
 これについては、宋書の倭の五王の世子興と同じ状況と考えてよいのではなかろうか。「世子興」は、倭国においては王であったはずだ。しかし世継ぎの意味である「世子興」を宋書は、二か所で記載している。奇妙な事であるが、あまりこの点について関心が払われていない。「世子」は中国や半島では使われる用語であるが、これが何故、倭王であるはずの興に使われたのかは不可解であり、本来は蓋鹵王の後継ぎであったからとせざるをえない。本来はいずれ百済王を継ぐ人物であったが、高句麗の侵攻による混乱で、半島に戻るも即位することなく亡くなってしまう。
 ならば、この純陀太子の場合も、武寧王の子であり、百済王の世継ぎであったので、それを日本書紀側の表現として「太子」と記したのではなかろうか。つまり純陀太子は、倭国では王となる存在であったが、継体紀にあるように、状況は全く不明のまま崩御(薨)したのである。同じ武寧王の子の聖明王が次に即位することになり、純陀は太子のままで世を去ったのである。
 すると、純陀太子が、世子興と同じように倭国王の位置にいたことになり、斯我君との間に法師君が誕生することになる。だが、法師君、及びその末裔は、純陀太子を継いで、倭国王の地位にとどまることはなかった、と考えられる。継体7年(513)淳陀太子薨との記事に、その死因は記されていないが、なんらかの政変があったことも考えられる。
 
 これまでのところをまとめると以下のような図となる。
蓋鹵王から武寧王
443年 倭王済は宋に遣使 
455年 百済毗有王の急死で、済は蓋鹵王として即位。 かわりに不  
   明のX王が倭王継承
460年 X王が宋に遣使
461年 蓋鹵王は昆支を倭国に派遣。彼が世子興として遣使をおこな
   うが、高句麗の襲来の後に帰国後急死。
477年 世子興の昆支が帰国し、斯麻こと武寧王が倭王武として即
   位。翌年に遣使、上表文を渡す。
502年 斯麻は、東城王の急死で帰国し、武寧王として即位。子の純 
   陀太子が倭王即位。
513年 純陀太子薨去

参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

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