欽明紀16年2月には百済王子恵と蘇我臣のやや長い対話の記事がある。蓋鹵王の死を伝えた恵はしばらく倭国に滞在するのだが、そこで蘇我臣が、彼に助言をするくだりが記されている。
「昔在天皇大泊瀬之世、汝國、爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託(かみの)神(みことに)語(つけて)報曰『屈請(つつしみいませて)建邦之(くにをたてし)神・往救將亡之(ゆきてほろびなむとするにりむを)主(すくはば)、必當國家謐(しず)靖(まりて)・人物乂安(やすからむ)。』由是、請(かみを)神(ませて)往救、所以(かれ)社(くに)稷(やす)安寧(らかなり)。原夫(たずねみればそれ)建邦神者、天地割判之代・草木言語之時・自天降來造立國家(あまくだりましてくにをつくりたてし)之神也。頃聞、汝國輟而不祀(すててまつらず)。方今、悛悔前過(さきのあやまちをあらためてくいて)・脩理神宮・奉祭神(かみの)靈(みたま)、國可(くに)昌(さかえ)盛(ぬべし)。汝當莫忘(いましまさにわするることなかれ)。」
この蘇我臣とされる稲目は、仮にも百済の王子に対して、対等、いや上から目線で教訓を垂れているのではないか。しかも、彼はどうして百済敗北の事情を理解していたのであろうか。これも次のようにとらえれば合点できる。
神戸市にあった明要寺の丹生山縁起
蘇我氏系図はウィキペディアより







