近畿天皇家は便宜上の表現、倭国から日本の王朝の交代とは、主導権の交代にすぎないことを説明する。
【1】近畿天皇家はなかった。万世一系は8世紀から
古代の列島には、九州を中心とする盟主国があった。その配下の者が、次々と東遷を行い、近畿や東国にも勢力を広げた。やがて6世紀後半には、近畿地方に中心を移し、やがては、難波京、さらには奈良に藤原京を設けた。この盟主国を倭国王権とするが、年号を建元する様になる頃には、「九州王朝」と称しても問題はないであろう。だが、この倭国王権は、大化改新による土地制度の変更などで臣民の不満を募らせ、やがては白村江戦での大敗北で求心力が低下し、7世紀末には、不満分子による策動で、いわゆる大和王権が成立することになった、と考えている。
よく、九州王朝に対抗する勢力として「近畿天皇家」という表現が持ち出されるが、それは本来の王権を説明するための便宜上の方便であって、倭国王権とは別に、国家祭祀と権力支配を執行できる組織、体制が存在したわけではない。
主導権を持つ支配勢力の変更が7世紀末の倭国に起こり、主導権を握った勢力は、それまでの倭国王権の体制、制度、文化を利用しながら、日本国に変貌させたのであろう。そして、未完に終わった古事記をさらに発展させた日本書紀の編纂で神武からの万世一系を確立させたのである。これまで説明してきた通り、記録、伝承にある人物を利用して組み替えていったために、ほころびが各所にみられるのである。
この7世紀末の政変は、あくまで支配勢力の変更であって、別の組織を持つ独自の勢力が、倭王権から権力を奪い取って、新たな建国をはじめたわけではない。それは、隋の滅亡から唐の建国と似た様相を呈していると言えることを次に説明する。
【2】隋から唐への移行と似たような政変が列島にもあった
唐建国の李淵から見て、自分の母と隋初代の文帝の皇后は兄弟なので、文帝は母方の伯父であり、隋最後の煬帝は従兄弟になる。その李淵は、613年隋の煬帝に不満を持つ反乱分子の鎮圧に貢献し、やがて、太原(山西省)を守る太原留守になったが、隋末の混乱のさなかに、長安に入城。隋の代王の楊侑(ヨウユウ)を擁立して天子とし、生死不明の煬帝を太上皇とする。618年に隋の天子から禅譲され、唐の初代皇帝に即位。すなわち、もとは隋の体制の一翼を担っていた人物なのだ。そして隋の政治制度などを継承しながら帝国を築き上げる。
前段の隋の場合も、581年、北周第四代宣帝宇文贇(イン)の外戚であった楊堅(文帝)が、七歳の静帝宇文衍(エン)から禅譲をうけ、隋を建国している。隋も唐も別の出自、体制の人物が新たに政権をとったのではない。
日本の場合も、倭国支配者の系列と無関係ではなく、政治運営に反発を持つようになった勢力らが政治制度を継承し、藤原京も継続して利用し、後に平城京に遷宮している。評を郡に変更しているが、この場合もその内容、領域は大きく変更してはいない。
隋から唐への転換が、王朝交代であるなら、それは主導権の変更にすぎず、日本の場合も倭王権の一翼を担っていた勢力によるものであり、古田武彦氏が、傍系が制したと言われたように、倭国王権とは別に万世一系の体制をもっていた組織の存在を考える必要はないであろう。
このあたりの問題は、引き続き取り上げていきたい。
このあたりの問題は、引き続き取り上げていきたい。
参考文献
渡辺信一郎『中華の成立唐代まで』(中国の歴史①)岩波新書2019




