既に先人の研究者によって指摘されているようなことだが、ここにまとめて記しておきたい
1.古事記で削られた天皇
古事記の下巻の仁徳記の前に、次のような記述がある。
起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇
仁徳から推古まで十九の天皇、だとされている。ところが、実際の記事は十八代で一つ少ないのである。これについては、履中の孫の飯豊(イヒトヨ)が顕宗天皇の即位するまで、天皇だったのではないかと言われている。
五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豐靑皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豐靑尊
即位前の顕宗(弘計をけ)と仁賢(億計おけ)が譲り合ったために、飯豊が臨朝秉政(みかどまつりごと)とある。天皇の代行ということで、正式に天皇に即位したとは書かれていない。そもそも、当初は天皇だったが、あとから天皇とはしなかった理由もわからない。消えた天皇の候補は他にもいる。それはこの飯豊と兄弟である顕宗・仁賢の父親である市邊押磐(イチノヘノオシハ)である。彼は履中天皇の子であり、妹の飯豊は天皇の代行を務め、息子の弘計・億計は二人とも天皇に即位している。本来ならば天皇になってもおかしくないが、雄略天皇に狩りの場で弓矢で射殺されてしまう。その際、二人の兄弟は、播磨国に逃げる。後に小楯が宴の席で見つけることになるのだが、その場で顕宗は次のように唄う。
於市邊宮治天下 天萬國萬押磐尊御裔 僕是也
自分の父であるイチノヘノオシハが治天下(あめのしたしらしし)としているのである。これが消されたもう 一人の天皇ではなかったか。即位前の雄略が天皇を殺したとあるのは具合悪いので、後の編集で天皇であること を消した可能性もある。なお、播磨国風土記の美嚢(みなぎ)郡志深里(しじみのさと)の条に、「市辺天皇命」とある。
まだ、ほかに気になる人物がいる。「宇治天皇之世」と播磨国風土記の揖保郡上筥(はこ)岡の条にある。 菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)は、早くに応神から日嗣の指名をされている。そして、太子となって活躍したようで、応神二十八年には、高麗の朝貢の上表文の表現に怒って、破り捨てるという逸話も記されている。だが、応神亡き後に、大鷦鷯(オホサザキ)と皇位を譲り合い、急死してしまう。実際には、在位していた可能性も見えてくるのではないか。
なお、播磨国風土記賀古郡には、「聖徳王御世」があり、聖徳太子は摂政であることから不審ををもたれる記事であったが、多元史観では隋書に登場する多利思比孤(タリシヒコ)の次の利歌彌多弗利(リカミタフリ)と考えられている。
2.万世一系のための記事の操作
⑴豊富な系譜を持つカムヤイミミ
神武の息子であるカムヤイミミは弟のタケヌナカワミミに位を譲ったが、その系譜は意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也と記され、天皇になった綏靖(タケヌナカワミミ)の方は 茨田連、手嶋連之祖 とあるだけである。末子相続の考えがあったこともあろうが、この豪華な系譜を持つカムヤイミミこそ、九州王朝の王であったかもしれない。
記紀ともに、弟に皇位を譲る際のカムヤイミミの台詞に、「吾當爲汝輔之、奉典神祇者 (自分はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう)」とある。似たような話がある。国譲りの一書には、怒ったオオナムチに対して条件を提示する、「汝則可以治神事 (あなたは幽界の神事を受け持ってください)」とあるのだが。
もともとの兄弟統治の片方だけを取り上げて、万世一系の構図を造り上げたかもしれない。継体から、安閑、宣化、そして欽明にかけての編年のずれに対し、兄弟統治があったことに起因すると考える研究者もおられる。
⑵垂仁より豪華な日子坐(ヒコイマス)王の古事記の系譜
日本書紀では、開化天皇紀の末に彦坐王とあるが、その他の記事には全く登場しない。さらに垂仁紀では付注 で一カ所記載されるだけで、書紀には系譜もない。ところが、既に言われていることだが、開化記の記事の半分 はこの日子坐王の系譜が語られ、古事記の垂仁記の説話の多くに、この日子坐王の子孫が関わっている。
『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命との間に生まれた第三皇子。崇神記では旦波國に派遣されているが、書紀では皇子の丹波道主命が四道将軍とされている。息長水依比売とのあいだの子の美知宇斯王の 4 人の比売の一人が氷羽州比賣命(比婆須比賣)で垂仁の后で後の 景行天皇を生む。またそのなかの二人の比売は醜いからと追い返され、円野比売は自死する。さらに、沙本之大闇見戸賣との間に沙本兄妹を生む。その沙本昆売と垂仁天皇の間に本牟智和氣(ホムチワケ)を生んでいる。山代之荏名津比賣またの名苅幡戸辨此との間に大俣王、その子が曙立王で、ホムチワケのために誓約(うけひ)を行い、名を賜り倭者師木登美豐朝倉曙立王となる。非時香菓の説話では比婆須比賣が葬送儀礼を行う部を定める。このように垂仁記の説話は日子坐王の系譜に関係するものとなっている。
余談だが袁祁都比売との間の5世に息長帯比売がおり、日子坐王は神功皇后の祖とされている。また、太田亮『姓氏家系大辞典』によれば、日下部表米(表米親王)は日子坐王を出自とする但馬国造家の一族であり、九州年号の記された古文書のある赤渕神社の祭神である。 神功皇后の祖である日子坐王は実は天皇であったのではなかろうか。日子坐王に関する記事は、他にも操作されたのではと思われるところがある。
⑶数に入っていないサホ兄妹
吉井巌氏『応神天皇の周辺』で指摘されていることだが、日子坐王は、古事記では 11 人の子女とされている が、実際には 15 人記されており、4 人が後から加えられたと考えられる。ちょうど日子坐王との間に 4 人の子女をもうけたのが沙本大闇見戸売で、その子のサホヒコ、ヲザホ、サホヒメ、ムロビコの 4 人が追加された可能性があると指摘されている。サホヒメは垂仁との間にホムチワケを生んでいる。ホムチ(ツ)ワケは、記紀共に一定の量の記事を載せているが、その後の成人してからの実績といった記事は全く見当たらない。これも言われていることだが、ホムチワケと応神なるホムダワケは関係づけされているのではといった指摘もある。
また吉井巌氏は「品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王(オホホド)」という応神の系譜記事が、継体のオホドと関係する系譜であって、後からの挿入と指摘する。つまり両者とも、伏線をはった記事ということではないか。万世一系の構築の為に様々な操作が記紀には施されていると考えられる。
参考文献
吉井巌『応神天皇の周辺』1967





