上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。図はクリックして御覧ください。
たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の崩御年の数値から76年となります。そして、紀年記事では、即位後の次の紀年記事が2年にあります。そしてその次が4年に記事がありますので、前の記事から2年の差があります。ところが、4年の記事の次は31年の記事となり、27年も期間が飛ぶことになります。その次も、42年で前の記事から11年の差があります。そして、崩御年が76年ですので、前の記事から34年後になります。これを、継体天皇まで一覧にしました。
たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の崩御年の数値から76年となります。そして、紀年記事では、即位後の次の紀年記事が2年にあります。そしてその次が4年に記事がありますので、前の記事から2年の差があります。ところが、4年の記事の次は31年の記事となり、27年も期間が飛ぶことになります。その次も、42年で前の記事から11年の差があります。そして、崩御年が76年ですので、前の記事から34年後になります。これを、継体天皇まで一覧にしました。
特に百歳を超える天皇が多い前半では、欠史八代など、記事がとぼしく、即位後は、跡継ぎ、すなわち立太子の記事と崩御年ぐらいになりますので、間隔が大きくあいた記述になります。これによって、日本書紀の紀年記事が、在位年数に合わせて、間隔が調整されているようにも見えてきます。
1.いくつも見られる奇妙な年齢、紀年記事
・一番奇妙なのは、天皇の年齢が、古事記と書紀でほとんど合っていないということである。表を見ると2人が同一のように見えるが、神功は割注に書かれたもので、仲哀だけが唯一同一年齢となる。
また、古事記の年齢が書紀より半分近く少ない天皇が4人、20年以上少ないのは4人、逆に書紀の方が少ないのは、崇神・垂仁・景行・応神の4人。記紀の年齢差は2倍年暦とは別の問題とはいえないだろうか。
・仁徳では、各年代の記事がたくさん見られるが、それでも、崩御年の前の記事は20年前になる。つまり最後の具体的な記事が67年で、20年後の崩御まで記事が何もないのである。成務や允恭も同じで、長い在位年に合わせるために、間隔をあけたように見える。
・既に⑵や⑶で説明させていただいたが、景行紀の40年にヤマトタケルの東征記事が12年もあいてから挿入されたり、神功紀36年には前回記事から26年も飛んだ後に突然、中国史書の女王遣使の記事が入り込んでいる。
・書紀は允恭から武烈まで年齢不詳。また、継体は日本書紀では82歳であるが、古事記の方は43歳となっている。これは⑴で取り上げたように、そもそも、古事記の方が古式の伝承を伝えているのであれば、どうして書紀より早く通常の年暦に変えたことが疑問となる。何らかの操作の可能性がある。
・さらに継体の次の安閑から崇峻までの6代の天皇の年齢も不詳。
・安閑は70歳で2年の在位、宣化も73歳で4年の在位というのも奇妙。どちらも髙齢で短期間だけ即位したというのも奇妙である。
・日本書紀では、欽明から崇峻の4人の年齢も不詳である。
2. 年代に大きな差がなく、おしなべて記されている雄略紀
雄略紀は11年に記事がない以外は、すべて一年ごとの記事が記されるという、特異な様相を呈している。ここはどのように考えればよいであろうか。実は、雄略天皇についても不可解なことがある。
雄略天皇は、古事記には124歳とされているが、これは2倍年暦による年齢とできそうである。なぜか書紀では天皇の年齢は記されておらず、在位年数は23年である。さぞや応神と同じく、歳を経てから即位したのかと思われるが、これが2倍年齢であるならば、62歳として在位年数が23年ならば、39歳の時に即位したことになる。ところが、葛城山で出くわした一言主神に、自分は幼武尊(わかたけのみこと)と名乗っているのは妙だ。
神功紀では、二運120年遡らせた百済王の記事を対応させたが、雄略紀には、蓋鹵王の記事を登場させ、雄略5年(461)の百濟新撰云「蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王」の記事や、高句麗侵攻による蓋鹵王の殺害記事をちょうど干支の紀年合わせて、それまでのずれを解消させたのである。そのために、二倍年暦が関係しないような記事の描かれ方である。つまり、操作をする必要はなくなったということである。古事記で124歳とされた雄略は、日本書紀では紀年と実年代を合わせた記事とするために、年齢は意図的に不記載にしたのであろうか。
3. 記事の日付が月の前半に集中している欠史八代
書紀の欠史八代の記事は、日付が月の前半に集中している。ただ、孝安即位の日が辛亥で27日とされるが、これも岩波注では底本に辛卯7日とあるので、すべて月の半分の日数を一か月としていたと考えられ、これは2倍年暦が反映したものとは考えられる。だがこの場合は、月の日数は半分としながらも、1年は12ケ月で経過させている。神武から欠史八代まで、たいていは、春に即位記事があるのは、通常の時間経過が1年であることを示すのではないか。1年が6カ月ならば、秋に即位があってもいいはずが、実際には秋は崩御記事ばかりである。天皇の年齢、在位年が2倍年暦であったならば、それが、書紀の記事とどのように対応するのかという説明がほしいところである。
特に仁徳までが高年齢になっているが、これは、高句麗長寿王の97歳(在位:413年 - 491年)の例から、古期の天皇の年齢、在位が長期間となっても不思議ではなく、対抗するように長寿の天皇を設定したともとれなくもない。
よって、日本書紀の万世一系の記事を、2倍年暦の要素はあるとしても、実年で系統的に記事が配置されているとは考えにくく、逆算して神武を紀元前後に考える根拠は弱いと言える。
日本書紀の記事は、その多くが該当の天皇の事績や言葉は少なく、その天皇と直接は関係しないものである。よって、書紀の後半にも記事の年代移動が多く行われているように、前半にも割り振られたものがあって、特定の天皇と結びつかないものが多いのではないか。たとえば、垂仁28年の人や馬の埴輪を作るという記事は、早くても4世紀後半であり、考古学の認識からも合わないのである。
以上のように、日本書紀の紀年には、2倍年暦の要素はあるにしても、それだけでは説明しづらく、年代移動や年齢を隠すなど恣意的な操作による編集で、万世一系の史書に作り上げたものと考えた方が良いと思われる。