流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

乙巳の変

天智(中大兄)と鎌足の関係は、金春秋と金庾信の関係がモデルだった。 つくられた乙巳の変⑸

1.二人の出会い以外にも参考にされていた。
 新羅武烈王の金春秋(603~669)は654年に王に即位しているが、647年に人質として来日し、百済征討の支援をもとめるもかなわず、翌年には唐に渡って派兵を要請している。後に百済を滅ぼし朝鮮半島統一の基礎を固めた。后の文姫は金庾信の妹で、次の文武王を生む。
 金庾信(595~673)は新羅に併合された金官加羅王の後裔で武将。647年、善徳王の廃位を唱えた毗(ひ)曇(どん)の反乱軍と戦い鎮圧に貢献。妹が金春秋の后だが、逆に金春秋の三女を夫人にしている。武烈王と子の文武王を支えて半島統一に邁進した。
 この二人に関する出会いの説話がある。
 金春秋と補佐の金庾信が蹴鞠に興じていた時に、庾信はわざと金春秋の裾の紐を踏んで裾を破ってしまう。これを妹の文姫が繕い、その縁で金春秋と結ばれる。書紀は恐らくこの説話を利用したと思われる。だが、日本書紀では、蹴鞠でなく打(ま)毬(りく)とある。これは雅な蹴鞠ではなく、ホッケー、ポロといったものであろう。当時の日本に雅な蹴鞠はなく、先にホッケーのような遊戯が入って来たのかもしれない。新羅の場合も中国から始まった蹴鞠は、サッカーに近いもので、雅な蹴鞠ではなかったから、裾を踏むことがありえたのであろう。しかし後の藤原氏の伝記である「籐氏家伝」では、靴が飛ぶような動作のある蹴鞠に変えたのかもしれない。
 この二人の記事と中大兄と鎌足の描写が似ていることについては、『つくられた乙巳の変1(こちら)』で説明しているが、二人の出会いである蹴鞠の逸話以外にも見る事ができる。注1

2.出会いだけでなく他にも利用された二人の関係
 金春秋の裾をわざと破った金庾信は、すかさず自分の裾の紐を裂いて、これで縫わせると言って、姉の宝姫に命じる。しかし姉は些細なことで軽々しく貴公子に近づくのは失礼と固辞する。その為に妹の文姫に縫わせることになって金春秋と結ばれる。一方、乙巳の変では倉山田麻呂の少女を中大兄が娶っている。鎌足の策略で中大兄は先に倉山田麻呂の長女を娶る手はずとなったが、彼女はその夜に一族に盗まれてしまう。落ち込む父にわけを聞いた少女(おとひめ)は身代わりを申し出る。父は喜び皇子に少女を奉る。書紀の少女は妹と断定できないが、当初目論んだ姉との婚姻が果たせずに代わりの女性と結ばれるという筋書きの類似は否定できない。なぜ次女や妹とせずに「少女」と表記しているのかは興味深い点である。天智天皇の后になるので慎重な記述をしたのだろうか。
 つまり金春秋と金庾信の話の利用は一つでおさまらないのだ。次も利用されたのではないか。病に臥せってしまった金庾信を、金春秋が慰問する。その時の言葉は「臣愚不肖 豈能有益於國家」とある。「臣は愚かで不肖でありましたから、どうして国家に対して有益であったと言えるでしょう。」
 天智天皇も床に臥す鎌足から次の言葉を聞いて感激する。
「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」
「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょう。・・略・・ 生きては軍国(おほやけ)のためにお役に立てず・・略・・」これも参考にしているのではないか。

3.中大兄と鎌足の関係を描くモデルは金春秋と金庾信の関係と同じ構図
天智鎌足新羅
 中大兄と鎌足が意気投合し、計画を練って殺害計画を遂行するという二人の関係は、新羅の女王をささえる金春秋と金庾信の関係に符合する。女性である新羅善徳王の廃位を求めるクーデターである毗曇の乱(647年)は、金庾信の活躍で鎮圧される。そのさ中に善徳王が亡くなるが、反乱後に従妹にあたる真徳王を擁立。金春秋と金庾信らが女王を支える体制を確立する。これは中大兄と鎌足が女帝の皇極をささえるという構図と同じではなかろうか。それはこの入鹿殺害の目的、狙いが入鹿と中大兄のセリフにあらわれている。
「入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎」
「私入鹿は、皇位簒奪の謀を企てているとの罪を着せられて、今殺されようとしているが、無実の罪。調べて明らかにしてほしい。」
 この後に中大兄が皇極天皇に殺害理由を説明する。「鞍作(入鹿)は帝位を傾けようとしている。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」
 つまり、目的は、天皇の座を狙う入鹿を殺害して、皇統を守るということなのだ。金春秋と金庾信が女王を守ったように、中大兄と鎌足は皇極天皇、帝位を守るという設定にしているのだ。毗曇の乱とは2年違いで乙巳の変が設定されているのも、無関係でないことを示している。
 書紀はその目的を達成した一番の功労者を鎌足に仕立てた。皇統を知恵と力で守った人物として鎌足を礼賛しているのである。天児屋命を祖とする中臣氏から別れ出たとする藤原氏の祖である鎌足を、古代の英雄としてまつりあげることだった。
新羅の二人と同様に中大兄と鎌足が女王、帝位を守る存在としての構図が完成したのである。
 このように鎌足は作られた人物像であった。日本書紀において彼の事績は乙巳の変をのぞいては他に見るべきものはないのである。後に栄華を誇る藤原氏という系図の始まりが意図的に創造されたのである。

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。
参考文献
藤原仲麻呂「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997

なぜ燕国の説話が入鹿暗殺劇に使われたのか? つくられた乙巳の変⑷

青銅器変遷

【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化
 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通していた明刀銭の出土で、半島への影響が見られそれは列島にまで広がっている。野島永氏によると弥生文化における二条の突帶を持つ鉄斧は九州から関東にまで及んでいるが、燕の鋳造鉄斧と共通し燕国から直接伝わったという。唐津市鶴崎遺跡出土の有柄銅剣は紀元前五、六世紀の河北省燕山付近のもののようだ。博物館の説明にも、この有柄銅剣は、吉野ヶ里の有柄銅剣を含め、弥生時代の国内出土の銅剣とは全く形態が異なっており、中国における戦国式銅剣に系統を求められる国内唯一の資料とされる。また列島最古の武器形木製品は、福岡市の比恵遺跡で出土した遼寧式銅剣形のものであり、青銅武器が入る前からこの武器形木製品で祭祀が行われていた。
 小林青樹氏は佐賀吉野ケ里の青銅器工房で出土した燕国系の鉄製刀子から、青銅器の制作への燕国の関りを示唆される。熊本県八ノ坪遺跡では多数の初期弥生青銅器の鋳型が発見され、同時に遼寧で見られるような鋳銅用の馬形羽口もあった。
 さらに図にあるように、遼寧式銅戈もおよそ紀元前四世紀に半島に渡り、大型化と細形化をへて細形銅戈が誕生し列島に入っていったという。吉武高木遺跡の木棺内から出土した細形銅戈がその代表例である。

【2】燕国からの子孫が、燕国の荊軻の説話を語り継いだか
 以上のように、燕国の金属器技術を持つ集団が半島に入りやがて列島にもやってきたと考えられる。山海経巻十二の海内北経に「蓋国は鋸燕の南 倭の北に在り 倭は燕に属す」とある。ここでいう「倭」は、列島ではなく、やがて列島に移動する半島のこととも考えられるが、上記の青銅器などの出土状況が、半島から列島への深い関係を示していることを疑う余地はない。燕国は紀元前500年頃には、燕山を越えた遼西西部や半島への領域拡大がはじまったようだ。燕国の墓制はその副葬品に西周前期の青銅器を模したものが見られ、これは燕国の西周への回帰を示すもののようだ。のちには始皇帝に追われた燕国の人々が、半島や列島にまで逃避してきたことも間違いないのではないか。その人たちの秦王への恨みは、遠い子孫にまで伝えられ、それが入鹿殺害の説話に使われたのかもしれない。燕国の滅亡と乙巳の変では時代が随分離れていることに疑問を持たれる向きもあろう。しかし中国少数民族のイ族は、祖先が三星堆から秦によって追われ、さらには諸葛孔明によっていっそう山深い地に追いやられたことを今でもシャーマンが歌にして語り継いでいる。
 正木裕氏は弥生時代の倭奴国や邪馬壹国が、周の官制を用いていたことを明らかにされている。魏志倭人伝に登場する「泄謨觚(せもく)、柄渠觚(ひょごく)、兕馬觚(じまく)」などの官位は儀礼で使われる青銅器と関係しているという。すると西周王朝の侯国から発展した燕国の青銅器儀礼の官制や文化が、影響している可能性も考えたい。
 なお青銅器の倭国への流れでは、斉国との関係も示唆されているので、今後の研究の進展も注視したい。


参考文献
楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017
小林青樹「倭人の祭祀考古学」 新泉社 2017 
正木裕「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」(古田史学論集第二十四集卑弥呼と邪馬壹国)明石書店 2021
林俊雄「ユーラシアの石人」雄山閣 2005

入鹿はなぜ刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?つくられた乙巳の変(3)

【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか?
 次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。
「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」
 用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳優を使って入鹿に近づく。すると入鹿は見事に「咲って」相手に自分の剣を渡す。
 入鹿殺害の顛末が、秦王殺害未遂の件と大きく違うところがある。それは、俳優を登場させて、入鹿が自分の刀を預けさせていることである。相手の反撃にあってはならず、殺害計画を成功させるためには、入鹿の帯刀を解かなければならない。しかしどうやって用心深い相手に不信を持たれずに刀を受け取れるのか。そのために鎌子は方便(巧みな手立て)を考えついて俳優を仕向けたのだ。

【2】妖艶なアメノウズメに油断した入鹿  
 ではその俳優とはどのような人物で、いかにして疑い深い入鹿の刀を解くことができたのか。この俳優は一般的には道化師などと理解されている。だがそれでは入鹿は信用しないのではないか。ここには具体的な行為やどのような言葉をかけたのかは全く描かれていない。だがそれを解くヒントはある。日本書紀にはこの俳優が二か所の異なる場面で登場する。一つは、海幸山幸の兄弟の説話だ。最初に横柄な態度であった兄が、最後には弟に屈服して俳優(ワザヒト)になってしまう。だがそんな人物では役不足であり、相手の刀を手にすることはできないであろう。もう一人の俳優が天岩戸神話に登場するアメノウズメだ。
アメノウズメ
 天鈿女命、則手持茅纒(ちまき)之矟(ほこ) 立於天石窟戸之前、巧作俳優(たくみにわざをきす)
 彼女は天岩戸の前で巧みに振舞って、アマテラスを岩戸から引き出すことに成功する。その実績のあるアメノウズメは天孫降臨の道を阻むかのように立つサルタヒコに対しても、天岩戸の時と同様の仕草を行い、彼の名を明かさせる。得体のしれぬ相手に堂々と立ち向かうアメノウズメこそ、入鹿を欺く役回りとしてふさわしいであろう。岩戸が開くようにアメノウズメはたくみに神事の仕草や踊りを行う。それを見て八百万の神がどっと咲ったという。入鹿も相手に刀を渡すときに咲っている。だがここでの咲いは可笑しくて笑っているのではない。この俳優は女性なのだ。しかもアメノウズメのような妖艶な女性であろう。おそらくこの俳優は、なまめかしい姿で胸元をやや広げて入鹿に近寄るのだ。そして彼女は「刀は後で私が直接お渡しいたします」などとささやいたのではないか。この時、入鹿が鼻の下を伸ばしたかどうかはわからないが、笑ったというより、ニヤついたのであろう。油断をして大事な刀を彼女に渡してしまったのだ。こうしてまんまと入鹿を丸腰にすることが出来たのだ。ただこれは史実ではなく、あくまで日本書紀の編者が想定した筋書きを想像したものだが。
 計画遂行のために秦王の反撃にあうという同じ轍を踏まないように、乙巳の変ではアメノウズメのような俳優を登場させて、入鹿を丸腰にさせたのだ。その奸計をすすめたのが鎌足であり、中臣氏の遠神(とほつおや)である天児屋(あまのこやね)命が重要な役割を果たす天岩戸や天孫降臨神話を参考にしているのは示唆的である。
 それにしてもこの乙巳の変の物語では、鎌足は事を成就させた立役者として描かれている。しかも弓は構えたが自分の手は汚していない。これは後の藤原氏の祖である鎌足が、蘇我氏の横暴であやうくなった皇統を、知恵と努力で守った存在として美化するために、この暗殺事件を利用したと考えたい。

乙巳の変と荊軻による秦王(始皇帝)暗殺未遂事件 つくられた乙巳の変(2)

荊軻暗殺未遂
【1】秦王(始皇帝)暗殺未遂を描く画像石                         
 石材に図像を彫刻したものを画像石と呼び、築かれた古代の墳墓の装飾品としておかれる。その画像の題材に秦王の暗殺未遂事件を描いたものがよく使われた。なぜこの場面が死者を葬る墓室に飾られるのか。荊軻が投げつけた匕首が柱に突き刺さる。崑崙山を象徴する柱を射抜き、今まさに昇仙の資格をえたかのように描かれる。  
 前漢末から三国時代にみられるもので、墓主の高徳を称揚しその魂の安寧を願った制作者による義士の英雄化と神仙化、という意図的な構図の再構成とされる。  
 上図は後漢時代の頃の四川省合川県の皇墳堡画像石墓。匕首が刺さった柱を挟んで、その左右に荊軻と秦王を相対させるという基本構図を踏襲している。この図では画面左で取り押さえられる荊軻のみが三山冠を被っている。注1.これは東方絶海の三神山を象徴するものとして、西王母の伴侶である東王公に特有の冠、さらに荊軻の左方に三足烏と九尾狐を従えた被髪有翼の神仙がいる。左手には彼に差し出す袋をもつ。それは不死の仙薬の薬嚢で、西王母の命により荊軻に永遠の生命を与えるために訪れた場面とされる。
 燕国の暗殺者荊軻は伴として秦舞陽(シンブヨウ)を同行させ、咸陽宮(カンヨウキュウ)で秦王に謁見する。途中で秦舞陽が恐怖のあまり震えだしたため危うく事が露見しそうになるが、荊軻がこれを言いつくろい、どうにか事なきを得る。そして、手土産に持参した燕の領地の地図を広げると事前に仕込まれた匕首で、秦王の袖を掴み右手で突き刺すのだが秦王に手元にあった刀で反撃され、匕首を投げかけたが銅柱に突き刺さった。荊軻は目的を果たせず逆に切り殺されてしまう。怒った秦王はその荊軻を何度も切りつけたという。画像石の右側には荊軻に対して刀を振りかざそうとする秦王が描かれている。
 この事件は未遂に終わったものの、荊軻は人々に英雄化され、柱に突き刺さった刀子が神仙への導きとされるようなシンボルとなり、この構図が多くの墓室に使われるようになった。

【2】乙巳の変と荊軻の秦王暗殺未遂事件
 司馬遷はこの事件の全容を細部にわたって記している。そこに次の下りがある。秦王との謁見の際に荊軻と同行した秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると荊軻は「北方の田舎者故、天子の前にて恐れおののいています」とごまかした、とある。これに似た話が日本書紀にある。
 乙巳の変では、上表文を読み終わろうとする倉山田麻呂は子麻呂がなかなか出てこないので恐ろしくなり、声も乱れて震えた。それを蘇我入鹿が怪しんでとがめると、「天皇のおそばに近いので恐れ多くて汗が流れて」と言い訳をする。この様子の描写が似ているという指摘は、ネットブログにもあるが、他にも刀子を持ち込むために献上する地図に巻いていたのが、乙巳の変では箱に入れられている。どうも日本書紀の乙巳の変の主要な部分は、この秦王暗殺未遂から取り込んだようである。すると入鹿殺害の描写は、重要人物の殺害はあったとしてもその多くが作り話とも考えられる。中大兄は長い槍をもって待ち構え、鎌足も弓矢を持っているなど、どうして宮中でできるのだろう。子麻呂等は水をかけて飯を飲み込むも吐き出すというが、これから人を斬りつけようとする直前に食べ物を口に入れるなど考えにくく、緊迫感を演出するためだったのか。
 それにしてもなぜ秦王の暗殺未遂事件を参考にしたのか。これは蘇我入鹿の殺害を企図した側が、当時絶大な権力を持って憎まれていた秦王のイメージと重ねていたのではないか。この事件を契機に秦は燕を滅ぼすことになる。そして燕の人々は迫害されて倭の地に逃げ延びた祖先の末裔かもしれない。乙巳の変の場面は、この秦王暗殺未遂の説話だけでなく、より完全な物語にするための工夫をしている。書紀の岩波注にも類似が指摘されているが、蘇我馬子が崇峻天皇の殺害を目論んだ際に、東国調(あづまのみつぎ)をでっち上げている。「馬子宿禰、詐群臣曰(まえつきみをかすめていわく) 今日、進(たてまつる)東國之調。乃使東漢直駒(やまとあやのあたひこま)(しい)于天皇』。これを利用して、入鹿を招くために三韓調(みつのからひとみつき)なるものを設定したのであろう。さらには入鹿殺害を失敗させないために、神話も参考にされているようだ。
三角帽古墳壁画
ユーラシア三角帽

 注1.三山冠 福岡県五郎山古墳絵画の人物に、頭に荊軻の三山冠と同様のものが描かれ、  右手を大きく上げて、左は腰に当てているので、相撲力士の表現にもとれるが、頭に三本角冠帽ともいわれるものが表現されている。突厥の石人などにも見られる。
参考文献 楢山満照「蜀の美術 鏡と石造遺物にみる後漢期の四川文化」早稲田大学出版部 2017

天智と鎌足の出会いの蹴鞠の話はつくりもの つくられた乙巳の変(1)

高松塚絵画
⑴日本書紀の打毱(だきゅう)
 2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという。直径4.8~5.3センチで、直径約3センチの平らな面もあったという。分析した奈良文化財研究所の小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」とのことだ。共同通信によるものでいずれもこの記事以上の説明などはない。しかし、この打毬が実際に行われていたとするなら、気になる問題が生じる。
 記事では「打毬」だが日本書紀では漢字が異なり、「打毱」とされ「まりく」と訓みがふられている。そしてこの「打毱」は日本書紀には皇極紀の一か所に登場するだけだ。その箇所は、かの中大兄と中臣鎌足が懇意となるシーンである。すると飛鳥時代にはこの遊戯があったのだろうか。だがそれでは中大兄は馬に乗ってポロをしていたことになるが、書紀の記述からはそのようには考えにくい。この打毬にはポロだけではなく、ホッケーのような意味もあるようだ。高松塚古墳の壁画の男子像にはこのホッケーのストックを持つ人物(右端)が描かれている。関西大学博物館の解説では「鞠打ち遊技の毬杖(ぎっちょう)」とある。遊戯を楽しむために、被葬者といっしょにお伴が用具を持って遊行に出かけるところを描いたのかもしれない。中大兄も打毱というホッケーを楽しんでいたところに、ちょうど居合わせた鎌足が、飛んできた履(くつ)を拾ったということであろうか。だがこれはどうも他の説話を参考にした創作のようである。

⑵新羅王の説話が参考にされた乙巳の変
 書紀に書かれた乙巳の変の多くの記事が史実ではないとの疑問や指摘は早くからあった。注1 この中大兄と鎌足の場面は新羅武烈王である金春秋が蹴鞠を楽しんでいた際の説話からのようだが、ここでいう蹴鞠は、全国の神社の祭事などで行われる空中に蹴り続ける蹴鞠ではなく、サッカーに近い対抗戦式の球技であったようで、それは中国で始まったもののようだ。この蹴鞠に興じていた際に、配下の金庾信はわざと金春秋の衣の紐を踏み破って、すかさず自分の襟の紐を裂いて裾を縫わせる。しかし先に姉に頼んだが本人が辞退したので妹に縫わせる。それが縁で後に金春秋は妹の文(ぶん)姫(き)を后にする。一方、鎌足の発案で中大兄は蘇我石川山田麻呂の姉を娶るはずだったが、誘拐されてしまったので代わりに妹を娶ることになる。金春秋は孝徳紀に人質として来日しており、その記事によく談笑する、とあるので、この后とのきっかけの話は酒の席などで語られていたのだろう。それを書紀編者は利用したとも考えられる。だがこれは蹴鞠であって打毬ではない。日本でいつから雅な蹴鞠が始まったのか定かではなく、サッカーのような蹴鞠があったのかもわからないようだ。日本書紀では、露骨に新羅の説話を丸写しにするのを憚って、繕うことを断った姉の話が誘拐されたとしたり、当時の日本に先に伝わっていた打毬にしたのではなかろうか。

⑶原文改定された誤った解釈
 鎌足の伝記である『大織冠伝』は、その多くは日本書紀に沿って著述がされているが、この中大兄が興じていた打毱は、蹴鞠とされている。これはホッケーのような球技では履は飛ばないと考えたのであろう。そして日本書紀の現代語訳の宇治谷孟氏なども、ここを蹴鞠とされている。だがこれは恣意的な原文改定である。そしてこの場面の蹴鞠は、現代の共通認識としての雅な蹴鞠とされる。新羅の説話の蹴鞠はあくまでサッカーのようなものだが、伝記の作者である藤原仲麻呂はおそらく、毬を空中で蹴り続ける雅な蹴鞠こそ履が飛ぶことになると考えたのではないか。現代では、この雅な蹴鞠で中大兄の履が飛んだと当然のように説明され、まことしやかなイラストも描かれている。だがこれは史実でも何でもない。雅な蹴鞠は八世紀頃からと考えられている。乙巳の変にかかわる説話の多くが作り話であることの一端を示すものであるのだ。
  (「古田史学の会『九州王朝の興亡』2023」掲載のものを一部改定したものです)

注1.阿部学「乙巳の変〔大化改新〕と毗曇の乱の相関関係について」氏のHP「manase8775」ここに大正十二年の福田芳之助の「新羅史」に指摘があることが紹介されている。

参考文献
「現代語訳 籐氏家伝」訳:沖森卓也、佐藤信、矢島泉 ちくま学芸文庫 2019
塩見修司「『万葉集』古代の遊戯」 『唐物と東アジア』所収 勉誠出版2011
山田尚子「黄帝蚩尤説話の受容と展開」『東アジアの文化構造と日本的展開』所収 北九州中国書店 2008
金富軾 著 金思燁 訳「完訳 三国史記」明石書店1997
図 「高松塚古墳壁画」のイラストは関西大学博物館壁画再現展示室