流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

百済と倭国

倭王武と武寧王は、同時に存在していない  武寧王と倭の五王⑺

二中歴武烈
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある.

 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあってのことだが、該当の記事をよく見れば、誤解であることがわかる。この点を説明する。

⑴中国、半島の史料に、二人が同時に存在したとする記述はない
  
 同時に存在しているのではとされる根拠となる天監元年の倭王武の進号記事には、合わせて高句麗王と百済王の進号記事が記されている。『梁書』には、次のようにある。
天監元年(502)戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王 梁 彌𩒎進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。
 よく見るとこの時の百済王の名前は「餘大」となっている。これは武寧王のことではない。というのは、同じ梁書には、
普通二年(521),王餘隆始復遣使奉表  
普通五年(524)隆死、とある。
 つまり梁書は「隆」を武寧王と認識している。
 すると餘大は武寧王の前代の王、すなわち東城王となる。その東城王は501年に死去している。ちなみに梁書の武寧王の没年も墓誌年より一年遅くなっている。
 よって、天監元年(502)の記事は、倭国は倭王武と百済は東城王という認識での進号記事となる。なおこの記事に百済も倭国も遣使をしたという記述はない。中国の認識していた時期の前後に事態は急変し、東城王は殺害され、そのあとを日本にもいた可能性のある斯麻こと武寧王が即位したと考えられる。以上を年表にすると、

501年 12月百済東城王(餘大)死去      武寧王(餘隆)即位(月日不明)
502年 梁建国(梁書)高句麗王高雲、百済王餘大、倭王武に進号の記事 
503年 隅田八幡神社人物画像鏡癸未年  ← 斯麻こと武寧王が男弟王に贈る
504年 武烈紀6年 百済王(武寧)が麻那君を派遣
521年 普通2年(梁書)百済王餘隆(武寧王)遣使
524年 普通5年(梁書)隆(武寧王)死 (墓誌では523年)

 このように二人は同時に存在しておらず、『梁書』の餘大を東城王でなく武寧王と誤解されてのことであった。

⑵二人は「将軍仲間」ではなかった
 
 古田武彦氏の『古代は輝いていたⅡ』では、その第六部第一章の隅田八幡神社銅鏡に関する一節の中で次のように述べておられる。
「㊃百済の『斯麻王』(武寧王)は、南朝の梁朝下の『寧東大将軍』だった。同じく、この梁朝から『征東将軍』に任命されていた倭王武(天監元年五〇二)は、前述来の検証のように、筑紫の王者だった。すなわち、武寧王と筑紫の王者とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされている。
 倭王武が筑紫の王者であることに全く異論はない。しかし、「将軍仲間」として、武寧王と同時に存在していたかのような表現には同意できない。よくみると、梁朝下の武寧王の記事は先述のように普通二年(521)の記事。一方で倭王武の記事は502年のものであり、二〇年近い差のある記事だ。つまり503年以降に倭王武の記事はない。よって「将軍仲間」という一定の期間、同時に存在していたとする表現は正確ではないといえる。「武寧王と筑紫の王者(倭王武)とは、同じ南朝下の将軍仲間だった」とされる根拠となるものは提示されていない。
 同じ論説の中に古田氏は、倭の五王全資料として二十二項目挙げておられる。その最後に『襲国偽僭考』の「継体一六年(522)武王 年を建て善記」の記事については、史料の信憑性については別に論ずる、とされているのだがその後に該当するものの確認はできない。この「武王」が倭王武ならば、彼は宋への貢献記事の478年からおよそ40年以上も倭国王として君臨していたことになる。さすがにこれは考えにくいことであり、作成者の鶴峯戊申も二中歴(注1)を参考にしたとあり、ここは転記の誤りが考えられる。この箇所の「武」は実際は「武烈」であったようだ。
 その二中歴(上図参照)には次の記事がある。「善記四年元壬寅三年発護成始文善記 以前武烈即位」とある。壬寅は522年)で善記元年にあたる。それより以前に武烈が即位したということであり、彼は九州王朝の王者であった。前にもふれたが、日本書紀の武烈紀は、跡継ぎがいない人物と後継ぎが生まれた人物が描かれており、後者が、書紀では隠されている本当の武烈であったと考えられる。
 よって、503年以降に倭王の武が、存在していたという資料はないのである。このことからも、二人は別人ではなく、倭王武が、武寧王になったという説を否定することにはならないのである。

注1.鎌倉時代初期に成立した百科全書的な書物。そこに、九州年号の総覧が記載されており、古田武彦氏はこれを原型本とされた。

図は、内倉武久氏の、吾平町市民講座 2022 年 12 月用 「九州年号について」 よりコピーさせていただいたものを、一部加工しました。

参考文献
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」古代史コレクション⑳ミネルヴァ書房2014

武寧王と倭王武の同一人物説  武寧王と倭の五王⑹

斯我君系譜

図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの

⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。

 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカド、すなわち、朝廷の主要な人物であると考えられる。それは書紀が記す武烈天皇ではなく、別の、いや本来の王権である倭国王権(九州王朝)のことである。その人物の末裔が、後に倭君(ヤマトノキミ)になるのではないか。
 一方で、続日本紀は、光仁天皇の后の高野新笠の先(おや)は、武寧王の子、純陀太子より出づ、とある。ならば、倭君が何代かを経て、和乙継につながり、その娘が高野新笠となるということであろう。
 すると、上記の系図のように、書紀では不明の人物が、武寧王の子の純陀太子となり、その彼の「遂に生まれた」後継ぎが、法師君となる。このようにして、日本書紀と続日本紀の系図が、図のようにつながるのではないか。斯我君は、朝廷の主要な人物に輿入れしたわけであり、それは上位の王族、もしくは本来の天皇との成婚であったはずだ。純陀太子(書紀では淳陀)は、継体紀7年(513)に薨(崩御)とある。状況は不明だが、自然死とは考えにくく、上層部内での何らかの出来事によるものとも考えられる。純陀太子に関しては、後に改めてとりあげたい。
 先に説明したように、蓋鹵王が中止させた女性の派遣を、どうして武寧王は復活させたのであろうか。子が倭国王権の構成員であるならば、父親の武寧王も、以前に倭国王権と深く関係していたからかもしれない。それは、時期から判断して倭王武にあたるのではなかろうか。

2.近畿一元論ではなく、多元史観で解明する

 韓国の研究者から、「百済王即位以前は侯王である倭王として在位のようにみえる」(蘇2007)との説が出されたことがある。その根拠として、『宋書』にある倭王武の上表文に注目されている。高句麗の攻勢に対し、百済の蓋鹵(コウロ)王は、北魏の高祖に救援を求める上表文に類似があることや、二つの上表文が、高句麗非難と、百済を支援されればその恩恵は忘れないといった表現が共通していること、字句に共通点があること、「奄喪父兄」(にわかに父兄を失い)は父の蓋鹵王とその王子のことしかない。さらに、列島の古墳の金銅製冠や飾履などの百済と関係する出土品が多数あげられること、などである。
 蘇氏は、「斯麻王は十代で武という名で倭の王位についた」と指摘されるが、私見では、武だけではなく、五王のうちの済、世子興も百済王との関係があるとしている。讃と珍については、判断がむずかしいが、あとの済は蓋鹵王、世子興は昆支、武は斯麻王こと武寧王となると考えるのである。
 そんなことは信じがたい、と思われる方は多いであろうが、これから提示するいくつかの論拠でご判断いただきたいと思う。また、同様に百済王と倭国王の関係はネットを含め少なくない方が論じておられる。ここでは、日本書紀の天皇ではなく、6世紀あたりまで九州に拠点があった倭国王権という視点、さらには、これまで話題にさせていただいた、列島への渡来移住者の影響を踏まえるという点で、自分なりに整理をしてこの問題を説明していきたい。

 なお、繰り返し掲載した武烈紀と続日本紀の記述を合わせた系図は、重要な問題を含んでいるが、これについては後述したい

参考文献
蘇鎮轍(ソ・チンチョル)「海洋大国大百済 百済武寧王の世界」彩流社2007

武寧王は倭国に王族の女性を送った  武寧王と倭の五王⑸

対照年表.png
1.跡継ぎのいない天皇と跡継ぎが生まれたという武烈紀の奇妙な記事

 武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれるのである。ところが、武烈7年には、百済国の斯我君(シガキシ)が遣わされ、その後に子が生まれて法師君(ホフシキシ)といい、これが倭君(ヤマトノキミ)の先祖になったという記述がある。注1)
 七年四月百濟王遣期我君、進調、別表曰「前進調使麻那者非百濟國主之骨族也、故謹遣斯我、奉事於朝。」遂有子、曰法師君、是倭君之先也。
 つまり、跡継ぎのいない人物と、子が生まれた別の人物が存在することになる。その人物は恐らく○○の君と称されているところから上位の人物であろう。武烈紀には、書紀の語る武烈なる人物と、後に倭君につながる別の人物のことが合わさって描かれていると考えられるのである。
 この一節から、百済王が献じた斯我君が法師君を生んだと理解できる。先に百済は麻那という人物を送っているが、百済の骨族(血縁)ではなかったので、あらためて斯我君を送ったという。この斯我君は、通説では男性と考えられている。注2)しかし、武烈紀7年の記事をよく見ると、「謹遣斯我、奉事於朝謹」(つつしみてみかどに仕えたてまつる)、としている。将軍を謹んで送るというのも奇妙であり、斯我君を送ったという記述の後に、「遂に子が生まれた」とあることからも、この斯我君が出産したと理解するのが自然であろう。(冨川2008)
 そして、武烈紀6年10月に、麻那が派遣された時に、百済の貢物が久しくなかったとの記事がある。これは、蓋鹵王が差し止めた朝貢(女性の)が復活したことを意味している。これで麻那も斯我も女性と考えて問題ないのではなかろうか。

2.蓋鹵王が停止した女性の派遣とこれを復活させた武寧王
 
 先に述べたとおり、日本書紀から消された毗有王は8人の媛の派遣を行っている。ところが、雄略紀2年に百済の池津媛が不義により焼殺される。この池津媛は8人の媛の一人であろう。その後、毗有王の次の蓋鹵王が、この報せに憤慨し、倭国への女性派遣を禁ずるのである。そして、子の昆支(弟の説も)に本人の希望から身重の女性を与えて倭国に派遣するが、その途中で武寧王が生まれたとなるのである。
 それから半世紀後に状況が変わる。475年高句麗侵攻により漢城陥落で蓋鹵王は刑死する。そのあとを継いだ2名の王も短命で、次に東城王(末多王)が即位する。そして、502年(武烈4年)に斯麻王こと武寧王が即位する。その三年後の武烈7年に、斯我君を派遣し、倭君の先(おや)の法師君の誕生記事となる。そうすると、この女性を送った百済王は武寧王となる。さらには、前に送った麻那は骨族(王族)ではなかったとあるように、斯我君は毗有王の場合と同じように百済王族の女性となる。
 
 ここまでを簡単に年表にすると次のようになる。
允恭16年(427)毗有王即位(三国史記)Ⓖ
允恭17年(428)新齊都媛等8人の女性派遣Ⓧ  
允恭18年(429)己巳年蓋鹵王即位は毗有王のこと。しかもこの年は宋への貢遣記事で即位は2年前Ⓨ
安康 2年(455)毗有王崩御、蓋鹵王即位(三国史記)Ⓗ
雄略 2年(458)石河楯と通じた百済の池津媛を共に焼殺
雄略 5年(461)蓋鹵王憤慨して女性派遣中止 昆支を倭国へⓏ  武寧王誕生譚
雄略19年(475)高句麗により漢城陥落 蓋鹵王刑死Ⓘ
武烈 4年(502)斯麻王こと武寧王即位
武烈 6年(504)百済麻那君派遣 百済は長く貢物がなかった。   
武烈  7年(505)百済骨族の斯我君派遣 法師君誕生  ⇦ 女性派遣復活 武寧王による 

 以上のように、祖父の毗有王が行っていた女性の派遣を父の蓋鹵王は差し止めたが、孫の武寧王が復活させた、という流れになるのである。
 では、この斯我君はいったい誰の子を生んだのであろうか?それが、後に倭君につながる倭国の上位者との間で生まれた法師君である。この倭国の上位者が、続日本紀の純陀太子にあたるのではないだろうか。これによって、続日本紀に記された桓武の生母高野新笠の父親である和乙継(ヤマトオトツグ)につながるということになる。「后の先は百済王の子純陀太子より出づ」というのは、武寧王の子の純陀太子と同族の斯我君の間に武烈紀にいう法師君が、「純粋な」百済王族の血を引き継ぐ骨族として生まれたのだ。このようにして、武寧王から高野新笠、その子桓武天皇へとつながることになる。ただ、法師君から乙嗣のあいだのおよそ200年ほどの系譜は残念ながら不明だ。
 それにしても、この系譜からも、百済王族と倭国王権(九州王朝)との深い関係が見えてくる。列島で生まれた武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は不明である。おそらく倭国に長く滞在していたのではないかと考えられる。

斯我君系譜

上図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの
武烈紀の武寧王から法師君の系譜が、続日本紀の純陀太子から高野新笠へつながるのであろうか。

注1. この斯我君の君をキシと訓じているのは、百済の王族であるからと考えられている。百済王の王もコキシとの訓みが振られている。
注2. 岩波注にあるように、継体紀23年3月の百済将軍麻那甲背という同名があることから、百済の将軍と理解するのが一般的な見方であった。しかし、後から送った斯我君については、同じ表記の人物は見当たらない。また、雄略紀に記された池津媛焼殺事件を聞いて怒った蓋鹵王がもう女性を送らないとした記事もあって、なおさら、斯我を女性と考えにくくしている。よって、冨川氏の指摘にもあるように、斯我君は女性であり、九州王朝と関係する人物との子を生むのである。

参考文献
冨川ケイ子「武烈天皇紀における『倭君』」古田史学論集第十一集 2008 明石書店

日本書紀から消された百済毗有王  武寧王と倭の五王⑷

毗有王年表
 図は、日本書紀の神功皇后から雄略紀までの、百済の毗有(ヒユウ)王に関係する書紀と三国史記などの記事だけを抜粋して表にしたものである。この時期の年代が明確な百済王の記事は、日本書紀では干支二運、120年遡って記述され、雄略紀で実年に合うようになっている。そのためここでは、ずらされた記事と元の時代の記事を重複するが表記させた。また百済王の表記は書紀では肖古王が三国史記では近肖古王に、直支王が三国史記では腆支王などと異なることが多くある。
 毗有王とは、蓋鹵王の父であり、武寧王はその孫となる。実は、高野新笠と武寧王との関係を考えるうえで、この毗有王の事績が重要な問題となると思われるので、この図を用いながら説明していきたい。

1.肖古王から威徳王までの記事に、毗有王だけ記載のない日本書紀

 書紀は、卑弥呼を神功になぞらえて、中国史書『梁書』の景初3年卑弥呼朝貢記事の239年を神功39年にあてている。この年を基準として、以降の記事の年代が想定されることになった。その一方で、七支刀など百済との友好を強調するなど、半島関連の記事が多くみられる中に、神功、応神紀に百済王即位と没年の記事がはめ込まれている。Ⓐ肖古王薨貴須王即位からⒻ久爾辛王即位まで、三国史記の記事より合わない場合もあるがだいたいは二運120年ずらして記載している。しかしなぜかⒼ久尓辛王薨毗有王即位(427 年丁卯)の三国史記の記事は書紀には記載されていない。本来なら応神39年に記載すべきところだが、その代わりに、既に死去したはずの王の名にした記事が掲載されている。
 ①卅九年春二月、百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。爰新齊都媛、率七婦女而來歸焉
 百済王が倭国に新齊都媛(シセツヒメ)ら8人もの女性を送り込んでいる。だがその直支王は応神25年に崩御記事があり、次に即位した久爾辛王は427年に崩御しており、その後を毗有王が即位する。応神38年(307)に120年のずれで記載されるはずであった毗有王が即位しており、その翌年の応神39年に8名の女性を送ったというのが本来の記事であった。「其妹」とあるように、毗有王の実娘を送っているのだ。さらに奇妙な記事がある。
 ②雄略2年に、百済池津媛焼殺の記事の後に百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立・・」の(己巳年は429年)は蓋鹵王の即位とは考えられないので、本当は消された毗有王(三国史記では427年即位)のこととなる。2年のずれは、宋書南宋貢遣が429年とあるところを即位年とした可能性がある。よって、蓋鹵王ではなく毗有王の記事であった。
 さらに、三国史記のⒽ毗有王薨蓋鹵王即位(455 年乙未)の記事を、本来ならば安康2年(455)に記載すべきところ、Ⓖの記事と同様に無視しているのである。

 修正した年次と記事を示すと以下のようである。
允恭16年(427)Ⓖ毗有王即位(三国史記) ← 書紀はカット
允恭17年(428)Ⓧ新齊都媛等8人の女性派遣  書紀は直支王としたが毗有王のこと
允恭18年(429)②己巳年蓋鹵王即位は毗有王のこと。しかもこの年は宋への貢遣記事で即位は2年前Ⓖ
安康 2年(455)Ⓗ毗有王崩御、蓋鹵王即位(三国史記) ← 書紀はカット

2.日本書紀は、毗有王だけ消してしまった。

 その後は欽明紀の威徳王まで百済王の崩御と即位記事はもれなく掲載しているのである。つまり、日本書紀は、毗有王の名前だけ記していないのである。これは単なる記入漏れとかではなく、明らかに意図して書き換えや不記載を行っていると考えられる。この毗有王は、新羅との友好関係を結び、羅済同盟によって、高句麗を牽制し、彼の在位期間には高句麗との紛争はなかったようだ。また、「其妹」とあるように自分の娘を含む8人の女性を倭国に派遣しているのである。
 ところが、不慮の死を遂げたことが関係するか不明だが、百済遺民にとっては存在を消してしまいたい人物であったようだ。その名も蓋鹵王に変えられ、記事も直支王の事績であるかのように改竄されたのであり、これは、書紀編纂に関わった百済系の人物たちによるものであろう。決して、書紀編者がたまたま毗有王の記載だけをもらしたなどとは考えられないのである。この事例から、他にも半島系の編者が、意図的な書き換えやカットを行っていることは十分あり得ることである。武寧王が謎めいた存在になっているのも同じような事情があると考えられる。また半島関連の記事は、七国平定、四県割譲など、この点を踏まえて読み解く必要があると思われる。
 「任那四県の割譲は、百済の下韓(南韓)への侵攻以前に、倭から百済へ新たな地域を賜与したとすることで、百済による加耶侵略との辻褄を合わせた記事」(仁藤2024)といった最近の研究者の指摘もある。実際は、百済による加耶(任那)地域への侵攻を、倭国からの割譲といった表現に変えてしまっているのである。
 三国史記の百済本紀によれば毗有王は新羅に良馬二匹を送る記事があるなど、新羅との関係を強化していった。だがこれは、新羅を敵視する日本書紀の筆法に反するものであり、このことが消された要因であったとも考えられる。
 さて、以上のように毗有王が、倭国に女性を送っていたわけだが、同じことがその後も行われて武寧王から高野新笠につながることを、次に説明していきたい。

 参考文献
仁藤敦史「加耶/任那 ―古代朝鮮に倭の拠点はあったか」中公新書2024

桓武天皇の母の高野新笠につながる武寧王 武寧王と倭の五王⑶

新笠陵
写真は京都市西京区の桓武天皇生母高野新笠の大枝陵

1.平成天皇の記者会見で語られた、「韓国とのゆかり」 

 平成13年(2001)12月18日に、平成天皇の記者会見が行われ、記者の質問(ワールドカップ日韓合同開催にちなんで)に対して、次のように述べられた。以下は、宮内庁HPで現在も見ることができる。
「歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。」
 天皇陛下
「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
 宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
 武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」

 以上であるが、当時は、新聞ではあまり大きく取り上げられることはなかったが、韓国ではかなり注目されたニュースであった。
 天皇は、武寧王の名を含め百済からもたらされた文化について述べられたが、古代の倭国と百済との関係は、かなり深いものがあった。日本にいた百済の王子を帰国させる際には、多数の倭兵を護衛につけていた。百済と共に高句麗、新羅との紛争にも協力していたが、7世紀の半ばの663年には、白村江戦で多大な犠牲を招くことになってしまい、百済も滅亡することになってしまった。このような背景を考えるうえで、この桓武の母である高野新笠につながる武寧王がどのような存在であったのかも、古代史にとって重要な課題となるのである。

2.武寧王と高野新笠

 桓武の父は、天智系の白壁王=光仁天皇であった。天武系最後の称徳に後継がなかったことで、その死後に即位した。母の高野新笠の元の姓は「和(ヤマト)」で、和乙継あった。 
 延暦8年(789)死去。母は土師真妹(妹は原文では姝とする説もある)だが、この土師氏は後に大枝朝臣と称することになる。河内地域の土師氏とわかれ、京都の大枝の地を拠点としたようだ。新笠の墓は大枝陵(京都市西京区大枝沓掛)だが、ちょっと立ち寄るにはいささか不便な地域にある。
 続日本紀には、新笠の葬儀の誅(しのびごと)として「后の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」 さらに、「その百済の遠祖都慕王は、河伯の女、日精に感(め)でて生めるところなり。」と記され、よりて「天高知日之子姫尊」という諡号(しごう・死後に送る名)をもつ。古代の外国にはよくある、貴人は尋常でない生まれ方をするという始祖伝説のひとつである。
 延暦9年(790)に桓武天皇は、前年に完成した和氏に関する系図を編纂した「和氏譜」を受け、百済王氏を「朕の外戚」と宣言した。当時は、百済などを「蕃国」という扱いがされていたが、桓武は、堂々と外戚だとする百済との関係を強調し、みずからも百済王族との関係を強めていたという。

 さて、先ほどの「和氏譜」は現存しておらず、その内容も定かではない。よって、武寧王から続くその子孫たちが、どのように後の新笠の父親である乙継につながるのかは不明だが、この武寧王が倭国の当時の支配者たる王族集団と深い関係にあったとは想像できる。それは具体的どのようなものであったのであろうか。

倭の五王が日本書紀の天皇に比定できない理由 武寧王と倭の五王⑵

宋比較
 宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿のヤマトに神武より天皇が君臨していたという観念にしばられて、こじつけて当てはめているにすぎない。実際に批判的な通説の研究者もおられるのだ。(河内2018)
 倭の五王が日本書紀の天皇に当てはめられない理由を、私見では細かい問題もあるが、重要なところを二つ指摘しておきたい。

1.書紀が宋書倭国伝を無視していることの説明が必要

 一つ目は、倭の五王の記述が全く日本書紀に記されていないということである。いや、そんなことは言われなくてもわかっている、だから苦心を重ねて各天皇に比定しているのではないか、と思われる方もおられるであろうが、このことが重要な問題なのである。つまり、中国側の史書である宋書倭国伝、他に南斉書、梁書には記されているのに、どうして日本書紀は、その記事を少しでも採用しなかったのか、という問題である。宋に対して何度も遣使を行っていたのであれば、書紀は記事にしたはずであるのに、なぜそうはしなかったのか。
 書紀は、漢籍と言われる中国の史料などを多数引用している。それも、個々の莫大な史料の記事を渉猟して引用したのではなく、芸文類聚などの、記事のテーマごとに採集、編集された便利な資料集を活用して、書紀編者が、その場面に応じてふさわしい一節や熟語を抜き出してはめ込んでいたのである。これによって、潤色といわれるが無味乾燥とした記事に豊かなイメージを与える歴史書に変容させたのである。
 さらに年代を具体的に示す外国史書の引用も取り入れている。例えば神功皇后紀の39年(西暦239)には、景初3年6月倭女王遣使の記事を引用し、さも神功が卑弥呼であるかのように装っているところが見られる。さらに66年(266)にも、中国史書の泰初2年倭女王遣使の記事を記している。ここで神功は、長寿の女王にされてしまっているのだ。また百済の史書からも、百済王の崩御と新王の即位記事を繰り返し記載している。ところが、允恭や雄略に年代が該当するところでは、中国史書の倭の五王の記事は全く無視されているのである。
 それは、書紀にとっては不都合な、本来の倭国を示す中国側の証言集であったからだ。不都合な真実を載せるわけにはいかなかったのだが、通説の一元論では、それが説明できないのである。この点についての説明がないまま、倭の五王についての推論を進めること自体が疑問なのである。

2.書紀の天皇では説明できない世子興
宋書

 二つ目は、これが最大の問題と思われるのだが、宋書の五王の中で、興については「世子興」と繰り返し記されていることである。「世子」とは、世継ぎのことであり、天皇でいうならば太子にあたるのだが、日本書紀には日本の王の世継ぎに世子という表現はない。ただ一カ所、高句麗王族の記事にあるだけである。
 欽明紀7年に高麗内乱の記事 「中夫人生世子其舅氏麁群也」
 この世子には「まかりよも」との訓みが与えられているが、太子のことだと岩波注は記している。
 中国晋書には、「百濟王世子餘暉為使持節都督鎮東將軍百濟王」
 ここでは、辰斯王は、本来の後継者の阿莘王が若かったので代わりを務めたので正式な王ではないとしたのであろうか。また他にも、広開土王碑に「世子儒留王」、さらに七支刀銘文に、「百済王世子奇生聖音」とあるように、半島の王族に使われる用語といえる。書紀に記される日本の天皇の後継者に、このような用語は使われていないのである。世子とされた天皇が存在していたのであろうか。この点についての説明がないまま、興を訓みがコウと共通するところから安康に当てはめるなど、とても学術的な説明とは言えないのである。

 宋書に記された倭の五王は、日本書紀が描いた天皇とは違って、当時実在した倭国王の事績が書かれたものである。これは、後の隋書倭国伝に記された多利思比孤や利歌彌多弗利が、推古や厩戸皇子に比定できないのと同じ事情なのである。よって、倭の五王も、当時は九州に拠点のあった王朝との関係で検討しなければならないのである。

参考文献
河内春人「倭の五王」中公新書2018 宋書と記紀の比較図も同書より
宋書倭国伝の図は、岩波文庫の原文より

武寧王の加唐島での誕生譚は疑問 武寧王と倭の五王⑴


加唐島
図は、YouTube 「Kuwa_Film 絶景とグルメ」様の(佐賀県唐津市の「加唐島」は猫の島)より

 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐島で生まれたことになっているのだが、どうして肥前国風土記には記さなかったのかという疑問が浮かぶ。書紀には、倭国に渡る前のいきさつなどを詳しく説明するなど、百済王の中でも重要な人物のはずが、何故風土記には記されなかったのか。そもそも武寧王は、肥前国の嶋ではなく他の地域で誕生したのではなかろうか。この点について、唯一の根拠となる日本書紀から考察していきたい。

1.日本書紀の誕生譚

 誕生に至る前段の話はこうである。百済蓋鹵(こうろ・がいろ)王は、弟の昆支を倭の天王に派遣する。その時軍君(コニキシ・昆支)は、蓋鹵王の身重の女性を譲ってもらう。生まれたら帰すようにと言って送り出したが、その女性は途中で出産したという。次に以下のように記されている。
 於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。(雄略紀五年)
 この現代語訳を記すと次のようである。加羅(かから)の島で出産した。そこでこの子を嶋君(せまきし)という。軍君(こにきし)は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を主島(にりむせま)という。秋七月軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。(宇治谷孟)
次は武烈紀四年の記事。
 琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。
 昆支は倭に向かった。そのとき筑紫の島について島王を生んだ。島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのように名づけた。いま各羅の海中に主(にりむ・国王)島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名づけて主(にりむ・古代朝鮮語で王の意)島とした。(宇治谷孟)
 ほぼ同じような内容だが、実の兄から女性を譲り受けたが、身重だから生まれたら国に帰せ、というのは奇妙な話である。意図して作られた部分もあるとして、この記事を検討しなければならないだろう。

2.現地調査では、痕跡の確認できなかった加唐島

 赤司善彦氏ら研究者による武寧王伝説の合同調査が現地で行われたことがある。島民への聞き取りなど含め、くまなく調査が行われたようだが、偉い人が生まれた、といった伝承を聞いた人はいるが、武寧王と関連付ける痕跡は見つけられなかったようだ。ただ、壱岐島から糸島半島は視認がしにくく、この加唐島を目安に渡海した可能性はあるようだ。
 そもそも、加唐島と理解されているが、書紀の原文は各羅嶋である。普通ならカクラと訓むが、岩波の補注によれば、国学者西川須賀雄氏の説をひいて、各をカカと訓む事例もあることから、加唐島にあてたのである。ところがその補注には、先に各羅をカワラと訓む事例をあげている。文永一(1264)年または建治一(1275)年に完成した、日本書紀の注釈書(二八巻、卜部懐賢著)である釈日本紀は、「カ禾ラ」と訓みを付けており、明らかにカワラと訓んでいるのであるが、これは採用されなかったのだ。この場合、カワラと呼ばれる地名も検討しなければならないのではないか。
 さらに、地名と関連してまだ気になる所がある。それは、現代語訳にあるように島と解釈されているが、原文は嶋となっているところである。ひょっとすると、カワラ嶋というところがあったのではなかろうか。
 
3.河川付近にある嶋という字地名

 現在確認できる嶋という地名は、4カ所ある。兵庫県西脇市嶋は、加古川のある所であり、鳥取県鳥取市嶋も付近に野坂川がある。静岡県牧之原市嶋は、大きな河は確認できないが、沢水加川があり、付近に倉沢という地名がある。和歌山県紀の川市嶋は紀ノ川の河川敷一体の地になっている。いずれも河川付近に位置し、流水によって運ばれた砂礫の堆積地、砂州といった地形と考えられる。つまり、アイランドの島ではなく、海岸線から離れた場所に嶋があるのである。
 また日本書紀には、嶋の多くは小島を意味するのだが、なかには、「素戔嗚尊曰韓鄕之嶋、是有金銀」とあるように嶋は国を意味する使い方もされているのだ。
 ではその嶋はどこを意味するのであろうか。実は書紀は雄略紀も武烈紀も、筑紫嶋と何度も繰り返しているのである。これは肥前の国の加唐島ではなく、筑紫国の嶋という地域を意味しているのではないか。筑紫には嶋という単独の字名は見当たらないが、福岡県朝倉郡筑前町に四三嶋(しそじま)という地名がある。ここには、オンドル遺構が確認されており、渡来人の居住地があったと考えられている。
 また、「シマ」でいうならば、古代には筑前国嶋郡とあった現在の糸島市志摩に志摩岐志という地名があり、「キシ」は渡来人の称号と言われ、記紀には、和爾吉師や難波吉師などが登場する。このように「シマ」で検討するといくつも候補が浮かぶので、さらに絞り込む必要はある。
 各羅をカワラと読むのであれば、該当しそうな地域がある。高良大社が有名な高良は、今ではコウラであるが、京都の石清水八幡宮の高良社などには、瓦、河原にあてる例があることから、もともとカワラと呼んでいたのであろう。ちょうど久留米の高良大社の北側のふもとを流れる筑後川の対岸にも高良天満神社が所在するところも高良であり、ここも筑後川の砂州の地であった。さらに、福岡県香春町もカワラでありこの地は渡来神伝承の地でもある。

4.嶋王のシマは地名由来

 武寧王は、誕生後に帰国したような記事になっているが、どうであろうか。日本産のコウヤマキで作られた棺に眠っていた武寧王は、副葬品の銅鏡の踏み返し鏡が滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土するなど日本との関係が深いのである。さらに、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文に記された斯麻が武寧王である可能性も高いと考えられている。ほかにも、日本書紀の継体紀には子の純陀太子崩御記事が記される。その純陀太子の末裔に桓武天皇の母である高野新笠がいる。武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は全く不明であり、長く倭国に滞在していたと考えられる。
 その武寧王に名づけられたシマは、嶋や斯麻とされているが、これは具体的な地名を表しているのではなかろうか。だいたい、名前に普通名詞の島を付けるのは妙である。雄略紀には、浦嶋子という伝説の人物もいるが、大方の所は、人の名前や宮名にはその所在場所の固有名詞を付けるのではないか。上述の武烈紀には「今各羅海中有主嶋」とあり、ここを見ると、嶋は海の中の島ととれるが、これは百済人がそのように名づけたとあることから、後から嶋を島のことと解して記述したと考えてよいのではないか。シマ王は、アイランドの島ではなく地域名としての嶋や斯麻と考えられる。その場所が、筑紫の各羅嶋であるとも解釈できよう。
 兄の昆支は、倭国の天王のために渡来したのである。倭国に使えるために配下のものと落ち着いた場所で、嶋王は育ったと考えられる。すると筑紫のカワラ嶋が王宮からは遠くない地域と考えてよいのではないだろうか。それが四三嶋周辺なのか、高良大社近辺か、断定はできないが、当時の倭国の中心地の宮があったところだろう。
 日本書紀欽明紀に磯城嶋金刺宮があるが、『上宮聖徳法王帝説』には志癸嶋、『天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文』では斯歸斯麻宮治天下天皇という記載がある。シキシマという地に宮を設けて統治したということであり、このシマも地域名であろう。
 なお、時代は遡るが、魏志倭人伝には女王国の記事の後に、21国の国名が羅列されており、その最初に「斯馬国」とある。邪馬台国の近隣に「シマ」と名乗る国があったのである。
 武寧王の誕生の地は、様々な可能性が浮かぶが、筑紫の中心地のカワラ嶋と呼ばれた地域も候補の一つと考えられよう。これが佐賀県の加唐島のことではないので、肥前国風土記には記事が見当たらないのではないかと考えられる。筑紫国風土記の方はわずかな逸文以外は残っていないのである。
 ただ加唐島の生誕地を否定しても、渡海の際にはこの島に途中で立ち寄った可能性はあるわけで、そこから、関連する話が生まれた記念の地ではあったかもしれない。日韓の友好に水をさすつもりは決してないのだが、日本書紀を見た限りでは、武寧王の加唐島での誕生の可能性は低いと考えられる。

参考文献
赤司善彦他「加唐島武寧王伝説の調査について」東風西声 : 九州国立博物館紀要 巻号9号 2013年
宇治谷孟「日本書紀 全現代語訳」講談社学術文庫1988